女王の帰還 アレクサンドル
イシュテンとの国境にあたる山脈。今の季節は雪で白く染まったその山の端に、染みのように黒い線が見えた。イシュテンの軍勢の先遣部隊だろう。
「来たか――」
「は」
グニェーフ伯爵アレクサンドルは要塞の城壁からその黒い染みを臨むと呟いた。何が、とは言うまでもないので副官の答えはごく短い。当然来るはずのものが来ただけのこと、本来は言葉を発する必要さえなかったのだ。ただ――
「早かったな」
「……は。今少し時間が欲しいところではありましたが」
アレクサンドルのふた言目には、やや悔しげな述懐が返ってきた。
ミリアールトの総督を名乗っていた下衆の首をイシュテンに返してから、まだふた月も経っていない。首を委ねた使者は全力で馬を駆けさせただろうし、軍の移動はいくら急がせても速度に限りがある。ゆえに予想よりも早いと感じるのは、イシュテン王がそれだけ迅速に対応を決して軍を編成したからということになる。
「さすがに素早いことだ……」
昨年の侵攻の際も、イシュテン軍は早かった。急襲を伝える狼煙を追うような勢いで、弓から放たれた矢のごとくに一心に王都を、王の首を狙ったのだ。王都の者たちは略奪の被害を受ける国境周辺を救援するつもりだったのだろうが、イシュテン王は始めからミリアールトを滅ぼすつもりで兵を起こしたのだろう。
とはいえアレクサンドルには彼らの読み違いを咎めることはできない。イシュテンの目的といえば百年前から財貨や糧食、女の略奪と決まっている。せいぜいが国境付近の領地を幾らか、といったところだった。国の全てが狙われているなど、気付くのが遅れたのも無理がない。
「櫓の建設が間に合ったのは幸いでございました」
「うむ」
このふた月弱の間に、アレクサンドルはイシュテン軍を迎え撃つ準備を進めていた。
まずは籠城先としてこのシヴァーリン要塞を選んだ。先の侵攻で、イシュテン軍は途上の都市や砦には一切興味を示さず、ひたすら王都へ切り込んでいった。ゆえにこの要塞は無傷で残されていたのだ。イシュテンの騎馬を寄せ付けない、堀と城壁を備えているのも好都合だった。
次いで周辺の都市から糧食を供出させ、畜舎を牛や豚や鶏で満たした。ミリアールトの厳しい冬の最中のことではあったが、どの都市もよく協力してくれた。
仕上げは副官も言及した櫓の建設だ。城壁の上部に、兵が矢を放ち敵に石や熱した油を投じるための足場を築き、更に敵からの攻撃を防ぐ屋根を備える。城壁の内側には、足場へと続く階段と通路を建設する。守備側の手数を増やすと同時に、敵が攻城兵器を持ち出した際に城壁が直に攻撃されるまでの――ささやかではあるが――緩衝になるはずだった。
これもまた厳寒のなかでの資材の確保と建設作業は難事ではあった。だが、侵略者への敵意に燃える彼らは敵の到着に先んじることができたのだ。
「まあ、これ以上遅れては春になる。馬どもの脚を妨げる雪がなくなるのは我らに不利となろう」
「は」
アレクサンドルは踵を返すと黒い染みに背を向けた。どうせ数日のうちに染みは広がり、この要塞を取り囲む戦馬の群れとなるだろう。具体的な対策を練るのは、敵の規模や装備、攻城兵器の有無などを見てからで良い。
それよりも今なすべきは内の備えだ。兵たちの士気は高いとはいえ、装備の手入れに矢の割り当てなどやるべきことは幾らでもある。
「閣下――」
ほとんど梯子に近い急な階段を降りようとするアレクサンドルに、躊躇いがちな声が掛けられた。
「シャスティエ様は、お戻りになるでしょうか」
その言葉にアレクサンドルは息を呑み、ゆっくりと吐いた。振り向くまでの一瞬で、高まった鼓動を必死に鎮める。
「獣どもの考えることなど推し量ることはできぬ」
そして副官と相対した時には、彼の声も表情も平静を装えていたはずだった。彼は年齢だけは無駄に重ねているから、息子よりも歳若い副官には内心の不安を悟られることなどない筈だった。
「……ですが」
