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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
9. 冬の嵐
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北の流儀 ミリアールト総督

 扉が開いたのはほんの数秒のことだったが、それでも氷の粒を孕んだような凍てつく冷気が室内を襲い、彼の顔を顰めさせた。暖炉の炎とやたらに強い酒で身体を温めているというのに一瞬で冷まされる。まったくミリアールト(この国)の冬は忌々しい。


「さっさと閉めろ!」


 怒鳴り声に弾かれるように、入室した部下は慌ただしく不器用に扉を閉めた。ミリアールトの家屋は総じて堅牢で気密性が高い。内と外とが再び隔てられると、吹き込んだ冷気はすぐに緩んで室内の暖かさに紛れた。


「女は連れてきたか」


 問い質すと同時に、彼は部下の背後の人影に気づく。分厚い毛皮の外套にくるまれてなお、細身と分かる女の姿に。外はまた雪が降っているのだろう。女の枯れ草色の髪に張り付いた氷が水滴となって室内の灯に煌めいている。


「………………」

「またみすぼらしいのを連れてきたな。俺は金髪碧眼の女を所望したのだが。これでは驢馬を駿馬と言い張るようではないか」


 自身を睨む沼色の目を見返しながら、彼は嘲った。

 金髪碧眼――そう、あの生意気な元王女のような。あの女は、顔かたちが秀でているのは言うまでもなく、髪は金糸で瞳は碧玉、存在自体が至宝のようだった。態度も目つきも硬い宝石を思わせて頑なで冷たく取り澄ましていて、だからこそ顔を歪めて悲鳴を上げる様が見たいと思ったのだ。

 元王女と比べれば、眼前の女は多少色の変わった石ころに過ぎない。髪や目の色が冴えないだけでない、容姿の程度も立ち居振る舞いも格段に劣る。

 だが、彼は我慢することにした。


 ――王女と娼婦を比べても仕方がないか。


 女の目は、元王女と同じように嫌悪と侮蔑に満ちていた。けれど同時に、元王女とは違って恐怖と、僅かながら媚も宿っていた。それが彼を大層満足させる。


「来い」


 イシュテン語を解さないであろう娼婦を、彼は手招きで呼び寄せた。気を利かせた部下が退出する。再度冷気が吹き込むが、身中燃え上がった情欲の前には気にならなかった。


 外套を脱がせると、女がまとっていたのは薄く身体の線を露にする衣装だった。イシュテンの女とは違う、透けるような白い肌が美味そうだと思う。


「お前たちの王女は俺を満足させることができなかった。代わりにお前が埋め合わせろ」


 女の首筋に歯を立てて跡を残しながら、彼はそう囁いた。




 目を赤く泣き腫らした女を下がらせると、彼は再び酒杯に手を伸ばした。女を組み敷くのとは違って酒がもたらす酩酊は心地良いものとは限らない。翌朝にはきっと悪態を吐く羽目になるのだ。だが、それでも頼らずにはいられない。それほどに、ここ――彼が送られた北の果ての冬は長く暗く寒い。


 案の定というか、酒で澱んだ彼の目におぞましい影が映る。

 絶叫の形に歪んだままの若者の首。弟の死に顔だ。王に殺された。


 ――あの愚王が……!


 彼は歯軋りしながら寝台に倒れこんだ。情事の後の疲れが酔いを加速させて彼の意識を悪夢へと引きずっていく。あの狩りの日の情景へと。犬。王女。馬。血。

 首を失った哀れな弟の死体からは片腕が失われていた。王が捨て置いたために獣に食われたのだ。何も死に値することなどしていないのに! 躾のなっていない女を脅かそうとしただけ、それも彼らのものになるとティゼンハロム侯が約した女だ。多少順番が変わったところで何の問題もないだろうに。


 彼は父やティゼンハロム侯に何度も訴えたのだ。王とはいえ正当な理由もなく臣下を手にかけるなど許されない、義父として宰相として抗議するべきだと。恩を忘れた王に頭を下げさせて立場を思い出させるのだと。しかし叶わなかった。リカードも老いて弱気になったものだと思う。王に抗議するどころか彼や仲間たちが追放されるのを見過ごしたとは!


