同盟成立 ファルカス
『私を、陛下の側妃にしてください』
元王女の言葉に、つい先日同じ口が告げたことが耳に蘇って、ファルカスは軽く顔を顰めた。
疲れて眠ろうという時に、二度と会うことはないと思っていた娘が待ち構えていた。それ自体が苛立たしく不愉快な出来事だというのに、王である彼でさえも知らなかった隠し通路の存在を知らされた。そして多少はまともなことを述べたかと思えば、側妃になることの具体的な意味はさっぱり考えていないようだった。
その上、薄着で男の寝室に押しかけた癖に、試しに抱き寄せてみたらひどく驚き傷ついた顔で逃げ出したのだ。まるで、彼が途方もない狼藉を働こうとでもしたかのように。恐らくそうなると考えた上で脅した訳だが、それにしても一体何をしに現れたのか。彼の方でも願い下げだったというのに、あの非難がましい目を思い出すと、返す返すも腹立たしい。
とにかく──だから彼は元王女の申し出を撥ね付けたのだ。男に抱かれることの意味も知らない子供など、相手にするだけ時間の無駄だ。
だが、要求自体は同じでも、この娘は今攻め方を変えた。彼が拒絶する際に挙げた理由を封じることで、これならどうだと問いかけている。
声も。あの時はどこか躊躇を孕んでいたものが、今は自信に満ちて揺らぎもない。
――この女の言葉に乗るか? その価値は、成算はあるか?
目まぐるしく思考を巡らせながら、ファルカスは時間稼ぎに敢えて傲然と嗤った。
「女神を名乗りながら敵に膝を屈するのか。ミリアールトの民がそれで承服するか?」
あの時、彼は女が王などと臣下が納得しない、と告げたのだった。それに応えて元王女は女王を名乗るのではなく自身を女神になぞらえた。豪奢に着飾ったのは説得力を増させるためだろう。実際リカードも雪の女王の化身のような娘だと口にした。元王女を陥れるつもりでその企みの後押しをしたとは間抜けなことだ。
「私のために乱を起こしたのですもの。私の言葉で収まらない筈はございません」
元王女の微笑みは揺るがない。この程度の問答は想定しているだろうし、欺き誤魔化す意図など全くなく心からの真実を述べているのだろうから当然だ。そしてそれは客観的にもほぼ事実と思える。気付いているのはファルカスくらいのものだろうが、この娘はミリアールトの王なのだ。
リカードも、他の者たちもさすがに異を唱えることはしない。自国が奉じる神を重んじるのはどの国の民にも理解できる自然な感情だ。かつてのイシュテン王も戦馬の神を侮ったブレンクラーレの大使に死でもって報いた。たとえ自国が戴く神ではなくても、語られる通りの神の姿をした者、それも王家の血を引く者に対して、その国の民がこの上ない忠誠を抱くことは想像に難くない。
元王女が歴史を引用したのも効果的だった。まともに述べようとしても女の言葉では耳を傾けられなかっただろう。だが明らかに奇異な古めかしい言葉に、誰もが一瞬制するのを忘れた。そうして語られたこと――娘を汚されたら復讐し恥を雪がずにはいられない――もまた、イシュテンの気質によく合った。
この娘はミリアールトの女神であり娘なのだと、強引に納得させられた形になる。口を開かせた時点でこの娘は半ば勝っていたのだ。
――この女、少しは成長したのか。
だが、乗るに足るだけの覚悟があるか、今少し見極めなければならない。あるいは、この娘との会話を楽しみ初めているのだろうか。いつの間にか、ファルカスの口元には笑みが浮かんでいた。
「誤解だったからと、逆らったのを許せというのか?」
「不遜な物言いを許してくださるならば、今回のことは陛下のご意思に沿わぬ者を罰したに過ぎません。そう、お手間を省いて差し上げたとでも思し召しくださいませ」
「違いないな」
ミリアールトをつつがなく治めよ、という。与えた命を全うできなかったからには、どの道例の男は首を失うことになっていたのだ。その際のリカードとのやり取りを考えれば、確かに面倒が一つ減ったことになる。
「陛下! 小娘の口車に乗るおつもりか!?」
図々しいが堂々とした答えに思わず声を立てて笑うと、傍らに控えていたリカードが血相を変えて声を荒げた。
「この娘、小賢しく並べ立ててはいるが要は俺に抱かれたいということではないか。可愛いものだ」
リカードに答えつつ、彼の視線は元王女だけに注がれている。直截で野卑な物言いで激昂することがないか、体面を繕うことを覚えたかどうか。そして横目に映る白い顔が笑みを絶やしていないのに満足する。やはり多少は成長したと認めてもよさそうだ。
