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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
9. 冬の嵐
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雪の女王は戦馬と駆ける シャスティエ

「――一体、何が起きているのですか!?」


 腹が立つほど間近にある憎き王の顔を睨みつけて、シャスティエは叫んだ。先ほども似たようなことを言ったが、あの時は突然抱き上げられて混乱していた。

 王が命令を下す数十秒の間に考えて、多少なりとも頭を冷やして、認識したのだ。


 どう考えても、彼女もグニェーフ伯ら供の者たちも、敵意を疑われるような真似はしていない。イシュテンの陣営から上がった叫びは、言いがかりにほかならない。


 ――皆、剣さえ帯びていなかったのに!


「お前を亡き者にしようとしているのだ」


 抗議を込めた詰問に対し、王はいっそ面倒そうな口調で答えた。青灰の目はシャスティエをちらりと捉えただけで、すぐに顔を上げて自軍のうちの戦況を窺っている。


「私を?」

「リカードだ。よほど側妃が邪魔なのだな」

「そんな卑怯な……!」

「正論は必ず通るものではないと教えなかったか? ――エルマー、ここは良いからまた行ってくれ。できればあの者は生かして捕らえよ」

「はっ」


 王が彼女を相手にするのは片手間でしかなかった。臣下に次々と命を下す間に、シャスティエは俯いて唇を噛む。


 降伏させておいて騙し討ちにする。それは、彼女が説得しようとした際にミリアールトの臣が懸念していたことだった。イシュテン王は信用できると断言して、祖国の未来と彼らの命を託させたのに。なのに砦を出るなり剣を向けられて、彼らはどう思っただろう。


「小父様……」


 ――全て無駄になってしまったの? また争って……殺されてしまう!?


 俯いた視線の先にはグニェーフ伯ら、砦の主だった者たちがいる。降伏に赴くのだからと、武器はもちろん防具の類も最小限しか身につけていない。怒号と剣戟の音が迫る中ではその姿はいかにも頼りなく見える。


「シャスティエ様……! おのれ、我が主を返せ!」


 だが、老臣は我が身よりもシャスティエのことを案じていた。必死の形相で腕を伸ばし、馬上から下ろそうとしてくれる。祖父のように慕う人の、暖かいと知っている手だ。無意識に手を伸ばしてすがりそうになってしまう。だが――


「わざと俺を狙う痴れ者はさすがにいまい。ここが一番安全だ」


 うるさげに顔を顰めて吐き捨てた王の声に、今の状況を思い出す。すぐ傍に彼女の命を狙って剣を抜いた者たちがいる。グニェーフ伯にすがるのは、目を背けて逃げることにほかならない。


 もう陰に隠れて守られるのは嫌だと、決めたはずだ。戦えずとも、彼女自身の選択で、彼女なりのやり方で、国を守ると覚悟したのだ。そのためには憎い仇でさえも利用すると。


 ――逃げてはいけない。退いてはいけない。決めた道を進まなくては!


 だから、シャスティエは一瞬のうちに心を決め、強いて笑顔を作った。馬上の高みから地上の臣下に向けて、彼らを安心させることができるように。


「そう――そうです。慌ててはなりません、グニェーフ伯」


 王にも聞かせるために、イシュテン語で。争い殺し合う声と音にも負けないように、できるだけ朗々と。


「イシュテンとミリアールトの絆を裂こうとする者がいるのは残念です。ですが()()()はそのようなことを許しません。私も。皆様も。守ってくださいます」


 ――そう、してくれるのでしょうね?


 彼女を抱える男に、言外の圧力を与えながら。先に妻と呼ばれたのをなぞって、シャスティエは夫、という単語に強制を置いた。心が不安と不快に波立つのは抑えられなかったが、声には滲ませずに済んだはずだ。この先彼女はずっとこの気持ちを味わうのだろうか。だが、これが彼女の選んだ道だ。


 彼女の居場所は王の隣。どんなに帰りたくても、祖国ではもう彼女にできることはない。何がミリアールトのためになるか。冷静に見極め、成し遂げなければならない。たとえそれが心に沿わないことでも。

 肌が粟立つのを無視して、シャスティエは王に寄り添った。必要以上に、傍からは慕わしげに見えるように。


「陛下」


 怪訝そうに眉を寄せた王を見上げて、精一杯明るい声で告げる。何も不安などないように見せなくてはならない。彼女もまた王なのだから、臣下に対しては常に泰然と落ち着いた姿を装わなければ。


「後ろに留まっていらっしゃるのは私を案じてくださっているのですね。ですが陛下と一緒ならば大丈夫です。どうぞお連れくださいませ。臣下の方々に見せつけましょう。雪の女王が、戦馬の王と共に駆ける姿を」

「雪の女王は戦馬と駆ける、か……」


 今までになくにこやかに語りかけたシャスティエに呆気にとられたような表情をしたのも一瞬のこと、王はすぐに獰猛な笑顔を見せた。戦馬というよりも狼の剥き出した牙を思わせる猛獣の笑みだ。


