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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
8. 宴の始末
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守られるだけのもの ウィルヘルミナ

 マリカはウィルヘルミナの服を掴んで眠っていた。

 活発な――活発すぎるほどの娘だから、寝かしつけるのにはしばしば苦労させられてきた。シャスティエと出会って異国のお伽話を寝物語に好むようになり、ラヨシュと出会って昼間思い切り遊ぶようになり、やっと最近横になるのを嫌がらなくなってきたところだった。


 それでも今日は久しぶりによくぐずった。ずっと泣いていて、目がくっつきそうなほど腫れているのに暗いのが怖いと眠ろうとせず、灯りを消さないでと哀願したのだ。侍女の添い寝では満足しないで、母親のウィルヘルミナが寄り添ってようやく落ち着いたところだった。


 ――可哀想に。怖かったのね。


 このままでは着替えることもままならないが、ウィルヘルミナは娘の傍を離れるつもりは毛頭なかった。すぐ目の前で慕う人が倒れ、暴行され。大人たちが怒鳴り合う異様な雰囲気に曝されたのだ。幼い子供が怯えるのも当然だった。

 ウィルヘルミナはマリカの髪を梳き、頬を撫でた。娘の夢が安らかなものであることを切に願う。それで娘が眠れるというなら、一晩中枕元で起きているのも苦にはならない。

 しかし、娘を愛しく思う一方で、母が傍らにいるというだけで安心できるのが羨ましくてならない。幼い娘はまだ知らないのだ。彼女が信じてやまない母も無力な存在に過ぎないと。子供のように誰かに縋りつき守って欲しくて仕方ないと。今さっき浴びせられた言葉の数々に傷ついて泣き出しそうなのだと。


 ――太后様が、私を殺そうとしていたなんて。


 寡妃太后ゲルトルート。ウィルヘルミナの前に王妃であった人。その頃、先王の側妃や寵姫、その子供たちが亡くなることがよくあったという。

 ウィルヘルミナはその恐ろしい噂についてはずっと信じられないと思っていた。

 確かにたまに顔を合わせる度に、男の子はまだかとつつかれはしていたけれど、直截で不躾な物言いに怯み、昏い洞のような瞳を恐れてはいたけれど。でも。彼女の方が目下だから仕方ないと言い聞かせてきたし、子供はたくさんいた方が良いのは事実だからと、彼女のことを思ってのことだと信じようとしてきた。


 だって太后を除いたら、父も夫も侍女たちも、ウィルヘルミナの周囲の者たちは口を揃えて何も心配することはないというから。彼女は笑っているのが可愛いと、マリカを育てるのに専念していれば良いからと。


 ――どうして……?


 目の前で倒れたミリアールトの美しい姫。ウィルヘルミナの大事な友人。あの少女の苦痛に歪んだ顔、青褪めた頬を見れば悟らざるを得ない。太后は毒を使ってウィルヘルミナを殺そうとしていた。過去の側妃たちにまつわる噂もきっと本当なのだろう。


 でも、その理由が分からない。


 ウィルヘルミナは誰かを殺したいほど憎んだことはない。人を嫌うことさえ稀だった。それも意地悪をしたり傷つけたりなどとは考えるだけでも恐ろしいこと、嫌な人とは会わないで済めばそれで忘れることができる。そんな彼女が、どうして太后に憎まれてしまったのだろう。


 ウィルヘルミナは一瞬だけ目を閉じ、すぐに開いた。暗闇は、怖い。彼女が眠らないのは娘を見守りたいからというだけではない。神経が昂ぶって眠れそうにないというのも、言い訳にすぎない。

 目を閉じると目蓋の裏に先の光景が蘇ってしまう。倒れたシャスティエ。取り押さえられたイルレシュ伯。いっそ誇らしげに微笑む太后。父も夫も、見たことがないほど険しい顔をしていて怖かった。

 それに音も襲ってくる。本来ならば王妃と王女を気遣って物音一つ立てられないはずなのに、聞こえるのは炎が蝋燭の芯をじりじりと焦がす音くらいのはずなのに。また聞こえてしまうのだ。彼女が生まれて初めて聞かされた恐ろしい悪意のある言葉、彼女を貶め嘲る言葉の数々を。


