王と諸侯 アンドラーシ
元王女は随分と身支度に時間を掛けているように思われた。もっともアンドラーシには女の衣装のことなど分からないから、焦り苛立つ気持ちがそう思わせるのかもしれない。あるいはあの気丈な姫君の命を惜しむ思いからだろうか。
手持ち無沙汰に待つ間に、剣の柄を弄びながら考える。王は元王女の首を刎ねるつもりなのだろうか、と。
どのように考えを巡らせても答えは是、だ。
王が過分と言われるほどに元王女を庇護していたのは、ミリアールトの服従と引換に彼女の安全を誓ったから。ミリアールトの方から約を違えた今となっては、元王女を生かしておく方が神掛けた誓いに背くことになる。
例えそれが、王自身の意思に反するとしても。
――姫君を生かす口実はあるか……?
王が密かに抱いているらしい負い目は理由にはなるまい。女相手に恩義を感じているなどと、イシュテンの王が口に出すことは許されない。臣下への対面からも、王の矜持からも。
では、単に殺す以上に辱めるのはどうだろうか。
――下賜を願い出てみるか。あの方をこの俺の妻に、と。
先日主君に言われたことを思い出して、アンドラーシは苦く笑った。
彼としても王の子を産んで欲しいという企みを越えて、元王女に親しみのようなものを感じ始めてはいる。彼女が生き残る道をあれこれと模索し、女としては好みでないのを度外視しても妻に強請ろうかと考えるほどに。呆れるほどに高い矜持をへし折ってでも、死なせるのは惜しいと思ってしまうのだ。大した領地も持たない男の妻に下げ渡されるのは、元王女には死にも増して耐え難い屈辱だろう。世の者が見ても納得する辱めになり得るかもしれない。
だが、それも通りそうにない。
彼だけが特別に美姫を得る理由が見当たらないのだ。先のミリアールト遠征での論功行賞は既に済んでいるし、新年の宴で元王女に怪我をさせたのはむしろ失態と言えるだろう。この状況では何であっても王に強請ることなど思いもよらない。万が一にも叶えられることがあっては王の公正が疑われることになってしまう。
結局、彼は黙って成り行きを見守ることしかできないのだ。
「お待たせいたしました」
儘ならなさに歯噛みしたちょうどその時、元王女が身支度を終えて現れた。この姫君が美しいのはいつものことだが、盛装すると一際周囲を圧倒するような威厳を漂わせている。
白く光るような生地のドレスはミリアールトの王宮で初めて見た時に纏っていたものと同じだろうか。絹の艶やかさ、首元を飾る真珠の柔らかい輝きにも負けない滑らかな白い肌。全て結い上げずに背に流した金の髪も碧い瞳も凍ったように冴えた色に見える。溜息ひとつで雪をもたらすことさえできそうな。かの国が奉じる女神、雪の女王が顕現したらかくや、というところだろうか。人の身を女神に擬えるのも、この方ならば全く不遜ではないだろう。
「陛下をお待たせしてしまいますね。早く参りましょう」
「……はい」
既に覚悟を決めているのか、恐怖を見せまいとしているだけなのか、元王女の凍てついた表情からは読み取れなかった。彼も今それを問うほど無神経ではない。
だから黙ったきりで王宮の廊下を歩み、王の待つ大広間へと向かう。その道行きは、慣れているからというからだけではなく、ひどく短く感じられた。
「姫君――」
この上アンドラーシにできることなどないが、この人が死ぬところはできれば見たくない。だから広間へと足を踏み入れる前に、忠告めいたことを口にする。きっと激怒するのだろうと分かっていても、言わずにはいられなかったのだ。
「ご気性は重々承知しているつもりですが、今度こそ口は慎んでくださいますよう。貴女は美しい。涙を流して命乞いすれば陛下やティゼンハロム侯も心を動かされることがあるかもしれません」
「お気遣いありがとうございます。ですが私はもう泣き喚いたりなどいたしません」
だが、予想に反して元王女はほんのわずか唇の両端を上げると冷たい微笑を作った。
「これでも貴方のご親切には感謝していない訳ではありませんの。ですから今のうちに申し上げておきますね。――ご期待通りにならなくて、申し訳ございません」
――どういう意味だ?
