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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
8. 宴の始末
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深夜の提案 シャスティエ

 シャスティエは暗い通路を歩いていた。ティグリスに教えられた隠し通路だ。

 無論彼と一緒ではない。宴の騒動の後では抜け出すことはできなかった――そもそも意識さえ手放していた――し、寡妃太后(かひたいこう)のあの事件があった後では、ティグリスはとうに王宮を追われているだろう。

 元々使用人のための通路である以上、複雑な仕掛けはないだろうと踏んだのが当たっていた。扉の存在を知った上で目を凝らせば、壁の装飾に紛れた取手を探し出すのは容易だった。


 ひとりきり、燭台の灯りひとつが頼りの道行きだ。イリーナを説得するのは今度こそ無理だろうと思ったから、早めに休むと嘘を吐いて部屋の窓から抜け出した。毒に倒れて以来体調が優れないのは本当だから、怪しまれなかったのは幸いだった。懐かしいミリアールトの王宮でファルカス王と対峙した時と同じ、寝巻着の上に外套をまとった姿だ。


 ――あの男と会う時はいつもこんな格好ね……。


 情けなさに溢れそうになる溜息を呑み込んで、進む。目指すのは王の執務室だ。王に会うにも、ミーナには頼めないしアンドラーシには頼みたくない。ふたりきりで話を聞いてもらう方法を、他に思いつくことができなかった。


 小さな灯りに照らし出される道筋が記憶にある通りであることに、安堵と不安の両方を覚える。仮に道が分からなくなれば、引き返す口実にできるのに。

 ここに至ってなお、シャスティエは自分の選択が正しいという確信が持てなかった。いや、選べる道が幾らもないことは分かっているし、その中では比較的ましな道だとは思う。だから、より正確に言うならば、自分が耐えられるかどうか自信がない、といったところだろうか。だが、未練がましく思い悩む間にも、目的の場所は着々と近づいてきていた。


 ――やはり、思った通りの方向ね。


 ティグリスは王の執務室への道を大雑把に示しただけだった。しかし、シャスティエは執務室に二度連れて行かれたし、宴の際には王宮の表の部分を見ることができた。だから王宮全体の構造や配置を大まかとはいえ想像することができたのだ。一度この通路を使った際の記憶と照らし合わせれば、通路は予想通りの角度で曲がっていき――やがてある扉の前へと彼女を導いた。


 深呼吸して息を整えてから扉に手をかける。すると、十年は使われていなかっただろうそれは、軋みながらも通路側へ開いた。先王の寵姫がいつ呼ばれても良いように、鍵をかけていなかったのだろうか。これでまた、シャスティエは引き返す理由を失った。

 恐る恐る室内へと入ると、そこは執務室そのものではなく、続き部屋の方だった。ティグリスが訪れた時にシャスティエが押し込められた、王が仮眠を取るための場所だ。


 ――ちょうど、良いわ。


 室内に誰もいないのを見てとって、シャスティエはひとまず詰めていた息を吐き出した。

 部屋の一角を占める寝台を努めて見ないようにして、王を待つことにする。先の王妃が現王妃の命を狙い、その弟と父親が――いずれも名家を率いる者たちが対立しているのだ。王は多忙に違いない。ミーナやジュラから聞いた話からも間違っていないはずだ。

 だから王はこの部屋で休むはず。


 針の落ちる音も聞こえそうな緊張の中、シャスティエは神経を張り詰めて待った。あのイルレシュ伯に蹴られて痛めた肋骨はまだ完治しておらず、背筋を正した姿だと常に胸と腹の間あたりに痛みが走る。だが、痛みがあるからこそ緊張を保つことができそうだった。


 そしてどれだけの時間が過ぎたか、ついに執務室への扉が開いた。


「陛下――」


 呼びかけようとしたのと同時に、眼前に白い閃光が走った。剣の切っ先を突きつけられていると気付いた時には、青灰の瞳が間近で彼女を睨んでいた。


「へい、か」


 敵意はないと申し立てなければならないと思うのだが、喘ぐようなかすれた声しか出せない。王は一度たりともシャスティエに本気の殺意を向けたことはなかったと、今こそ思い知らされた。狩りの日、あの無礼者を斬るのを目の前で見せつけられたが、直接刃を向けられる恐怖は別格だった。賊を斬り捨てる構えの相手に対して、彼女はただ凍りつくしかできなかった。


「――貴様か」


 永遠のようにも感じられた一瞬の後、王は呟くと剣を鞘に収めた。助かった、と思うと背に汗が吹き出したのが分かる。心臓がどくどくと高鳴って、頭に血が流れる音が響くようだった。