『私は王妃を殺せと言ったのに』

『ウィルヘルミナはちっとも懐妊しないのですもの』

『年増の石女(うまずめ)にはさぞや目障りだったろうな!?』


「私にはマリカがいるのに……」


 小さく呟くと同時に、堪えきれなくなった涙が頬を伝い、マリカを包む寝具に染みを作った。娘が言葉にならない何事かを発して身じろぎしたので、起こしてしまったかと恐れたが、マリカは手探りで母の服を掴み直すとまた安らかな寝息を立て始めた。


 ――マリカ。可愛い子。愛しい、私とファルカス様の娘。


 娘は愛しい。その気持ちに偽りはないし、母になれた喜びは一日たりとも忘れたことはない。だが、太后はかつてこうも言った。女の子など、何人いてもいないのと一緒だ、と。こんなにも可愛い娘なのに、いないかのように、必要がないものであるかのように言われてしまった。胎動を感じた時の嬉しさも、産みの苦しみも、全てなかったことのように。


 ――私の、せいなの……?


 寝具の染みがまた一つ増えた。

 男の子を産めなかったから。マリカの後に懐妊の兆しさえ見られないから。それは死を願われるほどの大罪なのだろうか。

 父やエルジェーベトは構わないと言ってくれるけれど、マリカを可愛がってくれるけれど、それはウィルヘルミナを気遣っているにすぎないのではないだろうか。


 イルレシュ伯もハルミンツ侯も、以前何度か話した時には礼儀正しく接してくれた。なのに裏ではあんなひどいことを考えていたのだるか。口と顔には出さなかっただけで、ずっと彼女と娘のことを見下していたのだろうか。


 そう思うと、ウィルヘルミナはもう人の言うことが信じられないとさえ思えた。それでも夫が抱きしめてくれたなら、安心することができたかもしれない。彼女が愛し、信じてやまない夫はとても強い人だから。けれどそれが望めないことも彼女はよく知っている。少なくとも、今夜のうちは。

 太后が王妃を殺そうとして、宰相の一族の爵位を持つ者がそれに加担したのだ。夫が王である以上、後始末には時間が掛かるはずだった。政治に疎いウィルヘルミナにもそれくらいの分別はつく。多分、父のティゼンハロム侯爵も王の傍にいるのだろう。


 だから、ウィルヘルミナはしばらく一人でこの不安と恐怖に立ち向かわなければならないのだ。


 ――マリカを、守らなくては……。


 といっても彼女にできることなどたかが知れているのだけれど。とにかくも娘に不安を悟らせないように、常と違うところを見せてはならない。ウィルヘルミナにはもはや世界が美しく穏やかなだけとは信じられないけれど、娘にとってはそうでなくてはならない。父たちが望むように、可愛らしく微笑むだけの存在でいなくては。たとえどんなに難しいと思えたとしても。


 ――シャスティエ様に、会いたがるかしら。


 あの姫君のことを考えると、ウィルヘルミナの胸は引き裂かれるように痛んだ。否、血が出るほどに胸をかきむしることが出来たらどんなにか良いだろう。

 今日起きたことのなかでも最も不可解な出来事が、シャスティエが彼女の代わりに毒の杯を飲んだことなのだから。シャスティエが気付いてくれなかったら、倒れていたのは彼女のはずだった。なのにウィルヘルミナは無傷で娘に寄り添っていて、シャスティエの容態はいまだに知れない。誰もウィルヘルミナには教えてくれなかった。


 ――これも、私のせい。


 喉から嗚咽が漏れそうになって、ウィルヘルミナは娘を起こさないように必死で唇を噛んだ。

 シャスティエはウィルヘルミナを庇って倒れた。それに、そもそも彼女を宴に招いたのもウィルヘルミナの考えだった。異国で閉じ込められて、寂しく心塞ぐ日々を過ごしているであろう友人を、気遣ったつもりだった。

 だが、そんなことはするべきではなかった。先の狩りの件でも、良かれと思って連れ出したのに、あの美しい少女に恐ろしい思いと怪我をさせてしまった。ウィルヘルミナは知識も浅いし世慣れてもいない。余計なことなど考えない方が良いと、あの時に思い知っておくべきだった。


 ――シャスティエ様に嫌われてしまったらどうしよう。


 そう考えると、恐怖と悲しみで喉が締めつけられるような思いがした。自ら毒を呑んだシャスティエも、この苦しみを味わったのだろうか。あんなに美しく優しい人が。ウィルヘルミナは可哀想な境遇の元王女と仲良くなりたかっただけ、慰めを与えてあげたかっただけなのに。

