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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
9. 冬の嵐
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まだ見ぬ笑顔 ファルカス

「姫君はあの景色をお気に召してくださったようです」


 王の天幕を訪れるなり、アンドラーシはそう言った。時機を弁えていないとしか思えない笑顔に、ファルカスは苛立たしく眉を上げる。

 敵の姿はまだないとはいえ、遠征の途上なのだ。王として軍を率いる将として、彼が気を配るべきことは山ほどある。虜囚の機嫌を窺うことなどその中でも最も瑣末なことの一つ、彼の機嫌を悪くさせるという点では、むしろ聞く必要さえないとさえ言えた。


「それだけを言いに来たのか」

「あの方は私の忠誠を受け入れてくださいました。お許しをくださった陛下にも感謝を申し上げます」


 これもまたいらぬ情報だったのでファルカスは一層顔を顰めた。女に忠誠を捧げたいなどと言い出したこの臣下は、彼に言わせれば正気とは思えなかった。

 元王女を擁立し、勢力を得ようという企みを持っていたのは分かっている。そしてあの娘が独力で側妃に収まりかけていることで、その企みが崩れたことも。今更あの娘に擦り寄ったところで益もないと思うのだが。


 主君の渋面を他所に、アンドラーシは居座る構えを見せた。多少の雑談なら気分転換になるかもしれないが、話題が話題だけに楽しめるとは思えなかった。


「あの女のことなど聞く必要はない。特に不都合がないなら報告もいらぬ」

「ですが、あの方に景色をお見せするのは陛下のお考えではないですか。どのようなお顔をされていたか、お知らせしようと思いまして」

「いらぬと言っている」


 口答えをしているという自覚さえないのだろう。心底不思議そうに目を瞠った臣下に対して、彼は唸った。同時にふと不安が頭をもたげて確かめる。


「……あの女には言っていないだろうな」


 行軍の途中に、森が途切れる場所を見つけたのは彼だというのは間違いない。元王女がその眺めを喜ぶのではないか、と考えたのも。より正確に言うならば閉じ込められてばかりでは気の毒だ、と言っていた(ミーナ)の声を思い出したと言った方が良いが。

 とにかくそれはただの思いつきにすぎないこと、あの女が知る必要のないことだ。女の機嫌を取ろうとしていると思われるのも、元王女を気にかけていると思われるのも、不本意かつ不愉快なことだった。ことに、相手がこの男とあっては。


「ご命令は守りました。どうして伏せられるのか、私には理解できないのですが」

「俺の考えだと知ればあの女は気を悪くするだろう」

「まさか。あの方から陛下の側妃に、と願い出られたのですよ。お気遣いは喜ばれるはずです」


 へらへらと笑うアンドラーシの心中は、やはりファルカスには測りがたい。


「あの女の言葉は全てミリアールトのためだけのものだ」


 分かっていないはずもないだろうが、と思いながらも念を押す。この男は、決して愚かではないはずなのだが、たまに呆れるような突飛な発想をすることがある。そして、元王女に関しては特にその悪癖が発揮されているように思えた。


「俺の力が安定すれば祖国も無碍に扱われることはないだろう、という。お互い利を求めての取引に過ぎない。一体何を期待している?」


 何でも色恋に結びつけるなど若い娘のようだな、という皮肉はさすがに胸の裡にとどめたが。主従といえど口にしてはならないことがあるのは承知している。


 ついでに付け加えれば、元王女にはまだ口にしていない企みがあるのだろう。あの女の子は即ちミリアールトの王でもある。彼の執務室に忍んできた時、王家の血が繋がるのであればミリアールトの民は希望を得ると述べたが――それはつまりミリアールトの王がイシュテン王を兼ねるからということに他ならない。

 ファルカスとしては特段咎めるつもりはなかったが。ミリアールトを領土として服従させ続けることができるならば、実態としてイシュテンが支配者であることに変わりはない。気分良く従ってくれるならば僥倖とさえ言える。ミリアールト語の婚家名とやらについても同様だ。


「つまりは、あの方は陛下を見込んでくださったということでしょう。やっとお分かりいただいて嬉しい限り。――陛下ももっとお話しになれば良いのです。意外と可愛いところもあるのですよ」


 ――あの女が可愛いだと?


 あまりにも意外な評に、ファルカスは苛立ちも忘れて臣下の顔を凝視した。


「誰の話だ」

「金の髪の姫君のことですが」


 図らずも見つめ合うことしばし。ファルカスはこいつは冗談を言っているのだな、と考えることにした。何も面白いものではないが、あまりにもくだらないから逆に付き合っても良いかとさえ思えてくる。

 座れ、と合図すると、相手も嬉しそうに彼の前に腰を下ろした。休憩の気配を察した従者がすかさず酒を用意する。


「やはりお前は趣味がおかしい。あの女が可愛いなどとはあり得ない」

「いいえ、陛下は思い違いをしていらっしゃいます」


 揶揄する口調には気付いているだろうに、アンドラーシはあくまでも真面目な顔で言い張った。このやり取りの間に、相手にも杯が置かれ酒が注がれる。自身も杯を取って飲んでも良いと示しながら、ファルカスは問うた。


