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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
8. 宴の始末
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王の母 アンネミーケ

 執務室に呼びつけられたレフとかいう公子は不機嫌そうな顔をしていた。その理由も、発言を許した際に言いそうなことも予想がつくので、アンネミーケは機先を制した。限りなく命令に近い依頼という形で。


「王太子妃が我が夫君の見舞いに行く予定なのだ。付き添ってはいただけないだろうか」

「ご夫君……国王陛下の?」


 碧い宝石のような公子の目が大きく見開かれるのを見て、アンネミーケは意地悪く嗤った。


 ――どうせ既に亡き者とでも思っていたのだろうな。


 病弱な夫君に代わって王妃である彼女が執政にあたっている、とは周辺諸国にも広く広まった――知らせたことではある。しかし、王族でもない女が王のごとくに振舞うのは何かと反感を買うものらしい。彼女が王である夫君に毒を盛って弱らせただとか、しかもそれは顧みられなかった報復なのだとか。果ては、王は既に死んだのを伏せているのだ、などと面白おかしく噂する輩は後を絶たない。


 無論アンネミーケは自身の潔白を知っているし、彼女を支える者たちも事情はよく承知しているから、下賎な憶測など取り合う価値もないと考えている。何より、彼女の夫君は王宮の奥でとりあえずは生きている。公式の場に出ることがないのは、一人では立ち上がることもままならず言語も不明瞭な醜態を衆目に晒すのは本人も望まないだろうという配慮に過ぎない。


「そうだ。結婚式への出席も叶わなかったから、息子の妻には会いたがっていることだろう」

「それならば王太子殿下がいらっしゃれば、なお喜ばれることでしょう。それに摂政陛下は――」

(わたし)は息子とここで話すことがある」


 だから行かぬ、と言外に告げると、公子は軽く眉を寄せた。冷酷な妻だと思ったのだろうか。だが、夫君もかつては妻を気遣う義務を怠って数多の寵姫を侍らせていた。今、彼女が妻としての義務を多少おろそかにしたところで責められる謂れはない筈だった。

 第一、夫君の周囲にはまだ寵姫たちが侍っている。かつてと同じように夫の寵を争って、競うようにあれやこれやと世話を焼くのだ。男としての機能を失ったにも関わらず彼女たちが夫君を見捨てなかったのは、寵姫としての手当が目的か、あるいはそれが愛とでも信じているのか。アンネミーケには理解できないし知りたくもないことだが、とにかく夫君に関しては彼女の出番は皆無なのだ。


「頼まれていただけるか?」

「……寄る辺ないところを庇護していただいている身です。どうして陛下のご意志に背くことなどできましょうか」


 言葉とは裏腹に、公子の声にも表情にも不満と苛立ちが満ちていた。これで隠したつもりならまったく若い。この程度の皮肉にもならない皮肉では、彼女の心はおろか表情さえ動かすことはできない。


「面倒を掛けてしまうな。礼を申し上げる」

「私のことなどお構いになりませんよう。祖国と我が女王にこそお心を向けていただければ――」

「もちろん姫君の苦境には常に心を痛めている」


 型通りに同情を述べると、碧い瞳を怒りで燃え上がらせるようにして公子は退出した。礼を取ることを忘れなかったのは上出来だったかもしれない。




 代わって呼び出されたのは彼女の唯一の息子にしてブレンクラーレの王太子、マクシミリアンだった。


「公子は王太子妃(ギーゼラ)につけた。あの者がいないうちに話しておきたいことがある」

「イシュテンのことでございますね、母上」

「そうだ」


 頷きつつ息子の顔を観察し、そこに浮かぶのが常と変わらぬ軽薄な笑みなのを見てとって、アンネミーケは失望と苛立ちを同時に感じた。相手があの公子であれば未熟も短慮も笑って流すことができるというのに、血を分けた息子となるとそうはいかないのは不思議なものだ。


「……そなたの妃が他の男と出かけたと言ったのだが。何も気にすることはないのか?」

「公子はミリアールトの姫君にご執心でしょう。ギーゼラに興味があるとも思えませんが」


 長い脚を気障ったらしく組んで椅子に掛けたマクシミリアンの笑顔は、底抜けに明るく爽やかだった。


 ――何と冷静なことだ。


 余計なところでだけ的確な判断を下した愚息の、表面だけは整った顔をアンネミーケは睨みつけた。恐らく母の不快など気づきもしないのだろうが。


「それは、その通りとは思うが。そなたは不安ではないのか」


 期せずして庇護することになったミリアールトの貴公子は、マクシミリアンの虫除けとして思った通りの役割を発揮してくれた。氷の彫刻めいた整った容貌に加えて、国を滅ぼされたという悲劇的な身の上は若い令嬢たちの心をいたく動かしたらしい。お陰で夜会などでも、今まで王太子を取り囲んでいた令嬢たちが最近ではあの公子を持て囃すようになった。これで遊び好きの息子もさすがに新妻だけを構うかと思ったのだが、ここで計算違いが起きた。


