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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
9. 冬の嵐
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暗躍 エルジェーベト

 王の姿を目にした瞬間、ミーナはその広い胸に飛びついた。


「ファルカス様! シャスティエ様は、シャスティエ様はどうなったのですか? ……ご無事なのでしょうか?」

「ああ、あの娘は無事だ。心配には及ばない」

「そう、ですか……」


 王の腕の中でミーナが安堵した表情を見せる。それを見て、エルジェーベトは言いようのない苛立ちに襲われた。あるいは嫉妬とさえ呼べるかもしれない、灼けるような感情だった。


 元王女が呼び出されてから、エルジェーベトもずっとミーナを宥めていたのだ。

 だが、抱きしめても髪を撫でても頬に口付けても、ミーナの憂いは決して晴れなかった。庭園の花も甘い菓子も艶やかな絹の刺繍糸も、ミーナを笑顔にしてはくれなかった。それどころか、ずっと王や元王女のことを案じ続けて泣きそうな顔をしていたのだ。

 夫である王ならまだしも、それほどにあの女に心を傾けることさえ耐え難いほど妬ましかった。生まれた時から仕えているエルジェーベトだというのに、彼女の言葉も耳に入らないほどミーナの心はあの女に占められていた。けれど、エルジェーベトの目下の嫉妬の対象は元王女ではない。ミーナが誰よりも愛し信用する──そして、このイシュテンの君主でもある男だった。


 ――王の言葉ならすぐに信じるなんて……。


 侍女に過ぎないエルジェーベトよりも、王の言葉に重みがあるのは当然だ。元王女をいかに処遇するかを握っているのも王なのだから。だから、これはミーナがエルジェーベトよりも夫を信じていると示すものではない。

 だが、いくら自身にそう言い聞かせようとしても、ミーナの心を占める男に対して昏い感情を覚えずにはいられなかった。


 それに、王の言葉も聞き捨てならない。ミリアールトが背いたというのに、どうして元王女は生きているのだろう。エルジェーベトはあの女はもう死んだものだと思っていた。彼女やリカードを悩ませ、ミーナを脅かす目障りな女がやっといなくなったと。だから、ミーナを慰め、王の勝利を言い聞かせるようにしていたというのに。


 ――今はまだ殺さないというだけ? 出陣の時か、あるいは反乱軍と対峙する時に首を刎ねるということ?


 だが、とりあえず今生きているというだけではミーナは納得しないだろう。王もただの気休めを述べることなどないと思う。

 エルジェーベトが疑いの目で眺める中、夫婦の会話は続く。


「でも、ファルカス様はまた行ってしまわれるのですよね。前の時から一年も経っていないのに……」

「それも心配いらない。あの娘が祖国の者を説得すると確約した。王女の言葉ならばミリアールトの者も従うだろう。上手くいけば誰も傷つかずに事が済む」

「本当に!? 良かった……!」


 ──なんですって……!?


 ミーナの顔にやっと笑顔が戻り、心から嬉しそうに夫の身体を抱き締めた。

 一方のエルジェーベトは驚きに息をすることさえ忘れている。王の言葉は、絶対におかしい。イシュテンの王が女の――それも虜囚の力に頼るというのか。それをどうして恥じることなく語ることができるというのか。


 ミリアールトで乱が起きたと聞いて、エルジェーベトは密かに喜んだのだ。ミーナのために取り繕った、同情と哀れみに満ちた声と表情とは裏腹に。これであの目障りな娘は首を失う。王もミリアールトでの戦果を失い、権力を保つためにはティゼンハロム侯に頼らざるを得なくなる。何もかも思い通りに――ミーナに都合の良いようになると思ったのに。


 ――一体、何が起きたというの!?