「乱を企てた老いぼれを討つなど容易いことだ。小娘の減らず口がどこまで真実か、試してやるのも面白い」
元王女はもう一つ勝算を隠し持っている。これも先日忍んで来た時に伝えられたことだ。
ティグリスは、ブレンクラーレと通じて反逆を企てている。
ファルカスは眼下で憮然とした表情を晒しているハルミンツ侯を睨んだ。先程から怯懦と謗られかねない弱気な発言を繰り返しているのは、彼らにとってもこの時期にミリアールトが乱を起こすとは予想していなかったのだろう。
とはいえ鎮圧に手間取って長く国を空ける訳にはいかない。ブレンクラーレと共謀する時間を与えては、ミリアールトを鎮めても帰る場所がなくなりかねない。
犠牲を出さずにミリアールトを完全に手中にし、政敵につけいる隙を与えない。その面から見ても、元王女の提案には魅力があるのだ。
徒に不満をかこち、駄々をこねるように理想ばかりを振りかざしていた小娘だったが、今回ばかりはよくよく状況を考えた上で持ち出した提案のようだった。
――この女の思い通りにするのは業腹ではあるが……。
だが、憎たらしい澄まし顔で微笑む元王女は、今やこの場の誰よりも――リカードよりもハルミンツ侯よりも――信用に足る同盟相手だった。王が自国の命運を懸けての申し出だ。心からのものに決まっている。
「神の名を口にした以上は今更できないなどとは言い出すまい。良いだろう、雪の女王の娘とやらの威光がどれほどのものか、見せてもらおうではないか」
「陛下! 女の言葉で剣を収めるものがいるとでも!? 時間を無駄になさいますか!」
リカードがまた喚いたので、ファルカスは玉座に掛けながら軽く笑った。娘のために側妃の存在を認めようとしないこの老人がうるさいだけで、他の者たちは元王女の提案に異を唱えようとはしていない。人質の女の言い分をまるごと信じたということもないだろうが、とりあえず成り行きを見てやろう、という程度には興味を持っているようだった。
「何も無限に時間を与えようという訳ではないぞ。せいぜい三日か……それで駄目なら反乱を潰した上で改めてその女の首を刎ねれば済むことだ」
「ですが陛下!」
「それにな、舅殿。俺は死体を抱く趣味はないぞ。せっかく想いを寄せてくれているものを、簡単に殺すのは惜しいだろう?」
言いながら手を宙にかざし、彼我の距離ゆえに人形のように小さく見える元王女の肢体を撫で回す手つきをしてみせると、広間のそこここから下卑た忍び笑いが沸いた。
ファルカスには父である先王が何を思って無駄に側妃や寵姫を侍らせて、しかも彼女たちを争い死なせたのか分からない。分かりたくもない。世継ぎさえいれば、例えリカードと決別してもミーナ以外の妻は不要だと思っていただろう。腹違いの兄弟同士で争い合うなど、無為に国を疲弊させるだけで益は何もないのだから。
だが、臣下たちはそのようなことを言っても信じないだろう。父に限らずイシュテンの王は色を好み、美姫を求めるものだった。だから――これもまた腹立たしくはあるが――美貌の人質を惜しんで戯れに耳を傾けたと見せた方が受け入れられやすい筈だった。
そして、品性に欠けるやり方で揶揄されたにも関わらず、ファルカスが期待した通りに元王女は表情を変えることをしなかった。それどころか、陽光に煌く新雪のように、華やかな笑みを浮かべると彼女は深く跪いた。
「三日もいただければ十分と存じます。陛下のご寛容に心から感謝申し上げます」
――感謝などしていないだろうに!
元王女の言葉も仕草も、ことごとくが勝ち誇って皮肉っぽく感じられた。だが、当然この娘も言いたいことが山ほどあるのを呑み込んでいるに違いない。
口付けようとしただけで顔を真っ赤にして暴れだした様子からして、男女のことにはまったく経験も知識もないのだろう。広間を埋める男たちから浴びせられる好奇の目は、身分高い娘には耐え難いものに違いない。言葉に刺があると聞こえるのは、不本意な扱いへの怒りが滲んでいるからかもしれない。
だが、今この時に限っては、普段なら不遜だと感じるであろう強情な態度が好ましいと感じられた。頼もしい同盟相手とさえ思えたのかもしれない。小娘相手にまったく不思議なことではあったが。
白い顔に影を落とす長い睫毛を眺めながら、しみじみと考える。
――俺はこの娘を抱くのか?
