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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
9. 冬の嵐
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憧憬への挑戦 ティグリス

 目が覚めてすぐ傍に他人の熱を感じた。昨晩同衾した――彼の上に乗っていた女だ。


 そうと気付くと厭わしくて、ティグリスは両腕に力を込めて女を突き放した。さほど鍛えていない彼の力では、女ひとり程度の重さも持て余すのだが、不興を買うのを恐れたのか女はすぐに離れていった。


「殿下、お目覚めですのね……」

「下がれ」


 媚びる上目遣いさえも鬱陶しくて冷たく命じる。女はしばらくもの問いたげに彼を見つめていたが、すぐに諦めたように衣服をかき集めて退出した。


 母を殺してすぐに、叔父たちは彼に女をあてがった。仮に兄を追い落とすことができたとしても、ティグリスがイシュテンの王として不適格なのは厳然とした事実だから。諸侯の支持を取り付けるためにも、早く()()()男子をもうけろと言いたいらしい。もちろん世継ぎの母となるべき姫君は彼が即位した後に選ばれるから、昨晩の女は叔父であるハルミンツ侯爵が見繕った娼婦に過ぎない。母のお陰で長く清い身体だった甥に、早く女の味を覚えさせようということだろう。

 捻れた脚がある限り、彼が完全に意のままに生きることは望めないようだ。




 女に代わって従者が入室し、ティグリスの身体を清めて着替えを手伝った。身体を自由に動かせないのは同じでも、世話を焼かれるなら女よりも男の方がまだ気が楽だった。それは女の身体を知った今でも変わらない思いだ。

 なぜ叔父たちが色を好むのか、ティグリスには今ひとつ理解できない。あの時の声も息遣いも、汗が交じるのも肉がぶつかるのも、彼には厭わしいばかりだというのに。

 彼の脚が悪いのが原因だろうか。並みの男に比べて体格も貧弱で力も弱く、脚のせいで取れる体勢に限りがあるからだろうか。だから、女を抱くというよりも女に征服されているように感じて不愉快になってしまうのだろうか。

 例えば兄のように頑健な肉体を持っていたなら、また違うように感じたのかもしれないが。


 ――育ちの良い姫君に娼婦と同じ真似をさせる訳にもいかないだろうに。


 叔父は彼の閨での様子までは知らない――知らせる気もない――から彼が女を喜ぶのだと思っているのかもしれない。あるいは経験がないと世継ぎを作るのに支障があるとでも懸念しているのか。

 だが、やるべきことはもう分かったし、一族の期待を背負った姫も協力してくれるに違いない。後で叔父に会ったら女はもういらないと言ってみよう。


 数日前に兄王に招集されて王宮へ発っていた叔父は、昨晩遅くに戻ったらしい。何の用だったのか、彼らの計画に影響があることなのか。きっとティグリスに話すことは多いだろう。




 朝食を終えると叔父からの呼び出しを受けた。母が存命の頃は叔父から出向いてくるのが常だったが、最近はティグリスの方を呼びつけることにしたらしい。家長としての威厳が必要だとでも考えているのだろうか。彼がより長く歩いて体力をつけられるように、などと気遣ってくれる訳ではないのだろうとは思う。


 とにかくティグリスは杖をついて叔父の私室にたどり着き、用意された椅子に掛けた。そして――おそらく求められていないので――無駄な挨拶は抜きに切り出す。


「兄上のお召しは一体何のご用件だったのですか」


 叔父は彼が現在の王を兄と呼ぶのが気に入らないらしく、不快げに眉を寄せた。実際、苦言を呈されたことも何度かあるが、ティグリスとしては改める気はない。母親が違うとはいえ兄は兄だ。何より、ろくに戦うこともなく毒に倒れた同母兄のオロスラーンよりも、後継者争いを勝ち抜いた現王の方が余程敬うべき存在ではないか。叔父が何と言おうと、兄との血の繋がりは彼の数少ない誇りなのだ。


 瑣末な言葉遣いについて言い争う愚を承知しているのだろう、叔父は渋面のまま端的に告げた。


「ミリアールトで乱が起きた」

「……早かったですね」


 驚きを隠しきることができなかったことに、ティグリスは内心で舌打ちをした。叔父の前では見せたくない醜態だった。

 ミリアールトが敗れたまま大人しくしているなどとは思っていなかった。それどころか乱が起きるのを期待してすらいたが、まさかこの真冬に事態が動くとは予想の範疇を越えていた。


