紅い予感 シャスティエ
シャスティエは激怒していた。
せっかくイシュテンの貴顕が集まる宴を覗き見る機会を得たというのに、アンドラーシはうるさく話しかけてきた。さらには会ったこともない男が無礼極まりない口調で無礼極まりないことを言ってきた。
――挙句の果てにミリアールトを盾に取るような物言いをするなんて!
イルレシュ伯爵とかいう男――このような品性に欠ける人間が爵位を与えられているとは敵国ながら嘆かわしい――の言い分は理解した。が、理解した上で、頷くことのできる理など一片もなかった。
あの狩りの日も、彼女は何も非難されるようなことはしていない。確かにティゼンハロム侯爵家に縁の若者たちは何やら話しかけてきた。よく意味は分からなかったが大変不愉快で品性に欠ける内容に違いないのだけはよく分かった。けれど、彼女は礼節を保って彼らに取り合うことはしなかった。彼女の方から誘ったかのように言われるのは我慢ならない。
眼前の男の息子とかいう男が死を賜ったのも、その兄とやらがミリアールトに送られたのも、彼ら自身の無軌道な愚行が原因だ。シャスティエとしては残虐な場面を目の前で繰り広げられた上に祖国についての心労が増えた。そのようなこと、彼女が望むはずなどないではないか。
何より――
「ミリアールトに災いが起きるとしたら、貴方と貴方のご子息によってです。私の望むところでも関わることでもございません。脅しておきながら私に咎を押し付けるとは卑劣極まりない。
敗れたとはいえ私は王族です。反逆に加担するなどとは期待しないでいただきたいですわ」
「反逆ではない! 王妃へ執り成しをせよと言っているだけだ! そのための品も用意している!」
――それなら自分で言えば良いじゃない。せめて頼む、とは言えないのかしら。
「王の意に背くことを勧めようというのは反逆でしょう」
高圧的な男の言葉に呆れながら、シャスティエは敢えて決めつけた。諫言という言葉も確かにあるが、この男の息子を許せというのは王の誓いを蔑ろにしたことを許せということ。断じて認めて良いことではないはずだ。
「……お国のことがご心配ではないのですか? 例のバカを呼び戻せれば、次の総督は幾らかマシな者になるはずですが」
アンドラーシが面白そうな表情で口を挟んだので、シャスティエの機嫌は一層傾いた。わざわざ他人を怒らせるような言動をするのは彼女に対してだけのことではないと分かったけれど、だからといって平静を欠いている相手をわざわざ挑発し嘲るような真似は性格の良いこととは思えなかった。この男はシャスティエを守るためにつけられたのではないのか。イルレシュ伯を逆上させるのは、彼女を危険に晒すことにならないのか。
だから――答えてやるのは非常に業腹だったのだけど。イルレシュ伯も未だに引き下がる様子を見せない。よってシャスティエは仕方なく、出来るだけ短く告げた。
「陛下がミリアールトをお守りくださるのは服従と引換えです。私が陛下の御心に背いたことを述べるなど、私が陛下の誓いを踏みにじったことになるではありませんか。私は、脅しに過ぎないと分かっている言葉よりも、実際のものになるであろう陛下のお怒りの方が恐ろしいのです」
「なるほど。陛下のお言葉を信じていただけたこと、大変嬉しく思いますよ」
――当たり前のことを言っただけなのに。どうしてそんなに喜ぶのよ!
