夜明け前 反逆者
東の山の端が漆黒から暗い青へと色を変えた。夜明けが近づいているのだ。北の果てのミリアールトの、長い長い冬の夜が、ついに明ける。そして夜明けと共に彼の運命も決まるのかもしれなかった。
もうすぐ――空の色が赤く染まり、太陽が地平から姿を見せれば、砦に籠った叛徒たちが答えを出す。あの金髪の小娘の言に乗って、元王女だったあの娘を王の側妃に差し出して生き長らえるか。あるいは最後まで戦うことを選ぶか。
――戦う方を選べば良いが。
重い心の裡は隠して、彼は麾下の者たちに装備を整えるように命じた。彼らは戦うことになると疑ってもいないようで、一様に明るい表情なのが苛立たしい。
「おお、やっと朝か」
「まったく、凍りつくかと思ったわ」
「すぐに溶けよう。酒と、女とで」
下卑た笑い声もまた、彼の神経を逆なでした。
王は、戦いになった場合の方針を既に全軍に示している。周辺の村々を襲うことで砦に籠った者たちを引きずり出すのだと。襲撃は当然のように略奪を伴うから、部下たちはミリアールトの肌の白い女や喉を灼くように強い酒のことしか頭にない。長く暗く寒い氷の国の夜は、確かに堪えるものではあったから。
「我らがこの地まで赴いたのは乱を収めるため。戦うため。奪い犯すのは二の次だということを忘れるな。決して気を抜くでない!」
高揚した気分に水を刺されて、部下たちがむっつりと口を噤んだ。しかし彼の檄に理は認めたのだろう、黙然と騎乗し、戦いの前の張り詰めた空気を作り出した。
それでもなお彼の気分は晴れない。部下たちが呑気に信じているように砦の者たちがあくまで戦いを選べば良い。しかし、万が一にもあの女が説得に成功し、降伏してくるようなら――
彼は、反逆者にならなければならない。
彼はミリアールトへ発つ前にティゼンハロム侯爵邸に招かれた際のことを思い出していた。
北の果てへ戦いに赴く一族の者を激励するため、ということになっていたが、それを額面通りに受け取るほど彼は愚かではなかった。
ティゼンハロム侯爵リカードは、今回は王都の守りを命じられて遠征には同行しない。ならば王の独断を――君主に対して不遜極まりない言い様だが、リカードはそう考えているだろう――抑える駒が必要で、彼はそのために選ばれたに違いないのだ。
『王の若さには困ったものだ』
形ばかり出された酒肴に手をつける間も許さず、リカードは口を開いた。彼としても味わう気にはなれなかったからちょうど良かったかもしれないが。
『功を焦って立場が見えていないように見える。ミリアールトを得たところで臣下を離反させては意味がないというのに』
老侯爵の声は、表面上は穏やかだった。しかしそこに潜む怒りと――脅しははっきりと聞き取れたので、彼は答えの言葉は慎重に選んだ。リカードの意思と主家の状況を理解していると、示さなければならない。
『若者は傲慢なもの。全て思いのままになると信じ込みたがるものではありますが、いささか危うくもあると存じます。であればこそ年長者の――閣下のご指導を必要とされているのでしょう』
とはいえ王が今回の件をどのように認識しているか、また、リカードはどうなのか。彼としてもまだ測りかねていた。だから追従を述べたくてもごく当たり障りのない表現にとどまってしまう。
王は単に美しい人質に色気を出したようにも見えるが、そう見せかけているだけかもしれない。彼が見る限り、王は先王ほど女色に興味を示す質ではないようだ。むしろ、年齢と出自の割には意外なほどに辛抱強く、自らの足場を固めようとしている。だからこそ、リカードは苛立っているのだろうが。
あの金髪の元王女の言葉が現実のものとなれば、王は名実ともにミリアールトを従え、王妃以外にもうひとり妻を得ることになる。王妃よりも若く――美しさはさて置いて――高貴な血筋の側妃。仮にそうなったとしても、ティゼンハロム侯爵家の力は依然として無視しがたいものではあるが、リカードの影響力は確実に衰え、王の力は強くなる。王女に婿を取らせてティゼンハロムが王家を乗っ取るという老侯爵の野望が潰える可能性も高くなる。
王はティゼンハロム侯爵家と決別する覚悟があるのかどうか。リカードはどこまで王の力を抑えるつもりなのか。
――まだ弑逆までは考えていないだろうが……。
不審な死に方をした王の逸話を幾つか思い浮かべて、彼はそっと唾を呑んだ。先日死んだ寡妃太后が手にかけたのは女子供ばかりだったらしいが、イシュテンの歴史では王妃が――つまりは、その実家が――王を裏切ることもないではなかった。もちろんそうとはっきり記録に残される訳ではないが、暗殺者が都合良く寝所で休む王のもとまでたどり着けたり、戦場で背中に受けた傷がもとで死んだ王がいたりといった逸話を見ればそういうことだと納得できる。
今回は、彼が主君を背後から討つ役目を命じられるのではないか。
そう思うと、戦場で怯んだことのない彼であってもさすがに背を汗が伝うのが分かった。
『婿殿は年々扱いづらくなっていく。若く意気盛んなのは良いことだが、それが自身の寿命を縮めることになると気付いていない。あるいは、信じようとしていないのか』
彼の顔色に気づいていないはずはないだろうに、リカードはあくまで穏やかに続けた。どう続けるのか、何を命じられるのかと、彼としては梟の爪に押さえつけられる鼠のような心地がしているというのに。
『今の陛下があるのは全て閣下のお力添えゆえ。陛下とてもそれをお忘れにはなりますまい』
『無論。仮に忘れているとしても思い出してもらうことになるだろう』
――どのようにして?