 ウィルヘルミナの恐怖の源はまだ尽きない。シャスティエに嫌われ顔を背けられるよりも、もっと恐ろしいことがある。しかし、ウィルヘルミナは懸命にその問いを考えないようにした。誰も彼女に答えを教えてくれない今、たった一人でそれを考えるのは恐ろしすぎる。


 ――シャスティエ様が死んでしまったら、どうしよう。




 朝の光が閉じた目蓋に射さるのを感じて、ウィルヘルミナは目を覚ました。ほんの一瞬、全ては悪い夢だったのではないかと期待して――椅子に掛けたまま、娘の枕元に寄り添うような体勢だったこと、昨夜の青いドレスと髪型のままだったことから、やはり現実だったと思い知らされた。

 娘は、と寝台に目をやると、そこは小さなくぼみを残して空っぽだった。恐慌に囚われて悲鳴を上げかけた瞬間、聞きなれた声が彼女の名を呼んだ。


「ミーナ様、お目覚めですのね」

「エルジー」


 乳姉妹の姿を認めて、ウィルヘルミナは身体の力を抜いた。馴染んだ者の、いつもと変わらぬ穏やかな微笑みはほんの少しだけ彼女の神経を和らげてくれた。


「マリカ様まで起こしてしまいそうでしたから、お起こしすることもできませんで……冷えたりなどはなさっていないでしょうか」


 言われて初めて、ウィルヘルミナは厚手の毛布を掛けられていたことに気付いた。眠れるはずもないと思っていたが、いつの間にか寝入ってしまっていたらしい。


「ありがとう、大丈夫よ。マリカは?」

「先に朝食を召し上がっていらっしゃいます」

「ファルカス様は?」

「昨晩は表でお休みになられたとのことございます。父君様――殿様もご同様に」

「……そう」


 予想していたことではあったが、やはりしばらく夫に会うことはできなさそうだった。ウィルヘルミナは落胆し――逡巡した。問いを重ねても良いものかどうか。


 聞きたいことはいくらでもあった。しかし、いずれも答えを知るのが恐ろしいことでもあった。とはいえ何も知らないでいることもまた恐ろしい。だから彼女はエルジェーベトを手招きするとその身体を抱き締めた。それは彼女と同じ柔らかく頼りない女の身体ではあったが、人の温もりは彼女にわずかながら勇気を与えてくれた。

 そこまでして初めて、ウィルヘルミナはエルジェーベトの耳元に囁くように問いかけた。


「……昨晩は、あれからどうなったのかしら。聞いていない?」


 エルジェーベトは微かに笑って密着したウィルヘルミナの身体にくすぐったい感覚をもたらし、ウィルヘルミナの豊かな黒髪を結い上げたピンを一本ずつぬいた。一晩を経て肩や首筋に凝りを、頭には重い痛みを感じさせていた拘束めいた複雑な髪型が解けて、流れるように艶やかな髪がウィルヘルミナの背を覆った。


「ミーナ様がご心配なさることは何もございません。殿様も陛下も、何もかもミーナ様の良いようになさってくださいます」


 編み込みを解き、癖のついた房を梳きながらエルジェーベトが告げたことは、いつもならウィルヘルミナを安心させてくれるはずだった。だが、今日に限っては十分ではなかった。


「……太后様は? あの、伯爵様も」


 恐る恐る尋ねる間にも、エルジェーベトは優しい手つきで彼女の髪を梳いていく。主の問いに答える声も、ひたすら優しく穏やかなものだった。


「不届き者は陛下が成敗してくださいました。太后も……さすがに表立って罪に問うことはできないとのことですが、二度と太陽の下を歩くことはないでしょう。ミーナ様に仇なすことも、もう決してさせません」

「そう……」


 ――あの方が死んでしまった? ファルカス様が殺した……?


 その考えはひどく恐ろしく、また不思議と実感の湧かないことでもあった。夫はウィルヘルミナに対しては優しい人だというのに。剣は常に帯びているし、幾度となく戦いに赴くのを見送ったけれど、それはどこか遠い世界の出来事のように思っていたのに。

 戦いは戦場だけで起きるものではないのだろうか。彼女が馴染んだこの王宮も、戦いの場になるのだろうか。エルジェーベトが告げたことにも関わらず、ウィルヘルミナの不安は消えず、ざわざわとした厭な予感に彼女の肌は粟立った。