 ミリアールトで待っていたのは寒さだけではない。

 彼の前任の総督は、大した家の出でもない癖に尊大な態度で接した。その癖ミリアールトの民を丁重に扱え、罪人は身内であっても斬り捨てろ、などと言ってきた。征服地に対する王の対応が甘いとの噂が事実だと知って、彼は心底うんざりしたものだ。


『負けた者をどう扱おうと勝手だろう。なぜわざわざ媚びへつらい機嫌を取る必要がある』


 そう嘯いた彼に、前任者は子供に道理を説く口調で言い聞かせた。


『イシュテンの者が歓迎されているなどと期待するな。食事に毒が盛られていないか、寝首を掻かれることがないか、常に緊張を強いられるのを考えてみろ。媚びなどとは言えないだろう』

『歯向かうようなら今度こそ皆殺しにすれば良い。王も貴様も剣の使い方を忘れたのか?』


 言った瞬間、前任者は目の色を変えて剣の柄に手を掛けた。


『何なら今この場で使ってやろうか。陛下も俺にそれを期待しておられるのかもしれん』


 王の忠臣――彼に言わせれば腰巾着に過ぎないが――の剣幕に、彼は気圧され口を噤んでしまった。返す返すも恥ずべきことで腹立たしい。前任者が続けたのは、それにも増して忘れがたく許しがたいことだったが。


『お前の頭が飾りでないなら、詰まっているのが馬糞でないなら、確と刻み込め。王命に背けば反逆だ。兄弟そろって反逆の咎で首を失うのがどれほどの不名誉かわからないほどのバカではあるまい。わかったら黙って命令されたことをこなせば良い』


 ――あいつ、恫喝した! よりにもよってこの俺を!


 彼には何もかも気に食わない。王も、リカードも、前任者も。この地の陰気な冬も。そして何よりもあの気取った元王女が。


 人馬の血に塗れて擦り傷だらけになってなお超然と冷ややかな目つきをしていたあの女の姿が浮かんで、彼の胸に不快な漣を立てた。王に感謝していた風でもなかったのがまだしもの救いだった。結局、王もあの女を手に入れることができていないということだから。


 ――今に見ていろ。


 寝台の上で手足をだらりと伸ばし、ここで先程まで抱いていた女に元王女の顔を無理に当てはめる。悲鳴も喘ぎも、あの元王女のものであるかのように。そこにはいない女を愛撫しようと、掌を宙にさまよわせる。

 埓もない妄想であっても少しは溜飲が下がって、彼は暗く笑った。この最果ての地での任務から解放されて、王都に戻ったら。次はもっと上手くやる。今度こそ王を出し抜いてあの女に思い知らせてやる。その野望こそが、彼にこの不遇と屈辱を耐える力を与えていた。




 いつの間にか寝入っていたらしい。彼が次に覚醒したのは、屋敷――主をなくした貴族の住居を接収したものだ――の中の不穏な気配を感じ取ってのことだった。ざわめき、というか争うような物音がする。そして気づく。窓の外が、妙に明るい。この国の冬では夜は明けない筈なのに。

 火を掲げて囲まれている。認識すると同時に眠気は彼方へ去っていった。


「何事だ!」


 急いで起き上がると、悪酔いのために頭がふらついた。剣を求めて腰を探り、上着と共にそこらに脱ぎ捨てたのを思い出す。舌打ちしつつ床に足をつけた瞬間、扉が乱暴に開かれた。そして複数の人間の荒々しい足音。部下たちがやっと駆けつけた、と思った。声も掛けずに入室するのは無礼だが、場合が場合だから大目に見てやろう。


「何事――」


 いつものように怒鳴りつけようとして、彼の舌は凍った。室内に踏み込んできた者たちの髪も瞳も、皆薄い色をしている。イシュテン人の黒髪や黒い瞳は見えない。剣に、斧、棒。各々武器を携えて殺気立ち、赤黒い血に塗れている。(なまぐさ)い血臭が鼻をつく。部下たちがどうなったか、悟らざるを得ない。


「貴様ら何のつもりだ……」


 辛うじて口に出したのは精一杯の虚勢だった。だが、それに答える者はなく、訳の分からない異国の言葉で低い囁きが交わされる。


「――――」

「――――!」


 何らかの結論を出したらしい賊どもが彼に殺到した。振り上げられた武器を前に思わず頭を庇って目を瞑る。


 ――殺される!?


 身構えていてもなお激しい痛みと衝撃に、彼はたまらず床に倒れた。そこへ容赦なく蹴りが加えられる。頭から血が流れて目を塞ぎ、どこかの骨が折れる音が聞こえた。


 ――こんなところで死ぬのか? 剣も持たず馬にも乗っていない場所で!?


