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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
9. 冬の嵐
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復讐の誓い シャスティエ

 ――同盟の証として、私はイシュテン王の側妃になります。


 シャスティエが告げた瞬間、広間は怒声と悲鳴に揺れた。

 激しい嵐のようなその混乱を、シャスティエは半眼を閉じてやり過ごす。嘆きも憤りも。諫言も懇願も。イリーナから既に一通り聞かされている。男の低い大声だとほんの少し──ほんの少しだけ、恐ろしいというだけのこと。今更彼女の気が変わることなどあり得ない。


 女王が表情を変えず、しかも沈黙を続けているのに気づいたのか、臣下たちもやがて鎮まった。何を訴えても答えがないのは、多分とても不安で恐ろしいことだ。その感情の揺れもまた、彼女が計算していることだった。

 その場の者たちの注目を十分に引きつけたことを確信してから、シャスティエは悠然とした微笑みを作った。多分。迷いや恐れなど微塵も抱いていないと見せかけることができるように。


「皆さまのお気持ちはよく分かります」


 本当はまともに聞き取れたことなどほとんどなかったが。だが、誰もが顔色を変えて彼女に詰め寄ったことだけで、衷心を確かめるのには十分だった。


「私を守ろうとしてくれていることも嬉しく思います。ですが――」


 先にですが、と言った時は、臣下たちを叱りつけ、意気を挫くためだった。今は違う。彼らの思いを認めた上で、彼女の決意と覚悟を見せるためだ。そして、手を差し伸べていると見えるように。


「私はもう守られるだけでは嫌なのです。

 皆さまを戦場へ見送った時、戦うことの出来ない女の身が歯がゆくてなりませんでした。父と兄の訃報を聞いた時は、この首で民の命を贖うことこそ女王の役目と考えました。けれどそれさえ叔父と従兄たちに代わってもらってしまったのです。次は民と皆さまの忍従と引き換えに生きながらえろと言うのでしょうか。それとも皆さまの犠牲を見過ごしてひとり逃げろと言うのでしょうか。

 今度こそ、私にも戦わせて欲しいのです!」


 静まり返った広間に、シャスティエの高く澄んだ声はよく響いた。突き刺さる視線にも怯まず真っ直ぐにひとりひとりの目を見返し、女王の覇気と威厳で圧倒する。

 とはいえ、これで済むはずもない。彼女のために戦うことを選んだ者たちが、彼女の身を危険に晒すことを容易く了承するはずがないのだ。


「――生きながらえてしまったのは我らも同じ。女王を差し出して慈悲を乞う屈辱にも、どうかお心を向けていただきたい!」


 ある者が懇願するように、あるいは脅すように叫んだことも、彼女の予想のうちだった。だからシャスティエは笑みを絶やさずに答える。


「私は戦うと言いました。ただ敵に跪いて誇りを捨てようというのではありません」


 疑問に答える形をとるうちは、彼女の言葉が遮られることもないだろう。判じ物めいた物言いを続ければ続けるだけ、シャスティエは自身の考えを伝えることができるはず。


「この数ヶ月、私はイシュテンで過ごし、かの国の倣いについて多少は学びました。書物で学んだ方もいらっしゃるでしょうが、実際に暮らさなければ分からないこともあります。例えば、イシュテンでは側妃も王の正式な妻に数えるのだとは、どれだけの方がご存知ですか? 側妃の産んだ王子にも継承権があることは?」


 男たちを見渡せば、知っている者も知らなかった者もいるようだった。いずれにせよ、彼らの目はだからどうしたと言いたげだった。シャスティエも同じように考えていたが、妻の()()()という表現自体がどうしようもなくいかがわしく屈辱的なのだ。

 だが、続けて述べるのは、シャスティエしか知らないであろうこと。イシュテンで過ごさなければ知ることができなかったこと。


「イシュテン王には王子がいません。王妃との間にもうけたのは幼い王女がただひとり。王には異母弟がいますが不具であるために猛き戦馬の神の騎手たることはできません。そもそも王とは対立する家に属していますし。ですから今のイシュテンには王位を継げる者がいないのです」


 ミーナ、マリカ、そしてティグリス。イシュテンで関わりのあった者たちを軽んじるような物言いは、シャスティエとしても心が痛む。しかもこれは前提に過ぎない。彼女がこれからしようとしているのは、彼ら彼女らにはっきりと敵対することだ。


 ――これも全てミリアールトのため……!


