凶報 ウィルヘルミナ
ウィルヘルミナの日々は表向き以前と変わりない。
マリカはあの恐ろしい夜の記憶を日々薄れさせ、健やかに成長している。シャスティエも、怪我はすっかり治ったそうで、哀れなほどに痩せていた頬も新雪の輝きを取り戻している。相変わらず王宮の外へ連れ出すことは夫が許してくれないけれど――あんなことがあった後では安全で穏やかな世界に閉じ篭って欲しいと願ってしまう。
更には、先日寡妃太后の訃報が届いた。幽閉の身を嘆いて自ら毒を呷ったのだという。哀れな女性の最期を悼むと同時に、ウィルヘルミナは安堵して、そしてそんな自分を恥じた。それでも、彼女にとってもシャスティエにとっても脅かされる恐れが減ったのは良いことのはずだった。
季節はまだ真冬だが、王宮の高い壁の中にいれば風も寒さも気にならない。日差しの温もりと、種類はわずかながらも色鮮やかな草花に囲まれて、春のように心地良い時を過ごすことができる。その、筈だった。
「シャスティエ様、とてもお上手になったわ」
「ありがとうございます。ミーナ様のご指導の賜物ですわ」
ウィルヘルミナの賞賛に、美しい少女は刺繍の手を止めて嬉しそうに微笑んだ。その白く細い手が描き出しているのはイシュテンに伝わる模様だった。ミリアールトではあまり刺繍をしないということなので、比較的単純な意匠を選んで、二人で相談して色を決めたのだ。まるで妹ができたようで、末に生まれたウィルヘルミナには大変新鮮で楽しいことだったのだが――
「私がシャスティエ様に教えるなんて、おかしいわね」
知識や教養から言えば、この歳下の友人の方が彼女を遥かに上回る。そんなシャスティエに教えられることがあるというのは、誇らしいと同時に不思議な感覚のすることでもあった。
「とんでもないことですわ。私、このように熱心に刺繍をしたのは生まれて初めてかもしれません。拙い腕で、お恥ずかしいことですけれど……」
「シャスティエ様はとても聡明でいらっしゃるもの。すぐに上達されるわ」
そんな、と呟いてシャスティエはまた微笑んだ。整った容貌に相応しい、宝石の煌きのような美しい微笑みだった。
冬の季節には珍しい、麗らかな晴れた日だった。美しく優しい友人と過ごす穏やかな一時、と言えるのだろうか。かつてのウィルヘルミナであれば躊躇いなくその通りだと頷いていただろう。しかし、今となっては彼女には目に見えるものをそのまま信じることができなかった。
――シャスティエ様、無理をして笑っていらっしゃるのではないかしら。
口に出して聞くことはできない――否定するに決まっているし、万一打ち明けてくれるとしてもそうと聞くのは怖かったから――代わりに、ウィルヘルミナは懸命に目を凝らした。シャスティエの微笑みに不自然なところがないか。目元や口元は強ばっていないか。瞳に浮かぶ暖かさは真実のものか。
どんなに笑顔の裏を透かして見ようとしても、ウィルヘルミナには自信のある答えなど出せなかったけれど。そもそも人を疑うのさえ気が咎めて仕方ないのだ。微笑んでいる人が実は心の中では違うことを考えているのではないか、など。つい最近まで想像だにしていなかったのだから。
「お顔の色もすっかり良くなって。本当に、安心したわ」
「ミーナ様からも陛下からも大変なお気遣いをいただいてしまいましたから」
他愛ない会話を交わす間も不安でならない。シャスティエが言葉通りに喜んでいるのかどうか。実際、この歳下の友人――彼女はそう思っている――の表情も態度も、最近どこか硬いように思えてならないのだ。
理由なら幾らでも思い当たる。
例えば先の宴のことだ。傍で見ていただけのウィルヘルミナやマリカでさえずっと漠然とした恐怖を感じているのだから、毒を呷った上に大怪我をさせられたシャスティエが忘れられないのも無理はない。
あるいは祖国のことを想っているのかもしれない。新年の宴以来、夫は常にも増して多忙なようだった。ミリアールトの総督の人事についての調整だという。ウィルヘルミナにはやはりよく分からないことだけれど、良い人が中々いないということなのだろうか。
シャスティエに対してもぼんやりとした説明しかできないから、かえって不安にさせてしまっているのではないだろうか。
――ファルカス様からお伝えしてくれれば良いのに。
夫は寡妃太后の訃報もミリアールトのことも、ウィルヘルミナからシャスティエに伝えさせた。
『あの娘はお前を信頼しているようだ。お前の言葉の方が信じるだろう』
