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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
9. 冬の嵐
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雪の女王の娘 ファルカス

 ファルカスの心中では怒りが煮え滾っていた。彼にはこの場の何もかもが気に入らない。


 まずはやけに安らかな死に顔を晒しているミリアールトの()総督。役目をまともに果たすことなど期待してはいなかったが、この真冬に反乱を許すとは無能にも程がある。

 次いでリカード。一刻も早く対策を練らなければならないという時に、元王女を引き出すことに固執した。そうまでして元王女を辱めて殺したいのか、あるいは彼の失策を望んでいるのか。いずれにしても忌々しいことこの上ない。

 そして上辺だけは殊勝な顔で広間に並ぶ貴族共も。一部の腹心と呼べる者たちを除いては、皆王の資質を品定めしてやろうとほくそ笑んでいるのが見て取れる。

 口を慎めと言ったばかりなのに堂々とリカードを挑発してみせたアンドラーシも、後で叱らなければならないだろう。


 全て、彼の非力の結果だ。王を名乗りながら自国の宮廷すら意のままにならぬ体たらくに苛立ちが募り、柄にもない後悔が胸を過ぎる。


 ――ミリアールトを攻めたのは尚早だったか……?


 ミリアールトの乱を鎮めるのは可能だろう。だが、それにはリカードを始めとする大貴族の協力を仰がねばならない。金も兵も、彼の独断で動かせる範囲は限られているのだ。玉座の肘掛を、指先に痛みを感じるほどに強く握り締める。年寄りどもに借りを作るなど、考えるだけでも怒りで神経が灼き切れそうだった。


「陛下? 申し上げてもよろしいでしょうか」


 だが、この場でもっとも気に入らないのは、この期に及んで余裕ぶって笑みを絶やさないミリアールトの元王女だ。自分が生きるか死ぬかという時に、涼しい顔で発言の許しを乞う図太さが憎たらしい。


「許さぬ。黙れ」


 この娘に口を開かせると碌なことにならないのは既によく承知している。ゆえに即答で命じたいうのに──元王女は、聞こえなかったかのようにあっさりと彼の言葉を無視して朗々と澄んだ声を響かせた。


「先の総督殿が仰った通り、グニェーフ伯爵が好んで私の命を危険に晒すなどあり得ません。一体何が起きたのか、全く不思議でなりません」


 ――それをこの場で問うてどうなる。


 ジュラからは真冬に兵を動かすのはミリアールトでも滅多にないことだと報告を受けている。雪と寒さの恐ろしさを、かの地の者こそ誰よりよく知っているから、と。だからこそ、総督の交代を春まで延ばしたし、それくらいは持ちこたえるだろうと期待していたのだ。首だけになった男はよくよくのことをしでかしたのだろう。それこそ例の狩りの一件のように、まともな頭では考えつかないようなことを。度し難い愚者の振舞いを推し量るなど時間の無駄だ。まして、取り返しのつかない過ぎたことならなおのこと。

 遥かミリアールトで何が起きたかを知る者はこの場にいないし、そこ取りざたする必要もない。重要なのは現に乱が起きたというだけのこと。

 元王女の発言は――自身の命のためか祖国のためかは知らないが――下手な時間稼ぎでしかなかった。


「思い上がっていたな。女の命に一国と同じ価値があるはずがない。――読み違えていたのは陛下もご同様とお見受けしますが」


 更にリカードがわざわざ相手をしてやるので、ファルカスは内心で舌打ちをする。王が黙れと命じたのを無視した上に、例の誓いを持ち出して当てこするとは。元王女を呼び出して嬲ろうとしたのもこの老人だったが、この娘が見苦しく泣き叫ぶはずなどない。相手にすればするだけ、思い通りにならない苛立ちを味わわさせられるだけだろう。


 ――読み違えているのは貴様だ、狸め。


「そうでしょうか?」


 案の定、元王女は怯えなど微塵も見せずに心底意外そうに首を傾げた。それだけの仕草も、結っていない金髪がはらりと肩に落ちるのも、うんざりするほど美しかった。至急ということで呼び出したのに豪奢に着飾っているのは何様のつもりなのか。また女王などと自称し始めるのでは、と思うと危うくて仕方ない。