 ――まさかギーゼラまでもあの者に傾倒するとは。


 切っ掛けは、新年の宴でのことだっただろう。同情か気紛れかは知らないが、一人放って置かれて広間の片隅にいた王太子妃を、公子が踊りに誘ったらしい。以来、ギーゼラの公子への目線が、やけに熱い。夫に顧みられないところに美貌の貴公子に声を掛けられてのぼせ上がったというところだろうか。妻にはよくよく気を遣えと言い聞かせていたというのに、社交に掛かり切りで息子夫婦に目が届かなかったのが悔やまれる。


 母の忠告に対して、息子は不思議そうに首を傾げるだけだった。


「公子が想っている例の姫君はとても美しいのでしょう。ギーゼラに勝ち目があるとは思えませんが。何より彼女も仄かに憧れているという程度と見えます」


 確かにマクシミリアンの言うことはもっともではあった。そして、王太子妃が夫以外の男に頬を染めていてもさして取り沙汰されない理由でもある。

 公子は従姉であり今はミリアールトの女王でもある姫君、イシュテンの王宮深くに囚われているシャスティエ姫を心から慕っている。忠誠と肉親の情、そして恋慕が絡み合いより強固になっているらしいその想いを、ブレンクラーレの令嬢は誰ひとりとして溶かすことができなかった。どれほど美しく教養に溢れた令嬢でも、だ。だからこそ令嬢たちの憧れは高まり、社交界の殿方たちでさえも──他愛ないことに──公子の純粋な想いに心打たれているようだ。

 だから──家柄が良いというだけで妃に選ばれたギーゼラではかの姫君の足元にも及ばないだろう、と誰もが考えているのだ。シャスティエ姫を直に見た者など一人もいないというのに。


 ――あの娘も哀れなこと……。


 美しくない者が美しい者を慕うことはあっても、その逆はない。世の者たちはごく自然にそう信じているらしい。アンネミーケ自身もその偏見には苦しめられたからよく分かる。夫君の多情など本当に気に掛けていないというのに、容姿が劣るというだけで嫉妬に身を焦がしているに違いないと思われるのだ。


「母上? それで、イシュテンで何か?」

「ああ……」


 ――バカ息子め。妻の心がいつまでもそなたの元にあるなどと信じるでないぞ。


 息子に届くことがないと分かりきっている苦言は胸の裡にとどめ、アンネミーケは本題に入った。


「イシュテンのティグリス王子から連絡があった。この度ミリアールトの総督が変わるとか」

「おや、二度目ではありませんでしたか」

「うむ。イシュテン王の権威はまだ弱い。臣下に気遣った結果、占領地の統治さえままならぬということのようだ」

「大変ですね」


 息子の笑顔は相変わらずへらへらとしていて、真剣味が感じられない。まあ、敵国の王に本心から同情しているとしたらそれはそれで問題なので、アンネミーケは敢えて叱りつけることはしなかった。


「……だがティグリス王子にとっては好機となろう。ミリアールトで反乱が起きるとすれば、総督の交代でイシュテンの手綱が緩んだ時だ」

「乱が起きればイシュテン王は国を空けて鎮圧に向かう。その隙にティグリス王子が立つ、ということですね」

「うむ」


 少なくとも戦略に関しては息子が全く愚かという訳ではないと確かめて、アンネミーケは重々しく頷いた。それなりに物の道理は分かっているというのに、人の心については恐ろしい程鈍感なのは、まことに理解に苦しむことだ。


「で、新総督が任じられるのはいつになるのでしょうか」

「春になるということだ。雪が積もっていてはイシュテンの騎馬には分が悪い。ミリアールトの方でも冬の蓄えを食い潰してまで戦いを挑むことはないだろう。事態が動くとすれば雪が溶けてからだ」


 アンネミーケはティグリス王子からの書簡を息子に示した。といっても、ティグリス王子の直筆の書ではない。

 例によってかの国の者は他国語を学ぶ意欲が薄いから、イシュテン語で記されたのを翻訳したものになる。とはいえ文面は整っていて、述べられた推論も事実を踏まえ願望を交えぬ順当なものだった。息子とさして変わらない歳のはずだったが、兄王に挑もうという気概を持つだけのことはあるようだった。


