王との約束 シャスティエ
広間の扉が閉まる音を背に聞いた瞬間、シャスティエの膝から力が抜けた。
「はあっ――」
唇から吐息が漏れると同時に、その場に崩れ落ちそうになる。
怖かった。広間の者は皆、彼女の命を羽のように軽く扱っていた。いつ殺すかどう殺すかを当たり前のように話し合っていた。
美しく死ぬことだけを考えていた時はまったく怖くなかったというのに、生きて為すべきことがあると思うと、笑顔を保ち傲然と立ち続けるのは魂を削るように気力も体力も消耗する大事だった。
震えて逃げ出したかった。何度も怯えを見せそうになった。頭の中では何度も考えていたとはいえ、つかえずに言い切ることができたのは奇跡と言って良いだろう。
全て、王に彼女を認めさせるためだった。一度失敗した以上、そして祖国が誓いに背いた以上、この次など決してないと分かっていたから。
――今度こそ、やったわ……!
それでも彼女は勝った筈だ。王に取引を認めさせ、イシュテンの諸侯にも彼女の価値を知らしめた。
近いうちに乱が起きるのは予感していたから。殺された総督は、彼女が見聞きできる範囲だけでもあまりに無能過ぎたから。
だから、ミリアールトで乱が起きれば、首を刎ねるために臣下の前に引き出されるだろうと予想がついていた。だから──処刑のために引き出される時こそ最後の機会と見てずっと考えていたのだ。
喜びよりも安堵が勝るけれど、まだミリアールトの叛徒の説得が残ってはいるけれど、とにかく一つの山を越えることができた。シャスティエは緒戦に勝ったのだ。
「ここで倒れられては困ります」
安堵のあまりに頽れそうになったのを、しかし腕を掴まれて阻まれた。掴まれたところを引っ張られ、半ば強引に立たせられる。
「私は貴方のお身体に触れる訳にはいかないのです。今少し頑張っていただきたい」
アンドラーシの声も表情も、いつになく不機嫌そうだった。いつも胡散臭い類の笑みを浮かべているこの男にしては珍しいことに思える。
「……側妃となる者だから、ということでしょうか」
「そうですね。どうやらお気づきだったようで。言われたことの意味がやっと分かりました」
やはり刺のある口調で受け応えつつ、アンドラーシは王宮の廊下を行く。シャスティエの腕を掴んだままで。歩く速さも彼女に合わせて加減してくれている訳ではないから、少し小走りになってしまう。とはいえ、確かにここで座り込む訳にはいかなかったので、引きずられるようにとはいえ支えがあるのはありがたかった。
「お分かりいただけましたか」
「手酷く振られたのだと分かりましたよ」
広間に入る前、シャスティエはこの男に告げていた。
――ご期待通りにならなくて、申し訳ございません。
この男はずっと彼女を王の側妃にしようと企んでいたようだったから。そして、それは単に王に世継ぎがいないのを案じるだけではなく、シャスティエを駒にすることで自身の力を強める狙いがあったに違いないから。
それを、勝手に独力で側妃の座をもぎ取ってしまったのだ。これではアンドラーシに出る幕はない。シャスティエはあれこれ世話を焼いてもらった恩を仇で返したことになる。
「だから謝罪を申し上げたのですけれど」
「心の篭らない謝罪など虚しいものです」
シャスティエをちらりと振り返ったアンドラーシは眉を寄せ、口元を歪め、不機嫌そのものといった表情だった。この男がこれほど感情を露にしているところは初めて見る。しかも口にしたこともおかしなことだった。この男こそ、いつも本心とは思えない空々しいことしか言ってこないのだ。
だから、緊張が解けた反動もあいまってか、シャスティエは声高く笑った。どういう訳か急に楽しくてたまらない気分になったのだ。
「ですが、お心遣いに感謝しているのは真実ですわ!」
すると、アンドラーシは一層顔を顰めてふいと前を向いた。
「奥にお戻りいただくのはまだ早いかと思います。後で陛下のお召しがあるでしょう」
アンドラーシはシャスティエを広間からほど近い庭園の東屋へ導いた。屋内でないのは、男女が二人きりになることを憚ったからだろう。季節は冬ではあるが、ミリアールト生まれのシャスティエにとっては寒すぎるということもない。それに、アンドラーシは侍女に命じて熱い茶を運ばせてくれた。
「陛下は何の御用があるというのですか?」
椅子に掛け、たっぷりと蜂蜜を入れた茶を啜ると、甘味と温かさがじんわりと身体中に広がる。思った以上に気を張って疲れていたらしい。
