親不孝 寡妃太后の侍女
主のために新しく用意された館は、その身分にはいかにも不釣り合いに思われた。
ハルミンツ侯爵領の片隅、周囲には農家さえまばらな片田舎の、ほんの小さな館だ。長く使われていなかったものを急いで整えたものだから、掃除や整頓は行き届いているとは言いがたい。廊下の隅に埃を、天井の角に蜘蛛の巣を見つける度に彼女は泣きたいような気分に襲われた。
このような場所、どう考えても主の終の棲処であって良い筈がない。ハルミンツ侯爵家の令嬢で先の王妃であった方には絶対に、絶対に相応しくない。それも今の王妃のように名ばかりの存在ではない、王子を二人ももうけた妻の鑑だ。末子のティグリスを産み落とした後、赤子を抱きながらこの腹に宿るのは男の子だけだと宣言した主は、誇らしく威厳に満ちていたものだ。現在主が寡妃――王母ではなく――太后などと屈辱的な呼び方をされているのは、数奇な巡り合わせと卑劣な陰謀の結果に過ぎない。
――あの男さえしくじらなければ……。
宴の夜のことを思い出すと、彼女の胸は引き裂かれるように痛んだ。命を狙われた今の王妃や泣いていた王女、毒に倒れたミリアールトの元王女のためではない。ただひたすらに彼女の主のための悲しみと憤りだ。あの男が失敗したばかりに主はこんなところに幽閉されることになってしまった。
大層な爵位を持っていながら、息子のためなら何でもすると言いながら、あのイルレシュ伯とかいう男は主が託した薬の扱いに失敗した。あまつさえ王の側妃にと主が期待していた元王女を危険に曝すとは。主が激昂したのも無理はないことだった。男――それも、主家のティゼンハロム家を裏切ろうという者など信用してはならなかったのだ。
「今日は弟が来るそうね。何の用かしら」
「さあ……やはり姉君様がご心配なのでは、と存じますが」
「そう」
彼女の悔しさとは裏腹に、主は今の境遇にも無関心に見えた。それはせめてもの慰めかもしれなかったが、同時に歯がゆいことでもあった。ティグリスも共に閉じ込められることになったから、息子さえ無事なら構わないということなのだろうが。だが、この住まいは王子にも相応しいとは言えない。
主の弟、当代のハルミンツ侯爵が訪れるというなら、恨み言のひとつも言いたいところだ。
――ゲルトルート様が仰らないなら、私から侯爵様に申し上げよう。
せめてもっと人手を増やせとか、食事も王宮のそれに劣らぬように、とか。主のためなら出過ぎた真似を咎められても構うものか。
卓を囲んだ三人は血が繋がっている筈だった。姉と弟、母と息子、叔父と甥。なのにどこかよそよそしく冷たい雰囲気が漂っている。
主は長く王妃として王と並ぶ至高の位にいた。それこそ元の家族よりも高い座に。一方ハルミンツ侯爵は一族を率いるために情より理を取る厳しい人だ。だから姉弟の間に隔たりがあるのはまあ仕方ない。
だが、ティグリスに関しては。彼女の目には彼の態度は母に対して淡白過ぎると感じられた。主へのこの仕打ちは全て息子への愛から端を発しているのだから、彼の口から侯爵に抗議しても良いところだと思うのに。
――冷たい方だわ……。
無表情で茶を啜るティグリスを、彼女は内心不満に思った。子は親の心を知らないものではあるけれど、ずっと主に守られてきたのをもっと感謝しても良いのではないだろうか。母のために何かしようとは考えないのだろうか。
「ここでの暮らしには馴染まれたか、姉上」
彼女が気を揉む中、最初に口を開いたのはハルミンツ侯だった。
「ええ」
「今回何事もなく済んだのは、ファルカスもリカードも乱を望んでいなかったからに過ぎない。時期次第では反逆の汚名を着せられ潰される口実になっていた。無論やすやすと思い通りにさせるものではないが……くれぐれもまた妙な真似はなさらないように」
「ティグリスが無事なら私はそれで良いわ」
主は息子の方をちらりと見ると、口元にほのかな笑みを浮かべた。一方のハルミンツ侯は苦い顔で軽く溜息を吐き、意を決したように表情を真剣なものにして、告げた。
「そのことだが。今日はティグリスを引き取りに来たのだ」
その一言に主の顔から微笑みが消えた。
「なぜ」
一瞬のうちに主の目に怒りが燃え上がり、王妃時代に培った高圧的な口調で説明を求める。しかしハルミンツ侯も一歩も引かない。
「ファルカスは確かに姉上を幽閉せよと命じた。だがティグリスについては何も言われていない。仮にも王家の血を引く者を、いつまでもこのようなところに置いていて良い筈がない」
「嘘よ! また何か危ないことに利用するつもりでしょう!」
主が卓に手を叩きつけるように立ち上がると、その勢いで椅子と茶器が倒れ、溢れた茶が卓上に小さな川を作った。
「理由があれば今度こそファルカスはこの子を殺してしまう。お前が今言ったことじゃない! いいえ、決してさせないわ。お前たちが何を企もうとこの子だけは守ってみせる!」
「その者も望んでいることだ! 男子たるもの一生母親の元にいるのを喜ぶ筈がないだろう!」
「そんなことないわ!」
姉と弟が怒鳴り合うのを他所に、ティグリスは溢れた茶を避けてわずかに椅子を引いただけで表情を変えない。
――ティグリス様、どうか母君様のお味方をして差し上げて!