「何の用だ。どうやって入った。嫌がらせで殺されに来たか」


 とはいえ安心するにはまだ早かった。王の表情にも声にも怒りが満ちている。問われたのはまことにもっともなことなので、シャスティエは簡潔に開け放ったままの通路を示した。何より、この不機嫌さだと言葉を飾るのを待ってはくれなさそうだった。


「隠し通路です」


 王が絶句したのは、かつての彼女なら小気味良いと思っていたかもしれない。だが、今この場においては戦々恐々とするばかりだ。剣を常に身近に置いているとはいえ、この部屋で寝起きしている以上は安全な場所だと考えていたはず。それが王でさえ存在を知らない通路があったと、人質に告げられては驚くのも不快なのも無理はない。


 ――でも、本当のことを言わなくては信じてもらえない……。


「ティグリス様に教えていただきました。ご幼少のみぎりの遊び場であったと。元々は使用人が目立たぬように移動するためだったものを、かつての王たちが広げたようだとのことでした」


 早口に述べた後、きっと一層怒るのだろうな、と思いながら言い添える。


「マリカ様が迷い込まれたら危ないですわ。塞がれた方が、よろしいかと」

「……そうしよう」


 歯ぎしりのような呻き声で答えた後、王は顔を顰めた。


「お前はあの者に会ったのだな。全くいつの間に……近づくなと言ったはずだが」

「近づくなとのご命令は、太后様についてだけのことでございました」

「なるほど、あの者を数に入れなかったのは俺が悪かったな」


 王が自分に非があったと考えていないのは表情からも口調からも明らかだったので、シャスティエはひたすら目を伏せて身体を竦ませた。口を開くごとに王の機嫌が悪くなっていくのが怖かった。これからこの男と交渉しなければならないというのに。

 だからせめて、言い訳もかねて手札を先にさらすことにする。


「ティグリス殿下も私に御用があったのです。ですからいずれ同じことだったかもしれません。

 あの方はブレンクラーレと通じていらっしゃいます。陛下のお力が磐石のものになる前、今でなくてはあの方が王位に就く機はないと、企みを巡らせていらっしゃいます。私を逃がしてミリアールトを復興させ、陛下への(くびき)となさるおつもりのようでした」


 王はしばし無言だった。シャスティエの注進が意外すぎたということはないだろう。驚きの表情はなく――ただ、彼女の口から聞かされたのが不愉快極まりないと言いたげだった。


「お前にとっては良い話ではないのか。なぜ俺に漏らした」

「お断りするつもりだからです。いえ、このようなことになった以上、ティグリス殿下も私を連れ出すのは諦められたかもしれませんけれど」


 王は太后を二度と太陽の下に出すなと命じたと、ジュラから聞かされた。ハルミンツ侯爵の手前、死を賜ることはできなくても、これ以上ミーナやマリカに害をなすことのないように。事実上の幽閉だ。ならば当然、太后の息子であるティグリス王子も同じ扱いになるだろう。表立って動こうとすれば、王に逆らうことになる。


 しかし、シャスティエの説明は、王を納得させることができなかったようだった。王の口元は固く結ばれ、眉間には皺が刻まれたままだ。状況は王もよく理解しているだろう、とは思う。何といってもこの男が統べる国のことなのだから。兄弟同士で争うのがこの国の不文律なのだから。


「それを言ってどうするつもりだ。俺に恩を着せる気か?」


 不審なのは、なぜシャスティエが王に与するようなことをするか、だろう。信じられなくて当然だ。王はシャスティエの祖国を滅ぼした敵。女王と名乗ったのを嘲って、ただ生きていれば良い人質として連れ去った。なのになぜ、と王の青灰の瞳が問うている。


「いいえ――はい。陛下に聞いていただきたいことがございます」


 ――言葉を飾ってはならない。正直に述べた上で、耳を傾ける気になってもらわなくては。


 交渉と譲歩を覚えろ。邪魔な矜持は捨てろ。ほかならぬ王に与えられた教訓を、胸の中で繰り返す。そして、相手が頷けるような落としどころを提示しなくてはならない。彼女と、王と──ミリアールトと、イシュテンと。いずれにとっても利になることだと、王を納得させなければならない。


「貴様と話すことはない」


 勇気を出して真っ直ぐに目を見返し、直截に頷いたのも、それはそれで気に障ったらしい。王の声は低くなる一方だった。


「どうして俺がお前に従うと期待できたのだ」


 斬りつけるような詰問に対して、無言で先日毒を(あお)った喉に、蹴られた腹に手をやると、王の口元が引きつったようにわなないた。あの宴の件も、やはり負い目に思っているらしい。シャスティエにとっても不本意ではあるが、この男が意外と律儀なのはもはや疑う余地はなかった。


