論功行賞 シャスティエ
シャスティエは三度目にイシュテン王宮の広間にいた。
一度目は、侍女の扮装で宴を覗き見るために。二度目は、祖国の反逆への報復として首を刎ねられるために。
以前の二回に比べれば、遥かにマシな境遇ではあるのだろう。イシュテンの貴族の間にきちんと居場所が設けられ、傍らにはグニェーフ伯もいてくれている。しかし前の機会以上に、突き刺さる好奇と悪意の目は露骨で鋭いものだった。
身体で王に取り入った女だと思われているのだろう。卑しい娼婦だと。王に忠誠を誓うからこそ彼女を蔑むか疑う者もいるだろうし、ティゼンハロム侯の一派にとっては目障りこの上ない存在でもあるだろう。
――私は娼婦などではない。女王らしく、堂々としなければ。
俯きそうになる自分自身を叱咤して、背筋を正し続ける。不躾な目線も真っ直ぐに見返して、怯むことなく。
「シャスティエ様。お心を強く。私もおります」
「ええ、ありがとうございます」
老伯爵の氷のような色の目に浮かぶ感情は、温かい。この場に少なくとも味方がひとりいてくれているというだけで、この上ない救いとなっていた。
気遣いに応えて微笑みを作ろうとした時、王の声が広間に響いた。
「諸君、よく集まってくれた」
砦の仮のものとは違う、宝石の装飾も華やかな真の玉座だ。イシュテンの国柄ゆえか、輝く黄金よりも鈍い光沢の鋼が目立つけれど、その剛健さが王にはよく似合っている。衣装も、イシュテンへの帰途の間によく見たような楽な軽装ではない。貂の毛皮に縁どられたマントをまとって堂々と玉座を占める王は――実情はともかく――確かに王者の風格があった。彼女の夫になる男は、見た目には申し分ないのだ。
「ミリアールトでの乱は無事に収まった。共に遠征に加わった者だけでなく、留守を守ってくれた者たちにも礼を述べよう。特に、政務についても滞りなく預かってくれたティゼンハロム侯に感謝しなければなるまい」
「臣下として当然の務めでございます」
言葉とは裏腹に、王とティゼンハロム侯の間に漂う空気は冷え切ったものだった。横目で交わす視線でさえ、剣でのやり取りを思わせて鋭く敵意に満ちている。
「先年の戦果を維持しミリアールトを我らのものとして保ったからには功績のあるものに相応の褒美を与えよう。だが、その前に煩わいしことを片付けねばならぬ。
カーロイ・バラージュは前へ」
「は」
呼ばれて進み出たのが、まだ少年と言っても良いような若者だったのでシャスティエの胸は痛んだ。説明をされるまでもない、ティゼンハロム侯の命でイシュテン軍を煽動した男の息子なのだろう。この若者のためにあの男は王の譲歩を受け入れず、あくまでもティゼンハロム侯のために死んだのだ。
「そなたの父は王家によく仕えた武人だった。だが最後に誤った。あの者はミリアールトの降伏を罠だと誤認して剣を抜いた。混乱は全軍に及びイシュテン軍同士で殺し合う事態を招いてしまった」
「まことに面目のないこと、申し訳もございません。父の命で足りぬというなら我が身も――」
青ざめた顔を伏せて詫びる青年を、王は顔を顰めつつ手を振って黙らせた。
「失態を恥じて自害したゆえにこれ以上咎めることはしない。だがあの父親の息子ではこれまで通りの領地は荷が重かろう。そなたが若輩ということもある。ゆえに受け継ぐ領地には制限を設ける」
王が苛立っているように見えるのはカーロイという青年や、その父親のためではないだろう。あのバラージュという男が無能だというのも、建前に過ぎない。あの裁きの場で、王はあの男の能力を認めていた。きっと、惜しんだからこそバラージュの体面と息子の立場を守る道を示したのだと思う。
