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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
8. 宴の始末
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失敗 シャスティエ

 王はしばらく何も言わなかった。暗い部屋でひとり待つ間の沈黙も怖かったが、今はなお恐ろしい。何しろ王がシャスティエの提案に――理由ははっきりとは分からないが――気分を害したのは明らかで、今までになく不快感を露にしていた。くすぶる煙のように怒気が立ち上るのが目に見える気さえした。


「なぜそのようなことを思いついた。気でも狂ったか」


 そして開口一番に乱心を疑われて、シャスティエは思わず声を荒げた。


「全くの正気でございます!」


 叫んでから、また無礼を働いてしまったと一瞬ひやりとするが、王の機嫌はこれ以上悪くなりようがないようだった。口調も表情も一切変えず、王は詰問を重ねてくる。


「では誰に何を吹き込まれた。アンドラーシか? あの者は最初からお前を側妃にとうるさかった」


 ――やっぱりあの男の狙いはそうだったのね。


 アンドラーシという男は異常なまでに彼女に対して親切だった。長らく疑問だったし警戒もした。イシュテンの事情が見えてからは概ね目的は推測できていたが、今王の口からそれが当たっていたと分かった訳だ。今となっては瑣末なことだが。


「あの方からは、何も。私自身の考えたことですわ」


 より正確に言うならば、そもそもはあの狩りの日に王に斬られた男によって知らされたのだが、これも瑣末事と言うべきだろう。王にとっても楽しい記憶ではありえないだろうから、この場で言うことに利があるとは思えなかったし、王もそれ以上は追求しなかった。


「側妃の意味が分かって言っているのだろうな」


 不快だけでなく疑いの込められた問いかけに、シャスティエは大きく頷いた。怯むことなく、はっきりと。王に本気を伝え、彼女の提案を受け入れさせなければならない。


「ミリアールトにはないことですから戸惑いましたけれど。これまで見聞きしたことで得心しました。この国では側妃も正式な妻に数えるのでございましょう? 私が男児を産めば、その子にも王座の権利があるのでしょう? 私は政には口出しいたしません。陛下はただ得るだけです。お世継ぎと、ティゼンハロム侯に妨げられることのない真の王位を。

 ですから、どうか――」


 私を、側妃に。

 言外の請願に王はまた沈黙し、シャスティエの不安は募った。

 王にとっても悪くない条件だと思った。だから、勝機はあると見ての交渉だった。だが、王の険しい表情を見ているとそれは甘い予想だったと悟らざるを得ない。


 ――何がいけないと言うのかしら。


 正直に言えば心当たりは幾らでもある。初めて出会った時から、シャスティエはこの男にひたすら盾突いてきた。顔を会わせる度に怒らせているような気さえする。


 ――それとも私は好みではないとか。


 王妃は――ミーナは、大変に美しい。髪の色も目の色も、身体付きも全く異なるシャスティエになど興味を持たないのかもしれない。イシュテンの基準でもシャスティエは美しいようだが、王が彼女の容姿に触れたことは今まで一度もなかったと思う。それに、例え見た目の良さを認めるとしても、性が合わないのでは話にならない。


「お前は単に無為に過ごすのに耐えられぬだけだ」


 やっと口を開いた王の口調にはいっそ面倒そうな響きがあった。


「首の代わりに貞操を差し出して、祖国のための犠牲だと悦に入りたいだけだろう。そのような戯言で俺の耳を煩わせるな」

「――違います!」


 王の指摘は、半ばは正鵠を得ていた。だが決して認めるわけにはいかないことだった。だからシャスティエは赤面し、一層声を高めて訴えた。腹に力を入れたことで走った、肋骨の痛みを無視して。


「ミリアールトのためでもあることですわ! イシュテンの法が何と言おうと、私はミリアールトの女王なのです。たとえイシュテンに呑まれようとも、王家の血が繋がるのであれば、ミリアールトの民は希望を得ます!」