 何も言われないのを許諾と取って、シャスティエは続けた。できるだけ堂々と、明瞭に。王が言いよどんだり言葉に迷ったりするのを好まないのは、既に良く分かっている。


「まずはティグリス殿下の誘いをお断りした理由を申し上げます。

 ――イシュテンの正統な王は陛下でいらっしゃいます。あの方ではございません。どのように理屈を捏ねようと、あの方に与することは反乱に加担することです。王家に生まれついた者として、そのような企みに加わる訳には参りません」

「お前らしい正論だ」


 王の口元に浮かんだのは、苦笑か嘲笑か。王は、前に正論が必ず通るとは思うなとも言った。変わらず理想ばかりを口にしていると思われたのだろうか。ややムキになって、シャスティエは語気を強める。


「理由はそれだけではございません」

「ほう?」

「ミリアールトのためでもございます。ティグリス様は、あの方が王になれば当分イシュテンは荒れる、ミリアールトを攻める余裕はなくなると仰いました」


 疑い深げな目に促され、二つ目の理由を述べる。王が少しでも興味を持っているなら僥倖だった。今のうちに、言えるだけのことを言わなければならない。


「ティグリス様は、嘘は吐いておられないのでしょう。でも、平穏を得られるとしてもそれはたかだか数十年のことです。更に次のイシュテン王は、ミリアールトを攻めるのに躊躇(ためら)いますまい。

 ですが、陛下は違います。陛下はミリアールトを滅ぼしましたが――」


 叔父たちの死に顔を思い出して、シャスティエは唇を噛んだ。だが、ここでぐずぐずしてはならないと、思い切る。


「略奪はなさいませんでした。それどころか必要以上には苦しめず、陛下の領土として統治しようとなさっているとお見受けいたします。

 私自身が剣を持って祖国を守ることができないからには、最後の女王として、陛下に従うことを誓います。

 イシュテンの一部で構いません。国の名などどうでも良いのです。どうか、ミリアールトをお守りくださいますよう――」


 乞うならば跪いた方が良いか、との考えがちらりと頭をかすめたが、シャスティエは思い留まった。言葉の上では懇願していても、彼女は女王のはずだから。王の気性から言っても、形だけ媚びて見せても良い印象を与えられるとは思えない。それに、王はそもそも彼女よりも遥かに長身だから、どのみち見上げる格好になっているのだ。

 不安に見つめる視線の先で、王は変わらず不快げな表情だった。


「やはり嫌がらせにしか聞こえぬな。

 俺の意にならぬことが多いのは、お前も良く見聞きしたことではないのか。それに、お前が従おうと従うまいと関係ない。お前は現に人質としてここにいる。自分の意思で来たとは言わせぬぞ。お前が何を企もうと誰につこうと、無力であることに変わりはない」


 その口調にもたっぷりと刺がまぶされている。しかし、珍しいほどの饒舌さに、多少なりとも彼女の言葉に思うことがあったのだと信じたかった。


「イシュテンの――事情は分かっているつもりです。陛下のお心に沿わぬ者が多いのも」


 ここが勝負と見て、シャスティエは慎重に言葉を選んだ。


「それは、ティゼンハロム侯のお力が強いから。そして陛下にお世継ぎがいらっしゃらないから。そのためにティグリス様が野心を持つ――乱を企む余地ができてしまうのです」


 王の瞳は分かりきったことを言うなと細められている。自身の力不足を、シャスティエの口から改めて聞かされるのは不愉快極まりないに違いない。それでも、前提を述べるのは必要なことだ。


「私がティグリス様を選ばなかった最大の理由は、ただ恩を売られるのが嫌だったからです。ここから逃がしていただいて、ミリアールトの再興を目溢していただく。攻めぬ代わりにミリアールトからも攻めるな、と恩で縛られるのです。女でも無力でも、それを屈辱と感じるだけの矜持はあるのです」

「俺に対しては違うと? お前に何ができる」


 王が反問するのは予想できたから、シャスティエは間髪を入れずに答えた。


「陛下のお悩みを解いて差し上げることができます。ティゼンハロム侯のことも、お世継ぎのことも」


 それでも次の言葉を言うには一瞬の躊躇いがいった。これを言わなければここへ来た意味がないが。考え抜いた末に、これしかないと決めたことだが。それでもなお、これを言っては引き返すことができないと、一抹の恐怖が拭えない。


 ――でも、言わなくてはならない。


 負い目からか本当に興味を持ったのかは分からないけれど、王が寛容にも彼女の言葉に耳を傾けているうちに。これこそが、彼女が考えた末に見つけた戦い復讐する術だから。


 シャスティエは軽く唇を舐め、拳を握り締めると、声が震えることのないように力を込めて、その一言を放った。


「私を、陛下の側妃にしてください」

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