 仲睦まじいように見えるミーナと王の姿を、エルジェーベトは無言で見つめ続けた。




 エルジェーベトの疑問はすぐに晴らされる――かもしれなかった。


 その夜のうちにリカードが彼女を呼びつけたのだ。既に遅い時間ではあったが、彼女としても否やはなかった。王がいるならばミーナは二人きりで甘えたいだろうし、マリカは息子が守るだろう。何より、王と元王女の間にどのようなやり取りがあったのか、知りたくてたまらなかったのだ。


 跪いて顔を伏せた体勢から窺ったリカードの表情には、疲れと苛立ちが色濃く滲んでいた。ティゼンハロム邸の一角、見慣れたリカードの私室だが、主の感情に染まったかのようにどこか薄暗く澱んだ空気を漂わせている。


 昨年ミリアールト侵攻を決めた際も、リカードはこのような顔をしていた。誰を遠征に伴うか――誰に手柄を与えるかは、大変に微妙で厄介な問題だ。しかも今回は火急のことで、今日一日でかなりの部分を決めなければならなかった。王だけでなく他の諸侯との間で牽制や駆け引きもあったに違いなく、老体には堪えただろう。


 ――余程、意に染まないことがおありだったのね……。


 暗い感情が石のように彼女の腹の辺りに固まった。リカードにとっての不都合はミーナにとってもそうだから。王はティゼンハロム侯爵家への恩を忘れて義父を蔑ろにしようというのだろうか。

 答えが与えられることを願って、エルジェーベトはひたすら従順に頭を下げる。


「王はミーナに何と説明した」


 そこへ降りてきたリカードの第一声は、詰問だった。自身に怒りを向けられることのないよう、エルジェーベトは努めて淡々と、簡潔に述べる。


「あの娘に叛徒を説得させる、上手くいけば無血で事が収まると……」

「全て知らせるほど恥を忘れてはいなかったか」


 リカードは憤然と吐き捨てた。あまりに強い語調に、石の(つぶて)で打たれたように感じるほど。

 それはどういう、という問い掛けを、エルジェーベトは危うく呑み込んだ。彼女は主に反問できる立場にはない。彼女に求められているのは、主が望む情報を集め、伝えるだけ。務めを果たした上でよくよくリカードの顔色を窺い、機嫌を取って、女にも事情を教えてやろうという気になってもらわなければならない。それも多少の運に恵まれなくてはならないが。


「ミーナが知るのはそれだけで良い。上手くいかせなどはしないからな」


 多少怒りを和らげたらしいリカードの呟きを手がかりに、エルジェーベトは必死に頭を巡らせた。上手くいく、とは元王女が反乱を収めるのに成功するということだろう。そしてそうならないということは。血が流れるということ。叛徒のものだけではあるまい。大口叩いておいて失敗したからには、あの女の命も今度こそ助かるまい。リカードは、何としてもそのようにするつもりなのだろう。

 ならば、それが必ず実現するかのように話したほうが良い。


「ミーナ様はあの娘を案じていらっしゃいます。諦めるように――お慰めするようにいたしましょう」

「娘は優しすぎる。売女相手になんと寛容なことか」


 エルジェーベトの発言は的外れではなかったらしい。ミーナに言及したのも功を奏したようだった。リカードの全身からはまだ苛立ちは収まってはいないようではあったが、娘可愛さのあまりに饒舌になる気配がした。


 ――あの女が売女ですって?


 リカードが漏らした単語を手がかりに、エルジェーベトは更に事情を探ろうと言葉を選んだ。


「王があの女の言葉を聞き入れるとは意外でございました。さぞやよく口が回ったのでございましょうね?」

「若造め、あの娼婦めの顔と身体に目が眩んだのだ!」


 リカードが拳を振り上げたのでエルジェーベトは身を竦ませたが、幸いに主は拳を固めて怒りに震えただけで彼女にそれを振り下ろしてくることはなかった。


「あの女は、反乱を収めた暁には側妃にしろと言い出したおった。数多の男が居並ぶ中で王に侍りたいと申し出たのだ。これを売女と呼ばずに何と呼ぶ!? 自身に国一つの値をつけるとは何たる高慢、何たる尊大か!」


