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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
7. 悪意の饗宴
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顧みられない妃 レフ

 ブレンクラーレでの新年は祖国ミリアールトとは全く違う空気に包まれていた。すなわちより華やかで、より明るい。

 ミリアールトの冬は長く暗いから、闇を押し返し雪の女王の怒りを和らげるために、それに何より人々の心を慰めるために新しい年の訪れを盛大に祝う。

 それでも極光の下、王宮の周囲に深く積もった雪を反射する光は、どこか青白く静謐なものだった。


 だがブレンクラーレの王城鷲の巣(アードラースホルスト)では違う。

 天井や壁面に灯る蝋燭は、随所に設えられた鏡によって無数と思えるほどに輝きを増す。炎の柔らかく暖かい明るさが大広間を照らし、その熱気が貴婦人のまとう香りを頭が痛くなるほどに掻き立てている。


 ――さすが、大陸屈指の大国は違うということか。


 レフは人の波を避けてひとり露台で風にあたっていた。もともと賑やか過ぎる場所はあまり好きではなかったが、ブレンクラーレの宴の華やかさは祖国のそれより数段上で、目眩さえ覚えるほどだった。

 真冬とはいえ、氷の刃が吹き付けるようだった祖国の風と比べると、今彼の頬を撫でるのは涼しくて心地が良いという程度のものだった。服の襟元を緩めて一息つくと、やっと頭が晴れる気がした。


 従姉がこの場にいたらどうだっただろうか、と思いを馳せる。彼女も華やかな会を取り立てて好むという訳ではなかったが、求められたように振る舞うのはよくこなしていた。きっと堂々と王太子妃らしく、名だたる列席者と機知に富んだ会話に花を咲かせたに違いない。美貌だけでなく気品も教養も兼ね備えた彼女であれば、きっとこの国でも歓迎されていたことだろう。


 ――今となっては意味もないことだが……。


 ブレンクラーレのマクシミリアン王子は、この度国内の大貴族の姫君を妻に迎えた。従姉との婚約はなかったものとして切り捨てられたのだ。イシュテンの侵攻のほんの数ヶ月前、王子との婚約を発表した席で晴れがましく笑っていた彼女を思い出すと、彼の肚は不穏な黒い感情によじれた。あの婚約は、イシュテンに対抗する同盟の意味もあっただろうに。


 王子の秘書のような役を与えられ、身分と名を明かすことができるようになっても、レフの無力感はイシュテンの娼館にいた頃と変わらない。むしろ、自分は安全なところにいながら従姉のために何一つ動くことができていない分、焦燥感は募るばかりだ。


 ――シャスティエ。今、どうして……。


 ままならない思いに駆られて冷たい石の手すりを強く掴んだ時だった。


「公子。このようなところにいらしたのですか」


 背後からかけられた柔らかい声に彼は振り向き、軽く息を吐いた。


「王太子妃殿下。貴女様こそ、おひとりで」


 豪奢な衣装に身を包みながら所在なげに自信なげに佇む少女こそ、この国の王太子マクシミリアンの妻たるギーゼラだった。


「少し火照ってしまいましたの」


 ギーゼラの頬には確かに赤みが差してはいたが、酒や多すぎる人の熱気によるものではないように思えて、レフは内心で困惑した。


 ブレンクラーレの貴婦人たちの彼を見る目の熱いこと、全く理解に苦しむばかりだった。

 レフの目鼻立ちが整っているのはまあ事実なのだろうが、祖国においては比べられるのは従姉とばかり――つまり女性的な美しさであって、男として見られるのは慣れてはいなかった。彼より歳も身長も体格も上回っていた、従兄たる亡き王太子や兄たちならばともかくとして、夜会などでも彼は壁際にいることの方が多かった。

 彼の淡い金の髪や宝石のような碧眼は、この国でも珍しいようではあるのだが。婦人たちの話題になったところで従姉を救う助けにはならない。イシュテンの侵攻を、その悲劇を語っても、どこか物語の中のことのように受け止められて、真摯に耳を傾ける者がいない――それどころか、面白がられている気さえする。そんな状況で好奇の目にさらされるのは、むしろ彼の矜持を傷つけるだけだった。


「摂政陛下や王太子殿下は? 妃殿下をお探しではないのですか」


 しかし仮にも王太子妃を無碍に追い払う訳にもいかないので、レフは他に彼女を伴うべき人々を挙げた。


「お義母様はお忙しいのです。それに、殿下も」


 ギーゼラの表情が陰り、レフは大体の事情を察した。

 王妃にして摂政陛下、アンネミーケが多忙なのは本当のことだろう。病床にあるという国王はこのような公式の場にも姿を見せず、王妃は夫の分まで社交と公務をこなしている。レフなどは王が本当に存命なのかさえひそかに疑っているのだが、そうと口に出すほど愚かではないし、ブレンクラーレの貴顕もそれは同様のようだった。