 ティグリス王子がイシュテンの王となり実権を握るなら、息子の強敵になるのかもしれなかった。しかし、現実にはそれは決してあり得ない。ティグリス王子は脚が不自由で戦場に立つことはできないからだ。明らかに王の資質がある者だというのに、剣を取れぬから馬に乗れぬからというだけでその権勢はごく限られたものになってしまうのだ。イシュテンの倣いは全く野蛮で――だからこそ、ブレンクラーレにとっては都合が良い。


 ――常識を弁えながら力は弱いイシュテン王。隣人としては理想的ではないか。しかもその相手に恩を売ることができるとは。


 甘美な未来を思い描いて浮かべたアンネミーケの微笑みは、しかし、息子の声で一瞬にしてかき消された。


「ミリアールトの姫君はどうなるでしょうか」


 この期に及んで元婚約者に執着を見せる王太子を、母である王妃は眉を寄せて睨んだ。


「……救えるものならば救いたいが。だが、恐らくは難しい。ミリアールトで乱が起きた時点で人質の姫は殺されるだろう」


 命の前にその姫は貞操も――まだ守れているなら――失うのかもしれないが。そこまではアンネミーケの関知することではない。敗れた国の女の末路などそんなものだ。姫君には今まで生きてこられた幸運を感謝するか、父に倣って死を選ばなかった不明を悔いてもらうかしかない。


「公子は怒りますね」

「致し方ない」


 だからこの話をするのに彼を遠ざけたのだ。王太子妃があの美貌の公子に執心なら幸いなこと、妃の守りをさせているうちに事が終わらせるのが良い。終わった後で説明すれば、さすがに死者を呼び戻せとは喚くまい。敵意の先も、ブレンクラーレではなくイシュテンになるよう仕向ければ良い。


 ――そしてあの者がミリアールト王だ。息子の治世の間くらいは持つように、周辺国を抑えておかねば。


 ティグリス王子は、即位したとしても生涯内憂への対応に追われるだろう。イシュテンへの恨みを滾らせたものがミリアールト王になるとなれば更に余裕はなくなる。何かと頼りない息子のために、面倒な国は揉めてくれていた方が良い。


「それにしても……」


 アンネミーケが思案する横で、マクシミリアンはティグリス王子の手紙をひらひらと振った。いつもは虚しく明るいだけの笑顔に、わずかながら嘲りの色が滲んでいる。


「イシュテンという国はやはり野蛮だ。兄弟同士で殺し合ってでも王位が欲しいなどとは」

「……そなたは弟妹たちとも仲が良いからな」

「もちろん母上のご寛容があってのことです」


 夫君は複数の寵姫に複数の庶子を産ませている。いかに不実で好色でも、世継ぎが産まれる前に不義の子をもうけるほど常識に欠けてはいなかったから、いずれもマクシミリアンよりは歳下の異母弟と異母妹ということになる。見目の良い寵姫たちを母に持つだけあって、いずれも子供の頃から可愛らしく明るい笑顔を振りまいていた。

 マクシミリアンにとっては兄上兄上と慕ってくれる可愛いだけの存在で、その母たちもひたすら優しく甘やかしてくれる()()()たちだったのだろう。息子がイシュテンの倣いを嘲る余裕があるのは、そのためだ。だが──


「そなたは幸運なのだ」

「そうですね。母上には幾ら感謝しても足りないと弁えております」

「そうかそうか」


 無知で無邪気なマクシミリアンの笑みを、今度はアンネミーケが穏やかに嘲った。愚息の幸運は、母が弟妹やその母親たちとの交際を許したことなどではない。ブレンクラーレの法がイシュテンのそれと違って王妃腹以外の王子が王位に就くことを認めていないということだ。


 側妃も王の妻に数えるイシュテンと違って、ブレンクラーレにおける寵姫の立場は脆いものだ。王の寵愛が薄れれば、王が崩御すれば。あるいは王妃が嫉妬に狂ったならば、容易く失われる程度のものでしかない。没落の憂き目を逃れようと、彼女たちは子供に言い含めてまで必死に王太子に媚を売っていたのだ。


 ――あの女共も、自分の子が王位に就ける見込みがあれば目の色を変えたことであろうよ。


 そしてブレンクラーレの継承法はアンネミーケにとっても幸運であったかもしれない。実害がないと知っていたからこそ、彼女は寵姫たちやその子たちに対して寛容に振舞うことができたのだ。

 もしも彼女がイシュテンの王妃であったなら。そして寵姫たちが息子の命を脅かすと感じたならば。我が子のために手を汚すことさえ厭わなかっただろう。


 母親は、子供のためなら何でもするものなのだから。

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