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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
8. 宴の始末
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守りたいもの ウィルヘルミナ

 ウィルヘルミナはその後数日をほぼ娘とだけで過ごした。マリカは日を追うごとにあの恐ろしい記憶を薄れさせているようで、以前と変わらず朗らかに駆け回るようになった。王宮の奥に閉じ込もるだけではなくて、犬舎まで足を伸ばして子犬の様子を見てくることもあるという。伝聞になってしまうのは、娘に付き添ったラヨシュから報告されたことだからだ。ウィルヘルミナはどうしても出歩くことが怖いから。


 夜になるとまだ母の添い寝を強請(ねだ)るから、完全にあの夜のことを忘れてしまったようではなかったけれど。でも、ひとまず娘に笑顔が戻ったことは、ウィルヘルミナとしては喜ぶべきことだった。

 政務に忙しい父と何日も会えないのはままあることだし、シャスティエも、懐いてはいても連日呼びつける訳ではなかった。だから、寂しいけれどこういうこともあるのだろう、と。マリカは子供心に納得しているようだった。

 生まれて初めて曝された殺意や、シャスティエの容態。エルジェーベトがいくら気にするなと言ってもその通りにできる訳もなく、ウィルヘルミナは心が塞ぐ日々を過ごしている。いっそ娘のように何も思い悩まずに済んだ頃に戻りたいとさえ思うこともある。しかし、彼女が王妃であり母である以上、それは許されないことだ。


 ――私は、このままで良いのかしら。何をすれば良いのかしら。


「――様、お母様!」


 エルジェーベトが淹れてくれた茶を冷めるに任せて、頬杖をついて物思いに耽っていたウィルヘルミナは、娘が彼女を呼ぶ声にしばらく気付かなかった。焦れたようにドレスの裾を引っ張られて初めて、マリカが絵本を両手で差し出しているのが見えた。


「お母様、ご本読んで!」

「ええ、良いわよ」


 マリカを膝に上らせて、卓上に広げた本を母娘して覗き込む。マリカはこの数日、外遊びをするよりも部屋の中で過ごす時間の方が多い。駆け回ると言っても、庭を、ではないのだ。落ち着きがないからもう少し大きくなってからにしようと思っていた、刺繍の手ほどきも始められるほどだった。宴の夜のことを忘れたようで、実は怯えが残っているのか。あるいは浮かぬ顔の母を子供なりに気遣っているのか。どちらにしてもウィルヘルミナは自分の不甲斐なさを噛み締めることしきりだった。


 それでも娘のためにしてやれることがあるということ、答えの出ない悩みを一時でも考えないで済むことは彼女にとっては救いだった。だから、彼女は娘の頭を撫でると絵本の文字を追って読み始めた。


「昔々――」


 ウィルヘルミナは文字を読むのが得意ではない。女に学は必要ないと言われて育ったから。とはいえ子供の絵本程度の内容、それも彼女自身も親しんだお伽話であればつかえることなく読み聞かせることができた。


「――おしまい。どうする、マリカ? もう一冊読む?」

「えっとね……」


 マリカは母の膝の上で器用に身をよじると、ウィルヘルミナの胸に顔を埋めた。夫譲りの青灰の瞳が、彼女を見上げる。物怖じしないこの子には珍しく、大人の機嫌を窺う表情を見せながら。


「外国のお話がまた聞きたいなあ。……お姫様は今日も来ないの?」

「マリカ……」


 やはり娘に気を遣わせてしまっている。この子もおかしな雰囲気を察している。そうと気付くとウィルヘルミナの声は沈んだ。


「シャスティエ様はお加減が良くないの。まだお招きすることはできないわ」

「お見舞いも、ダメ?」


 ウィルヘルミナは食い下がる娘の髪を――いつものように枯葉や小枝を絡めていないのが、我慢をさせているのかと逆に痛々しく思えた――梳いて、その額に口づけた。


「静かにお休みになりたいでしょうから。いけないわ」

「良い子にするわ。うるさくなんかしないから」

「マリカ、いけないの」


 必死に言い募る娘をなだめるうちに、ウィルヘルミナも泣きたい気分になっていく。彼女も毎日のようにシャスティエの容態を尋ねては面会を断られている。起き上がれもしないのに王妃を迎える訳にはいかないと。それほど悪いのかと案じては、もしかしたら会いたくないための口実なのかと恐れる、その繰り返しだ。シャスティエが倒れているのは全て彼女のせいなのだから。