そして、王の思い通りにティゼンハロム侯爵の命によるものだと認めさせることができていれば。政敵を追い詰めるとまではいかずとも、牽制する良い手札が手に入っていたのだろうに。バラージュという男は、王では力が足りないと、笑って屈辱的な死を受け入れたのだ。矜持高い王にとっては、耐え難いことに違いなかった。
――ティゼンハロム侯爵。ことの経緯は承知しているのでしょうね……。
シャスティエは玉座の一段下に控えている老侯爵を窺った。歳を重ねている分老獪だということなのか、さすがに臣下の身分を弁えているということなのか、王ほど露骨に不機嫌を露にしている訳ではない。
だが、王とティゼンハロム侯はまた痛み分けだ。
シャスティエを消しミリアールトを離反させて王の力を削ぐという企みは失敗した。王はその企みを暴いて公に糾弾することができなかった。王が怒っているのと同様に、この男も内心煮えたぎっていることだろう。
その怒りは確実に彼女にも向けられているに違いないので、シャスティエは口元を引き締めて不安に耐えた。
シャスティエが考えを巡らせる間に、王は地名と思しき幾つかの単語を挙げていた。
「――以上の領地はジュラ・カマラスに与えるものとする。ミリアールトでの経験を活かしてよく助言し、煽動にも惑わされず王の傍を守ったゆえに」
そして王は更に幾つかの地名を上げた。
「そして以上の領地はアンドラーシ・フェケトケシュに。命を懸けて砦への使者を務め、混戦の間ミリアールトに介入をさせなかったために」
あの戦闘の間、砦から打って出て王の背後を突こうとした動きもあったらしい。それを止めたのがアンドラーシだったという。王と同じ馬で駆けるシャスティエを示して、似合いの一対ではないかと言い放ったとか。砦の者たちは、それで納得したというよりもあまりの放言に逆に頭が冷えたらしい。グニェーフ伯らのために素早く馬を用意してもらうことが叶ったのは、アンドラーシのお陰と言えないこともないかもしれない。
「カーロイ・バラージュ。そなたが継ぐのは今挙げた以外の残りの領地だ。今までの伯爵領というには足りぬから、降爵して今後は男爵の称号を与えることとする」
「――寛容な御心に、心から感謝申し上げます」
領地を得て誇らしく晴れやかな顔をしている王の側近ふたりとは裏腹に、カーロイ青年の表情は張り詰めていた。この扱いを屈辱としているのか、王への怨みや怒りがあるのか、父の死への悲しみか。シャスティエには測り知れない。
呼び出された者たちが列に戻る時、シャスティエはカーロイと目が合った。イシュテン人らしい黒い目は、彼女をも睨んでいた。彼の父が自害した時と同様、目を逸らすことは許されないと思ったので、シャスティエはただ静かに見返した。
彼女には為すべき復讐がある。そのためには、他の者の復讐の対象となることも受け入れなければならないだろう。
王は続いてシャスティエが知らない者たちにも褒賞を与えた。今回の遠征では領土が増えたということではないから、与えるのは金や宝石の類になる。イシュテン王家の所蔵のものもあれば、ミリアールトから持ち出されたものもあった。
父が儀式の折りなどに身につけていたもの、母から受け継ぐはずだったものがただの臣下に下げ渡されていくのを目の当たりにしなければならないのだ。心穏やかでいられるはずもなかったが、シャスティエは拳を握って耐えた。
――敗れたからには仕方のないこと。今は復讐のことだけ考えれば良い……!