遺言めいた言葉に眉を寄せるが、その真意を問うことはできなかった。彼らの到着を悟ったらしい侍従によって、広間への扉が内側から開かれたのだ。王やリカードを始めとした貴人の視線を前に、これ以上の無駄口は許されない。
元王女を王の御前へ届けると、アンドラーシは地位相応の下座に下がる他なかった。
広間には既に多くの貴族が居並んでいる。イシュテンにおいては貴族とはほぼ即ち戦う者だから、王は軍を動かすことを想定して王都近くにいた者たちだけでも緊急に呼び集めたのだろう。王の気性からして分かりきったことではあるが、やはり戦わないという選択はあり得ないようだ。
――相手が他であれば喜べるのだがな。武功を立てる機会は歓迎だ。
元王女の首が落ちるところを想像してやや暗い気分になりつつ、アンドラーシはジュラの姿を見つけてその隣に陣取った。
「陛下からお言葉は?」
ミリアールトとは浅からぬ縁のある友人は、苦々しい顔で首を振った。数ヶ月の間とはいえ王の意を受けて彼の地を鎮撫するべく尽力していたのだ。今の事態には彼以上に思うところがあるのかもしれない。
「まだ何も。姫君のお出でを待っていたところだ。……どうも陛下のご意思というよりはリカードが引き出せと主張したようだ」
「晒し者にしようというのか」
「そういうことだ」
悪趣味だな、と呟いた声が友の耳に届くことはなかった。遥かな玉座の高みから、王の声が響いたのだ。
「よく集まった。諸卿らを呼び集めたのはミリアールトからの急の使いに応じるためだが――」
王の目線に応えて、黒ずんだ木箱が広間の中央に運び込まれた。その大きさから、アンドラーシは何となく中身を察した。広間に並んだ者たちも同様だろう。従者が箱の中から生首を取り出しても、さしてざわめきは起きなかった。敵のものだろうと味方のものだろうと、彼らにとっては珍しいものではない。ただ、はるばるミリアールトから運んだにしてはそれほど腐敗もしていないのが少しだけ不思議だった。
「氷漬けにしたのだろうよ。何しろ雪と氷は幾らでもあるからな」
そしてその疑問もジュラの呟きによって答えが与えられる。アンドラーシは小さく頷きつつ、王の続く言葉に意識を集中させた。
「顔を知っている者もいるだろうがミリアールトの総督――だった者だ。どうやら父の死を知る間もなかったようだがその点だけは幸運な男だったな。命令を全うできなかった無能は父と変わりないが」
王の声にも表情にも抑えた怒りが滲んでいた。ミリアールト総督の人事に横槍を入れられた時から懸念していたにも関わらず、最悪の事態が実現してしまったのだから無理もない。しかも、リカードあたりはむしろこうなることを期待していた節がある。王の戦果が無になり、その権威が損なわれることを。
そして、王の怒りはリカードや無能者に対するものだけではないだろう。背いたミリアールトよりも何よりも、半ばは予想していたことにも関わらず有効な対応を取れなかった、自身の力不足にこそアンドラーシの主君は激怒しているはずだった。
「生首と共に届けられた要求は二つ。一つはミリアールトの解放。今ひとつは元王女の――そこの娘の身柄を引き渡すこと、だ」
「叶えてやるおつもりですか」
上座の方から野次のような声が上がった。声だけで何者かを判じることはできなかったが、いずれ有力な家の者だろう。王の態度を、イシュテンの君主に相応しい覇気を持つかどうかを試そうとしての発言だ。
「バカげたことを」
王も発言者の意図はよく伝わっているのだろう。声に潜む険が増した。
「今日まで寛大に遇してやったのはその娘の安全と引き換えに服従するという取引ゆえだ。誓いを違えた上に人質の身柄を要求するなど図々しいにも程がある。分を弁えぬ商人どもにイシュテンの騎馬がいかに報いたか、諸卿らもよく知っているだろう」
ミリアールトの叛徒を強欲な商人に例えた王の言葉に、幾人かが満足そうに頷いたのが見えた。王の態度は彼らの意に適ったのだ。しかし王に課される試験は一つだけでは終わらない。
「ではその娘の首を刎ねますな? 賊どもの望む通りに人質を返してやればよろしい。必ず生きて返せなどとは申していないようではありませぬか?」
いっそ嬉しげに進言したのはティゼンハロム侯リカードだ。実際愉快でたまらないのだろう。元王女の美貌は王妃にとっては脅威になり得る。加えて、数ヶ月も前の狩りで恥を掻かされたのを、この老人はなぜか元王女のせいだと考えているらしい。
――腹黒爺が……!
