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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
9. 冬の嵐
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再び敵地へ シャスティエ

 シャスティエは砦の一室を独占することを許された。イリーナを除けば唯一の女だから当然のことではあるが。王との同室を命じられはしないかと内心恐れていたけれど、王は王で忙しいのだろう、そのような発想は欠片も浮かんでいないようだった。


「シャスティエ様っ、ひどいお顔の色ですわ。早くお休みになってくださいませ」

「ありがとう、イリーナ。あなたも心配だったでしょう」

「私なんて、何も……」


 イシュテンの陣営の奥深くに守られていたイリーナは幸いに無傷だった。しかし、主であるシャスティエが命懸けで砦の説得に赴き、翌朝には期せずして戦闘があったのだ。何が起きているか分からなかった分、心労はシャスティエ以上だっただろう。

 くっきりと目の周りに隈が残る侍女の頬を、シャスティエは優しく撫でた。


「シャスティエ様……」


 そこへ、グニェーフ伯が声を掛ける。バラージュという男の自害を見届けた後、血の紅と臭いにまともに歩くこともできなかったシャスティエを部屋まで送り届けてくれたのだ。


 ――でも、私のせいで死ぬことになった者だもの。目を背ける訳にはいかなかった……。


「ありがとうございます、グニェーフ伯。あとはイリーナにやってもらいますから行ってくださいませ。きっと、為すべきことは多いのでしょうから……」

「雑事は我らが引き受けますのでお休みください。イシュテンへ赴かれる日程など、重要なことは後ほどご報告申し上げますので」

「ええ、お願いいたします」


 女王としての威厳をきちんと装えているかどうか自信はなかったが、シャスティエは無理に微笑んだ。昨日の説得による心の疲れと、王と共に戦場を駆けたことによる身体の疲れ。更には人の死を間近に見たことからくる不安と恐怖ですぐにも横になりたいくらいだ。

 だが、彼女を信じて降伏した臣下の前で、早々に弱ったところを見せたくはなかった。


「――先ほどの者が申していた、ティゼンハロム侯爵なる者のことですが」

「ええ」


 まして、疑問と懸念を露に、それでも躊躇いがちに問うてくる老臣に対して、気弱なところを見せる訳にはいかないのだ。


「何者なのですか? 反逆を(そそのか)しておきながら、王も察しているようでありながら追求しないとは。シャスティエ様はご存知なのでしょうか」

「王妃様の父君です。大変に力のある一族とのことで、陛下が即位された際にも尽力されたそうです」


 グニェーフ伯の顔が歪んだ。後ろめたさに目を背けたくなるのを必死に堪えて、シャスティエは早口に答えた。微笑みを保つのには大変な努力を要した。重要な情報を、意図的に伏せていたことは自覚してはいるから。


「そのような――っ!」


 主君の身を案じてくれているのか、あるいは欺かれていた憤りのためか、グニェーフ伯は頬に朱を上らせてシャスティエの両肩を掴み、激しく揺さぶった。


「そのような状況で側妃など! 真っ先に命が狙われる立場ではありませぬか! ……そもそも先ほどの件も()()だったのですな!? 単にミリアールトが気に食わぬというだけではなく、シャスティエ様共々踏み潰しておこうと――」

「……その通りだと思います」


 老人とはいえ忠臣とはいえ、加減を忘れた男の力に怯えつつ、シャスティエはできるだけはっきりと答えた。罪悪感など読み取らせてはならない。間違った選択だったと、この人に思わせてはならないのだ。


「ですが、それこそティゼンハロム侯爵がミリアールトを警戒している証であり、イシュテン王にとってこの同盟に価値がある証です。ミリアールトは重用されるでしょうし王も私を大切に扱うでしょう」

「あの男は、王の力はティゼンハロム侯に及ばぬと言っておりました! 名誉と息子の命がかかったこと、嘘ではありますまい……シャスティエ様の御身が危ないと分かって獣の巣に送り出すなど、断じて許せることではございません!」