「いけないのよ……」

「お母様」


 声を詰まらせた母を見て、マリカはぎゅっと眉を寄せた。幼い顔に似合わぬ難しげな表情をさせてしまうのが、申し訳ない。ウィルヘルミナは母としてさえ不出来なのだろうか。

 笑わなければ、と思ったところに、マリカが内緒話のように囁いた。ウィルヘルミナの肩につかまって、耳元に口を近づけて。


「じゃあ、お花を摘みに行きましょう? お姫様に届けるの。早く良くなってね、ってお伝えしたいわ」


 娘の提案のお陰で、ウィルヘルミナはやっと自然な微笑みを浮かべることができた。あまりにも他愛なくて――でも、だからこそ名案だと思えた。


「そうね、良い考えね、マリカ」


 ――それくらいなら……。


 嫌われてしまったかもしれないと思うと、見舞いの品を送ることさえ遠慮していた。だが、たとえウィルヘルミナの名前さえ見るのも嫌だと思われていたとしても、花にもマリカにも罪はないはずだ。せめて受け取ってもらうことくらいは期待しても良いのではないだろうか。




 ウィルヘルミナはマリカと連れ立って早速庭を訪れた。冬に花の彩がある場所はさすがに王宮にも少ないから、寡妃太后を出迎えた時に刺繍をしていたのと同じ場所だ。あの昏い目に詰られたことを思い出すと少し身が竦んだが、あの方はもうここに来ることはないからと自分に言い聞かせて、娘に対して笑顔を保った。

 王宮の内部とはいえ、久しぶりに居室の周辺からは離れた一角へと足を運んだことになる。冬の曇天とはいえ開けた空に、澄んだ空気。さらに常緑の木々の葉や、灯のようにさえ感じられる花の色。見慣れたはずの景色が妙に鮮やかに目に染みて、ウィルヘルミナはどれだけ気が塞いでいたかを改めて思い知らされた。


 そうして二人で選んだのは、贈る相手の美貌に相応しい、清らかで香り高い白い薔薇だった。侍女に命じて何本かの枝を切り取らせ、丁寧に刺を除き、花束の形に整えさせる。

 仕上げには手紙を添えることにした。マリカはまだ字を覚えていないから、ウィルヘルミナの代筆だ。子供の言うことくらいなら、彼女でもさほど悩まず書き留めることができるのだ。


「元気になったらまた遊びましょう、って書いてね」

「ええ」


 ウィルヘルミナは頷きながら羽軸のペンを動かした。娘に嘘をついたことに胸を痛めながら。

 マリカは、シャスティエは単なる風邪か何かだと思っている。母の身代わりに毒を飲んだのだとは、まだ分かっていないだろう。だから無邪気にまた、などと言えるのだ。だが、ウィルヘルミナはあの美しい人に嫌われてしまったのではないかと恐れているから、そのような言葉は図々しいと思ってしまう。確かにできることならまた親しくして欲しいとは思うけれど、何よりも重んじなければならないのはあの方の気持ちの方だろう。

 だから一日も早い回復を祈っている、という表現にとどめた。シャスティエはミリアールトで信じられている雪の女王の女神の写身のようだと聞いたことがある。ならばきっと、あの方は神の加護を賜るだろう。異国の王妃の祈りにかの女神が応えてくれるとしたら、だけど。




 祈りは思いの外早く聞き届けられた。花を送った翌日、ウィルヘルミナはシャスティエからの招きを受けたのである。

 病み上がりの方のところを騒がせる訳にはいかないからと、娘に言い聞かせて単身招待に応じることにした。もちろんそれは嘘ではないが、本心は更に別にある。


 ――もしもお怒りだったなら、マリカを会わせる訳にはいかないわ。


 宴の席で思い知らされた。人に嫌われるということは底知れず恐ろしく悲しいことだ。ウィルヘルミナは大人の女で王妃で母だから、そして自分のせいで招いたことだから受け止めなくてはならない。それでも、マリカに同じ思いを味わわせるのはまだ早すぎると考えたのだ。