 民なのか、土地なのか、国の名なのか。ミリアールトが何を指すのか、シャスティエにも分からなかったけれど。ただ、今戦うことを選んでも全てを失うことになるのは分かる。ならば、少しでも――誇りなのか意地なのか――何かを残す道を考える方が良い。それが祖国を祖国たらしめるものの、ほんの一部に過ぎないとしても。


「翻ってミリアールトの法を思い出してください。私が王であるように、女にも継承権が与えられています。そして私の子にも、生まれながらにミリアールトの王たる資格があるはずです」


 彼女の言葉に聞き入る者たちの表情に、理解の色が浮かぶのを見てシャスティエは笑みを深めた。


「――イシュテン王は、私に王子が生まれたらその子に王位を与えると約束してくれました」


 そしてそのために彼女は何をしなければならないかに気付かれる前に息を継ぐ。


「イシュテン王は生涯戦い続けるでしょう。ミリアールトを屠ったように、また他の国を滅ぼすことさえあるかもしれません」


 そうでなくてもイシュテン王の基盤はまだ弱い。少なくとも権力を完全に手中に収めるためには、国内の大貴族たちといずれ対決することだろう。


「獣は好きなだけ争えば良いのです。思うまま血を流して国土を広げて富を築けば良いのです。そうしてイシュテンが命を削って得たものを、私の子が受け継ぎます。例え国としては滅びても、その名を失ったとしても。ミリアールトは一滴の血も流さずに全てを受け継いだ王を得ます。敵の戦果を、そうと悟らせずに盗むことこそが私の復讐です」


 血と争いと復讐を語りながら、シャスティエは臣下へ優しく両手を差し伸べた。我が子を抱く母親のように。


「私にも戦わせてください。剣を取っての戦いではありませんけれど、血を流させてください。ただし戦場で流れる血ではありません。産褥の床で我が子のために――ミリアールトの次代の王のために流す血です。それ以外の血はもう流れることがないように」


 誰も何も言わなかったので、シャスティエはもう一度繰り返した。


「私に、復讐を遂げさせてください」


 声が震えたりはしていないはずだった。けれど臣下たちの沈黙はやはり恐ろしい。彼女の覚悟を理解してくれたか、理解したとして、賛同してくれるのか。広間に集った者たちの顔には、いまだ疑念と不安の色が濃い。


「ですが――」


 代表するようにしわがれた声で空気を震わせたのは、グニェーフ伯だった。反乱を率いる者で、シャスティエを幼い頃から知る老臣だから当然だろう。


「何でしょうか、グニェーフ伯?」


 逆に言えば、彼の反論を破ることができたなら、彼女は恐らく勝つことができるだろう。緊張を見せないように余裕を装って、シャスティエは反問した。


「この先イシュテン王妃に王子が生まれたらどうなりますか!? シャスティエ様も御子も、危険に曝されるのではありませんか!? 否、それよりも――そもそも、王子が授かるかどうかも定かではない!」


 勢い込んで言った後に、シャスティエが祖父のように慕う老人は目を伏せて言い淀んだ。


「そうなれば……シャスティエ様は、無駄に……」


 ――無駄に、何だと言うのかしら?


 シャスティエは苦笑に口元をほころばせた。無駄な犠牲と言いたいのか。無駄に弄ばれると言いたいのか。


「その可能性はありますね」

「ならば!」

「では、このまま逆らってイシュテンに勝利する――あるいはせめて退ける見込みはどれほどありますか? 無に等しいのではありませんか? それよりは余程成算のある賭けだと思いますけれど」

「女王の身命を賭けるなど――」

「生まれるかどうかも分からない王子に全てを賭けようなどとは思っておりません。私には、もうひとつ手札があります」

「手札……?」


 不審げな呟きに、シャスティエは意味ありげに間を持たせた。今こそ王から強請りとった条件を見せる時だろう。吃ったり早口になったりすることなどないように、息を大きく吸って逸る鼓動を落ち着かせる。