 しかし、マクシミリアン王子に関してはまた事情が異なる。忙しいというのは、王太子の身分という花に群がる蝶のような女性たちに、微笑んだり甘い言葉をかけたりするのに、ということだろう。ある程度ならば王族としての役目のうちと言えなくもないかもしれないけれど、あの軽薄な貴公子は常識的な「程度」を軽々と越えてくれるのは想像に難くない。


「妃殿下は正式な妃ではありませんか」

「……私では殿下に不釣り合いですもの」


 王子が数多の女友達に囲まれているという推測は当たっていたようだった。ギーゼラは悲しげに目を伏せ、そんな彼女を見てレフは顔を顰めた。

 妻がいながら他の女性にかまけるマクシミリアンのことを、彼はどうも好きになれない。蔑ろにされるギーゼラの姿は、本来ならば愛する従姉のものだったかもしれないのだから。


「不敬とは存じますが……不誠実な方だ」


 もちろん従姉はギーゼラよりも遥かに美しいから、マクシミリアンも幾らか誠意のある対応をしただろうとは思う。

 しかし、いかに彼女が美貌と知性を誇ろうとも、あの遊び好きの王太子が妻ただ一人に満足するとは思えない。従姉がギーゼラのように俯いて耐えるだけとは更に考えづらく、むしろ冷ややかな侮蔑の眼差しを向け、声高に詰る姿があまりに容易に想像できた。

 王妃アンネミーケはかなりギーゼラに好意的かつ同情的ではあるようだが、息子に対して直截な批判を述べる、従姉のような嫁に対してはどうだっただろう。同じように何かと庇ってくれただろうか。ミリアールトでは、シャスティエはほとんど物心ついた時から最高位の女性として敬われていた。ブレンクラーレではそうはいかないということを、彼女はすぐに呑み込むことができただろうか。

 考えるほどに、従姉がマクシミリアン王子と結婚せずに済んだのは、この状況にあって数少ない慰めであるように思われた。


 彼の内心など知らないギーゼラは、諦めたように小さな声で呟いた。


「私の見目が悪いのがいけないのです。殿下に望まれた訳ではありませんもの。ミリアールトの王女殿下でしたらこのようなことはなかったのでしょうけれど」

「そのようなことは……」


 白々しく聞こえるだろうなとは思いつつ、レフはとりあえず否定してみせた。先ほど思い描いたばかりの嫁姑の対立と、目の前の悲しげな王太子妃と。一体どちらがよりマシなのだろうかと考えながら。


「ありがとう、ございます」


 口では礼を言いながら、ギーゼラが彼の言葉を信じていないことは明らかだった。あまつさえその目に光るものを見て、レフは内心大いに焦った。()()()姫君の扱いなど、まるで心得てはいないのだ。

 従姉であれば――祖国では滅多にないことだったが――理不尽な扱いを受けて泣くだけなどとはありえない。碧い目を燃やすように、激しい怒りを見せる彼女を宥めるのが彼の常で、その技ならばまだしも自信があったのだが。


 「私と踊りますか」

 「え?」


 あまりのいたたまれなさに思わず口が滑り、そして呆気に取られたように目も口も大きく開いたギーゼラを見て、レフはすぐさま後悔した。やはり並の少女の慰め方などわからない。

 第一、彼は踊るのが好きではなかった。子供の頃に従姉を誘って、背が低い相手だと――幼い時分は男女の区別もあまりなかったし、ほんの数ヵ月とはいえ歳の差も大きかった――踊りにくいから嫌だと一蹴されて以来、どうも苦手に思っているのだ。


 しかし、仮にも一国の王太子妃が宴の片隅でひとり俯いているのは放っておいて良いこととは思えなかった。この国の実権を握っているのは王妃アンネミーケで、その権勢は当分陰りそうにない。軽薄で頼りない気性の王太子の、更に顧みられない妃だからとはいえ、ギーゼラはあまりに侮られている。


「マクシミリアン殿下にも少しは慌てていただきましょう。友人に恵まれているのはご自身だけではないと、妃殿下を誘う者もいるのだと、分かっていただかなくては」

「私を、お友達と言ってくださるのですか……?」


 自棄になって早口に言うと、ギーゼラはぎこちなく、それでも嬉しそうに微笑んだ。曇りのない笑顔を見れば、この女性も年相応の溌溂さや愛らしさもあるのだと分かる。


「ありがとうございます……!」




 ギーゼラの手を取って広間に戻ると、周囲からの視線が痛いほどに突き刺さった。従兄姉たちと兄たちの背を見て育ったレフの人生ではあまり例のないことで、少々どころでなく居心地が悪い。とはいえ滅多に見られないであろうアンネミーケの驚愕の顔も、マクシミリアンが杯を取り落として近くの令嬢の衣装を汚したのも、妙におかしく気が晴れる光景だった。


「夢のようですわ」


 涙ではなく眩い灯りに瞳を煌めかせて囁いたギーゼラの、輝くような笑顔も。彼女は従姉ではないのに、従姉のものだったかもしれない立場にいるというだけで、ギーゼラの憂いを少しでも払えたことが嬉しかった。


「光栄です、妃殿下」


 些細なことではあったが、それはレフが祖国を離れて以来、唯一とも言える成果らしい成果だったかもしれない。

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