「最後に――」
耳に届いた王の声に、シャスティエは我に返った。幸いに、噛んだ唇や爪を立てた掌から血が滲む前に、論功行賞は終わりに近づいていたようだ。
「イルレシュ伯の領地が浮いているのに気付いている者もいよう。あの者には息子が二人しかいなかったからな」
イルレシュ伯の名に、シャスティエは複数の忌まわしい記憶を蘇らせた。
その息子のひとりは狩りの際に彼女を襲い、王に首を刎ねられた。本人も王妃毒殺未遂の咎で死を賜り、残った息子も雪の女王の白い手によって裁かれた。
いずれもシャスティエの身に危害や危険を及ぼした出来事だった。父子揃って何度も命を脅かされたのだと改めて思い返し、思わず眉を寄せる。それは単に不快のためというだけでなく、不審に思ったからでもあった。
――伯爵領を下賜するほどの手柄を得た者がいたかしら……。
何しろ今回の戦闘は混乱したイシュテン軍同士のものだけ。原因となったバラージュを罰しこそすれ、際立って手柄と呼べるようなことはなかったはずだ。先に宝石などを下賜していたのも、忠誠に報いる程度の意味合いだったはず。
「グニェーフ伯アレクサンドル、前へ」
「は」
――え?
王の声によってあっさりと疑問が解かれたこと、グニェーフ伯が戸惑う様子もなく進み出たこと。二重の意味で驚かされて、シャスティエは目を瞠った。
居並んだイシュテンの貴族にとっても意外なことだったらしい。漣のようにざわめきが広まり、王の一瞥によって静められた。
全身に注目を浴びながら、グニェーフ伯は臆した様子も見せずに泰然と王の前に跪く。暗い色の髪と瞳が多いイシュテン人の中では、伯の薄い金髪は浮き立つようによく目立った。
傍らに空いた空間をひどく心細く思いながら、シャスティエは息を呑んで成り行きを見守る。
「今回の件が本格的な戦にならずに済んだのはそなたの英断のお陰と言えよう。……完全に無血で、という訳には行かなかったのは残念だが」
父の行状を皮肉られて、列に下がったカーロイ・バラージュが俯くのが見えた。
「とはいえ無謀を悟って剣を置いたその勇気は最大の手柄といえよう。それに報いてイルレシュ伯の称号と領地をそなたに与えることとする!」
どよめきが、上がった。
「バカなっ、降伏したばかりの者をそのように重用するなど……!」
そうだ。ティゼンハロム侯がさすがに怒りも露に怒鳴ったのはもっともだ。
――他の者に、示しがつかないのではないのかしら。
周囲からの敵意が増したのを感じて、それがグニェーフ伯にも向けられているのを感じてシャスティエは祈るように胸の前で手を組み合わせる。この老臣がどうしてイシュテンに同行してくれたのか、その理由がやっと分かった。イシュテンにも領地を得れば、堂々とこの国に留まる理由ができる。シャスティエがいる限りグニェーフ伯が王を裏切ることはない。そういう取引をしたのだろう。
だが、それはティゼンハロム侯に正面から対立するのも同然だ。今の王の立場でそれが可能なのだろうか。
「女ひとりでは人質に足りぬようだったからな。それに乱を企てたのは確かにこの者だ。ミリアールトから離して手近に置いていた方が監視にもなるだろう」
「ですが、異国の者に爵位を与えるなど――」
「おかしなことを言うな、舅殿」
義父からだけではない、臣下の全ても、シャスティエも見つめる中で、王は声を立てて笑った。楽しくて笑っているのではない、例の牙を剥く狼の笑い方だ。
「ミリアールトは既に我が領土ではないか。無条件に甘やかそうなどとは考えていないが、従えば褒美を与えると見せるのは悪いことではあるまい?」
「しかし!」
「くどい」
言い募るティゼンハロム侯をもはや無視して王は玉座から立った。段を降り、グニェーフ伯の前に至ると剣を抜く。
「これでそなたは名実共に俺の臣下だ。与えた称号に見合った忠誠を期待している」
「老骨ではございますが全霊をもって陛下の御恩にお応えいたします」
首筋に剣をあてられて――命を委ねたと示すために――、それでもグニェーフ伯はしっかりとした声で答え、それに王は満足げに頷いた。