心中の疑問を口に出すことはできなかったので、彼は間を繋ぐために酒杯を口に運び、次いで追従を重ねた。
『そのために――侯爵家の御為には微力を尽くす所存でございます』
『当然だ』
リカードは獲物を狙う猛禽の目つきで嗤うと頷いた。彼が逆らうことは決してないと、この男も十分に承知しているのだ。
彼は、ティゼンハロム侯に借りというか負い目がある。
先の狩りの一件とは関係ない。彼の息子もあの場にいたが、幸いにして元王女を追い回す趣味の悪い遊びには加わらない賢明さを見せてくれた。不始末をしでかしたのは、彼の娘の方だった。
王妃と王女に仕える侍女として王宮に召されていた娘は、王女から目を離した隙にミリアールトの元王女のもとへ迷い込ませるという失態を犯したという。娘が王宮から追われたことに加えて、彼もリカードに厭味を言われた。孫娘に万一のことがあったらどうしてくれた、と。
彼としては言いがかりをつけられたような理不尽な気分だったが。
それで実際王女が怪我をしたならまだしも、無傷だったという。何より、王の子とはいえどうして女をそこまで大切にしなければならないのか。
リカードが娘や孫を可愛がることは時に度を外れているようにも見える。侯爵家の権勢を増したいのなら、王妃ひとりに任せておかずに一族の娘を側妃として献じれば良いのに、それは頑としてしないのだから。あの強情な王が素直に押し付けられた側妃を受け取るかという問題はまた別にあるが、とにかくリカードは娘にも孫にも甘い。
『――何をすれば、良いのでしょうか』
だが、彼がそうと口にすることはできるはずがない。愚かなイルレシュ伯の例からも分かるように、子の不始末は親のそれと同義なのだから。彼は娘の尻拭いをしなければならないのだ。既に屋敷から追い出した娘を思い出して怒りが沸き立ち――難題を予感して瞬時に冷める。
――子供の守りの失敗に、主君殺しをさせられたのでは割に合わない……。
彼の恐れも不安も十分に読み取っているのだろう。リカードの唇は楽しそうに弧を描いた。
『大したことではない』
無論その笑顔で彼が安堵することなどなかったが、それもよく計算しつくされているのだろう。この老人は、他人をいたぶるのが好きなのだ。
『ハルミンツの手の者どもも、若造どもも頼りにならぬ。我が一族こそが真の臣下であり王を守る者なのだと思い知ってもらうのだ』
『ハルミンツ侯爵の一族が陛下のお命を狙うと……?』
相手が王ではなくハルミンツ侯爵の一派ならば、彼としても否やはない。元々不仲な相手だし、王になれない不具の王子しか擁していないくせにこちらにおもねることもしないのが、未練たらしく鬱陶しい。
彼は今の王が割と好きなのだ。リカードが言うように扱いづらいのも傲慢なのも承知の上で、少なくとも戦馬の神の騎手、イシュテンの王たる気質は備えている。先王のように大貴族の調整に汲々とする王よりは、よほど好感が持てるというものだ。
これがまともに歩くことさえできないティグリスや無邪気なだけの王女だと話が違う。いくら王族とはいえあのようにひ弱で無力な者たちを、主君として仰ぎたいとは思わない。
『あの不忠者どもに限らぬ。叛徒どもにも、あの売女にも。決して王に傷を負わせるようなことを許してはならない』
『それは、もちろん……』
身構えていたのを裏切るように、あまりにも当たり前のことを言うので彼は少々拍子抜けした。一方で、張り詰めた心に安堵が広がる。
やはりリカードはまだ王と本格的に決裂する気はないようだ。考えてみれば当然のこと、元王女が側妃になることさえなければこれまでと何も変わらない。リカードの娘が王の唯一の妻として王妃の座にあり、いずれは王子も生まれるかもしれない。もしそうならなかったとしても、王女が男児を産むまでは王には健在であってもらった方が何かと都合が良い。たとえ赤子でも王家の直系の男児さえ確保すればリカードが――ティゼンハロム侯爵家に連なる家々が権力を保持するのは難しくない。