「では、やはり逆らうと王に言いますか?」

「それは――」


 グニェーフ伯の憤りは、全てシャスティエを案じるためだった。彼女としても、このように思われると分かっていたからこそティゼンハロム侯のことを黙っていたのだ。

 引き返せなくなってから打ち明けるのは卑怯だとは百も承知。それでもこれが、彼女考え得る最良の道だった。


「グニェーフ伯、私を案じてくださるのはとても嬉しく思います」


 力を失った老臣の腕を取って、シャスティエはその手を握った。


「ですが、ミリアールトを、祖国の未来を考えてください。イシュテンに武力で敵わないというだけではありません。少なくとも王が公正な為人(ひととなり)であるのは分かったでしょう? 対してティゼンハロム侯は一族の者を捨石にして反逆を目論むような男です。幼い王女殿下を傀儡にして、権力を(ほしいまま)にしようという男です。そのような者が隣人となって、ミリアールトは栄えることができるでしょうか?」

「シャスティエ様……」

「私の子をイシュテン王にさせてください。どうか、そのために尽力を――お願いします」


 シャスティエが握り締めた固く皺の寄った手は、しばらく動かなかった。しかし、祈る思いで見つめるうちに、グニェーフ伯の氷の色の目が伏せられ、シャスティエの手が握り返された。


「――承知いたしました」


 はっきりとした承諾に、安堵の息を吐いたのも束の間、グニェーフ伯はひどく真剣な眼差しでシャスティエを見つめていた。


「ですがイシュテンは思った以上に危険な場所のようです。イリーナがいるとはいえ――」


 やはり幼い頃から知る侍女をちらりと見てから、老伯爵は女王に視線を戻す。


「遠くミリアールトにいて安心することなどできませぬ。臣もイシュテンへお供いたします」

「え――?」


 思いもよらない申し出にシャスティエは目を瞠ることしかできない。


「イシュテン王は我らに感謝さえすると言っておりましたからな。褒美を強請ってもおかしなことはありますまい」

「そう……でしょうか」


 にやりと笑ったグニェーフ伯の表情は、シャスティエが見たことのない種類のものだった。そう、彼女の何倍もの歳を重ねているこの人ならば、駆け引きも根回しも小娘の考えが及ばぬほどにこなすのかもしれないが。


「そのようなことが叶いますでしょうか」

「叶えさせます。シャスティエ様はお休みになってお待ちくだされば良い」

「はあ……」


 首を傾げる間に、グニェーフ伯はイリーナと目配せを交わしたようだった。老臣の手の中にあったシャスティエの繊手が、侍女の手に委ねられる。


「それでは後は私がお引き受けいたします、伯爵様。――シャスティエ様、御髪も衣装もすっかり汚れてしまって。お湯を用意させますからね」

「イリーナ。小父様……」

「それでは失礼いたします、シャスティエ様」


 何やら心を決めた様子のグニェーフ伯は慌ただしく去った。

 残されたシャスティエは、侍女に言われるまま湯浴みと着替えを済ませ、その後には半ば強引に寝台に押し込まれた。




 シャスティエはそれからひと月ほどをミリアールトで過ごすことができた。次の総督への引き継ぎや、グニェーフ伯が去った後を――どういうやり取りがあったのかは教えてもらえなかったが、王はあっさりとグニェーフ伯の同行を許していた――任せる者たちの指示。それにあの戦闘で怪我をした者の治療も必要だったし、王もこの機会にミリアールトの実情を幾らかでも知っておきたいようだった。


 戦いもないのに軍を維持するのは無駄が多いということなのだろう、その間にもイシュテンの軍は少しずつ帰国の途についている。信頼できる者たちを手元に残しつつ、反逆を企んでいるらしいハルミンツ侯に手勢を戻してやるのも危険がつきまとう。王はきっと頭を悩ませたことだろうが、シャスティエにはそのような様子は見せなかった。

 グニェーフ伯は、雑事は引き受けると言った。怪我人の世話やイシュテン軍の中でも主だった者たちの逗留先の手配。イシュテン軍も周辺の農村も飢えることがないように食料を分配し、犯罪や衝突を最小限に抑えるために巡回をする。確かに煩雑なことばかりではあっただろうが、いずれも重要なことだった。そして同時にシャスティエにはどうしようもできないことでもあった。