「何を言おうと貴様の命運は定まっている。叛徒の前で首を刎ねる、と。そう申し伝えるためだけに呼び出したのだ。もう下がれ。

 ――アンドラーシ」


 必要以上に強く叱りつけたのは、これ以上口を開かせないためだった。生意気な物言いでイシュテン貴族の反感を買うようなことがあれば、この場で殺さなければならなくなる。

 故郷を見せてから、苦痛を与えることなく剣の一閃で命を断つ。妻の命を救い、恩義さえ負ってしまった相手に対し、その程度の慈悲でしか報いることができないのも、ファルカスには腹立たしくてならないのだ。


 だが、アンドラーシに合図して娘を退出させようとした時、元王女は一際高らかに述べた。


「『我が君、我が王よ、臣たる我の問いを解きたまえ』」


 先ほどと変わらぬ淑やかな女の声だ。いかに澄んで美しい声でも、黙らせるのは容易なはずだった。ジュラが以前言ったように、そしてイルレシュ伯がやろうとしたように、女の身体は脆いものだ。怒鳴りつけても黙らないなら拳でも剣でも脅すことはできるはずだった。そうさせられること自体が、屈辱といえばそうなのだが。

 だが──忌々しいことに元王女の声には周囲を圧倒する響きがあった。進み出ようとしたアンドラーシが足を止めてしまったほど、堂々と、朗々と。元王女は歌うように詠み上げる。


「『汚名負わされしかの将が行いは善なりや否や? 強いられ汚され無垢なる花を散らしたおのが娘を、その右腕で殺めしは?』」


 そう、詠み上げているのだ。口語ではない古い言い回しといい、どう考えてもこの場には即さない内容といい、この娘は何かの節を引用している。それは、おぼろげながら理解できる。


 ――だが、何を言おうとしている?


 元王女のあまりに突飛な行動に、ファルカスは一瞬対応が遅れた。この娘自身のためにも、何としてもすぐに止めさせなければならないと分かっていたのに。


「『いかにも善なり』」


 その隙に答えたのはファルカスの傍らにいたリカードだった。それを聞いて、元王女の唇が優雅に弧を描き、更に古めかしい言葉――劇の台詞のような――を紡ぐ。


「『してその理由は、我が君?』」

「『娘は恥を晒して生きながらえてはならず、娘の呼吸そのものが父の悲しみを新たにするがゆえに』」

「『なんと強く確かな、そしてもっともな理由か! 故事によって裏付けられ今日でも理にかなう! 我が身には最もおぞましき行いではあるが――愛しき娘よ、父の手で死ね。そなたの恥もそなたと共に――』」


 呆然と、呟くようなリカードに対して元王女の言葉は淀みなく滑らかだった。死ぬだの殺すだのという物騒な単語に彩られていながら、声の調子は飽くまで軽やか、顔には艶やかな笑みが浮かべられている。


「『そして、そなたの恥と共に父の悲しみも死に果てる!』」


 元王女の高い声は広間によく響いた。その残響が消えていくのを聞きながら、ファルカスはミリアールトのグニェーフ伯爵とやらが反乱を起こした理由が何となく分かったような気がした。分かったところでやはり何の益もなかったが。


「何の引用だ、舅殿」


 元王女と、リカードと。どちらに聞くのも腹立たしいことには違いないが、まだしも後者の方が面倒が少ないと判断した。元王女はいまだにイシュテンの気質を分かってはいない。この場の大半の者に上回る教養をひけらかしても、感嘆で迎えられることなどないのだ。逆に、女の癖にと反感を買うだけだ。

 だが、元王女はまたも彼の気遣いを無視した。


「既に滅びた古い国の逸話でございます、陛下。ある将軍の娘が女として最も忌まわしい犯罪の餌食となりました。犯人を突き止めた将軍は、その者を――王妃の縁者でもある者だったのですが――主君の前で告発しました。その際の将軍と王の問答でございます。

 将軍は犯人に復讐して正義を行った後に自身の娘をも殺して恥を(そそ)ぎました。ですが、王妃のために怒った王によって死を賜ったのです」

「自身の身の上になぞらえたつもりか? だが――」

「貴様は犯されてなどいないではないか!」


 王を差し置いて怒鳴ったリカードを、ファルカスは横目で睨んだ。黙れ、と命じようとして――気付いてしまう。アンドラーシの野次によってざわついていた広間が、すっかり静まりかえっている。元王女が滔々と述べた、意味の分からないようにも聞こえる口上がリカードを激昂させた。その顛末を、誰もが興味を持って見守っているのだ。