「立て。最初の命を与えよう。そなたの旧主の娘、ミリアールトの元王女を――我が妻を、これへ」
「は」
シャスティエを迎えに来たグニェーフ伯――もうイルレシュ伯と呼ぶべきなのか――の表情は平静だった。内心にどのような感情が渦巻いているとしても、表には出さないと決めているのだろう。
だからシャスティエも表情を凍らせてグニェーフ伯の手を取った。祖父のように慕った人だ。婚礼で父親がやるような役を与えてくれたのは、王の厚意と思って良いだろう。
列を離れて王の前に進むと、イシュテンの貴族たちの視線が一層突き刺さった。シャスティエは結婚というものにそれほど憧れていたつもりはなかった。王女に生まれたからには親の決めた相手と国のために結ばれる他の道はない。
――それでもこんな形は想像もしていなかったわ……。
祝福する者は一人もなく、敵意ばかりを向けられて、憎むべき相手の妻になるとは。アンドラーシやジュラなど、喜ぶ者も多少はいるかもしれないが、それは王の世継ぎを生む女だから歓迎しているというだけのこと。
衣装だけは銀糸の刺繍も美しい純白のものをまとい、髪もイリーナが意地のように凝った形に結ってくれたけれど、それも虚しいばかりに思えてしまう。
王妃ではなく側妃だから、本来は儀式めいたこともしないらしい。父が娘を引き渡し、王は受け取る。それを契約のように書面にするだけだと聞かされた。父親が有力な諸侯であれば王妃に準じて祝宴を催すこともあるとのことだけれど、シャスティエの場合はもちろんそのようなことは望まないしティゼンハロム侯の手前不可能だろう。
――本当に書面だけで済ませれば良いのに。所詮、私は戦利品だということかしら……。
王の前に辿り着くと、シャスティエの手はグニェーフ伯から王へと委ねられた。そういえば不躾に抱きかかえられたことは何度かあったが、手を取られるのは初めてだったかもしれない。硬く大きな王の手は、剣を握り人を殺す者の手だ。そう思うと忌まわしい気がした。
花嫁の父の役目を果たすと、グニェーフ伯は列へと下がり、シャスティエは王とふたり、広間を埋めたイシュテン貴族たちの前に取り残された。更に王はシャスティエの手を引いて玉座へと戻り、一同を見下ろす位置に立った。
王と共にシャスティエも一段高い位置から広間を見渡すことができる。
「この娘は出征前に約した言葉を守った。ミリアールトは再びイシュテンに従った。ゆえに俺も約束を果たす。
この娘を、側妃として迎えることとする!」
シャスティエが生きて戻った時点でこうなることは分かりきっていたはずだから、表立って反対を述べる者はいなかった。しかし内心の思いは様々なはず。潜んだ悪意に負けぬよう真っ直ぐに立つのに、シャスティエは多大な気力を奮わなければならなかった。
「婚家名は、どのようになさいますか」
低く尋ねたのはティゼンハロム侯だった。王の妻としての名を与えなければならないのが忌々しくてならないとでも言うように、新たな側妃を睨みつけてくる。
「王族の出自を考慮してミリアールト風の名を許すことにした」
対する王は義父の怒りを恐らく故意に無視して笑った。
「クリャースタ・メーシェと」
――私は復讐を誓う……。
王がその名を口にするのを聞いて、シャスティエもやっと微笑むことができた。恥じらう新妻の表情に見えただろうか。だが、内心はもちろん違う。
――その名の意味を、誰も知らない。王でさえ。私の復讐に手を貸していることに気付いていない。
少なくともこれで彼女の復讐はイシュテンの歴史に刻まれるのだ。それだけでも仇の王の妻になる価値がある。そして王子を生むことができたなら、彼女の名はより誇らかに後の世に伝えられるだろう。滅ぼされた国の言葉で復讐を意味する婚家名が、王の母の名として残る。
そう思うと、敵意の目さえ心地良い気さえした。全ては復讐のため。いつか勝ち誇ることができると信じていれば、何にでも耐えることができるだろう。
こうして、シャスティエはイシュテン王の側妃になった。
2015/11/21加筆しました