 王は施しを受けるのが嫌なのかもしれない、と思った。女の気まぐれでただ利を受け取るだけなど屈辱だと。

 だからシャスティエはミリアールトの利も挙げた。彼女がイシュテンの継承法に疎かったように、イシュテンの者には気づかれにくいことのはずだから。


 そしてこれもまた王は気付いていないのだろうが――彼女の子供は、父親が誰であろうと生まれながらにミリアールトの王位に権利を持っている。祖国の民にとって、彼女の子供はイシュテンの王子ではなく、飽くまでミリアールトの王子になるだろう。裏を返せば、ミリアールトの王になるべき子が無血でイシュテンの王位も得ることになるのだ。

 イシュテンはこれからも戦い続けるだろうが、その戦果は全てシャスティエの子が受け継ぐ。王が剣を振るうのは、全てシャスティエの子のためになる。


 息子を産んで、その子に王の全てを盗ませる。それが彼女の復讐になるはずだ。ミリアールトの者はこれ以上傷つかず奪われることもない。シャスティエが多少の屈辱を我慢することさえできれば。


 ――だから何としてもこの男に受け入れさせなくては!


 必死な思いから叫んでしまいそうになるのを懸命に抑えて、努めて冷静な調子を保つ。


「そして――恐れ多いとは思いますけれどお許しくださいませ――女王の夫たる陛下に喜んで従うでしょう。兵を割くことなくミリアールトを抑え、更には陛下のお力として使うこともできるのです。国ひとつが持参金です。何の不足がありましょうか!?」


 王が考え込む素振りを見せたので、シャスティエの胸にほのかな希望の炎が灯った。しかし、彼が考えていたのは彼女の提案を退ける理屈に過ぎなかった。


「お前はミーナに害は及ぼさないと言っていた。側妃として妍を競うのは害のうちに入らないのか。心を痛ませるだけならば、身体に傷がつかないならば構わないとでも言うつもりか」


 王の言葉は幾らか穏やかな調子になっていた。それでも依然として拒絶でしかなかったが。


「いいえ! そのようなことは、決して。私はミーナ様のために自ら毒を呑みました。そのことをお忘れにならないでくださいませ」

「ならば、なぜだ?」


 王の問いかけに答えるべく、シャスティエは息を整えた。ここが一番重要なところだ、と思う。王に彼女の本気を信じてもらえるかどうか、彼女を受け入れてくれるかどうかの。

 ミーナのことについては彼女もよくよく考えたのだ。側妃になってあの優しい王妃と争うとはどういうことか。あの方から一時であっても夫を奪ってしまうことを、どう自身に言い訳するか。あの方は、決して復讐に巻き込んで良いような方ではないから。


「あの時私は動くことができませんでしたが――耳を働かせることはできました。あの毒はミーナ様を狙ったもの、それもお世継ぎがいらっしゃらないからというだけで! 陛下のお力が磐石のものでないということが、あの方までも危険に曝すことになっているのです。ミーナ様をお守りするためにも、一刻も早くお世継ぎをもうけることが必要ですわ!」

「お前は――」

「恥知らずな言い分だということは承知しております」


 王が何か反論しようとするのをシャスティエは遮った。


「ですが、このままで良いとも思えないのです。

 ――私が陛下を愛することはありません。生まれた子供もミーナ様に差し上げます。もしもご不快でなければですけれど。その子がイシュテンの王位さえ得られれば私は他には望みません。陛下に侍るのも子供を授かるまでのことだけです」


 シャスティエは下腹を両手で抱くようにして示した。子供はそこで育むものだと、嫁ぐ際の心構えとして教えられていた。


「私はこのお腹をお貸しするだけということです。陛下とミーナ様の間に割って入ろうなどとは望んでおりません」


 ――言うべきことは全て言ってしまった……。


 ミーナを口実に使ったのは我ながら図々しいことだと思う。だが、朦朧とした意識の中、耳に届いた寡妃太后やハルミンツ侯の言い分に心底憤ったのも事実なのだ。己を犠牲に差し出す自己満足に過ぎないと、言いたいならば言えば良い。それで復讐を果たし、祖国を守り、更にミーナに安全をもたらすことができるなら、自分を犠牲にするだけの価値がある。


