新たな忠誠 シャスティエ
出発の日はすぐに来た。
荷物をまとめるのは慌ただしかったし、イリーナを宥めるのも大事だった。その合間には王に呼ばれてミリアールトの地理や反乱に加わっているであろう者について尋ねられることもあった。今となってはシャスティエが王に会うのは当然のことになっているから、以前のように召使いめいた扮装をする必要はなくなった。むしろ人目を避けたのは王宮の奥でのこと、ミーナと鉢合わせることがないように、だった。その点アンドラーシは抜け目がなくて、シャスティエはあの日別れてから一度もミーナに会うことなく旅立つことができた。
――さぞお心を痛めていらっしゃることでしょうね……。
シャスティエが連れて行かれる時、ミーナはそれは不安げな悲しそうな表情をしていた。反乱が起きた時には人質の身に何が起きるか、あのおっとりとした人でも想像がついたのだろう。旅立つ前に一度でも会っていたら、きっと薔薇の蕾がほころびるような笑顔を見せてくれていたかもしれない。
でも、それはどうしてもできなかった。
まだ無事に生きて帰れるかどうか分からないから、というのがイリーナやアンドラーシに聞かせた表向きの理由。もう一つ、シャスティエの心の中だけにしまった理由がある。
ミーナの無邪気さや優しさに慰められながら、シャスティエはずっと彼女を裏切ることを考えていた。王に――ミーナの夫にどうやって取り入るか。どう言えば心を動かすことができるか。……側妃として侍ることができるか。笑顔をまとって他愛ない話をする裏で企んでいた。シャスティエはミーナの好意には値しないのだ。合わせる顔などあるはずがない。
シャスティエが死んだらミーナはきっと悲しんでくれるだろう。しかし、生きて戻った場合にはミーナやマリカから夫を、父を――少なくともいくらかの時間――奪ってしまうことになる。その方がミーナにとって余程辛く酷いことだと思う。
祖国のため、復讐のためと自身に言い聞かせても、そう簡単に割り切ることなどできず、シャスティエは罪悪感に苛まれ続けている。
――でも、もう決めてしまったことだから。
今更引き返すことなどできはしない。
馬車の窓から外の景色を眺めながら、シャスティエは溜息を呑み込んだ。命を賭けて反乱を収めることになった、と告げた時のイリーナの狼狽は大変なものだった。大丈夫だから、勝算はあるからと何度言い聞かせても完全に納得させることはできなくて、不意に泣き出したりシャスティエに抱きついてきたりするのだ。そんな状態の侍女に溜息など聞かせては、また愁嘆場が始まってしまう。
窓の外とはいっても、大して見るべきものがあるという訳でもなかったが。
何しろシャスティエたちを乗せた馬車は軍の中心部分に守られて――あるいは閉じ込められて――いる。窓から見えるのはひたすら続く人馬の列や槍の穂先、糧食でも積んでいるのであろう荷馬車がせいぜいだった。
今度こそ出歩くなという言葉の意味をよく理解しているので、景色を求めて馬車を離れる気にもなれない。たまにアンドラーシやジュラに付き添われて外の空気を吸うくらいで、シャスティエはほとんどの時間をイリーナと二人で馬車に篭って過ごし、思索に耽っていた。グニェーフ伯――彼女の名誉のために立ち上がった忠臣を、いかに説得するか。いかに剣を収めさせるか。少しでも彼らの戦意を宥める可能性が高い言葉を。
そうするうちにも祖国は確実に近づいている。
次第に冷えていく空気やちらつく雪の重さ。窓から見える木々の、黒いほどに濃い緑。真昼でもどこか陰って薄暗い空の色。その全てが、ミリアールトに帰ってきたのだと教えてくれる。それは即ちシャスティエの死が近づいているということなのかもしれないが、二度と祖国の土を踏むことがないと思っていた身には望外の幸せだった。
「今日はここで野営します。日が沈む前に散歩などはいかがでしょう?」
「お願いします」
だからシャスティエは馬車の外から聞こえたアンドラーシの声に、弾む声で答えた。祖国の気配だけでは物足りない。視界いっぱいに広がる雪と黒い木々の風景を、もう一度見てみたかった。