 ――結局、私は飾りの女王に過ぎないということなのかしら……。


 不甲斐ない思いを抱きつつ、シャスティエはできるだけミリアールトの者たちに会った。砦に集った者も、領地や領民のために静観した者も。時には無位の農夫たちにも。雪の(コロレファ)女王(・シュネガ)の写し身と呼ばれ、最後の王族である彼女が姿を見せれば民はとりあえず喜ぶから。できることがないなりに、ミリアールトに希望を与え結束を高める一助になるならば何でもすべきだと思ったのだ。


 イシュテン王の側妃になるという彼女を案じる者もいたし、不満や批難を呑み込んでいるような顔つきの者もいた。しかしそのような者たちにもシャスティエの覚悟は伝わったと思う。多くを語らずとも、こう言えば良いのだから。


「婚家名として、クリャースタ(復讐を)メーシェ(誓う)と名乗るつもりです」


 そうすれば皆悟ったように彼女の前に跪いた。女王が祖国を売ったのではなく、矜持を曲げたのでもなく、復讐のために敵の懐に忍び込むのだと知れただろうから。




 そうこうするうちにイシュテンへ()()日はすぐに来た。


 出発の前に、シャスティエはかつての王都、かつての王宮に祖先の霊廟を訪ねる(いとま)を許されていた。


「お父様、お母様。お兄様……」


 冷たい石の棺に、抱きしめるように縋りながら、一つずつ撫でる。こうして家族を詣でる機会があるとは思っても見なかった。恐らく最初で最後のことになるのだろうが――それでも、別れを告げることができるのは嬉しかった。


「最後のお別れに参りました。遠くに行かなければなりませんの。でも、どうか心配なさらないで。小父様も、イリーナも一緒に来てくれますから」


 イリーナの家族は、幸いに昨年の戦火にも関わらず存命だった。今回もひと時ではあるが実家を訪ねる時間を与えてやることができた。涙で目を腫らした侍女の姿に、今度こそ残りたいと言い出すだろうと覚悟したのだが、予想に反してまたシャスティエに同行すると言ってくれた。


『他の侍女にシャスティエ様を任せるなんてできません。それに、シャスティエ様はすぐに無理をなさるのですもの』


 涙の跡を残しながら気丈に微笑んだイリーナの姿に、シャスティエも涙を堪えることができなかった。


「私はとても恵まれています。だから、きっと大丈夫……」


 近く王と対決するであろうティゼンハロム侯。ティグリスを擁して王位を窺うハルミンツ侯。その背後にいるらしいブレンクラーレの影。

 いずれも強く恐ろしい勢力ではあるけれど。だが、シャスティエと――王は、勝たなければならない。


「イシュテン王は信頼に足る男です。臣下の中にも私を守ってくれるという者もおります。王妃様も優しい方だし――」


 数え上げるのは、家族の魂を安心させるというよりは、自分に言い聞かせるようになっていた。答えることのない冷たいだけの棺が相手であっても、女王でも人質としてでもなく、家族に対して語りかけているのだ。そのことが、シャスティエの心の鎧をわずかに弱らせていた。


「……シャスティエ様」


 だが、躊躇いがちに呼びかけられた声に、シャスティエは慌てて女王の顔をまとった。多分、そうすることができたはずだ。


「グニェーフ伯。もう時間ですか」

「は。お名残は尽きないこととは存じますが――」

「構いません。呼びに来てくれたのですね。ありがとうございました」


 老臣が差し出す手を取りながら、立ち上がる。きっと自分で時間を測ることなどできないだろうと思っていたから、あらかじめグニェーフ伯に迎えを頼んでいたのだ。


「シグリーン公夫人が間に合わなかったのは残念でした」

「本当に」


 今回の滞在中、シャスティエは亡き叔父の夫人、従兄弟たちの母である公爵夫人とも会っておきたかった。シャスティエを救うために命を投げ出してくれた人たちだから、その最期を伝え、例え許してもらえなくても叔母に詫びたいと思っていた。

 しかし、家族全てを亡くした叔母は領地の深くに引きこもっており、出発までに王都に来ることはできなかった。シャスティエの方も、イシュテン軍の目から離れて叔母を訪ねることなど許されないのは言うまでもない。だから、彼女は叔父と従兄弟たちの墓前に参じることはできなかった。