元王女に対してつい最近まで抱いた苛立ちは、今はない。だが、女として見ているかというとまた違う。美貌を認めるのと女として欲望を覚えるのはどうやら別の話のようだった。卑猥な冗談の種にしたすぐ後であっても、実際にこの娘をどうこうする場面はどうも浮かんでこなかった。
本人にしてもどう考えているのだか。憎い仇であろう相手に、命を奪われると貞操を奪われるのと。一体どちらがより悪いのだろう。
とはいえそのように埓もない想像で無駄に沈黙することは彼には許されないことだ。場の空気を塗り替えるように、ファルカスは一段と声量を高めた。
「ミリアールトへはすぐに発つことになる。この上お前と話すことはない。下がって旅立つ支度をするが良い」
「御意。……私が成功した暁には――」
「先の誓いを反故にすることはしない。ミリアールトは引き続き守られる。お前も側妃として迎えてやろう」
確約を引き出して、元王女は満足そうに頷いた。
「まことにありがたく存じます」
元王女は跪いた姿から更に頭を垂れると、優雅な所作で立ち上がった。それに寄り添うのは、王の目配せに応えたアンドラーシだ。先ほど立ち止まってしまってからずっと半端な位置に控えていたのだ。
元王女の鮮やかなドレスと金の髪が、濃く暗い色の衣服に重い武装をまとった男たちの様々な表情を照らすように過ぎ去っていく。真冬の戦いの予感に緊張した顔、あるいは間近に眺める美姫の横顔に緩んだ顔。それらに比べると、元王女の凛とした表情はいかにも毅然として気高く、冷たい美しさを誇っていた。
「さて――」
元王女が退出したのを確認すると、ファルカスは臣下を見渡した。
「あの娘の話は別として、ミリアールトに赴く者を選ばねばならぬ。諸卿らは懸念しているかもしれないが、女の言葉に全てを賭けるほど俺は愚かではないぞ」
仮に人質の言葉を信じて軍を送ることはしない、などと言い出せば、彼はこの場で王位どころか命を失いかねない。元王女に説得させるのは、飽くまで余興でなければならないのだ。
そして武力でもって圧力をかけるのは、単に牽制というだけではなくあの娘の援護になる筈だった。女神の化身たる女王が戻れば、反乱軍は沸き立つだろう。普通はそこで徹底抗戦の構えになるのだ。それを、抵抗を諦めて服従させようというのだから彼らにも降伏する口実が必要だ。例えば、大軍に囲まれて女王の命を救うためには仕方なく、というような。
あの娘が申し出た同盟に乗ったからには、彼の方でも取引の成就に尽力しなければならない。
「ならばティゼンハロム侯の一門からお選びになるのがよろしいでしょう。あの娘の言うことが真実ならば、此度のことは全てその者の不始末に他ならない!」
ハルミンツ侯がいまだ晒されたままの元ミリアールト総督の首を指差して喚いた。徹底して自身の派閥から兵を出したくないようだった。
――雪と寒さが恐ろしいか? それとも俺の背後を討つつもりか?
「それも一理ある」
思惑があまりに見え透いて滑稽なほどだったので、ファルカスは鷹揚に微笑んで答えた。
「だが、俺は先年ミリアールト侵攻を決めた際のことをよく覚えている。諸卿らは俺が選んだ者たちが偏っていると、大変不満そうだった」
あの時彼は、ジュラやアンドラーシを始めとした腹心と呼べる者たちばかりを選んでミリアールトを攻めた。もちろん彼らに実戦経験と武功を積ませて王の力を強めるためだ。下手に大貴族の息が掛かった者を伴って、足並みを乱されるのも嫌だった。
だが、今はまた話が違う。元王女のお陰もあって実際に剣を交える事態になる見込みはやや薄い。何より冬のミリアールトで腹心の手勢を消耗させたくはない。
「王は全ての臣下に対して公正でなければならぬ。先年伴った者たちとは別の者を選ぶべきだろう。そして、一族の者の無能ゆえに反乱を許したティゼンハロム侯の責任は確かに重い。乱の鎮圧で容易く手柄を与える訳にはゆかぬ」
ファルカスの言葉に、ハルミンツ侯とリカードが同時に嫌そうな顔をした。前者は、彼が続けることを予想して。後者は、不名誉を晴らす機会を奪われたことに対してだろう。
いずれも、彼に密かに敵対する者たちの渋面で、目にすることができるのは大変愉快なことだった。だから彼は笑顔でハルミンツ侯の一族が並ぶ辺りに視線を送った。
「という訳だ。ここはハルミンツ侯の一門から選ぶのが妥当だと思うがどうだろうか?」
元王女は彼を同盟相手に選んだ。ブレンクラーレの後援があるらしいティグリスからも誘われたということなのに光栄なことだ。であれば、下らない内紛で力を削がれる訳にはいかない。あの娘は服従と引き換えにミリアールトを守ることを求めているのだから。
この際、余計な悪巧みができないように不穏な一派は引き裂いておくのが良いだろう。