「よかろう。その言葉をあのバカどもに聞かせてやれ。我が妻にあらぬ疑いを掛けたのを思い知らせてやろう」


 王の鋭い視線が示すのは、殺し合い罵り合う人の塊だ。シャスティエには直視するのも恐ろしいが、その中心で混乱を煽る言葉を繰り返す者がいるのは、分かる。――あれが、ティゼンハロム侯が彼女を狙って仕込んだ手札だということだろう。王の側妃になるからには、王妃と争うつもりならば、あの老人の思惑はことごとく潰さなければならない。


「はい。お供いたします」

「――シャスティエ様! 危険です!」


 叫んで王の黒馬に駆け寄ったのは、グニェーフ伯。逞しい戦馬に立ち塞がることこそ危険だろうに、シャスティエのために自身を顧みないでくれるのだ。


「大丈夫です」


 ――私が、この方たちを守らなくては。


 覚悟さえ定まれば、より自然に微笑むこともできた。


「私に任せてくださいませ」

「ですがっ――」

「邪魔だ。どけ」


 業を煮やしたかのように王が馬を駆けさせると、グニェーフ伯もさすがに道を開けた。何ごとか叫ぶのも、瞬く間に風と共に後方に消える。


 ――危ないではないの!


 急な揺れにシャスティエは王にしがみつき、だが恥ずかしさにすぐ離れようとする。しかし、馬の首筋に掴まろうと伸ばした手は王の腕に阻まれた。


「そのまま俺に掴まっていろ。狙われる余地は少しでも減らせ」

「ですが……」

「それにお前はこの馬(アルニェク)に嫌われている。前に(たてがみ)をひどく引っ張っただろう」


 例の狩りの際、森の奥からの帰りに同乗させられた時のことだと気づくのに、数秒かかった。あの時シャスティエは王に触れたくないあまりにこの馬の鬣に思い切りしがみついていた。だが、彼女の乗馬の下手さをあてこすった嫌味にしか聞こえない。相手はただの獣なのだから。


「馬がそんなに賢いはず――」


 ない、と言おうとした瞬間、黒馬は跳ねてシャスティエの言葉を途切れさせた。まるでそんなことはない、と言わんばかりの狙いすましたかのような跳躍だった。


「分かったか?」


 身体の均衡を崩して王に掴まると、笑った気配が伝わってきた。大変に、業腹ではあったが――その後は、シャスティエは大人しく王にしがみつくことにした。


 狙われないようにしろという言葉の意味がよく分かったのだ。




 顔の傍を矢がかすめて、シャスティエは首を縮ませた。

 王を狙ったもののはずではない。故意に王を傷つけたとなれば言い訳のできない罪になる。あのイルレシュ伯の息子のように。だが、混乱の中では王が間近に来ていると気付けない者も多いようだった。

 不毛な戦場を、王と側近たちは声高に叫びながら駆けていく。


「王の御前だ! 剣を収めよ! これは不要な争いだ!」

「ミリアールトは降った! 流言に耳を傾けるな! 惑わされただけの者は罪は問わぬ!」


 王の周囲はジュラと、その配下らしい者たちが固めている。人馬の壁があってなお、流れ矢が届いてしまうこともあるのだ。シャスティエを抱えた王が自身で剣を抜くことはなかったが――それでも初めて駆け抜ける戦場はあまりに生々しく恐ろしかった。


 ミリアールトの王宮で初めて王と会った時、シャスティエは血に塗れたその姿を嫌悪した。しかし、あれは結局のところ戦いの後に過ぎなかった。戦場を満たすのは血の色や臭いだけではない。鋼や馬がぶつかり合う音。蹄が骨や肉を踏み砕く音。凍てつく真冬のはずなのに、流された血と人の熱気が雪を溶かし、倒れた者たちは泥に落ちて湿った重い音を響かせる。

 五感の全てを殺し合いに侵されて、一秒ごとに彼女の心は削れていった。


「――っ」


 目の前でひとりの兵士の腕が飛ぶのを見て、シャスティエは思わず顔を背けた。だが視線を向けた先でもまた別の男が胸から剣先を生やして倒れていた。

 息を呑む気配が伝わったのだろう、王の腕が彼女の身体をいっそう近くに引き寄せた。まるで抱きしめられているような距離へ。


「恐ろしければ目を瞑っていろ」

「いえ……」


 目を閉じていたいのは山々だったが、これは彼女が選んだことのために起きたのだ。逃げることは許されないだろう。それに、シャスティエは恐ろしさと同時に憤りも覚えていた。


「これは無駄な争いです。イシュテン人同士ではありませんか」


 イシュテンの者は争い続ければ良い、と砦の者たちを説得する際に彼女は言った。しかし、これは全く必要のない流血だ。降伏しようとしている者を、嘘偽りで煽動してまで殺そうとするのも、それを止めようとする自国の者と剣を交えるのも、いずれも理不尽で理解に苦しむ。