 惨めな死を覚悟した、その時だった。場に相応しくない落ち着いた声が響いた。


「殺してはならぬ。気絶させるのも。その者に確かめねばならないことがある」


 驚くべきことに、彼にも理解できるイシュテン語だった。更に驚くべきはその言葉に応じて暴行が止まったことだったが。とはいえ伏した彼の背には何者かの足が載っていて、首筋には刃が突きつけられている。事態が好転したようには思えなかった。


「私を覚えているか」

「貴様は……」


 声の主は堂々たる体躯の老人だった。押さえつけられた体勢ゆえに、その顔を見るには首が痛むほどに見上げなければならない。白に近い金髪に、凍ったような薄青の瞳。その顔には確かに覚えがある。前任者に引き合わされた、ミリアールトの重鎮だという。名は――


 ――グニェーフ伯アレクサンドル。


「覚えているようだな。別に名を呼ぶ必要はない。獣の舌でまともに発音できるはずがない」


 老人の声も態度もこの国の冬のごとくに冷ややかだった。獣呼ばわりされた怒りと屈辱に震える彼の様子など知らぬ気に淡々と続ける。およそこの場この時に関係ないとしか思えないことを。


「金髪碧眼の女に執心だとか」

「それがどうした!」

「それ自体は構わない。ミリアールトの女は美しい。イシュテンの獣どもには眩しかろう。

 良家の娘を拐かすなら見過ごせぬが、娼婦相手なら納得づくということで良いだろう。――しかし毎晩のように呼び出した女を痛めつけて帰すのは聞き捨てならない」

「娼婦のために反乱を起こしたというのか? あの中に貴様の娘が孫でもいたか」


 寝所でのことをあげつらわれて、彼は状況も忘れて逆上した。

 露骨な侮辱はすぐに報いを受ける。後頭部を何か硬いもので殴られて、彼は床に口付ける羽目になった。

 口内を切った痛みに呻く間にも氷のような声が降り注ぐ。


「女たちを侮ったな。あの者たちも生きるために必死なのだ。貴様らの言葉を憶えれば稼ぎになるか、多少はマシな扱いを受けるかと考える者もいる。貴様の相手をした者の中にもな」


 老人は彼の醜態を見下ろして、不快げに顔を歪めた。


「その者たちが口を揃えて訴えるのだ。王女殿下――我らにとって今は女王陛下だが――の埋め合わせをしろ、あの御方の分まで貴様を満足させろと言われたと。イシュテン王はあの方の無事を誓ったのではなかったのか。貴様らにとって誓いとは、無事とは何なのだ。

 そもそも――貴様、あの方に何をした!?」


 ――またあの女か!


 彼の中で全てが繋がった気がした。王の、リカードの怒り。追放されるように王都を追われた。北の果てに縛り付けられた。暗く冷たい冬。今現在の痛み。数ヶ月に渡る彼の鬱屈の全てが元王女に集約し、怒りを煮えたぎらせた。


「何をしたか、だと!?」


 彼は思い切り首をよじると、血の混じった唾をグニェーフ伯の顔目掛けて吐きかけた。


「どこまで聞きたい!? どう言えば満足だ!?

 犬と馬で追い回して血と泥に塗れさせてやった! 地に引き倒して裸に剥いてやった! 脚を開かせたら良い声で悲鳴を上げたぞ! あちらの具合はそこらの娼婦とさして変わらなかった!」


 少しの真実と半ば以上の願望が混じりあった妄言だったが、彼にとってはどうでも良かった。首元に突きつけられた刃でさえ問題にならなかった。

 ただ周囲の賊どもの顔色が青褪め、呆けたような間抜け面を晒すのが楽しくて仕方なかった。

 ただあの女を貶め、女を王などと呼ぶバカどもに思い知らせてやりたかった。いかに美しくても高貴でも、女は女だ。男の力の前には屈服するしかないのだ。ミリアールトの者が後生大事に崇めている女王とやらも同じことだ。


「なるほど……」


 グニェーフ伯は呟きながら唾で汚れた頬を拭った。一際凍てつくその声に、彼の高揚が冷める。そして気づかされる。自分が口を滑らせたことに。周囲の敵意が増していることに。開け放たれたままの扉からは冷気が流れ込んできているというのに、彼の額を汗が伝った。


