血の婚礼 ファルカス
ファルカスは騎乗して夜明けを待っていた。臣下の手前、戦いに備えていると見せなければならないから。だから、武装も万全に整えている。視界を確保するために兜だけは被らずに、真っ直ぐに砦を見つめている。闇に紛れる黒い影にすぎなかったのも先ほどまでのこと、今は薄い青から朝焼けに赤く染まり始めた空を背景にその姿を露にし始めている。
曙光が差すのと同時に、跳ね橋が軋んだ音を立てながら降り始めた。
――やっとか。
砦の内へと続く道を自ら作るのは、降伏するものと思って良いだろう。事態がひとつ進んだのを知って、ファルカスは手綱を握り直した。
ミリアールトの冬の夜は長かった。太陽がまともに姿を見せることがないという極夜の時期は過ぎてはいたが、元王女の説得が奏功するかどうかを待つだけというのは実際以上に時間を長く感じさせた。それでも時間が足りるのかどうか、今、この瞬間になるまでは分からなかった。あの娘の言葉にはそれなりに理があるとは承知していても、剣を抜いた者がそれを振るわずに鞘に収めることは難しい。元王女を砦に差し向けた彼でさえも、戦うことになる可能性は十分にあると覚悟していた。
だが、元王女は説得に成功したらしい。堀に渡された橋を通ってこちらへ向かう一行の先頭には、朝の光に輝く金の髪の少女がいる。整った容貌は緊張にやや強ばってはいるが、足取りは堂々として誇らしげでさえある。長い旅路の果てのこと、纏う衣装は華美ではないが、傲然と上げた面に輝く碧い瞳も風にたなびく細い金髪も、女王に相応しい宝飾品のような威厳ある美しさを備えている。自身の役目を果たし言葉を守ったのを、彼に見せつけようとでも思っているのだろう。
――やはりあの娘はものを知らないな。
臣下たちを背後に従え、誰にも見えない位置にいるのを良いことに、ファルカスは密かに嗤った。あの――妻子のミーナやマリカとは全く違った意味で――無邪気な女は、このまま彼の元まで歩み寄って降伏の言葉を述べれば済むと思っているのだろう。それで血を流さずにことが終わると。
それは大きな間違いだ。何よりも警戒しなければならないのはむしろこれからだ。義父のリカードは、彼が側妃とミリアールトを得るのを何より警戒しているはず。更には元王女に状況の鍵を握らせておくのを良しとするはずがない。ならばあの古狸はどのような手を取るか。
降伏自体をなかったことにしようとするに違いない。
元王女たちを砦に送り出す前夜、ファルカスは側近を呼び集めていた。
表向きは戦いになった際の各々の動きを詰めるため。近しい者だけに手柄を立てさせようと年配の臣下を締め出すのは、若く血気にはやった王ならありそうなことだ。しかし彼の場合はまた話が違う。
ファルカスは砦の者が降伏した時こそを懸念していた。大半の臣下と同じように、リカードも元王女が失敗すると信じきっていれば良いが、あの老人に限って言えばそのような期待は甘すぎる。真冬のミリアールトで手勢をすり減らすのを嫌がったハルミンツ侯爵と対照的に、一族の中でも実力のある者を押し込んできたのは理由があるべきだと見るだろう。万が一の可能性すら潰そうとするのがリカードだと、彼は既に知っている。
なのでファルカスは側近たちを見渡すと念を押すように宣言した。
『前はもちろん、後ろへの注意も怠るな。ことはミリアールトとの同盟が成るかどうかだと思え。ティゼンハロムのバカ者どもの暴走を許せばあの者たちは二度とイシュテンを信じない』
主君の命だから、呼び集めた者たちはしっかりと頷いて見せた。しかしその表情は完全に納得しきってはいないと告げている。
『ご命令とあらばその通りに。ですが、そこまでの策が必要でしょうか?」