「ティゼンハロムの無能のせいだ!」


 叔父は声高に叫ぶと、ぶちまけるように王宮で何があったかを語った。総督として送られた者の首、冬の戦いの陰鬱な見通し、引き出された人質の姫。いずれも叔父の気に入らないことばかりだったらしい。何よりも彼女が申し出たこと――。


「あの方は結局兄上を選んだのですね」


 そこまで聞いたところで、ティグリスは思わず叔父の話を遮って声を立てて笑った。不測の厄介な事態を前に、あり得べからざる上機嫌だ。自身が嗤われたとでも思ったのか、叔父は聞き苦しく声を荒げた。


「何がおかしい!」

「いえ、義姉上といい……兄上の周りの女性は本当に見る目があると思っただけです」

「女のことは――惜しくはあるが――どうでも良い。問題は反乱の鎮圧だ。ファルカスはミリアールトを攻めるのに我が一族の者を特に選んで指名したのだ。ブレンクラーレと呼応しようにも兵が足りぬ」


 おじの苛立ちは的はずれなものに思えたのでティグリスは軽く首を傾げた。


「もともと動きがあるとすれば春、と言い交わしていたのです。今から摂政陛下(アンネミーケ)と話をつけようとしても間に合いません。今回は諦めるべきでしょう」

「なぜそう落ち着いている! ミリアールト鎮圧でファルカスが国を空けるのはまたとない機会であったというのに……!」

「どうせすぐにまた、がありますよ。ミリアールトに限らず乱は起きるでしょうし他国の侵攻もあり得るのですから」


 当初の計画にこだわる叔父は、少し視野が狭いのではないかと思う。仮に同母兄(オロスラーン)が王位に就いていたとしても、ティゼンハロム侯のように異母兄を補佐するという訳にはいかなかったのではないだろうか。まあ、叔父にすればティグリスなどを担がなければならないことの方が不満だろうから、頼りないなどとは決して口にできないのだが。


「だが今回の件で我が家の兵の幾らかは損なわれよう。度し難い無能のために、なんと忌々しい」

「そうと決まった訳でもありますまい。あの姫君が兄上についたということですから」


 埒もない愚痴を繰り返す叔父を、ティグリスはぞんざいに宥めた。なにせシャスティエ姫はミリアールトの女王だ。王の名誉が汚されたことに怒ってミリアールトの者が立ったのならば、彼女の言葉で剣を収める公算はそれなりにある。


「そなたは戦いを知らぬ。あの娘が述べたのは助かりたいがための方便に過ぎぬ。いずれ戦いは避けられぬのだ」

「そうですか」


 叔父は依然として不服そうだったが、ティグリスはやはりぞんざいに答えた。分かっていないのは叔父の方だと思うのだが、ここでいくら言葉を重ねても納得してくれることはないだろう。


 ――シャスティエ姫が成功したら考えを改めてくださるだろうか?


 彼は内心で首を傾げ――すぐに結論を出した。今更叔父が新しい知見を得ることなどないだろう。予想と違うことが起きたとしても、偶然の賜物だと断じるに決まっている。


「まあ、兄上の命は既に下ったのでしょう。ならば、精々我が家の犠牲が少なく済むことを祈るしかないではありませんか」

「それは……そうだが……」


 実のところ、戦いの犠牲よりも警戒すべきなのは兄がどこまで彼らの計画を把握しているか、だろう。シャスティエ姫の信頼を得るべく、ティグリスは彼女にかなり手の内を明かしている。その中には兄への叛意も含まれているが、あの姫君は兄にそれを告げただろうか。


 ――告げたのだろうな。


 兄がそれほど信用していないであろうハルミンツ侯爵家に属する者を選んでミリアールトに伴おうというのがその証拠だ。当主である叔父から幾らか力を削いで牽制しようというのだろう。ブレンクラーレと組むことも知られているとしたら、今後も何かとやりづらくなる。

 とはいえあの美しい少女を恨む気はない。利用しようとしたのはお互い様だし、兄と同盟を組むつもりなら、誠意を見せるためにもティグリスとのやり取りを明かすのは当然のことだ。

 実害としてもさほどない。兄の立場なら不具のティグリスと女の証言を元に表立ってハルミンツ家を裁くことはできないし、元々絶対の忠誠を期待されていた訳でもないだろう。


 ただ、見事に振られたのだと思うと少し残念なだけだ。あるいは──彼は喜んでいるのかもしれないが。あの狷介な姫君でさえ兄を選んだ。彼の兄はそれほどに優れた人だったのだ。そう、確かめることができたから。