「シャスティエ様は? 大丈夫なのかしら、あんな……」


 毒を飲んだ上にイルレシュ伯に蹴り飛ばされ、人形のように転がったあの姫君の姿を思い出すと、ウィルヘルミナの声は小さくなっていった。あの鈍い音、血と吐いたものと苦悶の表情に汚された美しい顔。どう考えても大丈夫なはずはない。白々しくも口に出せる自分が、ひどく恥知らずに思えたのだ。


「あのお方ですか」


 エルジェーベトの顔が歪んだので、ウィルヘルミナは最悪の事態を恐れた。けれど、乳姉妹の侍女が次に述べたのは、彼女の怖れとは異なることだった。


「毒を飲んだといっても一口だけ、それも腹を蹴られて幾らか吐いたとのことで、命に関わることはないということですわ。内臓とあばら骨を痛めたということですが、それもじきに治りますでしょう」

「本当に……!?」


 しかし、エルジェーベトがどこか尖った口調で言ったことに、ウィルヘルミナは心底安堵し、やっと微笑むことができた。確かにシャスティエの身には恐ろしいことが起きたし怪我も酷いものではあるが、とにかく生きていてくれたということが何よりも嬉しかった。

 だが、すぐにまた別の恐れが首をもたげる。


「お見舞いには、行けるかしら」


 ――また会ってくださるかしら。


「ミーナ様のご命令とあれば断ることはできませんでしょう」

「命令じゃないの。私、あの方に謝らないと。でも、聞いていただけるか……」

「謝る? ミーナ様が? 一体どうして?」

「どうして、って……」


 エルジェーベトが不思議そうに覗き込んできたので、ウィルヘルミナは言葉に詰まった。シャスティエが彼女の身代わりに毒を呑んだのは誰の目にも明らかだと思うのに。しかし、父や夫、エルジェーベトの言うままに生きてきた彼女は、自分の考えが正しいのかいつも今ひとつ自信が持てなかった。


「あの……太后様は私を狙っていたのでしょう? シャスティエ様を巻き込んで恐ろしい目に遭わせてしまったのよ。それに、そもそも宴に来ていただいたのも私がお招きしたからよ。……だから……怒って、いらっしゃるかも……」

「ミーナ様」


 不意に抱き寄せられて、ウィルヘルミナは言葉を途切れさせた。


「エルジー?」


 エルジェーベトが、彼女を苦しいほどに強く抱きしめてくる。


「そのような顔はなさらないで。ミーナ様はとても可愛らしくて優しい方。醜い他所のことに思い悩む必要はないのです」

「他所って、でも、シャスティエ様は――」

「あの方が勝手にしたことです」

「でも」

「ミーナ様は私だけを信じてくだされば良いのです」


 エルジェーベトの表情も声も自信に満ちたものだったので、ウィルヘルミナは自分の方が間違っているような気分にさえなった。否、でもそんなはずはない。


「でも」


 乳姉妹を説得しようと無為に繰り返すのだが、何と言えば良いか分からなかった。人と言い争い、言われたことに逆らうのに彼女は全く慣れていないのだ。


「あの方は余計なことをなさいました。あの方がいなくても必ず私がお守りしていましたのに。結局は関係なかったのかもしれませんけれど、人質の身で、それもあのような場でミーナ様に酌をしようなど怪しいことこの上ない……!

 宴の前にイルレシュ伯爵とかいう男を遠ざけたのもこの私だということを思い出してくださいませ。まったく、何のためにミーナ様にお目通りをしようとしていたのか……。もしあの時通していたなら、絶対に良からぬことが起きていたに違いありません」


 エルジェーベトは得意げに滔々と語った。

 彼女が言うことは、事実ではあるのだろうと思う。しかし、だからといってシャスティエがウィルヘルミナの代わりに倒れたこととは関係ない、ような気がする。


「でも……」

「ティゼンハロム侯爵家の恩に背いて頭のおかしい太后と手を結ぶなんて。そのような不忠者、斬られて当然です。そもそも息子のことを恨むのだって筋違いですもの。そう、その点で言えば、ミリアールトの姫君は恨まれて仕方なかったのかもしれません。あの男の息子が死を賜ったのも、あの姫君のせいですからね」

「そんな!」


 思わず声を挙げると、エルジェーベトは宥めるようにミーナの髪を梳き、優しく頬に口づけた。


「これからも私が必ずお守り申し上げますわ。だからミーナ様、どうかお笑いになって」


 言いたいことも聞きたいことも山ほどあったが、エルジェーベトは彼女の望みに答えてくれないだろうとなぜか確信できた。

 だから、ウィルヘルミナはぎこちなく微笑むことしかできなかった。

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