 数日振りに会ったシャスティエは明らかに痩せていた。元々白い肌は一層透けるように血の気を失くし、碧い目は整った顔の中で一層目立って輝くよう。首筋も肩の線も細くなったようで、まるで氷の像が太陽にさらされて一回り小さくなってしまったようだった。傍らに飾った白薔薇の方がまだ生き生きとして見えるような儚げな風情が痛々しい。

 そんな色褪せたような姿の中、唇だけは血の色を透かして紅かった。ウィルヘルミナが言葉を失って見つめる中、艶やかとさえ見える唇が微かに弧を描く。


「ミーナ様、ご無沙汰をしてしまいました。申し訳もございません」

「そんな……また会っていただけてとても嬉しかったのよ。あの、お加減は……」


 良くないに決まっているのに分かりきった問いかけをしてしまい、ウィルヘルミナは自身の愚かさに恥じ入った。そんな彼女に、シャスティエは優しく微笑みかけてくれる。


「起き上がれないほどだったのは最初の二、三日だけだったのです。もっと早くにお目に掛かることもできたはずなのですが――侍女が、ミーナ様からのご伝言を止めておりました」

「え?」


 慌ててシャスティエの背後に控えるミリアールト人の侍女を見ると、若草色の瞳を伏せて唇を真っ直ぐに引き結んでいた。いつもは朗らかな印象の娘なのに、一切の表情を消して佇む様は人形めいて冷たい空気さえまとっていた。


「お花をいただいたので流石に隠しきれないと悟ったのでしょう、打ち明けてくれました。私の身体を気遣ってのことではありましたが、ミーナ様には大変なご無礼を働いてしまいました。主である私の咎です。どうぞ如何様にも――」

「そんなこと!」


 言葉通り申し訳なさそうに眉を寄せたシャスティエを、ウィルヘルミナは慌てて遮った。

 これほどに痩せ細ってしまった人を、それも彼女のせいでこうなってしまった人を、どうして咎めることができるだろう。

 シャスティエの侍女を改めて見ると、無表情なのではなく感情を押し殺しているのだと分かった。他人の悪意に疎いウィルヘルミナにも分かるほどの、強い怒りの感情を。


「謝らなければいけないのは私の方よ。許してもらえないかもしれないけれど、ずっとお伝えしたかったの。あの、私のせいでこんな、ひどいことになって――ごめん、なさ……」


 はっきりと謝罪を述べなければならないと思うのに、言葉は頼りなく立ち消えた。侍女の視線が切りつけるようで恐ろしかった。当然だろう。彼女の主にひどい苦しみを与えた者が図々しく許しを求めているのだ。それに彼女は王妃なのだ。心中でどう思っていても謝罪を受け入れない訳にはいかないだろう。


 ――ああ、私はなんてずるいことを。


 涙の予兆に目が熱くなった。だが、それは一番いけないことだ。今泣き出してしまったら、シャスティエはますます彼女を宥めない訳にはいかなくなる。この場には父も夫もエルジェーベトもいない。せめて自分の思いを伝えるくらいは自分の力でやり遂げなくては。


「ごめんなさい。本当にごめんなさい。会ってくださって本当に嬉しかったの。でも、決して無理はなさらないで。シャスティエ様の良いようにして欲しいの。もう関わりたくないというなら、絶対にお呼びしたりしないから」

「ミーナ様」


 涙を零さないようにせわしなく瞬きしながら一息に言うと、シャスティエは驚いたように目を見開いた。そして考え込むように首を傾げてから立ち上がり、ウィルヘルミナに歩み寄る。さやさやという衣擦れの音が柔らかく彼女の耳に響いた。

 白く細い手が、ウィルヘルミナの肩にそっと触れた。


「お気に病まれていることだろうと案じておりました。マリカ様にも、恐ろしいところを見せてしまって。……他にやりようもあった筈なのですがあの時は思いつかなかったのです。私こそ申し訳ございませんでした」

「そんなこと。私のせいなのに。私の代わりに――」

「私の勝手でしたことです。ミーナ様のせいなどとは思っておりません」


 シャスティエと同じことをエルジェーベトも言っていた。優しく髪を撫でる手つきもあの時と似ている。だが、毒に倒れた本人が言い聞かせるように囁く言葉は、あまりに都合が良く甘かった。縋ってしまいそうになるほど。