神経を張り詰めているのにも限度があったのだろう、イリーナは馬車の壁に頭を預けてうたた寝をしているところだった。憔悴している様子のところを起こすのは忍びなくて、シャスティエは侍女の髪を撫でてから一人で馬車の外へ降り立った。
そして外に出た瞬間に身を包んだ冷気に、思わず笑みがこぼれる。頬を指す冷たい風も、吐く息を凍らせる寒さも、ミリアールトの冬に間違いなかった。
「寒くはないのですか? 風邪を召されますよ」
ドレスの上に毛織物の肩掛けを羽織っただけの姿を見て、アンドラーシは咎めるように眉を寄せた。しかしシャスティエにとってはいらぬ心配なので、笑って小さく首を振る。
「少し寒いくらいが良いのです」
「少し、ですか」
「ええ」
大分厚着をしているように見える男は不審げな表情で一層眉を顰めた。それに更に笑ってから、シャスティエはあることに気付いて首を傾げた。
「風邪の心配をしてくださるなんて。私が生き延びると思っていらっしゃるのですか」
すると今度は男の方が微笑した。そして周囲を窺うように軽く首を巡らせてから手を差し出してくる。
「そうですね。――場所を、変えましょうか。もっと良い眺めがご覧になりたいでしょう」
周囲の地面は、人馬が雪を踏みにじったことで泥濘のようなひどいあり様だった。その中を、アンドラーシは比較的雪が白く残ったところを選んで導いてくれる。
ドレスの裾を汚さないように少し持ち上げながら歩く。ついでに辺りを見渡すと、周囲の兵や従者が一斉にシャスティエから目を逸した。戦いに身を置く者は縁起を担ぐものだという。彼らにとっては、言葉で乱を収めるというシャスティエの申し出は絵空事に過ぎず、つまり彼女は必ず命を失うものと思われているらしい。既に死んだも同然の者を直視するのは不吉だから、触れるのをはばかるように遠巻きにしているのだ。
そうと教えてくれたのはアンドラーシだった。そしてこの男も、シャスティエが成功するなどとは考えていないように見えたのだが。
――何か気が変わることでもあったのかしら。
そういえばミリアールトに着くまでに王の寝所にもぐり込め、などとはもう言わないようなのだが。雪を踏みしめる音を心地よく聞きながら、シャスティエは男の横顔を興味深く見上げた。
「まあ……!」
眼下に広がる情景に、シャスティエは歓声を上げた。
アンドラーシは平原を見下ろす高台に案内してくれた。
視界いっぱいに広がる雪原。灰色の空には雪と同じ色の雲がたなびく。ほとんどが白く染まった景色の中、遠目に玩具のように小さく見える木立の黒や緑、民家の赤や茶色が彩りを添える。イシュテンに捕らえられて以来、これほどに広がりのある景色を眺めるのはほとんどなかった。ましてそれが故郷の冬を象徴するような雪景色なのだ。感動のあまり、シャスティエは目が潤むのを感じた。
「お気に召したようで何よりです」
「……わざわざ探してくださったのですか。ありがとうございます」
まだ男の真意が読めないので、謝辞は躊躇いがちなものになった。涙など見られたくはないから顔を正面から見ることもできないし──それでも礼を言うべき状況だというのはさすがに分かった。
アンドラーシはいえ、と答え――おもむろにその場に膝をついた。もちろん雪の積もった凍てつく地面だ。
「何を――」
「姫君に赦しを乞わなければなりません」
突然のことに目を瞠ったシャスティエの前で、アンドラーシは低く頭を垂れた。
「私はずっと貴女を利用しようと考えてきたのです」
「存じておりますが、当然のことでしょう」
こちらの意思を無視して王の側妃に据えようなどと企まれたのは不愉快なことではあった。しかし、敗れた身で敵に純粋な好意など期待するだけ無駄だろう。シャスティエはこの男の言動に苛立ち怒ったし、自身の無力に歯噛みはしたが、利用するのを止めて欲しいなどと考えたことはない。
だから皮肉でもなく責めるでもなく――といっても許すという訳でもないが――呟いたのだが、アンドラーシはまた神妙な声で答えた。
「そう仰ってくださいますか。ですが無礼ではありました」
――自覚はあったのね。
この男はシャスティエの感情に対して非常に無頓着に見えたのだが。分かっていてあえて怒らせていたというならより質が悪いということになるのだろうか。