発言した男は、結局戦いでカタをつけるのではないか、と言いたかったのかもしれない。あの時、あの広間においては元王女の言葉はもっともらしく聞こえたが、常のように軍備を整えて進軍するうち、やはり女の言葉で剣を収める者がいるなど信じ難く思い始めているのだろう。
無理もないこととは思うので、ファルカスはあえて説明を重ねることはしなかった。彼がどう言ったところで、この者たちが考えを改めることはないだろう。ならば成すべきことを徹底して叩き込んでおいた方が話が早い。
『リカードならばそれくらいの手札は潜ませていると考えて良い。奴の老獪さを侮るな。奴は俺の足元を掬う機会は見逃さない。降伏しようとしている者を攻めたとあっては俺の恥ということにもなる。お前たちは昨年もミリアールトで命を懸けて戦っただろう。それを無にしようという謀を決して許すな。
不審な動きをする者は見逃すな。流言に惑わされるな。この夜明けに、昨年からの戦果を保てるかが掛かっているものと思え』
強い口調で命じると、方々から上がった返事は先ほどよりもずっと確かなものだった。
『ですが――』
『何だ。言え』
やや言いづらそうに口を開いた者に対して、ファルカスは短く促した。気に掛かることがあるならば、この場で解消しておくに越したことはない。
『――リカードの狙いはともかく、騙し討ちの恐れは確かにあるものと存じますが。陛下ご自身が前に出られるのは危険かと存じますが』
――あの女がそのようなことをするものか。
リカードが送り込んだ者と同じことを側近も口にしたので、ファルカスは思わず苦笑した。あの男と違って、こちらは本心から彼の身を案じていることが分かっているので腹が立つことなどなかったが。
ミーナたちを害そうとしていると疑われて激昂し、実際妻の身代わりに毒を呑んだほどの女だ。卑怯な手段を採ろうとしているなど、考えるだけでも不愉快に思うに違いない。
とはいえ元王女の性格をよく知っていると認めるのも何となく嫌だったので、ファルカスはあくまで強気に答える。
『騙し討ちであろうと、正面から来る者に対して俺が遅れを取ることはない。お前たちは背後を守ってくれればそれで良い」
『はっ』
今度こそ側近たちの顔から怪訝な色は消えた。が、ファルカスが満足しかけたところへ飄々とした声が響く。
『確かに我らが陛下の御身を案じるなどおこがましいとは存じます。ですが、恐れ多いことではございますが、お守りすべきは陛下だけではございませんでしょう。あの姫君はか弱い女性でいらっしゃいます。何があってもお怪我をさせてはならないと存じますがいかがでしょうか』
そのようなことを言うのはもちろんアンドラーシの他にはいない。顔を顰めかけ――しかし一応の筋の通ったことではあるので、ファルカスは渋々と頷いた。
『……確かに。これまで通り、ミリアールトの服従にあの娘の無事は欠かせない。リカードもあの娘さえいなければ、と思っていることだろう。俺が前に出る以上はそう簡単に手を出せないだろうが――人馬だろうと矢だろうと寄せ付けさせるな』
『御意。陛下のお妃になられる方でもいらっしゃいますから、決して何者にも触れさせぬようにいたしましょう』
例によって懲りないアンドラーシを叱ろうと口を開いたところへ、笑いを含んだ複数の声に妨げられる。
『やっと陛下が側妃をお持ちになるのですからな。確かに逃してはならない好機と言えよう』
『ましてあれほどの気丈さ、まったく陛下にこそ相応しい姫君でいらっしゃる』
その場の少なからぬ人数が、アンドラーシのようなことを口々に言うのでファルカスはすっかり困惑した。もちろん表情に登らせることはなく、不機嫌そうに眉を寄せてみせただけだったが。
――あの娘を口実にした方が、話が早かったということか?