「今頃陛下はミリアールトに伴う者を選んでおられるところでしょう。前回との兼ね合いから、今度は大貴族からも指名しなければならないはず」
「大変ですね」
律儀に少し離れたところに立ったままのアンドラーシは、ややずれた答えを返した。それでもシャスティエは大人しく頷く。先ほどの広間での一幕で、王の権力が絶対ではないのは嫌というほどよく分かった。
――でも、だからこそミリアールトの後ろ盾は高く評価されるはず。
何としても説得を成功させなければ、と決意を新たにしたシャスティエを他所に、アンドラーシは眉を寄せたままの表情で続ける。
「とはいえ信頼できる者も伴わなければ今度は陛下の御身が危うい。その中には私も選ばれることでしょう」
「確信がおありなのですね」
「……姫君をお守りするためには必要でしょう。私には実績がありますからね」
「ああ、なるほど」
またも意識が甘かったのに気付かされて、シャスティエは仄かに赤面した。単に人質だからと守られるというだけではなく、女には余計な心配が必要なのだった。
「少なくともそのことは伝えていただけるでしょう。それに、ミリアールトの地勢について、貴女からもお聞きになりたいかもしれない」
「……そうですね」
ミリアールトの地形や村々、砦の配置や備えについて。前の総督だったジュラにはある程度知られているだろうが、それでもミリアールトの王族だった彼女ほどの知識はないだろう。
王の側妃になるということは、いわば同盟と言っても良い。だから祖国の守りについて漏らすのは決して裏切りにはならない筈だった。だが、躊躇いと葛藤を完全に拭い去るのは難しかった。
「大変申し上げにくいのですが」
「はい?」
だから彼女は、アンドラーシが声を低めて話しかけてきた時、反応するのが遅れた。
「ミリアールトに着く前に陛下のお手付きになっておくべきだと考えます」
「――は!?」
注意していたかどうかに関わらず、男の言うことは予期せぬ不意打ちではあったが。思わず椅子を蹴立てて立ち上がり、溢れた茶を避けてドレスの裾を捌く。
狼狽したシャスティエに、落ち着けと身振りだけで示すとアンドラーシは噛んで含めるようにゆっくりと言い聞かせてくる。
「ミリアールトにとって貴女が非常に重要な存在だというのは理解しました。が、やはり一度剣を抜いた者が容易くそれを収める筈がない。約束と順番は変わりますが、王の子を孕んでいるかもしれない女なら容易く殺す訳にはいかなくなります」
男の顔にも声にも、相変わらず不機嫌というか苛立ちのようなものが濃く滲んでいる。思惑が外れたのがそれほど不満なのかと思っていたが――言われたことの内容に、シャスティエは首を傾げた。
「もしかして、私の身を案じてくださっているのでしょうか」
「当然ではないですか」
アンドラーシは吐き捨てるように短く答えた。
「私を信用していただけなかったのは仕方ない。ですが、他にやり様はなかったのですか。陛下も何をお考えか分からないが……幾らか時間稼ぎをしただけとしか思えない」
――そういえば、この男は私のために声を上げてくれた……のかしら。
先ほど女の首を刎ねても士気など上がらない、と言ったのは、この男の声だったと思う。彼女への援護というよりは、ティゼンハロム侯への野次のようでもあったが。だが、この男の地位からすれば分を越えた発言を、敢えてしてくれたことになるのだろうか。
シャスティエが訝しむ間にも、アンドラーシは喋り続けている。
「陛下は貴女に借りがあるとお考えでしょうし、貴女の価値も分かっていらっしゃるようでした。何も臣下の居並ぶ前でなくても、お二人で話せば――」
「話したのですが振られたのです」
「は?」
先ほど言われた表現を借りて、シャスティエはごく端的に遮った。そして信じられないとでも言うように目を剥いた男の顔は、まったく見ものだった。
「……いつ、どのようにして?」
アンドラーシはたっぷりと沈黙してからやっと尋ねた。その様子がまたおかしくて、シャスティエは意地悪く答えた。
「内緒です」
まさか隠し通路を使って忍んでいったなどとは思うまい。あの夜の記憶自体は忌々しいものだったが、この飄々とした男を心底驚かせることができたのは純粋に愉快なことだった。酢を飲んだような渋面を眺めると、自然と笑顔が浮かんでくる。するとアンドラーシはますます嫌そうな顔をした。