副官は彼の答えに納得できなかったようだが、同時に反駁の言葉も見つからないようだった。逆接の詞をひと言述べたまま、眉を寄せている。その肩をアレクサンドルは激励の意味を込めて軽く叩いた。
「いつからイシュテンの獣の慈悲に期待している? 奴らがあの方をどのように扱おうと、必ず取り戻す。我らはそのために立ったのではないのか」
彼も副官も、あえて本当の不安は口にしていない。
シャスティエが――ミリアールトの、彼らの女王が彼らの元に戻ることがあったとして、どのような姿で戻るのか、ということを。
イシュテン王に女王の返還を求めたものの、敗残の者の望みが容易く叶えられるなどとは誰も考えていない。むしろ、怒ったイシュテン王は女王の首を刎ねることを躊躇いはしないだろう。
アレクサンドルたちは、ほぼ確実に彼らの主君の命を奪うことになると承知の上で乱を起こしたのだ。陵辱され異国の地で嬲りものにされ続けるよりは、故郷で父や兄たちと共に安らかに眠らせて差し上げたい。仮にイシュテン王が女王を既に殺め、遺体を晒して彼らの戦意を削ごうというなら、首だけでも髪の一筋だけでも取り戻すまで命を懸けて挑み続ける。
副官を始め、要塞に集った者は皆、そう覚悟している筈だった。だが、この男は不安になったのだろう。主君の命運を臣下が定めたことの、あまりの罪深さのゆえに。だから、嘘でも良いから無事に戻るという言葉を期待したのかもしれない。
だが、戦いの前にそのような甘さを許すことはできない。そう、視線で告げると、副官もやっと頷いた。
「……仰る通りです」
「ならば戦うまでだ。奴らの到着は近い。抜かりなく備えを行おうではないか」
「は」
今度こそ、副官の答えは簡潔で断固としたものだった。彼が決意を新たにしたようなのを見てとって、アレクサンドルは満足した。そして改めて階段で壁下へと向かう。
狭い段を慎重に下りるアレクサンドルの表情は、硬い。人がすれ違えるほどの幅はないために、彼らに対向して上ってくる者がいなかったのは幸いだった。指導者の不穏な表情は、必ず要塞の者たちの心を乱しただろうから。
――シャスティエ様……。
彼の表情が歪むのは、女王の苦難を思ってのことだ。
最後に会ったのは、イシュテンの侵略の数ヶ月前、王女の誕生日を祝う宴席でのことだった。その時にブレンクラーレの王太子との婚約が発表され、あの姫君は輝くばかりの笑顔を見せていたというのに。彼女と踊っていた従兄弟の公子たちも、皆殺されてしまった。若者たちは皆逝き、彼のような老人だけが残ってしまった。
彼女が生まれた日のことを彼はよく覚えている。幸福の名を授けられた王女はその誕生を国中から祝福された。そして長じては雪の女王のような美貌を誇り、教師を感嘆させる知性を見せた。名前通りに幸せな生涯を送るものと、誰もが信じていたというのに。
手すりを頼る手に、力が篭る。総督を名乗っていた男の叫びが耳に蘇ったのだ。
『犬と馬で追い回して血と泥に塗れさせてやった! 地に引き倒して裸に剥いてやった!』
ぎしぎしと、木材が軋む音に彼の歯噛みする音が混ざる。
イシュテン王は一体いつから誓いを破っていたのだろうか、と思う。始めから守る気などなかったのか、シャスティエの美貌に狂ったのか。女王を戦利品のように扱って、戯れに臣下に下げ渡したのか。
先の総督はまだ話の分かる男だった。誠実とさえ思えた。だからシャスティエも人質としてまともに保護されているのかもしれない、などと仄かな希望を抱くことができたのだ。だが、あのジュラとかいう男も彼女の処遇を知っていたのだろうか。知った上で、ミリアールトの者を欺き嗤っていたのだろうか。
女王が辱められているというのに、敵の言葉を、偽りの仮面を信じて手をこまねいていたのだとしたら、アレクサンドルは自分自身が許せない。死んだ者たちにも顔向けできる筈がない。
――せめて、あのお方を祖国に帰して差し上げなければ。
たとえそれがどこに埋葬されるのか、というだけのことであっても。異国に打ち捨てられるよりは、せめて父や兄の眠る傍らに。
そのために彼は命を捧げる覚悟を固めていた。