 ――私は、本当に残念だと思っているのかしら。


 痛ましそうな表情のグニェーフ伯に頷きながら、シャスティエは内心で訝しんでいる。

 叔父たちを死なせたことは許されないだろうとは覚悟している。一方で、幼い頃から可愛がってもらった叔母に憎まれるのに耐えられるのかと自問すれば、全く自信がない。逆に、責められずに済んで安堵さえしているようで。そんな自身を、シャスティエは恥じた。


 主が目を伏せたのをどう解釈したのか、グニェーフ伯は話題を変えてくれる。


「見送りには新総督も来るとか」

「お忙しいでしょうにもったいないことです」


 シャスティエとしてもありがたいことだったので、答える時には自然に微笑むことができた。


「王との別れを惜しみたいというのが本音でしょうが」

「でも、私にも丁重に接してくれました。グニェーフ伯も安心されたことでしょう」

「……悪い男ではないとは存じます」


 三人目のミリアールト総督として任じられたのは、エルマーという男だった。煽動に乗らず、王の傍を固めて王の命で混乱の中を駆けていた男だ。つまりは王の信頼できる側近ということで、ミリアールトでは今度こそ王の意を受けた寛容な統治が為されるだろう。


 初めて正式に紹介された時、エルマーはシャスティエににやりと笑いかけた。アンドラーシほど軽薄な印象ではないが、ジュラよりは砕けている。とにかく王の側近に共通したものとして精悍でさっぱりとした雰囲気を持つ男だった。


『ティゼンハロム侯の娘は陛下に相応しくないと常々思っておりました。美しいばかりでなくご気性も陛下に似合いの方が来てくださるとは、嬉しい限り』


 アンドラーシと似たようなことを言うのにうんざりしつつ、シャスティエは手を差し伸べて新総督に口づけを許したのだった。


『陛下の御心に叶うように努めます。――私からも、ミリアールトのことをお願いさせてください』

『それこそ陛下の命でございますから。姫君はご安心くださいますように』


 その時の様子をグニェーフ伯も思い出したらしい。重々しい口調で、やや面白くなさそうに評する。


「あの男の質も能力も測り切れたとは申せませぬが。ですが、イシュテン王への忠誠心は本物なのでしょうな」

「王を通すから信じられるなど、不思議なことですね」

「まことに」


 シャスティエと――ミリアールトと、王との関係は複雑だ。従順を装いながら復讐を狙うのさえ一つの側面に過ぎない。復讐の成就を望むならば、まずは王が実権を握るのを、政敵たちを(くだ)すのを願わなければならない。復讐の前に王に与しなければならないのだ。

 そして一層おかしなことなのだが、王についた前提として、王の能力と為人への信頼がある。十分に勝機はあり、ミリアールトに対して非道は行わないだろう、という。


 ――だからといって決して許しはしないけれど。全ては、あくまであの男への復讐のため。一時だけ力を貸してやるに過ぎないわ。


 それも半ば強がりに過ぎないと、自分でも分かっているのだけど。実情としてミリアールトはイシュテンに呑み込まれる。王の血筋を盗むのが復讐などと、詭弁にも等しい。

 ただ、ひたすら憎しみに捕らわれ、なのに何を成すべきか分からず苛立っていた日々を振り返ると、目標があるだけマシだと思う。

 ひどく大きな流れを自ら呼び、更にその流れに絡め取られているいう怖れはあるが――この先は、溺れたくなければあらゆる荒波を泳ぎ切らなければならない。




 イシュテンまではひと月は掛かる。既に二度経験したこととはいえ――むしろだからこそ思い知っている――、旅路は楽なものではないだろう。

 しかし、それさえイシュテンに着いた後に待ち受けることと比べたら何ほどのこともない。


「お父様方。雪の(コロレファ)女王(・シュネガ)。どうかご加護を」


 ――私に、復讐を遂げさせてください。


 最後に父たちが眠る霊廟を一瞥すると、シャスティエは敵地への帰還に向けて足を踏み出した。

2015/11/21加筆修正しました。

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