リカードも、そのように計算しているのだろう。単に戦えという命令ならば是非もない。彼は従順に答えた。
『必ず、陛下をお守り申し上げます』
『いかなる者からも、だぞ。敵は戦場だけに現れるものとは限らぬ。味方の振りをする場合もあるかもしれぬ』
『心得ております』
ハルミンツ侯爵の傘下の者たちを指していると思ったので、彼は力強く頷いた。しかし、老侯爵は満足したように見えなかった。
『いいやまだ分かっておらぬ。そなたは多少は世のことを知っているだろう? 正面から戦うだけの王とは違う。汚い手段を使う者どももいることを、これまで見聞きしてきたのではないか?』
『汚い手……?』
彼は唐突にリカードが言わんとしていることを理解した。
確かに彼は先王の時代に初陣を飾り、十年前の王位継承争いを生き抜き、その後も何度となく内乱の鎮圧に参加してきた。そして苦汁を舐めさせられたことも一度や二度ではない。奇襲や伏兵ならば戦術のうちだろうし、誤った情報を掴まされた場合などは彼自身の愚かさも悔いるべきだ。しかし裏切りは分けても卑劣なものだ。単に陣営を変えたというだけでも――イシュテンではよくあることとは言え――決して忘れることのない禍根になるが、特に許しがたいのは――
『例えば、降伏したフリをして王を討たんとする者など――』
『そなたならば殊勝げな姿に惑わされたりはすまいな? 慈悲を乞う真似事をしながら陰では凶刃を研ぐなどと。王には見破れなくとも、そなたが看破しなければならぬ』
そうだ、彼も先に考えた通り、元王女を側妃にする事態を防げばそれで良いのだ。
ミリアールトの者たちはあくまで逆らわなければならない。元王女は反乱の咎を一身に負って死ななければならない。万が一にも降伏などさせてはならないのだ。
小娘の説得とやらを受け入れて叛徒どもが王に跪くなど、そもそも考えづらいことではある。しかし、閥を率いる長として、リカードはどんな小さな穴も見逃せないということだろう。そしてその穴を塞ぐ役目を、彼はたった今命じられたのだ。
『そのような卑劣な所業、決して許せるものではございませぬ』
彼は腹を括った。降伏を申し出た者を、助けると約した言葉を違えて討ち取るなど、それこそ唾棄すべき卑劣な所業ではある。しかし、一族の繁栄のためにはやらなくてはならない。
『何が起きようと――叛徒どもを一人残らず討ち取ってご覧にいれましょう。もちろん、金髪の小娘も同様に』
そこまで言って初めて、リカードは満足そうに頷いたのだった。
装備を整え騎乗してなお、彼の心は戦いの前の心地良い緊張とはほど遠い。重い息を吐き出すと、まだ青い闇に細かい氷の靄が白く浮かび彼の髭を凍らせた。何も知らず疑わず、敵を屠り手柄を立て、酒と女を得ることしか考えていないであろう部下たちが羨ましくてならなかった。
大方の予想通りに、戦いになれば良い。彼とても王の遊び仲間の若造どもや、腰抜けのハルミンツ家の者どもには決して遅れを取る気はない。心置きなく剣や槍を振るい、王に彼の存在を認めさせてやろう。
だが、どうしても万が一のことを考えてしまうのだ。
仮に砦の者たちが降伏すれば。臣従を受け入れる王の隙を突いて彼らを攻撃しなければならない。他の者たちも神経を張り詰めて見守る中のこと、上手く乱戦になってくれれば良いが、側近に対する王の統率力は侮れない。混乱に至らず事が収まる前に、少なくとも元王女だけは殺しておかなければならない。
和睦が成りかけたところを飛び出して血を流させたとなれば、勘違いでした、では話は済まないだろう。死に相当する失態と見なされるか、悪くすると王の意図を妨げた反逆罪にも問われかねない。