 今戦っている者たちの中には、昨年の侵攻の際にミリアールト人を殺した者もいるのだろうが。それでも目の前で苦しみ血を流す姿を見て喜ぶ気にはなれなかった。


「イシュテンは国という意識が薄いのだ。王など飾りだと思っているから派閥の長に忠誠を誓う者、自身の益しか求めない者も多い」


 怒りを買ってもおかしくない強い語調で吐き捨てたのに、意外にも王は淡々と答えてくれた。戦局を睨むその表情を見上げても、王の感情は窺い知れない。けれど、シャスティエ以上に不快を感じていてもおかしくないと思う。それだけ、矜持の高い男だと知ったから。


「陛下はそれを改めようとなさっているとお見受けいたします」

「そうするつもりだ。いつまでも国の中で争うなどバカバカしいにもほどがある」


 殺し合いの只中で交わすには、あまりにも場違いな会話だっただろう。だが、シャスティエはなぜかほんの少し安堵した。選んだ男がやはり信用に足る相手だと、認識を共有できる相手だと確かめたからかもしれない。


「お手伝いいたします」


 言うなり、シャスティエは王の腕の中から身を乗り出した。同時に髪を解いて風に流す。少しでも遠くから見えるように。


「イシュテンの者たちよ、何のために争っているのですか! 私はここです。あなた方の王の傍に!」


 王やジュラたちの言葉を聞いて戦いを止めていた者もいくらかはいた。しかし怒号の飛び交う戦場で、人ひとりの声が届く範囲はごくわずかだった。

 だが、普通戦場には響かないはずの女の声ならどうだろう。より多くの者が手を止めるのではないだろうか。声は届かなくても、朝陽に煌く金の髪は、遠目にも明らかなのではないだろうか。


「ご覧なさい! 雪の女王が戦馬の王と駆ける姿を! ミリアールトはイシュテンと共に進むのです!」


 言い終えた瞬間、目の前を矢が掠めてシャスティエは王の腕の中に引き戻された。


「危険だと言っただろうが!」

「申し訳ございません。ですが効果はあったようですわ」


 興奮に息を弾ませて、それでも昂然と。視線を巡らせて周囲を示す。戦場には不釣り合いな女の声と、何より目立つ金の髪は血に酔った男たちを醒めさせるのに成功したようだった。混乱がやや収まり、怪我人を助け起こす者も現れている。

 勝手な行いに王は一瞬顔を顰めた。が、すぐに表情を改めてまだ争っている方を示す。


「場所を変える。今のをまたやれ」

「御意」


 シャスティエも澄ました顔で頷いた。


 そこへ、一団の騎影が迫る。辺りの混戦とは一線を画する、統率された塊に、王を囲んだ側近たちの顔色が変わる。


「何者だ!?」

「まさか陛下を直接狙うつもりで――」


 ジュラたちが剣を構え、白刃に反射する光が煌めいて目を眩ませる。王が身体に力を入れる気配に、シャスティエも身構えた。しかし、騎影が近づくにつれてそれが何者であるか気付き――辛うじて、叫ぶ。


「いえ、止めてください! 味方です!」


 シャスティエの叫びは剣が血に濡れる前に間に合った。一瞬の混乱はありつつも、駆けつけた一団は王の――シャスティエの周囲にもう一段の防壁を築く。


「我が君だけを危険に晒しはしない!」

「加勢する。我らも盾になろう!」


 それは、グニェーフ伯を始めとするミリアールト人たちだった。砦に残っていたはずの者も加わっている。武装を整える暇もなく軽装で、とにかくも馬を引き出して参じてくれたらしい。


「小父様……!」


 シャスティエが小さく喘ぐのにも構わず、グニェーフ伯は王の傍らに馬を寄せた。


「イシュテン王よ、手間取っているようなので手助けに来た。我らの忠誠を証すのに、口だけでは足りぬようだからな!」

「小父様!」


 不遜な物言いは王の怒りを買うに違いないと思ったので、シャスティエは老伯爵を止めようとした。しかし、予想に反して王は苦笑しただけだった。


「ミリアールトの者は余計な真似が多いな。主君としては信に足るところを見せなければならないか。――ついて来い!」


 グニェーフ伯らが加わって厚みを増した一団は、先ほどよりも軽々と戦場を駆けることができた。外周をジュラたちイシュテン人が固め、王の馬を固めるように軽装のミリアールト人が内側を守っている。


 ――ミリアールトの者とイシュテンの者が馬を並べて駆けるなんて。不思議なこと。


 目立つように金の髪を風になびかせ、喉を限りに剣を置くように訴えながら、シャスティエは密かに感慨に耽る。


 かつて殺しあった者たちが、今は同じ目的のために(くつわ)を並べているのだ。どうして不思議に思わずにいられるだろう。

 いや、同じ目的ではない。ミリアールト人がイシュテン王についたのは、あくまでも復讐のためだ。王に勝利を与えるのは、最後にシャスティエの子が受け継ぐためというだけ。


 ――そのために、何度こんな争いが起きるのかしら。


 混乱はほぼ収まりつつあったが、それだけに地に倒れる者や雪を溶かす血、主を失くした手脚、踏みにじられる馬の悲鳴が目にも耳にも突き刺さった。


 雪の女王は戦馬と駆ける。


 その道は、常にこうして血と死に彩られることになるのだろう。

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