雪原を汚すようにイシュテン軍の黒い染みは広がり、やがてシヴァーリン要塞を囲むほどの軍勢の姿が明らかになった。
「攻城兵器を携えてはいないのか……」
日課のように城壁から敵の陣容を窺いながら、アレクサンドルは顔を顰めた。
「包囲してから建設するつもりなのかもしれないが……だが……」
だが、その割には資材もないし、堀を埋めるため、あるいは排水して無力化するための土砂などを運ぼうとしている気配もない。
「我らを押し包んで飢えさせるつもりでしょうか?」
食料を食い尽くした後の悲惨な状況を思い浮かべたのか、やや顔色を青ざめさせた副官に対し、アレクサンドルは首を振った。
「イシュテンの手としては迂遠すぎる。それにまだ寒さも厳しい」
大軍を率いておいて戦わずに済ませるなどと、イシュテンの考えることとは思えない。騎馬で名高いイシュテンではあるが、戦いを好み、周辺国を蹴散らして建国した国柄ゆえに攻城の知識も経験も豊富な筈だ。非常に質の悪いことに、決して平地での戦いにしか能がないということはない。
それに、彼らが飢え死にするのを待つ策は時間が掛かりすぎる。敵地の中では補給もままならないだろうし、雪の中で野営を続けて士気を保つのは困難だ。
「では――」
「我らを誘き出そうというのだろうな」
より陰惨な可能性に思い至ったのだろう、副官の声には嫌悪が滲み、アレクサンドルも苦々しい顔でそれに頷いた。
要塞は守りを固めた。限られた時間の中では十分に、と言っても良い。だが、周辺の都市や村々はそうはいかない。大した備えもない彼らは、イシュテンの蹄に容易く踏みにじられるだろう。
罪もない民が蹂躙されるのを、見過ごすのか。あるいは救援に打って出るか。それは城壁の内に篭る利点を捨てることになるが。仮に見捨てることを選んでも、住む家を失った民はこの要塞に庇護を求めるだろう。隙を見せることを承知で城門を開け、戦えない者を抱え込むことになるのだろうか。あくまで捨て置くことを選べば、目の前で凍死する難民を目にすることになるが。
「悪辣な……!」
あえて声に出すことはしなかったが、アレクサンドルも副官の呻きに心底同意していた。イシュテン王は、一度は寛容な統治を約束したというのにこの様とは。やはりあの獣にとって誓いなど気まぐれでしかなかったのか。
すでに馬の毛並みまで見分けがつくほどに近づいているイシュテン軍を睨みつけ、アレクサンドルは息を整えた。指揮官として、砦の者たちの命が懸かった方針を示すために。
「我らは既に一度女王を見捨てた。あの方の命を差し出して生きながらえようとしてしまった。この上民を見捨ててはあの方に顔向けできようはずがない」
「では――」
副官の声にわずかに明るさが灯ったのに対してアレクサンドルは頷いた。
「奴らが民を狙うというなら、できる限り守る。砦を拠点に平地で戦い削り合うしかあるまい」
守りを固めた利点を自ら手放すことになるが。だが、仕方あるまい。彼らは誇りのために立ち上がったのだから。命を惜しんで誇りを傷つけることをする訳にはいかないのだ。
そして更に数日後。イシュテン軍はシヴァーリン要塞の城門の眼前に到達した。
砦の者が固唾を呑んで見守る中、軍から一団の人馬が分かたれ、城門へと向かってくる。
「使者か。門を開けてやれ」
短く命じつつ、アレクサンドルは自らも城門近くへと降り立った。イシュテン王が何を言ってくるか――どうせ高圧的に降伏を命じるものだろうが――指揮官である彼自身が聞き届けなければならない。礼儀を守って使者を無傷で返すのか、首だけにして城壁から投げ返すのか。それを決めるのも彼なのだ。
門を開ける瞬間に、敵が斬り込んでくることも警戒しなければならない。兵たちが弓矢や槍を構えて見つめる中、滑車が巻かれて砦を外と繋ぐ跳ね橋が降ろされる。橋を吊るす鎖が耳障りな音を立て、降りきったところで鈍い音と共に地を揺らす衝撃が伝わる。堀の上に跳ね橋が渡され、要塞の内部への道ができたのだ。
次いで蝶番の金属が軋む音と共に分厚い城門の扉が開かれる。
――シャスティエ様は……いらっしゃるか……!?