「思い違いだと? どのような、だ? 説明してみろ」


 ――美味い肴とは言えないが……。


 臣下の悪趣味を嗤ってやろうという気分になったのだ。どうもこの男は彼と見えているものが違うらしい。どのような突飛なことを言い出すか、楽しむことはできるだろうか。

 主の期待を察したのか、アンドラーシは酒で口を湿してから答えた。


「正直に言えば怒ったところも可愛いとは思っていますが、まあお気に召さないというのも分かります。ですが、私は見たのです。あの方は、普通に笑えば見惚れるほどに可愛らしい」


 期待は裏切られることはなかった。アンドラーシが述べたのは譫言(うわごと)としか思えない内容で、主君を笑わせるのに成功したのだ。


「あの女が笑うのは何度も見たことがあるぞ。慇懃なくせに高慢で挑発的で――実に腹立たしい」


 直近の記憶を呼び起こせば、首を刎ねるべく広間に呼び出した時か。元王女は怯えるどころか艶やかに微笑んでその場の空気を支配してみせた。

 美しいのは認めるが、可愛らしいなどという形容はあの娘から最も遠いものだろう。可愛いというのはミーナのように素直で優しく大人しく、従順な女のためにある言葉だ。


「そのように見えることがあるのも承知しております。ですが――」


 アンドラーシは苦笑したが、引き下がることはしなかった。


「嘲笑や冷笑ではないのです。あの方がおかしくて笑っているところはご覧になったことがないでしょう。そういう風に普通に楽しそうにしていれば、あの方もただの少女です」

「あの女に楽しいなどということがあるのか」

「私は幸運にも目にすることができました。陛下もあの方ともっと親しくなされば――」


 ファルカスは高く音を立てて杯を置き、臣下のよく回る口を黙らせた。本気で怒った訳ではないが、警告だ。あまり下らないことばかり言っていると追い出すぞ、という。


「俺に女の機嫌を取れというのか。下手に出て笑わせろと?」

「そこまでせずとも親しくなれば、表情も緩むものではありませんか。王妃様に対しても、笑わせようなどとは思っていらっしゃらないのでしょう?」


 確かにミーナは常ににこやかだ。些細なことでもよく笑い、はしゃぐ。彼が何気なく言ったひと言にさえ。子供のようだと呆れる一方で、そういうところが可愛いとも思っている。だが――


「あの娘は小賢しい。ミーナのように笑うとは思えない」


 ミーナの無邪気さは無知ゆえだ。少しでも自身の置かれている立場――王子がいない妻への蔑み、夫と父の対立、ハルミンツ侯爵家を始めとする諸侯からの敵意など――を理解していれば、あのように笑うことなどできないだろう。だからこそ彼は妻が何も知らぬように計らっているのだ。

 対する元王女は賢すぎるし矜持が高すぎる。リカードがいる限り自身の命も祖国の安寧も危ういことは承知しているだろうし、父や兄を殺された憎しみを忘れることは決してないだろう。つまりあの娘が彼に心を許して微笑みかけるなどとはあり得ない。


「やはり王妃様の方がお好みなのですか……」

「当然だ」


 ――()()を間に受けているのではないだろうな。


 残念そうな表情で酒を啜るアンドラーシを、ファルカスは目を細めて疑わしく睨んだ。

 念頭にあるのは、広間に元王女を引き出した際に彼が口にしたことだ。あの時の美貌の虜囚に欲望を覚えているかのような下卑た発言は、あくまでもリカードを始めとする諸侯に見せた建前だ。他に意図があるとしたら、元王女の覚悟を試すというだけのこと。断じてあの娘をどうこうしたいと思っている訳ではない。


「大体、お前はあの女を抱く気になるのか」


 また側妃にすると決まってはいない。元王女を殺さなければならなくなる可能性も十分に高い。その状況で先のことを口にする愚は承知しつつ、ファルカスは愚痴めいた呟きを漏らした。


「雪の人形のようではないか。……楽しめそうにない」


 あの強情さを見るに、閨でも冷たい瞳で睨みつけてくるのではないか。世継ぎをもうけるまでそのような女に通わなければならないとは、想像するだに気の滅入る話だった。

 苦り切った声のファルカスと裏腹に、答えるアンドラーシの表情は、爽やかに明るい。


「陛下のお妃になる方に邪な思いを抱くなどありえません」


 主を慰める気は一切ないようだったので、ファルカスは何も言わずに酒杯を空けた。しょせん他人事だと考えているに違いない。お前に下賜してやる、という脅しがもう二度と使えないのが残念でならなかった。