「仰る通りでございます、侯爵様。ですが、これは愚かな女の推測に過ぎませんが――」


 場の主導権を握ったのを確信してか、元王女は意味ありげに言葉を切り、周囲を見渡すことさえして見せた。そして期待通りに注目を集めているのを確かめると、す、と指先を持ち上げてミリアールト()総督の生首を指し示す。これもまた、張り詰めた銀の糸で繰られる人形を思わせる、嫌になるほど美しく優雅な仕草だった。


「この場の皆さまがどこまでご承知かは存じませんが、そのお方は私に対して――あいにくこの国の言葉で何と言えば良いか知らないのですが――大変卑劣な企みを抱き、そして失敗しました。ミリアールトでの勤めを言い渡されたのも、その咎ゆえと伺っております。

 ここで戦馬の神を戴く方々にお伺いしたいのですが――いわば敵国にて、女に後れを取ったなどと認めることができる方はいらっしゃいますでしょうか」


 幾つかの口から漏れた溜息が静かな漣となって広間を揺らした。侮蔑や呆れ、そして納得が篭った溜息だった。一部の者は──ファルカスのように──元王女が言わんとすることを察したのだ。


「イシュテンは武を重んじ馬を駆けさせるのを何より愛するお国柄でございましょう。法となるのは言葉よりも剣。

 なのにこの細くか弱い手足の私を、剣を持ったこと血を流したこともない小娘を逃がしたなどと、どうして口にできましょうか。戦馬の神は強く猛き戦士こそを嘉したもうのでしょうに。

 ですからそのお方はきっとこのように言ったでしょう。思い上がった女を痛めつけて思い知らせてやった、と。あたかも、口にするのも考えるのも汚らわしい企みが成功したかのように!」


 ざわめきがより大きくなった。多少察しの悪い者も分かり始めたのだ。今回の反乱が度し難い愚か者の大言壮語に起因している可能性が極めて高いと。元王女が語ったことは、例の狩りの件を知る者には――つまりはこの場の全員だが――非常にありそうなことに聞こえた。

 ジュラが冬の戦いの陰惨な絵を述べた今、バカの尻拭いのために命を懸けたいと思う者はいまい。元王女は、言葉だけでミリアールトの雪の嵐をこのイシュテンに呼び起こしたのだ。

 美しく不吉な娘は、動揺を見せた男たちをいっそ哀れみの目で見渡した。


「……グニェーフ伯は故事に倣って、死を持って私の恥を雪いでくれようとしているのだと愚考いたします。もちろんかの将軍のように、事が成就した暁にはご自身も生きながらえるつもりではありませんでしょう。最後の一兵までも、イシュテンの軍と戦って死ぬ覚悟でいらっしゃることと思います」


 ――何とバカバカしい……!


 ファルカスは怒りを抑えようと奥歯を噛み締めた。

 元王女が何と言おうと状況は何一つ変わっていない。乱を起こしたからにはミリアールトは潰さなければならないし、人質は反逆の咎を負わせて殺さなければならない。

 だが、元王女は見事に彼の臣下の士気を(くじ)いてくれた。それを鼓舞し叱咤するのは王たる彼の役目ではある。そうではあるが、彼自身、これほどにバカバカしい理由、過酷な季節、更には死を覚悟して立ち向かってくる敵のことを考えると、大いにやる気を削がれている。そもそもの発端からして、愚か者どもの無軌道を御しきれなかったせい。()()のために挙兵したグニェーフ伯とやらにこそ大義がある戦いだ。たとえ勝っても、ファルカスは決して誇ることができない。


 ――だから諦めろと言いたいのか?


 誇らしげに嗤う元王女を睨みつけつつ、ファルカスは玉座から立ち上がった。既に戦うと宣言した以上、女の言葉でそれを翻すことなどあり得ない。元王女が何を考えているにせよ、イシュテンの王は弱気を見せてはならないのだ。


「女の言葉に臆するな! 死を覚悟しているというなら望み通り屠ってやれば良い! グニェーフ伯とやらは老齢だという話ではないか。年寄りの最後のあがきになど決して怯むな!」