外で扉が開くのを待ち構えていたのは、武装して騎乗した戦士が十数騎。その中に金の髪が見えないか、首を抱える者がいないか、アレクサンドルは目を凝らした。
使者たちが砦に入り切るのとほぼ同時に城門は閉ざされ、跳ね橋も再び巻き上げられた。敵地に取り残されたというのに、騎馬の男たちは動揺した様子も見せない。その先頭にいた男が、口を開く。
「我が王の使者で参った。この中にイシュテン語を解する者はいるか?」
「私が聞こう」
アレクサンドルは声を上げながら前に出た。使者を名乗る男がいまだに騎乗したままで、見下ろされる体勢なのを不快に思いながら。
「私はグニェーフ伯アレクサンドル。この砦を率いる者でもある」
「ああ、貴方が……」
彼が名乗ると相手はなぜか笑った。見ればまだ若い男だった。当然のように剣を帯びてはいるが軽装だった。とはいえイシュテンの者は速さと身軽さを信奉している節があるから、戦う気がないと判じるのは楽観が過ぎるだろう。整っているとさえ言える顔に浮かぶ笑みはどこか軽薄で、アレクサンドルの苛立ちをかき立てていた。
「何がおかしい」
「いいや。聞いた通りの印象だと。――我が王からの預かり物をお返ししよう」
言いながら男は下馬した。すると、その男の後ろにもうひとり人影がいる。明らかに細い、女の姿にアレクサンドルの心臓が緊張に跳ねた。
「姫君。お気をつけて――」
マントで全身を覆ったその人影に、使者の男が掛ける言葉は恭しく丁寧なものだった。手を差し伸べる動作も。まるで高貴な人に対するかのように。
マントの人影が地に降り立った。そして頭部を隠した布を取り去ると、その下から現れた髪は――輝く、金。
「シャスティエ様……!」
喘ぐように叫んだのは、彼だけではなかった。驚き、喜び、畏怖。この場に集った者たちがそれぞれの感情を込めて、その女性の名を呼んだ。
その呼びかけに答えるように、その人は優雅に微笑んだ。碧い目には一点の陰りもなく、白い頬には一筋の傷もない。記憶にある姿よりは少しばかり痩せたように見えるが、少なくとも浮かべた笑みに陰惨な暴力を窺わせる陰りはない。
その人は、美貌を見せつけるかのように集った者たちを見渡した。やはり美しく澄んだ声が、冬の凛とした空気を震わせる。
「グニェーフ伯。皆さま。またお会いすることが叶って嬉しく思います」
とはいえ答える者はいない。
まさか、このように無事な姿で会う日が来るとは思っていなかった。人質の返還を求めはしたものの、叶えられるとは信じていなかった。
どのような姿で返されたとしても、悲しむことも絶望もしてはならないと、アレクサンドル自身が砦の全員に命じていた。無駄に涙を流すよりは、怒りを戦意に変えて剣を取るのだと、言い聞かせていたのだ。
それが思いがけず人質は無傷で返された。喜べば良いのか、この方を守りきることができるのか。予想外の事態に、誰もが次の対応に迷ったのだ。
すると、その方は不思議そうに首を傾げた。
「どうしたのですか? 私は、帰ってきたのですよ」
これに、ミリアールトの臣下は我に返った。誰もが思い出したのだ。この美しい人が、なにものであるかを。
「女王陛下――!」
アレクサンドルはその場に跪いた。周囲の者も、次々とそれに倣う。すぐに、イシュテンの使者たちを除いた全員が彼女の前にひれ伏していた。
ミリアールトに、女王が帰ってきたのだ。
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