「妃か。妻を二人持つことになるとは思わなかったが……しかもあの女とは」

「やっと陛下も側妃をお持ちになる気になってくださったかと思ったのですが、残念です」

「殺さないための方便に過ぎぬ。別にあの女自身のことはどうとも思っていないぞ」


 露骨に落胆した様子を見せる臣下に釘を刺す。


 ミリアールトが乱を起こした以上、誓いを破られたとして元王女の首を刎ねることも可能ではあった。しかし、妻の命を救われた恩を負ってしまった相手をみすみす死なせることはできなかった。あの娘の方でも彼の負い目を見越して論陣を張ったのだろうと思うとこれもまた面白くないが――それでも借りは借りだった。


「今はそれでも構いません。共に長い時間を過ごされれば変わってくることもあるでしょうから」

「期待するのは勝手だが俺の妻はミーナひとりだ。形はともかく、心の上ではな」

「それではあの方がお気の毒です」

「そうか? あの女もそう望んでいるようだが」


 彼が元王女を受け入れた最大の理由は、結局はそこにあるかもしれない。元王女がミーナに好意を持っていることは疑いようがない。自身でも言ったように、代わりに毒を呑むほどの慕いようだ。そしてミーナの方も、元王女を友人、あるいは妹のように思っているようだ。

 あの二人ならば、彼の父の時代のように王妃と側妃が争うことにはならないはずだ。ミーナは他の女の子供でも死を願ったりなどはしないだろうし、元王女も自分の子さえ王位を得れば文句を言うことはないだろう。

 仲が良いのだから上手くやっていけるのではないか、とは以前アンドラーシ自身が言ったことだ。その時は半信半疑だったが、宴での一件を経た後ならファルカスも頷くことができた。


「せっかくだから仲良くなされば良いのに……」


 懲りないアンドラーシへ切り返すことはできなかった。ファルカスが口を開こうとした瞬間に、従者が新たな来客を報せてきたのだ。告げられた名も気安い側近のものだったので、彼は快く入室を許した。


「何だ、お前もいたのか」


 アンドラーシの姿を目にしたジュラは、意外そうに呟いた。そして男が跪いて礼を取る間に、ファルカスは酒杯をもう一つ用意させて気楽にして良いと暗に命じる。


「お前の助言は役に立っている。礼として受け取るが良い」

「誠にありがたく存じます」


 生真面目な側近は神妙な顔で杯を掲げて見せてから中の酒を飲み干した。短い間とはいえこの男はミリアールトの総督を勤め、この地の有力者とも良好な関係を築いていた。その経験を通して得た知識は、今回の行軍に活かされている。雪の降り始める徴候や、雪の中での馬の世話のやり方など。深窓に甘やかされて育った元王女では知らないことも、ジュラは多少なりとも見聞きしていたのだ。


「無事にことが済めば改めて褒美をやろう」

「聞きかじったことを申しているまで。褒美などは……」

「頂いておけば良い。お前の箔付けは陛下も望んでおられることだろう」


 アンドラーシの言葉は他人に関するものでも図々しい。だが、今回は彼の意に沿ったものであったのでファルカスは鷹揚に頷いた。


「……そうだな。本来はもう少し長く総督を勤めさせてやりたかった。その穴埋めということになるだろう」

「とはいえ妻に長く寂しい思いをさせずに済みました。もったいないお心遣いでございます」


 声音と表情からして本心と分かる言葉に、ファルカスもアンドラーシも頬を緩めた。真面目なこの男は妻に対しても誠実なのだ。

 と、嫌味のない笑顔をそのままに、アンドラーシが口を開いた。


「そうだ、陛下。ジュラをお借りしたい用件があるのですが」

「何だ」

「あの姫君のことです。説得の言葉を考えるのに、攻められる者の心情が知りたいとのことでした。ジュラでしたらグニェーフ伯なる者と知己を得ておりますし、適役かと思ったのですが」


 またあの女か、と言いかけたが、今回の提案はごくまっとうなものだった。ファルカスとしても乱が無血で収まるに越したことはない。断じて、元王女を側妃にしたいからという理由ではないが。


「空いた時間であれば好きにしろ」


 許しを与えると、アンドラーシの顔が輝いた。恐らく何か良いように解釈しているのだろうと思うと多少不快ではあった。だが彼が何か言う前にジュラも明るい声を上げた。


「承知いたしました。ならば、それとなく陛下のことを知っていただけるようにいたしましょう」


 この男までがアンドラーシと同じようなことを言うので、ファルカスは次に言うべきことに一瞬悩んだ。その間に臣下ふたりは目を見交わして笑う。ひとりは控えめに、ひとりは堂々と。


「我ら臣下の思いは皆同じです。陛下のお世継ぎを産んでくださる方ですから、仲良くしていただきたいのです」

「……好きにしろ」


 味方がいないのでは、何を言っても結果は同じだろうと思えた。だからファルカスは短く答えるに止め、酒杯を呷った。アンドラーシばかりだけでなく、ジュラまでも浮かれているようなのが不思議でならなかった。




 そうして行軍を続けること約ひと月。王――ファルカス自らが率いるイシュテン軍は、ミリアールトの叛乱軍が立てこもる要塞へとたどり着いた。

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