「我らが為すべきことは変わりません。兵を鍛え、一族の内で団結しつつ機を窺う。他にしようがありますまい?」

「うむ……」

「それでは私はこれで失礼いたします」

「何をしようというのだ?」


 杖をついて立ち上がると、叔父はなぜか狼狽えたような表情をした。ティグリスが落ち着いているのが意外なのか、状況を分かっていないと思っているのか。愚痴をこぼし足りないのだろうか、と思うとおかしくさえある。


「乗馬と剣の稽古を」

「何!?」


 叔父は驚いたように目と大きく開き、ついで顔を顰めた。何か苦いものでも口にしたような表情で、躊躇いがちに口を開く。


「だが……そなたは……」

「もちろんたかが知れたものではありますが。ですが、私を王にしようというなら形ばかりでも戦場に出ない訳にはいきますまい。私なりに備えているということです」


 みっともないことはするな、と言いたげな叔父を爽やかに遮って、ティグリスは笑った。長年母の顔色を窺って生きてきた反動か、自分の考えを述べ、言われたのと違うことをするということが楽しくてたまらないのだった。

 少なくとも意味のあることができると思うと、脚を引きずるのさえ幾分軽く感じる気がした。

 憮然とした表情の叔父を残して退出しようという際に、言い添えるのも忘れない。


「ああ、あと叔父上。女はもういりません。どのようなものか大体分かりましたので」




 叔父の部屋を後にすると、ティグリスは真っ直ぐに厩舎へ向かった。宣言した通りに馬に乗るためだ。横に乗る不安定な体勢でどこまで剣が振るえるか、訓練を積んでおかねばならない。

 つい最近まで書を読んで過ごすばかりだった身には易しいことではないが、それでもティグリスの日々は充実している。

 女のことや頼りない叔父のことなど鬱陶しいこともないではないが、それでも母がいたころに比べれば限りなく自由に気ままに動くことができている。

 乗馬も剣も、母のために中断させられたことを取り戻しているのだ。少年の頃から王子の中でも抜きん出ていた兄王には及ぶべくもないが、王位を狙う者が共に戦わないのでは誰もついてはこないだろう。彼自身も、兄と同じ戦場に立つことを望んでやまないのだ。時間は限られている中ではあるが、兄に敵と認められる存在になりたいものだ。


 そう、彼には時間がない。


 叔父もティゼンハロム侯も、その可能性を端から排除しているだろうが、シャスティエ姫はきっと兄の側妃に収まるだろう。そうなれば兄はミリアールトの力を得る。更にシャスティエ姫が王子を儲けようものならティグリスの勝ち目は消えてなくなる。強い王に、滅びたとはいえ一国の後ろ盾を持つ世継ぎができるのだ。その上で不具の王子を求める者などいないだろう。


 つまり、彼と叔父に勝機があるとしたら、シャスティエ姫が懐妊するまでのごくわずかな間に過ぎない。叔父はまだ認識していないし、いくら説いたところで理解しないだろうが、せめてティグリスは未来を正しく描かなければならない。


 ――それにしてもよく選んだものだ……!


 シャスティエ姫の気の強い碧い目を思い浮かべると、ティグリスの口元に自然と笑みが浮かんだ。

 彼女に側妃のことを吹き込んだのは、牽制のつもりだった。非常に矜持の高い人に見えたから、そして実際に祖国では女王と呼ばれる人だから、敵の王の側妃になどとは受け入れづらいだろうと考えたのだ。

 それでも彼女は兄につくことを選んだ。矜持を曲げて、祖国のためにその身を捧げる決意をしたのだろうか。賢い人でもあるようだったから、それもありそうなことではある。

 だが、もう一つの考えの方がティグリスの気に入るものだった。


 あの姫君は兄自身を選んだのではないだろうか。


 彼の兄は、武に秀でるだけでなく、冷徹さと忍耐強さも兼ね備えた人だ。加えてミリアールトの統治を考え、女王の身柄を抑えるだけの見識もあれば、王子時代からの腹心を従える覇気もある。ティグリスやブレンクラーレのマクシミリアン王子などと比べれば、兄を取るのは当然の選択ではないだろうか。


 シャスティエ姫は非常に美しくて気高くて、彼には手の届かない存在だと思わせた。そんな人が選ぶほどに、兄が優れた人だということ。その兄に挑み、認められようとしていること。そのいずれも、ティグリスにはひどく愉快に思えるのだ。


 ――兄上、早く私を見てください。


 少しでも早く進もうと、ティグリスは杖を握る腕に力を込めた。

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