彼女が祈るように見つめる中、主は息子の膝に縋りついた。
「ティグリス、可愛い子、お母様の気持ちを分かってちょうだい。オロスラーンお兄様が殺された時、私がどれだけ嘆いたか覚えているでしょう。もう二度とあんな思いをしたくはないの。どうか、弟の言うのに惑わされてはいけないわ!」
「勝機はある! 死ぬつもりで立つ訳ではない!」
ハルミンツ侯も声を荒げた。席を立つほどではなかったが、怒鳴った拍子に椅子が動き、床と擦れて耳障りな音を立てた。
それに返す主の声は更に高振り、目は怒りに血走っていた。
「前もそう言っていたわ! お父様も。でもオロスラーンはもういない。お前たちが不甲斐ないせいよ。私しか息子を守ることはできないのよ!」
「落ち着いて、母上」
ここに至ってティグリスが初めて口を挟んだ。母とも叔父とも全く違う、ごく平静な口調だった。
倒れた茶器を立たせ、新たに茶を注ぎながら彼は優しく母に微笑みかけた。
「私にも分かっているよ。叔父上方に従えば命の保証はないと。そして息子として、親に先立つに勝る不孝はないことも」
「……分かってくれたのね」
「ああ」
主も息子に笑顔で応えると、差し出された茶器を受け取り、口元へ運んだ。
「だから母上、今すぐこの場で死んでくれ」
――え?
彼女がティグリスの言葉を理解するのと、主が倒れたのはほぼ同時だった。
「ゲルトルート様!?」
王子や侯爵への礼儀などもはや彼女の頭になかった。王妃付きの侍女としての矜持も、ない。なりふり構わず倒れ込むようにして主の傍らに跪き、苦しげな細い呼吸に言葉を失う。
直に見るのは初めてだったが、この症状は知っている。彼女と主が使っていた種類の毒のものに違いない。
「ティグリス……ど……して……」
か細い声でそれでも息子の名を呼ぶ主の疑問はそのまま彼女のものでもあった。
――なぜ、このお方が!?
身体を丸めて喉を掻きむしる主の力が次第に弱まり、顔も色を失っていく。無為と分かっていても必死に主の背をさする彼女の頭上から、疑問の答えが降り注ぐ。当惑したようなハルミンツ侯の声と、何事も起きていないかのように穏やかなティグリスの声の形を取って。
「……実の母親だぞ。よくも何のためらいもなく……」
「叔父上もご承知のことではありませんか」
「最後の手段という話だったろう!」
「この方が今更聞き分けてくれるとでも? この十年同じことを繰り返し続けてきたというのに?」
「だが……」
「私の手でしたことです。叔父上は肉親殺しではない。ならば良いではないですか」
主の手を握りながら、彼女は主には聞こえていないことを祈った。硬く強ばり体温が失われていく指先から、祈りは叶えられていると思いたかった。こんなことはひどすぎる。実の弟と、主が誰より愛した息子に毒を盛られるなどとは!
「なぜですか!? 姉君様と母君様ではないですか!? なぜ、なぜこのような……」
涙ながらの問いかけに、ハルミンツ侯は気まずげに吐き捨てた。
「また余計なことをされると一族全体が危機に曝される。仕方のないことなのだ」
「そのための幽閉でしょう! 先の王妃であられる方をこのようなところに……その上、こんな……」
「確かに殺す必要はなかったかもしれないね」
殺す、と。彼女がどうしても言えなかった言葉をティグリスはあっさりと口にした。驚きのあまり彼女が言葉を失うほどに。
「ならば……尚更……」
「復讐ということにしようか」
「復讐……何の……」
ティグリスが笑っていることに気づいて彼女は戦いた。目の前で母親が息絶えようとしているのに、それをしたのは彼であるのに、この方は嬉しそうに笑っている!