 開き直ったような気分で、シャスティエは王を見つめた。その視線の先で、青灰の瞳はやはり揺るがない。


「お前の言い分は理解した」

「では」


 今度は王がシャスティエを遮る番だった。口を開こうとしたのを軽く手を上げて黙らせて、王は一歩彼女に近づいてくる。狭い部屋の中、長身の男が迫る息苦しさと恐ろしさに、シャスティエの鼓動が早まった。


「が、理解した上で聞き入れられぬ」

「……なぜでしょうか」


 退かないように全身を叱咤して王を見据え、問いかける。答えて王は指を二本掲げた。


「理由は二つ。

 一つには、女一人でミリアールトが抑えられると臣下の誰も信じまい。今ミリアールトが大人しくしているのは敗れたためだと思われている。だからこそお前が側妃候補だなどと取り沙汰されるのだ。つまり傍目に見えるのは俺が新たに女を囲ったというだけ、かえって混乱を招くことになるだろう」

「ですがミリアールトは実際に従います。それを見れば臣下の方々も納得するのではありませんか?」

「もう一つ」


 王はシャスティエの抗弁を無視すると、更に一歩進んだ。距離が縮まったことで相手に見下ろされる形になり、シャスティエは外套の前を掻き合わせた。仕方のないこととはいえ、このように無防備な格好で男の前にいるのが恥ずかしくてならなかった。

 ふ、と。彼女の気後れを見て取ったかのように、王の唇が弧を描いた。例によって狼の裂けた口を思わせる笑みだ。牙が覗くのではないかというほどの獰猛な気配を漂わせて、王は囁いた。


「お前に側妃になる覚悟ができているとは思えない」

「そのような――きゃ!?」


 身体の周囲に風が起こった、と思った次の瞬間、王の顔が間近にあった。抱き寄せられたのだ、と気付いた瞬間、シャスティエの口から悲鳴が漏れた。


「嫌!」


 逃れようと身体をよじるが、背と腰に腕を回されて叶わない。厚い胸板に、太く力強い腕。ミーナやイリーナとは違う、硬い男の身体の感触に、シャスティエはほとんど恐慌状態に陥った。

 そこへ、耳元に熱い吐息が笑い声として吹き掛けられる。狼が、獲物を前に嗤っている。


「覚悟ができているのではないのか。嫌ということはないだろう」


 そして顎を掴まれると、強引に王の方を向かされた。今までになく楽しげに、そして間近に、青灰の目が細められている。


 唇を奪われてしまう。そう思った瞬間、シャスティエは思い切り腕を突っ張って暴れていた。


「やだ、やめて! ――痛っ……!」


 王は驚くほどあっさりと腕を離し、シャスティエは床に投げ出された。肋骨を庇う余裕もなくて胸の痛みに身体を折るが、逃れられた安堵が勝って彼女は大きく息をついた。石の床のひんやりとした冷気が興奮に火照った熱を冷ましていく。


「口づけ程度でその反応か。その分では俺に抱かれるなど無理だろう」


 そして頭上から注がれる嘲笑に、その安堵も瞬時に凍った。


 ――試された。そして失敗した……!


 王の言う通りだった。側妃になって王と子を成すというなら、ここで逃げてはならなかった。だが同時に怒りも沸々と湧き上がる。


 ――だってこんなに急にされたら!


「……大丈夫です。少し驚いただけです」

「では続きをするか? 分かった上で来たのだろうがちょうど寝台もあることだしな。服を脱いで、脚を開くだけだ。簡単だな?」


 精一杯の強がりを見透かしたように、恐らくわざと露骨な言い方をする王に腹が立つ。だが、何より腹が立つのは、外套の前を握りしめて後ずさりしてしまった自分自身に対してだった。今度こそ怖気を見せてはならなかったというのに!