 ――ああ、そういうこと……。


 王の不可解な言動もリカードの怒りも腑に落ちた。同時にエルジェーベトの胸にも沸々と憤りが沸き立った。

 王はやはり元王女に手を出そうと狙っていたのだ。そしてあの女の方でもそれに気付いていたのだろう。だから殺されようという時に、身体を差し出して媚びへつらい、命を拾おうとしたのだろう。王もあの女も、何も知らないミーナが心を痛めている間にその愛情と信頼を裏切ろうとしているのだ。

 憂いに沈んで涙を浮かべたミーナの姿を思い出すと、元王女に加えて王でさえもエルジェーベトの憎悪の対象に染まっていった。膝でリカードににじり寄り、縋るようにして見上げ、乞うように問う。


「ですが、そのようなことは決して起こりませんでしょう? 王が惑わされたとしても、思い通りにはなったりしませんね? 殿様がそのようにしてくださいますでしょう? ミーナ様のために!」

「当然だ」


 リカードは力強く頼もしく頷いた。エルジェーベトの忠義心を褒めるかのように、いつもとは違って邪心なく優しいほどの手つきで頭を撫でる。低く抑えた声には変わらず怒りと憎悪が満ちてはいたが。


「そもそも乱を起こした者どもが女の言葉で引き下がる筈はない。王は女目当てで目が曇っているだけだ。だが、もし、万が一あの女が成功したとしても――」


 年老いた侯爵の顔が残虐な笑みに歪んだ。猛獣の質を持つのは王に限ったことではない。リカードも、何度となく戦場に立ったことがあるのだ。敵を屠る歓びは魂にまで染み付いているだろう。


「要は戦いが起きれば良い。降伏するつもりの者を蹴散らすのは容易かろう。娼婦の甘言に乗せられて剣を収めようという臆病者どもに、イシュテンの本気を見せてやれば良い」


 エルジェーベトはその光景を夢想しうっとりと笑んだ。


 悄然として降伏に赴くミリアールトの反乱軍。それを迎えるイシュテンの軍。戦意のない者と、ある者と。その違いは狼の群れと羊の群れのようなものだ。例え王が止めようとしても、か弱い羊は瞬く間に食い尽くされる。そして、その先頭には元王女がいることだろう。馬の蹄で踏み砕かれるか、槍で喉を突かれるか。いずれにしても、あの金の髪が血に塗れるのに数秒もかかるまい。


「ミリアールトへは一族のお方が行ってくださるのですね? あの女を犯すことも殺すこともできなかった無能とは違う、殿様のご意思を知るお方が……」

「そうだ」


 リカードの手がエルジェーベトの髪を梳いた。飼い主に毛並みを撫でられる犬はこのような気持ちがするのだろうか。ミーナを守ってくれる者の手だと思うと、閨で与えられるのとは全く違った悦びが彼女の内に湧き上がった。


「ハルミンツの若造は弱腰だった……。ミリアールトの雪と寒さに恐れをなして兵を出すのを嫌がったからな、儂がその分を埋めてやることにした」

「それは安心でございますね。皆さまが必ず王を守ってくださると……ミーナ様にもそのようにお伝えいたします」

「うむ。王も無事に帰るだろう。目障りな女もいなくなれば、全て元の通りになる」

「はい。何もかも、ミーナ様の良いように」


 王が何を期待していようと、元王女は既に死んだも同然だ。死者がミーナを脅かすことはあり得ない。ならばあの女のために悲しむミーナを見ても、少しは心穏やかでいられるだろう。

 そして実際にあの女が死んだのを確かめることができたなら、エルジェーベトがミーナを慰めるのだ。無残な死を遂げた後なら、あの女にも多少は優しい言葉をかけてやれる。

 ミーナが彼女に縋り付いて涙する――それは甘美な想像だった。あの柔らかく愛しい温もりを夢想して、エルジェーベトの身体に熱が灯り、頬には朱が差すのが分かった。

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