「ですが陛下、犠牲が皆無という訳には参りますまい」


 王の言葉に楯突いたのは、今度はハルミンツ侯だった。緊張に顔を強ばらせつつ、良い歳をした男の癖に元王女よりもよほど弱々しい声で奏上する。


「その娘に手を出したのが問題だというなら、加担した者どもの首を渡してやれば剣を納めるのでは? どの道大した能もない者どもだ――」

「何を言うか!」


 顔を顰めたファルカスよりも先に、リカードがその言葉尻に噛み付いた。


「実際娘は無事なのだ! どうしてそこまで譲らねばならぬ!?」

「真冬のミリアールトで戦いたい者などいるものか! 貴様の一族の不始末になぜ我らが巻き込まれねばならぬ!」


 ――このバカども、本当に斬ってくれようか。


 ファルカスは思わず剣の柄に手を掛けた。抜剣しなかったのは、この十年ほどで培った忍耐力によるものだ。ここまでくだらない言い争いはさすがに稀だが、閥を従える大貴族というものはとりあえず半目し合うものなのだ。

 更にそこへ、涼やかな声が響き渡る。


「陛下のお怒りはまことにごもっともと存じます。ミリアールトの()王族として、伏してご寛恕を奉る次第でございます」

「黙れと命じたはずだ。貴様から聞くことなど何もない」


 リカードたちへの苛立ちは、そのまま元王女へと向けられた。殊勝なことを言ってはいるが、表情は相変わらず薄笑いすら浮かべているのだ。悪いなどとは欠片も思っていないのは明らかだった。


 ――女王を名乗らなかったことだけは褒めてやるが……!


「ですが陛下、これは不幸な誤解と行き違いの結果です。陛下は誓いを守って私を庇護してくださいました。祖国の者がそのお心を知らぬままなのが、心苦しくてならないのです」

「知らせてどうなる。一度兵を起こした者が今更引き下がる筈もない」

「引き下がります。私が命じれば」


 元王女の声はあまりにも自信に満ちていたので、一瞬その場の誰もが言葉を失った。


「バカな。女の命令など……」


 凍てつくような沈黙の後、呟いたのはリカードか、ハルミンツ侯か。いずれにしても愚か者だ。元王女が浮かべた笑顔を見れば、この女がその言葉を待っていたのは明らかだった。


「ミリアールトの者たちは、その女ひとりのために反乱を起こしたのです。そのことをお忘れくださいませんよう」


 ファルカスは忘れてなどいない。この娘ひとりを救うために、ミリアールトの王族たちはこぞって命を投げ出した。リカードよりもハルミンツ侯よりもよほど、あの者たちは誇り高く敬うべき矜持の持ち主だった。グニェーフ伯もそうだというのなら、まさか──


 ――()()の命令ならば聞き入れるか? 死を覚悟した者たちが?


「祖国が私のために立ったのは、単に元王女だからというだけではありません。ミリアールトの女神の名を思い出してくださいませ。美しくも恐ろしく、気高くも残酷な雪の(コロレファ)女王(・シュネガ)でいらっしゃいます。そして先ほど侯爵様が仰ったように、雪の女王は人の娘にご自身のお姿を与えてくださいました」


 矢のように鋭い視線を四方から浴びながら、それでも元王女は泰然と微笑んだ。両手を掲げてその完璧な曲線を描く肢体を示し、周囲にその神々しいまでの美を見せつける。


「私は雪の女王の娘です。亡き父母に限らずミリアールトの全ての民は私の父であり母であり、私を愛し崇めています。

 ――私は、ミリアールトの娘なのです」


 ファルカスは元王女を見下ろした。高みにある玉座の前に立ったことで、娘は遥か下に位置するはずだった。しかし、生意気に輝く碧い瞳が妙に近く感じる。彼の他には気付いている者もいないだろうが、これは王と王との対話なのだ。


「神の娘はミリアールトの民に何を命じる?」

「戦馬の神の騎手たる王に従うことを。ミリアールトは将来に渡って陛下に忠誠を誓います」

「貴様の国は既に一度誓いを違えた。その者たちの言葉をどうしてまた信じられる?」

「証を差し上げます」

「どのような?」


 問いながら、ファルカスはその答えを既に知っていると思った。何もかも元王女の思い通りに進んでいる気がしてならなかった。

 不機嫌に睨みつける視線の先で、元王女は一際晴れやかに笑った。


「この私が、側妃として陛下にお仕えいたします」

シャスティエの台詞はシェイクスピアの「タイタス・アンドロニカス(Titus Andronicus)」を参考にしています。

シェイクスピアは著作権の保護期間が切れているので、また、翻訳は作者によるものなので、権利的には問題ありません。

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