いたぶるように厭らしい笑みを浮かべた老人こそ、できることなら首を飛ばしてやりたい。しかし仮にも王の義父、宰相に対してそのようなことができる筈もなく、アンドラーシはただ拳を握って怒りを呑んだ。そして王の答えに備えようとした。
王の意思に関わらず、リカードの言に否とは言えないのだ。反乱に対して容赦はしないと王自身が今述べた。ここで弱気を見せて臣下に不信を抱かせてはならないのだ。元王女の命運もここまでだ。
アンドラーシのいる場所からは元王女の背中しか見えない。いつものようにぴんと背筋を正して金の髪を煌めかせているが、この姫君はいったいどんな表情をしているのだろう。好奇と好色の目に晒されるのは屈辱だろうが、それで恐怖を忘れられるものだろうか。アンドラーシには死を命じられるのをただ待つ者の心持ちなど想像もできない。彼なら、命が尽きるその瞬間まで剣を手放すことはないだろう。だが、か弱い姫君は戦う術がない。この状況ならば、いっそ恐怖を味わう時間は短い方が良いのだろうか。
──陛下なら、無駄に苦痛を長引かせることはなさるまいが。
諦めたような祈るような思いでアンドラーシは溜息を呑んだ。──だが、次に発言したのは王ではなかった。彼のすぐ隣にいた男――ジュラが、一歩進み出ると叫ぶように声を張り上げたのだ。
「恐れながら陛下にお伺いしたきことがございます!」
ジュラの声に、傍らにリカードを睨んでいた王は、彼らが立つ方へと目を向けた。その表情に、安堵のようなものが見えた気がするのはアンドラーシの邪推だろうか。王も、やはり元王女を殺したくはないのではないだろうか。だから、その時が来るのを引き延ばそうとしているとか?
「許す。何だ?」
「反乱を率いるのは何者でしょうか。要求に署名はあったのでしょうか」
アンドラーシたちがいるのは広間の端に近い。よって主従のやり取りはその場にいる者全員の耳によく届いたことだろう。
「グニェーフ伯爵なる者だ。知っているのか?」
アンドラーシが見守る中、ジュラは大きく頷いた。緊張に硬く強ばっていた表情に、わずかながら希望の光が射したように見える。
「は。ミリアールト王家に忠誠篤い老臣でございます。臣がかの地にいた間は血気に逸る者共を抑えることさえしてくれました。それも全て、元王女の身を案じるがゆえのことでございます」
「迂遠だな。何が言いたい?」
「グニェーフ伯が元王女の死を望んでいる筈がございません。その者の――」
と、言いながらジュラは物言わぬ生首を目線で示した。
「統治に不満があったのは事実だろうとは存じますが。ミリアールトの解放などという要求が通るなどとはあちらも期待しておりませんでしょう。姫君さえ返せば無血で事が収まる可能性は十分にあると愚考いたします」
「正しく愚考だ! 叛徒と交渉せよと申すのか!?」
断じたのが王ではなくリカードだったからだろう、ジュラは声を荒げて反駁した。
「では真冬にミリアールトを攻めるのが上策と仰るか!? 明けぬ夜の中、雪に脚を取られながら馬を進ませるのが良いと!? 河に張った氷が、確かに渡れるのか半ばで砕けるのか見分けられる者はこの場にいらっしゃるか!? 装備も燃料も糧食も、他の地を攻めるのとは話が違う。雪が溶けねば馬に食わせる牧草もない! 奴らは特別に守りを固める必要さえない。雪と寒さが天然の盾となり剣となって我らを阻むのだ。ミリアールトが雪の女王を奉じるのには十分な理由があってのことだと知るが良い!」
ジュラの言葉の最後の音が響き渡ると、広間の空気はそれこそ凍ったようになった。
騎馬が活かせない、というのはイシュテンの者にとってあまりにも馴染まず落ち着かず――そして不吉な想像だった。雪も氷も馬の脚を傷め歩みを遅らせることだろう。戦いで死ぬことを恐れないのと、無謀な出兵を厭うのは話が別だ。誰も好き好んで異国で氷漬けにされようとは望まないのだ。
「では──」
重い空気を破って発言したのは、ハルミンツ侯爵だった。姉の寡妃太后の死はさほど心労にはなっていないらしく、以前会った時と変わらぬ顔色をしている。それでもその声はやや細く高く、王の機嫌を窺う気配があった。