それは、あるいは何もしないままで良いのか、とこぼした妻に対する夫なりの計らいだったのかもしれない。何かしら役目を与えればそんなことは言わないだろう、と。結局のところ彼女にできることなど大したことではないのだから、下手に口を挟むよりは王宮の奥で大人しくしていろ、ということかもしれない。ウィルヘルミナは最愛の夫の言葉さえ額面通り受け取ることができなくなってしまった。
「お国のこと――」
いたたまれなさに、つい脈絡のないことを口にしてしまう。
「春には次の方を送るそうなの。ファルカス様が選んだ方を。だから、心配ないのですって……」
そして驚いたように目を瞠ったシャスティエを見て、余計なことだったかとすぐに後悔することになった。夫や父のように堂々とした態度は、彼女には取れない。
――やっぱり私は駄目ね、こんなに突然言ってしまうなんて。
しかも、春といってもいつなのか、夫は誰を選ぶつもりなのか。ウィルヘルミナには詳細は知らされていないのだ。これでは安心することなどできないだろう。
忸怩たる思いを噛み締めるウィルヘルミナに、シャスティエは微笑みを絶やさずに首を傾げた。
「春に、ですか。まだ先のことでございますね」
「もうすぐよ。すぐに日も長くなって、暖かくなって――」
「ああ、ミリアールトの冬は長いものですから。ずっと先のように思えてしまいました。……こちらとあちらと、陛下はどちらの春をお考えになっているのでしょうね」
ウィルヘルミナが答えを知らないことは分かっているのだろう。シャスティエの言葉は問いかけるというよりも独り言に近かった。
「……北の冬はとても寒いのでしょうね」
相槌のように呟いて、分かりきったことしか言えない自分が恥ずかしくなる。暖かく心地良い日向にいることさえ後ろめたいように思えた。これも、ウィルヘルミナには馴染みのなかった感情だ。
「はい。それに夜が長いですから、何をするにも大変で。燃料も食料も、冬の準備のために一年があるような思いさえします」
「そうなの」
「それだけに、共に冬を過ごした者同士の絆は深いものです。次の総督には、一年をミリアールトで過ごしていただきたいものです。そうすれば、民にも認められるでしょうから」
「ええ、本当に」
ウィルヘルミナは懸命に頷いた。シャスティエの心を明るくできるような言葉が思い浮かばないのが情けなくて、彼女の方が俯きがちになってしまいそうだったが。
「ミーナ様、そのようなお顔をなさらないでください」
苦笑する気配に顔を上げると、シャスティエが間近にウィルヘルミナの顔を覗き込んでいた。碧い瞳に映る彼女の姿はまだ青白く、精気を欠いて見える。
「シャスティエ様。私、申し訳なくて」
「まあ、申し訳ないのは私の方です。ミーナ様を困らせることを言ってしまいました」
「いいえ、私が何もできなくて――知らないから」
眉を寄せて首を振ると、その動きを止めようとするかのようにシャスティエがウィルヘルミナの頬に触れた。かすめるように、ほんの一瞬だけ。
宴の後に見舞った時のように思い切り抱きしめて欲しい、と思うがそれは図々しい願いだろう。エルジェーベトのように幼い頃から共に育った相手ならともかく、シャスティエや彼女自身のように高貴な身分に生まれついたものは、普通はそういうことはしない。あの時が特別だったのだ。
だから、触れてくれないからといってシャスティエの隔意を示すものではないはずだった。
「ミーナ様が私のためにお心を痛めてくださっているのは分かります。そのお優しさが何よりの慰めでございます」
そんなことを言って笑うシャスティエこそ、限りなく優しい。そしてとても美しい。微笑み一つでウィルヘルミナの心を明るくしてくれるほどに。
「……シャスティエ様。ありがと――」
「ミーナ様。陛下からの使いの方がお見えです」
ウィルヘルミナも微笑みを返そうとした時、横からエルジェーベトの声が割って入った。次いで、この場には似つかわしくない低い男の声が。ウィルヘルミナも知っている男――夫の腹心の一人、アンドラーシのものだ。
「ご歓談中のところを失礼いたします。ミリアールトの姫君をお連れしに参りました」
「シャスティエ様を? なぜ?」
アンドラーシという男は、いつもは穏やかな表情をしていると思う。顔立ちも戦う男によくあるように恐ろしい感じではないから、ウィルヘルミナはこの男のことが苦手ではなかった。
なのに今は、男の声も表情も固く険しいもので、ウィルヘルミナは跪くアンドラーシを不安の目で眺めた。
「承知いたしました」
一方、シャスティエは一切の驚きも躊躇いも見せずに立ち上がる。陽光に煌く金の髪が、なぜかとても冷たい輝きを帯びているようだった。
――どうして? 何が起きるというの?