彼はそっと前方を――砦の方を窺った。まだ辺りは明るくなりきってはおらず、色を変え始めた空を背景に黒い影としてそびえている。そして砦に通じる通路――今は跳ね橋が上げられていて、暗く横たわる堀が彼我を分かっている――の前には王が側近を引き連れて陣取っている。
『前に出られるのは危険です。叛徒どもと対峙するのは我らに――』
『俺が遅れを取ると思うのか。いらぬ世話だ』
彼の進言に王が耳を貸すことはなかった。王の青灰の目は冷え冷えとしていて、若者らしい思い上がりや油断とは無縁だった。むしろ睨みつけるような目つきに、彼を全く信じていないのだと思い知らされた。
王は最前線に立ち、砦からの使者を自身で迎える意図を示した。更には周囲を側近で固めて、彼やハルミンツ家の手勢には近寄るなとでも言いたげだ。ハルミンツ家の者たちは犠牲が少なくて済みそうだとあからさまに緩んだ顔をしていて、それもまた彼には腹立たしい。
次第に空の色が朝焼けに染まり、石を組み上げた砦の城壁が見て取れるようになっていく中、彼は部下に前進を命じた。王は控えよと命じていたが、叛徒たちが降伏するのか否か、彼は誰よりも早く見極めなければならない。
彼と――そして全軍が見守る視線の先で、跳ね橋がゆっくりと下ろされた。低くざわめきが起きる陰で、彼は誰にも聞かれないように呻いた。
――腰抜けどもが。小娘の口車に乗ったのか!
抗戦を選んだというならば、わざわざ使者を立てるまでもない。侵入される危険を冒して跳ね橋を下ろす必要も。宣戦布告なら、城壁の上からあの生意気なアンドラーシの首を投げ返せば良いだけのこと。
彼はいよいよ反逆者にならなければいけないらしい。
砦の中から人の列が現れる。折りよく山の端から現れた太陽の、その最初の光を浴びた先頭の者の髪は――煌く金。目を射るほどの輝きは、元王女のあの金の髪に違いない。砦の者たちにとって誰よりも守るべき存在を前に立たせているのだ。これは、戦おうとしている者たちのすることではない。
元王女の姿を認めてどよめく周囲を他所に、彼は短く命じた。
「弓を持て」
「は?」
「早くせよ!」
王の命に背くことになるのも、降伏しようとする者を討つのも彼の望むところではない。しかしリカードに見捨てられれば、それもまた彼の死を意味する。元王女の命を奪った上で言い逃れるしか彼には道がないのだ。
――手が出せぬならば、道を作る! 若造どもも巻き込んでやる!
従者からひったくるように弓を受け取り、彼は思い切り弦を引き絞った。王を傷つけることはしてはならないから、狙いはつけない。つけられる距離でもない。ただ、ほとんど宙に向けて射つように。弧を描いて飛んだ矢が、ちょうど跳ね橋を渡って王に近づいていくミリアールトの者たちの間に落ちるように。できれば元王女に当たって欲しいがそれはさすがに望めないだろう。
ひゅう、と。
矢が風を切る音は集った人馬の間によく通った。攻撃かと身構える者、射手を探して首を巡らせる者。周囲の幾らかの人間の注意を引きつけたのを見計らって、彼は大きく息を吸った。
「その娘、怪しい動きをした! これは罠だ!」
彼の叫びは矢よりも早く鋭く陣内を切り裂いた。より多くの人間の注目を浴びて、彼は内心でほくそ笑む。
砦に直に対する場所にいるのは、王への忠誠心が一際篤く、王に心酔する者たちばかり。王の危機だと吹き込めば、ミリアールトの者たちへの敵意を煽るのはたやすいはずだ。
忠義者を装って、彼は馬腹を蹴ると馬を駆けさせた――前方へ、元王女らを踏みにじるべく。同時に、剣を掲げて再び叫ぶ。
「我に続け! 叩き潰せ! 陛下に傷をつけさせるな!」
彼の勢いを前に、道が開かれた。部下も後に続いている。更に、そこここで剣を抜く音も聞こえる。若者たちは思った通りに檄に乗ってくれたらしい。
――行けるか!?
馬上の彼に、凍てつく風が刃のように吹き付ける。肌に痛みを感じるほどの寒さの中、しかし、彼の背は汗に濡れていた。
この人の娘は2章「牽制」にてエルジェーベトに引っぱたかれてた侍女です。