「でも……どうして……?」


 甘えてはいけない、と思いながらもウィルヘルミナはシャスティエの細い――細すぎる背に手を回した。あばら骨を痛めたという痛みがどの程度のものか分からないから、壊れ物を扱うように、そっと。するとシャスティエの手も彼女の背に降りてきた。


「私はミーナ様が好きなのです。それだけですわ」


 シャスティエは蒼白な頬をほのかに染めて、恥ずかしそうに囁いた。やはりこの人は美しいだけでなく信じがたいほど可愛らしくもある。しかし、聡明なこの人には珍しいほどの簡単な言葉でさえ、ウィルヘルミナには呑み込みづらい。


「どうして……」


 だって彼女はシャスティエのような賢さも、自ら毒を呷る強さもない。身分でいうなら王妃と王女でさしたる違いはないはず。否、王妃を名乗りながら何も知らず何もできないと思い知らされたばかりだ。友人を気遣ってしたことさえ却って苦しめる結果になってしまった。

 シャスティエに好かれるに足る魅力が自分にあるなどと、彼女には信じることができなかった。


「ミーナ様を嫌いになることなんてできませんわ。ミーナ様ほど優しい方を私は他に知りません」

「優しいなんて」


 人ならば当たり前のことではないのだろうか。特別に褒められるようなこととは思えない。

 眉を顰めるウィルヘルミナの目の前で、シャスティエはゆるゆると首を振った。


「私、この国に最初に来た時は大層ひねくれておりましたの」

「……そう、なの?」


 確かにひどく緊張していた様子だったとは思うが。ひねくれる、の意味が測りかねてウィルヘルミナには相槌の打ちようもない。


「はい。敵ばかりのところだと思っておりましたから。絶対に気を許すものか、弱みを見せるものかと神経を張り詰めておりました」

「……そう」


 シャスティエは微笑んでいたが、敵、という単語が胸に刺さった。そうだった、夫はミリアールトを攻めたのだった。なのにシャスティエのことは異国にひとりきりでお気の毒だ、としか思っていなかった。人が争い合うのは恐ろしい、と。宴の席での一幕を見るまで気づくことがなかったのだ。


 ――やっぱり私は何も知らなかった……。


「ミーナ様に良くしていただいたお陰で私がどれほど救われたことか。異国で心まで凍らせずに済んだのは、ミーナ様がいてくださったからです」

「でも」


 それは、ウィルヘルミナが何も知らなかったからだ。シャスティエの内にここまで冷たく尖った思いがあると想像さえしていなかった。知っていたら、同じように無邪気に接することはできなかっただろう。敵だと思っていた者から馴れ馴れしくされるのは絶対に愉快なことではないだろうから。

 自分のしたことがシャスティエの気分を害していたかもしれない。そのことに初めて思い至って、ウィルヘルミナは震えた。


「ごめんなさい、私、とてもひどいことを――」

「いいえ!」


 シャスティエは細い、しかし力強い声でウィルヘルミナを遮った。


「上辺だけの優しさであれば分かります。心を動かされることもありません。ミーナ様は本当に、魂からお優しい方。だからこそ決して傷つけさせてはならないと思ったのです」


 ウィルヘルミナの背に回ったシャスティエの手に力がこもった。


「勝手な争いにミーナ様を巻き込むなんて、本当にひどい。ミーナ様は何も悪くないのに。……ですから、ミーナ様に何事もなくて、私は心から満足しているのです。だから、どうかお気になさらないでください」


 シャスティエの声にこそ、心からの憤りと労りが宿っていた。エルジェーベトも同じようにウィルヘルミナの無事を喜んでくれたが、この歳下の少女の言葉の方がはるかに彼女の心を安らがせる。雪のように白い肌に似合わず、意外にも温かいシャスティエの柔らかい身体を感じながら、ウィルヘルミナはどうしてかしらと訝った。


 ――ああ、そうか。


 エルジェーベトは、ウィルヘルミナは何もしなくて良いと言ってくれる。一方で、シャスティエは彼女がしたことのために彼女を好きになってくれたと言った。例えそれが無知から発した愚かな振る舞いであったとしても。無条件に与えられ守られるだけでなく、自らの行いを認めてもらえる。それがこれほど嬉しいものだと、ウィルヘルミナは初めて知った。


「シャスティエ様。ありがとう……」


 シャスティエの胸に預けたウィルヘルミナの頬を、一筋の涙が伝った。

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