「皆さまがご存知ないかもしれないイシュテンの悪習をもう一つお教えしましょう。婚家名というものです。結婚する時、夫は妻に新しく名前を授けて名実ともに我が物とするのです。私も、王の側妃になったなら父母から授かった幸福(シャスティエ)という名を使うことはできなくなりますね」


 怒りと嘆きの呻きを、シャスティエは敢えて無視した。


「イシュテンの名を与えられるのならば屈辱ですが、そうはなりません。イシュテン王はここでも私に譲ってミリアールトの名を自分で選ぶことを許してくれました。……その意味も知らないで」


 言いながら浮かべたのは嘲笑だ。イシュテンで過ごすうちに得意になってしまった。その理由は、グニェーフ伯らにはまだ分からないだろうが。


「我らは貴女様には御名の通りに幸せになっていただきたいのです。ミリアールト語の名を許されたとしても、イシュテン王の妻としてなど――」

「そうですか? イシュテン王は、見た目は優れていますよ? そして王妃や王女を大切にしているようです。夫としては悪くない相手だと思います」


 グニェーフ伯が身を乗り出して訴えるのに対して、シャスティエはわざとらしいほど無邪気に笑った。もちろん、あの男を夫にするなど考えるだけで虫唾が走るし、ミーナやマリカと同等に扱われることを期待している訳でもない。ただ、少しでも何でもないことのように聞こえれば良いと思っただけだ。


「あの懐かしい王宮でイシュテン王と対峙して以来、私が祈りのように繰り返してきた言葉があります」


 顔を顰めて言葉を探している様子のグニェーフ伯を置いて、シャスティエは声を高めた。ことさらにゆっくりと、ひと言ひと言を言い聞かせるように。


私は(ヤー・)復讐を(クリャースタ)誓う(・メーシェ)。時に心の中で。時にイリーナだけに聞こえるように。いずれ父や兄や叔父たちの――祖国の仇を討つのだという誓いが私を支えてくれたのです」


 叔父たちの死に顔が目蓋に浮かんで、胸が締め付けられるように痛む。悲しみと怒りが喉を塞ぎ舌を凍らせる。だが、それには構わずシャスティエは無理に唇に弧を描かせた。


「恐らく皆さまもご存知でしょうが、イシュテンの者は他国の文化を学ぼうという意欲に薄いのです。ミリアールト語を解する者はあの国にはおりません。側妃として私がどのような名を選んでも、その意味が分かるのはミリアールトの者だけです。

 ――クリャースタ(復讐を)メーシェ(誓う)。意味を知らなければ、名前のように響くのではないでしょうか」


 どよめきが起きかけるのを手で制して、続ける。目にも声にも力を込めて、彼女の決意が伝わるように。


「私は復讐を名乗ります。たとえ王子をもうけることができなくても、ミリアールトの女王は敵に屈服したのではなく、復讐の意思を持ち続けたのだと歴史に刻んで見せましょう。後世の者の希望となるように。ミリアールトの民が誇りを忘れることのないように。夫たるイシュテン王が、臣下が――私の子が、私の名を呼ぶ時はいつでも復讐の思いを新たにしてくれるように」


 臣下たちは一言も発しなかった。しかしそれは抵抗や反対を示すものではない。復讐を遂げるという希望はかくも甘美なもの。彼らの目には女王への畏敬の念が、王家の血を繋ぎ復讐を果たすことへの期待が宿っている。説得がほぼ成功したのを見てとって、シャスティエは心からの笑みを浮かべた。


「私の復讐を、遂げさせてくれますね?」




 シャスティエから言うべきことは全て言ったので、後は臣下たちの決断を待つことになった。

 グニェーフ伯はシャスティエを砦の一室へ案内した。ここも寒々しい石の部屋で、調度も粗末なものだったので老臣は申し訳なさそうだったが――貴人の、それも女の滞在など想定していないだろうから彼の咎ではないと思う。それに、今夜は眠ることなどできそうにない。


「主だった者で意見をまとめます。このような場所ではございますが、しばらくお待ちくださいますよう」

「あまり時間はあげられません。イシュテン王は回答の期限を明日の夜明けまでと定めました」

「……それまでには、必ず」


 年老いた武人はまだ何か言いたげにしていた。彼がかつて甘やかしてくれた幼い王女なら、無邪気な笑顔でまとわりついて老人の懸念を吐き出させようとしていただろう。しかし、今、女王としてのシャスティエは臣下との間に壁を築いて寄せ付けようとしなかった。もう彼女は子供ではない。守られるだけの存在ではない。説得に応じる余地があるなどとは思わせてはならなかった。