「その方に殺された女や子供たちのため。叔父上は権力から遠ざけられた一族のため。そして私はこの脚のために。その方には償うべき罪があった」
「全て貴方様のためにしたことです!」
彼女は恐怖も忘れて叫んでいた。主がしてきたことは確かに罪かもしれない。一族への裏切りだったかもしれない。だが、全ては息子への愛ゆえのことだった。それだけは伝えなければならなかった。
「誰が頼んだ!?」
ティグリスは鋭い声で切り替えした。単に怒鳴りつけられたからというだけではない衝撃が鞭のように彼女を打ちのめす。ティグリスが激昂するところを見たのは初めてだったのだ。幼い頃は年の離れた兄王子よりも母と共にいるのを好む大人しい子供だったし、この境遇に陥ってからは不自由な脚にもよく耐えて穏やかに過ごしていた。少なくともそのように、主も彼女も信じていた。
「生きてさえいれば満足だろうというのか? だから恩を着せることができるのか? 言っておくが私は感謝したことなどないぞ!」
「そんな。だって……」
「蔑みに満ちた生を送るよりは戦って死んだ方がマシだ。お前たちがその機会を奪ったのだがな。
兄上は私を敵としてすら見ていない! いない者のように扱われる屈辱が分かるか!?」
「あうっ!」
杖で腕を打たれて彼女は呻いた。涙が頬を伝っている。痛みからではなく、悲しみから流す涙だ。ティグリスの一言一言が彼女の胸を抉り、主がひたすら哀れで気の毒でならなかったのだ。全てを敵に回してまで守ろうとした息子にこのように言われようとは!
ティグリスがもう一度杖を振り上げ、彼女は無事な方の腕で頭を庇った。しかし、再び痛みが襲う前にハルミンツ侯の声が止めに入る。
「その者はどうするのだ」
杖が収められたので彼女は一息つくことができた。しかし、今度は漠とした不安が襲う。そうだ、主がこのまま――何と言ったら良いか彼女には分からなかった――目覚めないなら、彼女はどうなるのだろう。……何を、されるのだろう。
「ご心配ですか」
「その者の忠誠は我が家ではなく姉上だけに向けられていた」
「密告するとでも? 誰に? 兄上もリカードも――誰も、その方が死んだことを気に止めないし悲しまない。むしろ喜ぶのではないでしょうか」
――私が! 私が悲しむわ!
彼女は心の中だけで叫んだ。口に出すほど愚かな振る舞いをすることはできなかった。それに、密告という言葉が甘く彼女の胸に染み渡っていた。王やティゼンハロム侯爵は、確かに主のことを気に止めないかもしれない。だが、彼らとハルミンツ侯爵家は争っているのではなかったか。先ほどハルミンツ侯が言ったように、何事かあれば取り潰す口実にしたいのではないだろうか。そして――肉親を、先の王妃を殺めたという醜聞は、十分な理由になるのではないだろうか。
大人しくしてこの場を切り抜け、王かティゼンハロム侯に主の――奇禍を訴える。そうすればこのお方の無念も晴らせるのではないだろうか。
――ああ、でも決してティグリス様が傷つけられることのないように……。
熱も力も失われた主の指先を握り締め、彼女は祈った。命だけは見逃してもらえるように。復讐の機会を与えられるように。戦馬の神が嘉するのが男だけということはないだろう。戦う意思がある者ならば女であっても加護を得られて良いはずだった。
「だが……」
「なぜ私などの顔色を窺うのですか。女ひとりの処遇に私の助言が必要ですか?」
「バカな」
「そうでしょうね。まあ私の見解というか私情を述べるなら――その者には恩がある。母がこの脚を折らせた後、熱を出した私を看病したのがその女でした」
――ティグリス様が私を庇ってくださる……?
彼女の胸に仄かな希望の光が射した。ティグリスの言葉は本当だった。彼女は熱と痛みに苦しむ王子の汗を拭き、薬を匙で飲ませたのだ。そのことを、覚えてくれているのだろうか。そのように命じた母の心を、少しでも汲んでくれているのだろうか。だが――
「元通り歩けるようになるために、早く起き上がらせろという医師の忠告を無視して寝台に縛り付けたのですよ」
続くティグリスの言葉に潜む強い憎悪の感情に、彼女の血は凍った。ハルミンツ侯も、息を呑んだ気配がした。
「……この者も許さないと言うのだな」
「女を手に掛けるのは気が咎めていらっしゃるようなので。理由を差し上げようというだけです」
ティグリスはこれまで人に命じることも稀だった。王子とはいえ一人前の男とは見なされない身体ゆえに、侍女や従者に対してもどこか控え目な態度だった。だが、彼も確かに王家の血を受け継いでいた。名家を率いる叔父に対して、有無を言わせず自身の望みを伝えていた。お前も手を汚せ、と。
「なぜ躊躇っていらっしゃいます? その者は叔父上の肉親でもなければ高貴な者でもありません。いらぬことを知っていると、懸念されているのではなかったのですか」
重い溜息と共に、ハルミンツ侯が彼女に近づいた。その大きな手が、死が眼前に迫るのを呆然と眺めながら、それでも彼女は呟いた。
「ゲルトルート様は……貴方様に生きて欲しいと……」
だが、ティグリスの声はあくまで冷たい。
「いらぬ世話だ。私は命を賭けても兄上に挑む」
ハルミンツ侯の手が彼女の首に掛かった。
――ゲルトルート様。何て、お可哀想に。
自身の首の骨が折れる音を聞きながら、彼女は主のために涙を流した。