「……何があったかは存じませんが、その笑顔を見せていたならきっと振られるようなことはなかったかと思います」
「そうでしょうか?」
バカげたことを言うものだ。あの王が笑ったくらいで態度を変える筈がないだろうに。だが、あまりにバカげているので更に笑いが込み上げてくる。
結局、憮然とした表情のアンドラーシを前にシャスティエはかなり長い間笑い続けた。
アンドラーシが予想した通り、大分遅くなってから王は改めてシャスティエたちを呼び出した。先ほどの広間ではなく、最早馴染みになった執務室へ。
話題もほぼ予想通りのものだった。シャスティエはアンドラーシに守られてミリアールトへ赴くことになる。そしてグニェーフ伯が立て篭っているという砦のことも聞かれたが、幸か不幸かシャスティエは行ったことのないものだった。
「シヴァーリン要塞……確か、堀と城壁を備えた大規模な砦だったかとは思いますが。仕掛けのことなどは何も……。お役に立てなくて申し訳ございません」
「そうか」
シャスティエの言い分を信じているのかいないのか、王は軽く頷いただけだった。
――実際に攻めることがないと、思っていてくれれば良いのだけれど。
彼女が成功しさえすれば、戦いの備えなど不要になるのだ。イシュテンの側としては無策で臨む訳にいかないのは理解できるが、当然のように戦う構えを見せられると不安になってしまう。結局、流血は避けられないのではないかと。
約を違えるな、と睨むシャスティエの視線に気付いたのか、王は軽く顔を顰めた。だが、理由は睨まれたからではなかったらしい。珍しく言い淀む様子を見せた後、低く告げる。
「一つ悪い知らせがある」
「はい」
ミリアールトから何か報せがあったのだろうか。何を言われても取り乱すまい、と。シャスティエは改めて背を正した。
「三日やると言ったが叶わなくなった。一日でできるか?」
――なんだ。
だが、重い口調の割に言われたことが大したことではなかったので、シャスティエは溜息と共に身体の力を抜いた。
「一日でできなければ三日いただいても同じかと存じます。私の為すべきことに変わりはございません」
「理由は問わないのだな」
「想像がつきますから」
ティゼンハロム侯を始めとする諸侯はシャスティエを決して信じていなかった。猶予を与えれば逃げるとでも思われたか、あるいは単に時間の無駄だと主張されたのかもしれない。軍を維持するには金も糧食も必要なのだと、戦を知らないシャスティエでさえ知っている。王が最初に三日と言ってくれたのも、交渉で減らされるのを見越してのことに違いなかった。
「可愛げがないな」
あっさりと答えたのが気に入らないのか、王は眉を寄せて吐き捨てた。約束が違うと問い詰めればそれはそれで苛立つのだろうに勝手なことだ。
――また負い目を感じているのかしら。
シャスティエは心の中で密かに笑った。嘲るというよりも律儀さが面白いと思ったのだ。彼女はまだ敗者の立場にいるのだから、何としてもやれ、と命じてもよいところだろうに。同盟相手として対等に見てもらっていると、思って良いのだろうか。
であれば、その扱いへの返礼として、負い目を少しは減らしてやろうと思う。
「では、お強請りをさせていただいてもよろしいでしょうか」
「何だ」
先ほどアンドラーシに言われたことを思い出して、小首を傾げて微笑んでみたが、王の眉間の皺は深くなるばかりだった。やはり表情一つで何か変わることなどあり得なかった。
それはともかく――
「私の侍女のことです。仮に私が――失敗した場合、あの娘は親元に返してやって欲しいのです。どの道ミリアールトに伴うのですから難しいことではないと思うのですが」
「当然だな」
王はごくあっさりと頷いた。いつかジュラが必要以上に非道なことはしないと言っていたのは事実だったと、今なら確かに信じられる。だからこそ、シャスティエも祖国の命運を委ねる気になれたのだ。
「それからもう一つ」
ついでとばかりになるべくさらりと言ったつもりだったが、王は呆れたような警戒するような表情を見せた。図々しいと思われたのかもしれない。
「……何だ」
「側妃も婚家名をいただくものだと伺っております。王妃様はご自身で選ばれたとのことですが、私もそのようにできますように、お許しをいただきたいと存じます」