 だから彼女はただ冷たく告げた。


「皆さまが私を信じて復讐を託してくださるのを期待しています」


 グニェーフ伯は諦めたように目を伏せ、彼女の前に跪いた。


「陛下のご期待に添えるよう――この老身も尽力いたします」

「ありがとうございます」


 ――誰が反対しようとも、小父様だけでも私の側についてくださるのね。


 希望が見えてシャスティエの胸に光が射す。けれどもちろん喜色を露にすることはできないので、口に出すのはよそよそしい謝辞に止めた。




 グニェーフ伯が去ると、シャスティエは冷たい石の床に跪き、ひとり祈り続けた。臣下たちが彼女の望みを叶えてくれるように。非力な女に許された唯一の戦う術を認めてくれるように。

 砦の外には雪が降り積もっている。比較的イシュテンに近い南部の地ではあるけれど、空を見上げたら極光は見えるだろうか。雪の(コロレファ)女王(・シュネガ)はすぐ傍にいる筈だった。シャスティエはかの女神の娘を自称したけれど、その高慢は罰せられるだろうか。それとも女神はまだシャスティエを導いてくれるだろうか。


 ――罰せられるとしても、せめて復讐を遂げさせてください。あるいは、イシュテンも共に滅ぼしてください。


 ミリアールトの冬の、長い長い夜を徹して、シャスティエは祈った。眠ることなど思いもよらない。

 広間ではグニェーフ伯が他の者たちを説き伏せていてくれることだろう。塔の上ではアンドラーシたちも夜明けを――彼らの答えを待っている筈。そして雪原に野営するイシュテン軍の中心では、王が臣下たちを抑えている。頼りきっていることなどあり得ないだろうが、ともかくもシャスティエの申し出に待つ価値を認めてあてにしていると言ってくれた。


 生きるか、死ぬか。戦いか、共に結ぶ未来か。多くの者の行く末が懸かった一夜だ。既に言葉を尽くした以上は、シャスティエには祈って待つことしかできなかった。




 それでもやがて夜は明けた。

 堅牢な砦のこと、シャスティエが籠った部屋の壁に切られた窓もごく細いものだったが、そこから曙光が染みて部屋を仄かに照らし始める。その時になって、扉を叩く音がした。


「どうぞ。起きています」


 シャスティエは跪いた祈りの体勢から立ち上がった。全身が凝り固まって軋むようだったが、どうにか直立して臣下を迎える。


「陛下――」


 入室したのは、先頭のグニェーフ伯を始めとした三人の男たち。砦に集った者の中から地位も高く人望も篤い者を上から選んだと分かる。

 彼らの表情を見て、シャスティエは勝ったことを知った。


「決まりましたか」


 確かめるために声を掛けると、臣下たちは一斉に彼女の前に跪いた。


「復讐の君よ、我らは貴女に従います」

「貴女の復讐を見届けるため、イシュテンの獣に従う屈辱さえ忍びましょう」

「ですが決してお一人とは思し召しくださいますな。御身の危機となれば、ミリアールトは何度でも立ち上がります」


 ――ああ……。


 涙が溢れそうになるのを、シャスティエは必死に堪えた。これほどの忠誠。これほどの期待。嬉しくない筈がない。けれどこれは最初の一歩に過ぎないのだ。彼女の復讐は、まだ始まってさえいない。


「――皆さまのご覚悟を大変嬉しく思います」


 それでも、答える声は流石に少々震えたが。


「イシュテン王の元に参りましょう。きっと待ちかねているでしょうから」


 本当に言葉だけで反乱を鎮めたのを見せつけたら、王は驚くだろうか。単に喜ばせるだけだろうか。復讐のためとはいえあの男を勝ち誇らせるのは業腹だ。だが、少なくとも他のイシュテン人たちは目を剥くだろう。

 位も様々な貴族や戦士たち。騎馬を持たない従者に至るまで。一様に呆ける様を見ることができたなら、さぞや愉快な気分がするはずだ。


 夜明けの光は彼女の笑顔を輝かせているだろう。

2015/11/21加筆しました。

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