「春になるまで侵攻を待ってはいかがか。雪さえなければ――」
「それこそ下策だ」
王は皆まで言わせず、心底うんざりとしたように斬り捨てた。
「冬が明けるまでに敵に守備を固める猶予を与えるのか。何より、反乱を起こされて放置するなどあってはならぬ」
「それは、すぐにミリアールトを攻めるとのご決断ということでございますな?」
すかさずリカードが弾む声で問いかける。ジュラの語った陰鬱な図を思い浮かべていないのか、あるいは王の権を削げるならそれで良いのか。獅子身中の虫を憎々しげに横目で睨みながら、それでも王は力強く断言した。
「当然だ。二度と逆らう気が起きぬように徹底するぞ。金に糸目はつけぬから雪にも寒さにも万全の対策を取れ」
次いで王は居並ぶ臣下を見渡した。その名の通り狼を思わせる鋭い視線に、アンドラーシも自然と背筋が伸びる。
「雪の女王が何ほどのものか。女の神を戴く国にイシュテンが敗れるとでも思うのか。猛き戦馬の神の蹄はあらゆる国のあらゆる土地を踏みにじってきたのではないのか。祖先の名を我らが貶めて良いはずがない! 馬上に生きる民の末裔ならば、雪も嵐も越えて見せよ!」
王の言葉は萎縮しかけた臣下の性根を叱咤するものだった。上位の貴族たちは、王を試すつもりで逆に彼らの性根を問われたことになる。彼らは恥じ入ったように、王に圧倒されたかのように自然と威儀を正した。だが――
「戦いの前には生贄が必要ですな」
王がこの場を支配したかに見えた瞬間、またもリカードが邪魔をする。進言の姿を借りた毒言でもって、王から主導権を奪おうというのだ。
「陛下。高慢な小娘の首を刎ねてくださいませ。まるでかの忌々しい雪の女王の化身のような娘ではありませぬか。その娘の血でもって雪を溶かし紅く染め上げれば自ずと士気も上がりましょう!」
――狸め。余計なことを。
「女を斬ったくらいで士気が上がるか。バカバカしい」
主の足を引っ張る者がいる、と思った瞬間、苛立ちまかせにアンドラーシは口を動かしていた。ジュラを始め、周囲の者たちがぎょっとしたように注視してきたが――まあ良いだろう。彼などはそもそも発言を許される立場ではないのだ。ただの声の大きい独り言だ。
とはいえリカードに対して含むところがある者は多い。それにアンドラーシと同じ思いの者も皆無ではないだろう。彼の発言は広間にざわめきを呼んだ。苦笑を浮かべて彼の方を振り向き、列を乱す者もいるほどに。リカードがあからさまに不快を表情に昇らせるほどに。
「まことにもっとも! 違いない!」
「若造が。大口を叩きおる……」
「殺すよりは犯した方が良いぞ!」
罵倒や歓声、野卑な野次が飛び交う広間からは一瞬にして先程までの緊張感が失われ、リカードは怒りに顔を紅潮させ、王は一層苛立ちを露にした。
王が鎮めようと片手を掲げた瞬間だった。
「恐れながら申し上げます」
涼やかな声が男どもの低い声の間を縫って高く響いた。考えるまでもなくこの場に女はただひとり。元王女の声だ。
「祖国が約を違えたのです。覚悟は既に定めております。ですが、陛下――」
元王族の威厳は流石だった。彼女に好色な目を向ける者も少なくなかったというのに、女に圧倒されるなど誰も思ってもいなかっただろうに、元王女の声は自然と並み居る者たちを黙らせ、耳を傾けさせた。
静寂が降り、十分に注目を惹きつけたのを確認するかのように間を置いてから、元王女は続けた。堂々と、明瞭に。ほとんど歌うように透き通る声を響かせて。
「私も申し上げたいことがございます。発言のお許しを、いただけますでしょうか?」
――なんと不遜な……!
アンドラーシは思わず笑った。
父や夫、息子に話しかける際に許しを求めるのはイシュテンの女がよく使う言い回しだ。実際に許可を与えるまで口を開くな、などと真面目に言う男は今時そうそういないだろうが、かつてそうであった時代の名残だ。アンドラーシも母や姉妹が言うのを何度も聞いたことがある。
だが、その言葉をこれほど傲慢に言い放った女は聞いたことがない。元王女がどんな表情をしているかはやはり分からないが、あの美しい嘲笑を艶然と浮かべている様が容易に目に浮かんだ。
――この女、大人しく殺される気など毛頭ないのだな。