「聞いての通りだ、諸君の懸念は残念ながら当たっていた」


 痛いほどに張り詰めた静寂の中、グニェーフ伯の朗々とした声が響く。わざわざイシュテン語を使うのは彼にも聞かせようという意図に違いない。


「イシュテンの王は約を違えた。飢えた狼の言を信じて命を投げ出したシグリーン公とその子息ら決意は無にされた。女王は守られるどころか汚された。

 忍耐は我らの美徳ではあるが――誇り高きミリアールトの民よ、これほどの背信を侮辱を、これ以上見過ごして良いのか!?」


 周囲の賊どもが、沸いた。口々に何事か叫び、足を踏み鳴らす。グニェーフ伯と違ってわざわざイシュテン語を使うほど親切ではなかった。だが、感情はこれ以上ないほどよく伝わった。王族の命を無為に散らされたことへの怒り。イシュテンへの戦意。侵略者への憎悪。ミリアールト人は諾々と従っていた訳ではなかった。熾火のように燻っていた敵意に、彼は油を注いでしまったのだ。


「皆の心は一つか。喜ばしいことだ」


 グニェーフ伯が右腕を挙げるとそれだけで賊どもは沈黙した。しかし奇妙な熱気は冷めることなくその場を包んでいる。彼は怒れる獣の牙の前に裸で差し出された気分になった。


「まずはこの者の首をイシュテン王に届ける。それを持って我らの反撃の狼煙とする! 女王をこの地に取り戻すのだ!」

「バカな!」


 グニェーフ伯の檄に、その場は再び沸き立った。異国語の怒号の間を縫って彼は呻く。


「一度負けたくせに! 死ぬために立つのか!? どの道あの女は殺されるぞ!」

「汚された上に我らの枷になることをあの方が望むはずがない」


 老人の声は飽くまで冷徹だった。漂白したような色の髪と瞳と相まって侵しがたい氷の壁を思わせる。


「王を人質に差し出してまで生き永らえようなどと考えたのが間違いだったのだ。イシュテンの獣どもにはわかるまい。我らは誇りを踏みにじられたまま生きるよりも戦って死ぬことを選ぶ! ミリアールトの冬で、イシュテンの騎馬がどこまで戦えるか見せてもらおう。

 ――――」


 最後の言葉の意味はわからなかった。ミリアールト語だった。だが、意味するところは明らかだった。――殺せ、と命じたのだ。

 両腕を掴まれて引き起こされ、彼は情けない悲鳴を上げた。


「ま、待て――」

「死ぬのが怖いか」


 立ち上がらせられて間近に見たグニェーフ伯の瞳は一層冷たく、それでいて激しい怒りが燃えていた。さっきのは嘘だ、などという弁明が届きそうになかった。そもそも、彼の舌は恐怖によってまともに動かない。そう、否定することはできない。彼は目前に迫った死を恐怖していた。


「安心するが良い、貴様が生きているうちに血を流すことはない」


 グニェーフ伯は口の端を上げて嘲ると、彼に背を向けて部屋を出た。後を追うように彼も引きずられていく。血でぬめる廊下を抜けて屋外へ続く扉の前に着くと、老人は振り返り、再び氷の瞳で彼を見据えた。


「北の流儀を教えてやろう。

 ここでは裁きは雪の(コロレファ)女王(・シュネガ)の御手に委ねるのだ。シャスティエ様――女王陛下は女神の化身と称えられる美しく聡明な方。その御方への冒涜に雪の女王はいかに報いるか、明日の朝にはわかるだろう」


 老人が語る間に彼の手足が縛り上げられていく。斬首による一瞬の死より残酷な凍死という刑。彼の心臓を、初めて切実な恐怖が握った。


「放せっ! せめて剣を寄越せ!」


 虚しい抗議に応える者はなく、扉が大きく開け放たれた。


 外はやはり吹雪だった。悪名高い極夜だというのに、視界を埋める雪のせいで妙に明るく白い。薄い寝間着一枚の身には寒いというよりもはや痛い。その感覚でさえ数秒のうちに麻痺してしまう。


 門を出て、通りを渡り、さらに幾らかの距離を引きずられ――彼は開けた広場に投げ出された。昼間ならば市が立ち人が行き交うはずの場所も、今はただ雪に覆われている。


「獣は追い払ってやる」


 そんな言葉を最後に彼は雪の中一人取り残された。手足を縛られていては逃げることも、動くことすらままならず、圧倒的な寒さに体力も気力も奪われていく。酒で(たぎ)ったはずの血でさえも凍り、皮膚は麻痺して全ての感覚が鈍っていく。


 ついに瞼を下ろす瞬間、彼は白く細い腕が彼を誘うように差し出されるのを見た。そして遠くに女の高笑いを聞いた気がした。

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