辺りの気温が急に下がったような気がして、ウィルヘルミナは自身の身体をかき抱いた。アンドラーシはこの穏やかな空間に割り込んだ異物だった。だが、シャスティエはその異物に対してごく当然のように対応している。まるで、アンドラーシが来るのを予想していたかのように。
「普段着では御前にまかりかねます。着替えますからしばらくお待ちください」
「陛下はすぐに、とのご命令です」
早口に急かされるのに対して、シャスティエは軽く眉を上げた。ウィルヘルミナには見せたことのない、不快を露にした表情だった。
「死装束になるのかもしれないのですから相応しい格好をしなくてはなりません」
形の良い唇が紡ぎ出した不穏な言葉に、ウィルヘルミナは息を呑み、アンドラーシは顔を顰めた。
「用件をご存知なのですか」
「いいえ。ですが見当はつきます。先の一件の後で、陛下が私をお呼び立てなさるからにはそれなりの大事に違いありません。それも、祖国に関わりがある。――私の考えは間違っていますか」
「……仰る通りです」
シャスティエの声には有無を言わせない響きがあった。ウィルヘルミナには到底出せない、答えを言わなければ動かない、と言外に伝えて相手を圧倒する響きだ。実際、アンドラーシは渋々と頷いた。
「ミリアールトで、反乱が起きました」
「そんな!」
悲鳴を上げたのはウィルヘルミナだけだった。シャスティエは本当に予想していたのだろうか。それならばどうしてそんなに落ち着いているのだろう。ミリアールトで反乱とは――
――シャスティエ様はどうなってしまうの?
シャスティエは人質だと夫は繰り返し言っていた。ウィルヘルミナも承知しているつもりだった。でも、このような事態になって初めて分かった。彼女にとってシャスティエは可愛らしい友人というだけだった。危険な目には遭って欲しくない、守ってあげたい人だった。
乱が起きた時に人質が何をされるのかは──考えることすら恐ろしかった。
「シャスティエ様」
辛うじて出せた声は、自分のものではないかのようにひび割れていた。それに振り向いたシャスティエは、ウィルヘルミナの方を向くとふわりと微笑んだ。
「ミーナ様」
ウィルヘルミナはいったいどんな顔をしていたのだろう。シャスティエは気遣う表情で座ったままの彼女の傍に跪いた。この少女の方が、よほど気遣われるべき状況にあるというのに。
「ミーナ様とご一緒の時にこのようなことになるなんて。申し訳ございません。恐ろしく思われてしまったでしょう」
「私は良いの……! シャスティエ様こそ──」
「覚悟はしておりましたから、大丈夫です」
「でも」
シャスティエはそっとウィルヘルミナの手を取ると押し頂くように額につけた。そしてまた顔を上げた時、そこに浮かんだ微笑みは明らかに強ばっていた。これほど気丈な方でも恐ろしいのね、と思うとウィルヘルミナの心臓が締め付けられるように痛んだ。
「私が戻っても戻らなくても、ミーナ様には大変なご心痛になるかと思います。そのことを、今のうちにお詫び申し上げさせてください」
「シャスティエ様が無事に戻ってくださるならとても嬉しいことだわ……」
少女が離れていくのを引き止めようと手を伸ばす。しかし、シャスティエはするりと逃れてウィルヘルミナに背を向けてしまった。
「陛下を長くお待たせする訳には参りません。すぐに、行きます」
シャスティエがアンドラーシを従えるようにして去った後、ウィルヘルミナはその場から動くことができなかった。柔らかな陽光も花の香りも、もはや彼女の慰めにはならない。目に見えない氷の檻に閉じ込められでもしたかのように、全ての安らぎが遠く触ることができないもののように思われた。
「ミーナ様、刺繍はもうよろしいのですか? 部屋の中にお戻りになりますか?」
エルジェーベトの声に初めて我に返り、ぎくしゃくとした動きで乳姉妹を見上げる。
「エルジー、どうしましょう……ミリアールトが……」
ああ、と呟くと、エルジェーベトは優しくウィルヘルミナを抱き締めた。子供の頃から何度となくしてきたように、優しく。そう、彼女はずっと子供のようなものなのだ
「一度敗れた者の悪あがきです。陛下の敵ではこざいませんでしょう。ご心配には及びませんわ」
――そうだわ、ファルカス様もまた行ってしまうのね。
エルジェーベトの腕に縋りながら、ウィルヘルミナの胸に新たな恐怖が生まれた。
シャスティエは連れて行かれてしまった。夫も遠征の指揮を執るのだろう。二人とも、無事に帰るか分からない。彼女は祈りながら待つしかできない。
――私はまた、何もできない……。
ウィルヘルミナを言いようのない無力感が襲う。
「ミーナ様は穏やかに過ごしていらっしゃれば良いのです」
優しく髪を撫でるエルジェーベトが、いっそ厭わしく感じられるほどだった。