「謝ってくださるとでも仰るのですか」
そう口にしたのは、間を持たせるために過ぎなかった。イシュテンの男が女に、それも虜囚に謝罪するなどあり得ない。
「受け入れてくださるとは思いませんが。ですが、本心です」
疑いに満ちた問いかけに、しかしアンドラーシははっきりと頷いた。そして顔を上げ、微かに口の端を上げた。
「そして出来ることならば私の忠誠を受け入れていただければ、と」
「はあ?」
今度こそ体面を繕うこともできなくて、シャスティエはぽかんと口を開けてしまった。その間にもアンドラーシは滔々と語る。
「始めは誰でも良かったのです。陛下の世継ぎを生んでくれる女ならば。ついでに美しくて血筋も良いなら願ってもないと、その程度の考えでした」
「……そうですか」
男の口調は真剣そのものだったが、同時に果てしなく無礼でもあった。本当に許しを乞うつもりがあるのか、まったくもって疑わしい。しかしあまりに堂々と言うので、シャスティエは逆に激昂する機会を失った。
「ですが貴女はただの姫君ではなかった。私の意図を知った上で利用されるのをよしとせず、陛下に直接交渉を挑み、そして認められた。私には未だに信じがたくはあるのですが――陛下は貴女をミリアールトの主として扱っておられるようです」
「だから、何だと言うのですか?」
ほんの少しではあるが、事情が掴めたような気がする。アンドラーシは王の忠臣だ。側妃の件も、王の治世を心から案じるゆえではあったのだろう。だから、シャスティエは信じきることができなくても、王が信じることならば信じられる、というところだろう。
「貴女をただの子をなすための胎と考えることは大変な思い違いでありました。今はご気性も含めて陛下の隣に相応しいお方だと見込んでおります。それはすなわち、陛下と並んで我が忠誠に値するお方だということ。リカードなどは決して貴女の存在を黙認などはしないでしょうが――お守りするために力を尽くすことをお許しいただきたいと考えております」
アンドラーシの真摯さはどうにか信じられなくもない。とはいえ語る内容は依然としてどうも的外れだ。まずは最もおかしいと思われる点を指摘してみる。
「全て上手くいったとしても、私は側妃に過ぎません」
「王妃以上に愛されて、世継ぎをもうけた側妃の例は多いですよ」
ごく当たり前のように返されて、シャスティエはまたも言葉を失った。
――私が王に愛されるのを望むとでも思っているのかしら?
やはりこの男の考えはシャスティエには理解しがたい。側妃になるとの申し出は、彼女にとっては飽くまで同盟の形のひとつに過ぎない。決して王を許した訳ではないし、復讐も兼ねているからこそだ。祖国を滅ぼされた恨みと憎しみは簡単に捨てられるものではない。
それを、この男はさっぱり分かっていないようだ。
呆れかえる一方で、だが、とも思う。例え首尾よく側妃に収まることができたとしても、イシュテンでのシャスティエの立場は心もとない。ミリアールトが臣従した後はまた侮られさえするかもしれない。アンドラーシの身分はさほど高い訳ではないらしいが、それでも王の側近だ。
――味方は多いに越したことはないわね……。
「……お気持ちは嬉しく存じます」
「では」
慎重に答えると、アンドラーシは目を輝かせて破顔した。まるで犬が尻尾を振るようだとさえ思える。シャスティエが王に仇なすと見れば、即座に牙を剥く忠犬なのだろうが。だが、この男が彼女の真意に気付くことは、恐らくない。この男には想像もつかないことだろう。
「私もこれからのことは不安ですから。守っていただけるなら何よりですわ。私と――私の、子を」
アンドラーシがシャスティエの本意に無頓着なら、その方が良い。彼女としても王の世継ぎを生んでやることは必要なのだから。復讐のために。
シャスティエの心中など知らないアンドラーシは、嬉しそうに頷いた。
「陛下の御子でもあるのです。身命を賭してお守りします」
「ありがとうございます。――お立ちくださいな。貴方こそ、戦うかもしれないお身体でしょう」
「姫君は戦いを避けさせてくださるのでは?」