 王が笑った。嘲りの混じったものではない、溜息のような苦笑が王の余裕を伝えてきて、シャスティエの苛立ちをいやました。


「怪我も癒えていないのに愚かな真似をするものだ」

「触らないでください」


 優しいとさえ言える手つきで助け起こされるのも、彼女の自尊心を傷つけた。考え抜いて覚悟を決めて、王を説得するつもりでここに来たのに、自らの怯えのために失敗したのだ。彼女の覚悟など甘ったれたものに過ぎないと、またもこの男に思い知らされた。それが悔しくてならなかった。


「そう尖るな。お前には悪いと思っているし感謝もしている。だからこそ余計なことは考えるな」

「何ですって……?」


 王の口から出たのがあまりに意外な言葉だったので、シャスティエは自分の耳を疑った。しかしもちろん王が繰り返すことなどなかった。腕を取られて――怪我を慮ってかさほど強い力ではなかったが――隠し通路の入口へと押し込まれる。


「帰って休め。そしてもう会うことはない。王宮の奥でミーナの相手をしてやれば良い。それならば危険なこともないし――わざわざ憎い相手と話すこともないだろう」

「危険がない? そのようなことはないでしょう!」


 もう会わない――彼女の言葉に耳を傾けてはくれないと言われて、シャスティエは必死に食い下がった。宴の件はたまたまにすぎない。現状が変わらない限り、ミーナはまた狙われる。王に力がない限り、ミリアールトに平穏はない。王の言葉は、シャスティエだけでなくミーナをも侮っているとしか思えなかった。

 しかし口答えは王の気に障ったらしい。瞳に苛立ちが浮かび、言葉には恫喝の色が滲む。


「さっさと行け。俺の気が変わるのを期待しているのか。このような薄着で誘うつもりか? どうせ何も知らないくせに」

「さそう……」


 それはシャスティエのイシュテン語の語彙にはない単語だった。だが、他の部分と、何より外套に触れた王の手つきで気づかされる。外套の下には寝間着一枚なのを、気付かれている。


「――っ!」


 本能的な恐怖に思わず飛び退り、そして気付く。また失敗したことに。完全に室外へ、通路の方へと飛び出してしまったことに。


「行け。それとも本当に()()をするか?」


 嘲るように嗤う声に対して、煮え立つような怒りはあった。しかし、この場に残った時に起きるであろうことへの恐怖の方が勝った。()()など考えるのも恐ろしい。王はそれをよく分かった上で言っているのだ。


 ――悔しい!


 彼女はまたこの男に負けた。恐怖を刻みつけられた。憤りを言葉で視線でぶつけたいとは思う。だがそれによって王を刺激するのもまた怖かった。

 唇を噛み、目を伏せて立ち竦んだところへ鋭い声が浴びせられ、シャスティエは震えた。


「行けと言っている!」


 それに命じられたかのように、シャスティエは身を翻すともと来た通路を駆け出していた。




 帰り道にどこをどう通ったか、シャスティエには記憶がなかった。ただ、気付くとイリーナにしがみついていた。


「シャスティエ様!? お休みだったのでは……」

「眠れないから散歩していたの!」


 外から現れた主人の姿にうろたえる侍女を、シャスティエは思い切り抱き締めた。柔らかく小柄な少女の身体の感触は、涙が出るほど優しく安心できるものだった。


「でも、泥が」

「転んだだけよ!」

「そんな……」

「転んだの!」


 自身の姿を見下ろすと、どこかで転びでもしたのか外套にはべったりと汚れがついていた。しかしもちろんイリーナに事実を言う訳にはいかない。無駄に心配させることになる。だからシャスティエは子供が駄々をこねるように強弁した。


「……お冷えになったでしょう。お湯を沸かしてもらいますね。お茶をお淹れしますわ」

「お願い」


 イリーナも聞き出すのは諦めたらしく、シャスティエが落ち着くまでひとしきり背を撫でると小さく呟いた。


「本当に、無茶はなさらないでくださいね」

「分からないわ」

「シャスティエ様」

「何かしなくてはならないのよ……」


 泣きそうな瞳で懇願する侍女を、気の毒だとは思う。だが王に言われるまま、無為に閉じ込められるなど耐えられそうになかった。


 ――次に王に会えるとしたら……。


 熱い茶で身体を温めると、気分も少しは落ち着いた。

 もう二人きりで話をしようとしても決して聞いてはくれないだろう。王が彼女の話を聞いてくれる状況を待たなければならない。


 心当たりは、あった。だがそれは彼女にとって歓迎すべき事態とは言い切れない。


 ――でも、それしか機会はない。


 その時こそ失敗してはならない。

 王を説得する言葉を、シャスティエは考え始めた。

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