確かに図々しくはある。だが、いずれは願い出るつもりだったことだ。ならば王に貸しがあるうちに叶えてもらった方が良い。それに、ミーナの名を決めた時の話からして、王は婚家名にさしてこだわりがあるとは思えなかった。
「そんなことか。構わない」
案の定、王はまたあっさりと頷いたが、シャスティエは慎重に念を押した。
「ミリアールト語の名でも?」
すると王はゆっくりと瞬いた。彼女の意図がやっと分かったとでもいう表情だ。
「説得の材料にするつもりか? 完全にイシュテンの風に染まる訳ではないと?」
「そんなところです」
ひとまず王を説得することはできた。だがミリアールトの者たちを説き伏せるのも、同じくらいの難問だ。彼らも、シャスティエが自らを犠牲にすることに酔っているのだと言うに決まっている。そのために婚家名を利用することを思いついた。彼女は決して一方的にイシュテンに服従するのではないと、決して復讐を忘れていないと祖国に知らしめるための名だ。
王と約束したのはミリアールトの恭順と、世継ぎの王子を渡すことだけ。シャスティエの心の裡まで従えようなどとはこの男も思っていないだろう。
「どのみちウィルヘルミナも異国の名だ。それで勝算が上がるなら好きにしろ」
「ありがとう存じます」
「先ほど明言する訳にはいかなかったが、お前に王子が生まれたらその子に王位を継がせてやろう。これも、材料になるか?」
「……はい。ありがとう存じます」
思いがけず付け加えられた言葉にシャスティエは息を呑んだが、何とか声を上げることはしないで従順に答えることができた。
これで彼女の復讐が叶う目算は立った。祖国の者が彼女の覚悟を信じてくれれば。王子を授かることができたら。そして、そのためには――
――今度こそ、そういうことになるのね……。
そう思うと王の顔を正視することができなかった。剣よりも殺意よりも、ある意味それ、が一番恐ろしいのかもしれない。
王はシャスティエが何か言うのを待つように数秒黙り、不自然な沈黙が降りた。そして言うべきことがないのを確かめたのか、軽く息を吐いてから払うように手を振った。
「今度こそもう用はない。帰って休め。そして旅立つ支度をするが良い」
「はい」
頷いて去ろうとして、シャスティエはもう一つ強請らなければならないことを思い出した。踵を返しかけたのを再び振り向き、王の前に跪く。
「あの、王妃様は最近塞いでいらしているようなのです。私のこと――側妃のことなどは、お耳に入れない方がよろしいかと思うのですが」
執務室に入って以来、最も真摯な懇願に、王は不思議そうに首を傾げた。
「確かに何か思い悩んでいるようではあったが。だが、お前のことは案じているのではないか? お前の命が助かるならばミーナは喜ぶだろう」
「……でも、必ず生きて戻れると決まったものではありませんから。陛下のご出征だけでもお心を痛められることでしょうから、これ以上は……」
王がミーナと呼ぶ声さえシャスティエの胸に突き刺さった。彼女には馴れ馴れしくそのように呼ぶことはもう二度と許されないと思えたから。
確かにあの方はこの上なく優しいし、シャスティエのことを心配してはくれているだろうが、だからといって側妃として愛する夫に侍るのを歓迎するとは思えない。
シャスティエはどれほど悲痛な顔をしていたのだろうか。王は怪訝そうな表情をしていたが、やがて頷いた。
「そういうものか。ならば側妃の件はそうなった時に告げるようにしよう」
「……ありがたく存じます」
重ねて王に礼を述べると、シャスティエは今度こそ執務室を辞した。
廊下に出ると、ずっと黙って控えていたアンドラーシが手を差し伸べてきた。
「お疲れでしょう。もう、歩けますか?」
「ありがとう、ございます」
おそらく初めて、シャスティエはアンドラーシの手を大人しくとった。実際に疲れているからでもあるし、好悪の感情はともかくこの男は信用すべきだと思ったからでもある。王に害をなさない限り、この男はシャスティエの味方になるはずだった。絶対に信用などできない相手だと思っていたのに、いつの間にかおかしなことになったものだ。
帰ったら今日は休もうと思う。あまりにも沢山のことがあったから。目覚めたらまた沢山のことが待ち受けているのは分かっているけれど、でも、一晩くらいは何も考えずに眠っても許されるだろう。
――イリーナに説明するのが大変ね……。
目蓋が重くなるのを感じながら、シャスティエはぼんやりと思った。