小賢しく揚げ足を取りながら、それでもアンドラーシは言われた通りに立ち上がった。そしてシャスティエに手を差し伸べてくる。馬車へ戻るのにまた手を取ってくれるというのだろう。
――この男の忠誠を受け入れることになるなんて。
初めて会った時から油断ならないと思っていたのに。不思議に思いながら、シャスティエはアンドラーシの手を取った。
帰り道も、アンドラーシは来た時と同じようにシャスティエの足元を気遣ってくれた。その間を持たせるように、ごくさりげない口調で話しかけてくる。
「グニェーフ伯とやらが立て篭っているという砦……何と言いましたか」
「シヴァーリン要塞ですか?」
「そう。それです」
ミリアールト語の発音は彼には難しいのかもしれない。シャスティエが告げた砦の名が繰り返されることはなかった。
「とにかく……貴女を説得に送るとしても、お一人という訳にはいかない。陛下のお心がどうであれ、みすみす逃がすのかとうるさい者がおりますので」
「仕方のないことですわね」
もちろんシャスティエにはそんなつもりは毛頭ないが、人質を一人で返せばそのまま逃げるか隠されるかと懸念するのは当然だろう。だから彼女は淡々と頷いた。
「なので私がお供します」
「貴方が?」
だが、続けて言われたことには思わず目を瞠って立ち止まってしまう。
「……危険ではないのですか」
「ですが重要な役です。陛下は私を選んで申し付けてくださいました。大変名誉なことです」
――何かあれば死ねということではないの。
心底嬉しげに微笑むアンドラーシが不気味とさえ思えてシャスティエは眉を顰めた。
シャスティエの説得が成功すれば良い。だが、万が一にも失敗したら、砦に入り込んだ敵――彼女をイシュテンの陣から送り届けた者は真っ先に殺されるだろう。砦を内から破られるのは何よりも恐れられるだろうから。王としても、失敗を見越して砦を落とす手段を講じたということかもしれないが、確かに重要な役目ではあるのだろうが、心底喜べる命とは思えなかった。
――この男も、生き延びる確率を上げたいということなのかしら。
ふと、そんなことさえ頭をよぎる。無礼で得体の知れない相手と思われたままよりは、忠誠を誓っておいた方がシャスティエも親身になるだろう、とか。
だが、やはり違う、と内心で首を振る。命惜しさに女に対して膝を折るのは、イシュテンの武人――もっと言うなら王の側近には似つかわしくない。アンドラーシが述べたのはきっと偽りのない本心なのだろう。
それに、結局シャスティエの為すべきことは変わらないのだ。疑うだけ無駄に心をすり減らすことになる。
「貴方の命も懸かっているのですね。それではますます失敗するわけには参りませんね」
「ありがたいお言葉です」
アンドラーシの笑顔はやはり軽薄なものに思えたが、シャスティエはあえて触れることはしなかった。代わりに口にするのは別のこと。もっと役に立ちそうなことだ。
「グニェーフ伯たちの――籠城している者たちの心情について教えていただけませんか?」
「あいにく、私は篭城戦の経験はあまりないのですが」
「私が想像するよりは実のあることを聞かせていただけそうですから」
首を傾げる相手に、シャスティエは更に食い下がった。今考えるべきことは、無事に反乱を無血で鎮めること。グニェーフ伯を、ミリアールトを味方につけて王の側妃に収まることだ。そのために、戦いに身を置く者の意見は大変に参考になるはずだった。
期待を込めて見上げるうちに、アンドラーシも頷いた。
「では後ほどジュラも交えてお話ししましょうか。あの者の方がグニェーフ伯らの思考が読めるかもしれません」
「ええ、お願いします」
言葉を交わすうちに、イリーナが待っているであろう馬車のあたりまで戻っていた。これまでの道中、粗末な食事を摂った後は、夜は侍女と身を寄せ合って物思いに耽るばかりだった。これからは多少なりとも代わり映えがあるかもしれない。もちろん馬車の外に出て直接会ってやるつもりはないが、アンドラーシやジュラの話を聞くのは前進ではあるはずだ。
イシュテンの男たちに頼る日が来るなど、本当に不思議なことだった。