側近たちも、彼に王子がいないのを案じているとは気づいていた。リカードの娘であるミーナが王妃の地位にいるのを、煙たく思っていることも。
しかしこれほどまでに側妃を、ましてあの娘を待ち望んでいたとは知らなかった。何か妻子を軽んじられたようで、完全に元王女の思惑に嵌ったようで、どこか面白くなかったが――側近たちが心から彼の命に従うというなら文句を言うのもおかしいだろう。
『……そういうことだ。命令通りに動いてくれればそれで良い。
アンドラーシは危険な役目になるが頼む』
元王女と縁が深いということで、アンドラーシにはあの娘を砦まで送り届ける使者の役目を命じている。元王女が説得に失敗した際は当然殺されるであろう役目だ。死ぬ前に跳ね橋を落とせとは命じたが、非常に難しいことくらいは承知している。
更にはリカードの手の者が実際に騙し討ちをしようとすれば、砦の者は怒り狂うだろう。その場合にはイシュテン人とミリアールト人が殺し合うことのないように――あくまでイシュテンの内輪揉めで済むように――多少なりとも時間を稼ぐことも求めた。
『どのようなものであろうと陛下のご命令に従うのは我が悦びです。あの姫君に関することならばなおのこと。ご指名はまことに嬉しく存じます』
いずれにしても困難な役目には違いないというのに、アンドラーシは笑顔で答えた。それが本心からのものであることは疑いない。そういう男だからこそ使者に任じたのだ。
それでも、忠誠心を利用し使い捨てるようなやり方はファルカスの好むところではなかった。
だが、夜明けが来てみれば懸念はとりあえずひとつ去った。
少なくともファルカスが臣下のひとりを喪う恐れはひとまず去ったと言えるだろう。彼らの女王を先頭に立てたからには、ミリアールトの者たちはあの娘の言葉に乗ることにしたようだ。元王女が産んだ王子をイシュテン王にすることで、王家の血を繋げるとかいう企みだ。
彼にしてみれば迂遠かつ不確実な手段だと思うが、それで臣従してくれるならありがたい。ミリアールトの神が雪の女王であること、そして生かしておいた元王女が女神を思わせる容姿を持っていたこと。恐らく僥倖と考えるべきなのだろう。
後は、無事に降伏を受け入れなければならない。
――リカードの犬ども。動くか……?
動くとすれば、今だ。ファルカスは緊張を緩めることなく、元王女との距離を慎重に測り、背後の気配を探った。不審な動きをする者がいないかどうか。何か起きた場合には元王女を庇うことができるかどうか。
そして変化は聴覚から訪れた。
矢が、風を切る音。その元を探って空を仰げば、一筋の矢が弧を描いて落ちてくるのが見える。ほぼ真上に放たれたらしいそれに、ミリアールト人の男たちも気づいて身構える。だが気付いたところで避けるには遅く、矢は一人の男が主を守るために掲げた腕を傷つけた。
「――え?」
傍らの男がよろめく気配に、元王女は喘ぐような悲鳴と共に辺りを見回し、異常な事態に戦くように振り仰いでファルカスを見上げた。なぜ、とでも問い掛けるように目も口も大きく開いている。
「――――!?」
「――――、――!」
その背後のミリアールト人はもう少し事情が分かっているのだろう。明らかな攻撃に、血相を変えて怒鳴る。更に、そこへイシュテン語が高く響く。
「その娘、怪しい動きをした! これは罠だ!」
ついで剣を抜く音と鬨の声。鎧が擦れ鳴る音と馬の嘶き、そして蹄が地を揺らす音――戦いが、始まる時の音が。
――やはり来たか!
ある意味予想通りの展開に、ファルカスの口元に笑みが浮かぶ。背後からは鋼がぶつかり合う音が聞こえ始めている。つまり、側近たちは命じた通り、流言に踊らされることなくリカードの手の者を止めてくれているらしい。
とはいえ矢の危険は依然としてある。なのでファルカスは馬を軽く走らせ元王女の眼前へと駆けた。
「陛下……! 私は、何も――」
「分かっている」
非常に珍しく恐れを露にした蒼白な面へ頷きながら、元王女を馬上に掬い上げる。軽いのも細いのも知っているから容易いものだ。
「何を……!?」
「落ち着け。暴れるな。黙れ。舌を噛むぞ」
手足をばたつかせてもがく娘と、突然増えた荷物を嫌がる愛馬を同時に宥める。馬は主の意を悟ってすぐに落ち着き、元王女の方も不安定な馬上にいるのに気づいたのか大人しく彼の腕の中に収まった。
それでも、強気な娘は口を動かすことは止めない。いつぞやの狩りの時のように、目をつり上げてファルカスを睨めあげてくる。
「これは、どういうことなのですか!?」
――リカードの犬どものことか? それとも抱き上げられたのが気に入らないのか?
どこまで状況を把握しているのか分かったものではない元王女に苦笑しつつ、ファルカスは声を張り上げた。
「不心得者が出たゆえ片付ける! そなたたちに手は出させない! 見苦しいところを見せるがしばし待て!」
それは、元王女というよりはミリアールトの者たちへ向けた宣言。イシュテン語を解する者も多いようだったからまあ通じたことだろう。
そして呆然として佇み、あるいは憤然と何事かを叫ぶ彼らに背を向けて、ファルカスは混乱する自軍へと向き直った。降伏したばかりの者たちに背を見せるのは不安ではあった。しかし、彼が対峙する方こそが敵なのだと、臣下たちに知らしめなければならない。
一瞥したところ、状況はあまり良くなかった。
軍の一部が列を乱して砦へ斬り込もうとしているのは予想通り。日和見のハルミンツ侯爵家の一派が攻守どちらにもつきかねて右往左往しているのも。だが、惑わされるなと命じた側近の中にも、攻める側についている者がいるのを見つけて舌打ちをする。
――一体何をやっている!
苛立ちに歯噛みする間に、怒号や鋭い剣戟の音を縫う叫びが、その理由を教えてくれる。
「陛下のために戦え! 忠誠を見せよ! 止める者も裏切り者と思え!」
乱戦には加わわらず、むしろその間をすり抜けて、所属を越えて兵を叱咤している男。その者こそ、リカードが送り込みファルカスが警戒していた男だった。王への危険を訴え、忠誠心を刺激する。それによって、彼の側近であるはずの者たちすらも惑わしているのだ。
――この俺を利用するとは!
怒りで血が燃え、ファルカスの眼前が赤く染まる。が、もちろんそれで戦局を見誤ることなどない。瞬時に全体を見渡し、敵味方を間違えている者、比較的近く――声が届くところに留まっている者を把握する。
「エルマーはステファンの元へ走れ。バルトーはオルバンの方へ。惑わされるなと言ってやれ。俺がどちらを向いているかよく見ろと。
ジュラはとどまれ。我が妻に決して傷を負わせるな」
「はっ!」
「え!?」
命を受けた者たちが次々と駆け出す中、元王女は抗議めいた声を上げた。が、それには構わずファルカスは更に檄を発する。
――側妃を望んでいたのだろう。ここで気張らねば全てがふいになるぞ。
「王が新たに妻を得たのだ。婚礼の場を汚す者を許すな! 不忠者には血でその罪をつぐなわせよ! 花嫁に武功を捧げよ! 我が妻とその父たちにイシュテンの勇を見せつけるのだ!」
主君の声に後押しされるように、命じた者たちは混乱の中へ斬り込んでいく。彼の言葉を繰り返しながら。
元王女を抱えた彼はこの場からは動きづらい。あとは側近たちに檄が届くのを待つしかない。
剣が槍が振るわれ、悲鳴が響く度に彼の臣下の命が散っていく。雪が血に染まっていく。同じ国の者同士が争うのは何度見ても怒りを覚えるが、必要なことだと信じる他ない。
――無血での解決など、土台無理な話だったな。
ちらりと元王女を見下ろしてみると、碧い瞳が彼を見つめていた。強ばった表情に浮かぶ感情は、恐れや不安よりも何かしらの覚悟と――憤りを、感じさせるものだった。