アンドラーシは笑って何度も頷いた。珍しく揶揄も嘲りも混ざらない笑顔ではあったが、妙な期待――この男はシャスティエを王の側妃にしたいと企んでいる――を持たせたのかもしれないと思うと気分が悪かった。シャスティエがファルカス王に従うのも心からのことではなく、祖国のために仕方なく、なのだ。その立場を思い出させられるのは不愉快極まりないことだった。
「どうあっても、王妃に口を利くのは嫌だと言うのだな……?」
そしてこの場にいるもう一人の男、イルレシュ伯も決して楽しそうには見えなかった。シャスティエの言葉はこの男の願いを懇切丁寧に拒絶するものだったから無理もない。
「はい」
これ以上なくはっきりと頷きながら、シャスティエは頭の片隅で首を傾げる。
――どうしてミーナ様なのかしら。たとえミーナ様のお願いでも、王は聞きそうにないけれど。
シャスティエを呼び出すのに一々アンドラーシを使っていることからして、王がミーナを政に関わらせたくないと考えているのは確かなようだ。義父であるティゼンハロム侯への警戒からか、おっとりとしたミーナを案じるがゆえかは分からないが。
シャスティエでさえ察することができるのだから、イシュテンの貴族の間にも知れ渡ったことではないのだろうか。
「そうか……」
不審の目で見るうちに、イルレシュ伯は低く呟いた。一連の会話は大した長さではないはずだが、男の顔は幾年も苦悩を重ねたかのようにすっかり憔悴しているような気さえした。身勝手かつ愚かな言い分ではあっても、息子を案じているのは事実なのだろうか。雪の結晶のひと欠片程度の同情が、湧かない訳ではないのだけれど――それでも、そのような想いは瞬時に溶けて消え去る程度のもの。この男に協力などできない。
更に怒鳴るか泣くか暴力に訴えるのか、男の次の動きを警戒してシャスティエは身構えた。その視線の先で、イルレシュ伯はゆっくりと口を開く。
「では、これ以上は言わぬ。だが、せめてもの償いに酌をせよ」
「はあ」
――何の償いだと言うのかしら。
イルレシュ伯の申し出はこの上なく無礼で恥知らずなもので、本来なら怒鳴りつけても良いはずだった。しかし同時に全く脈絡の見えないものでもあったので、シャスティエは間の抜けた声を上げることしかできなかった。
「私にではないぞ。貴様に注がれた酒など不味いだけだ。――王妃への執り成しは私が自ら出向こう。宴の席であればとにかく会うだけはできるはずだからな。その時に王妃に注いでやるのだ」
「……お待ちを。このお方にそのようなことをさせられません」
アンドラーシの声からも先程までの毒気が抜けている。思いもよらない成り行きに困惑しているのは、この男も同じようだった。
語勢が弱まったのを何か勝利のように思ったのだろうか。イルレシュ伯は横柄ににやりと嗤った。
「ただの侍女だと申したのは貴様であろう。侍女を給仕に使って何が悪い」
アンドラーシが更に何か言おうとするのを、シャスティエは目線で遮った。言い争うだけ時間の無駄だと思ったのだ。イルレシュ伯は、間違いなく自分に都合の良いことしか聞き入れない類の人間だ。
「……私は王妃様には何も申しませんよ」
「構わぬ。貴様は言われた通りにすれば良い。寡妃太后から賜った酒だ。王妃も喜ぶことだろう」
遠回しながら承諾の旨を述べると、やはりというかイルレシュ伯は当然のように満面の笑顔で頷いた。
腹が立たないでもなかったが、シャスティエは口に出すことはしなかった。これで事が済むなら良いか、という気分だった。要はこの男とのやり取りが面倒になっていたのだ。
イルレシュ伯に渡されたガラス製の瓶は葡萄酒で満たされていた。首の細い繊細な造りに、葡萄酒の紅玉のような赤を透かす透明度の高いガラスは高価で珍しい品だと知れる。樽から移す際に丁寧に澱を除いているはずだが、それでも無闇と波立たせて良いものではないと知っているので、シャスティエは瓶をしっかりと抱え込んだ。
「ついて参れ」
目指すは王妃なのだから言われるまでもなくはぐれる筈はない。それでも侍女らしく、シャスティエは従順に目を伏せて従った。碧い瞳を見咎められるのを懸念したこともある。
彼女の背後にはアンドラーシもいる。侍女を守るような格好は滑稽にも思えたが、王から授かった命を放棄するなど論外らしい。そう、だから、シャスティエは守られているはずなのだ。
――これだけの人がいる中だもの。無用の心配とは思うけれど。
今の彼女は一介の侍女を装っているとはいえ、衆目の中乱暴を働こうとするものは流石にいないと思う。なのに、どうして不安のような心の波を感じてしまうのだろう。
焼けた肉や酒の匂い、あるいは酔った人々の話し声に五感を刺激されながら歩く。
宴の列席者の中にはミーナの茶会で紹介された貴婦人たちもいた。彼女たちの横を通る時には流石に息を詰め、それでも一顧だにされなかったことに、シャスティエは密かに安堵した。やはり侍女の姿をしていることで身分ある人々の注視を避けられているようだった。イシュテンに連れてこられて以来、つきまとう好奇の目にはうんざりしていたので、無名の存在であるということはシャスティエには心地よいほどに感じられた。
続けて寡妃太后とティグリスの席に差し掛かる。扮装に自信は持てたものの、気づかれた場合は貴婦人たちよりも厄介なことになる。だからシャスティエは一層頭と目線を下げた。そして彼らの席も無事に過ぎ、ほんの少し緊張を緩めた時――シャスティエの胸に疑問がよぎった。そうだ、貴婦人たちとティグリスたちは離れた席についている。理由は考えるまでもない。彼らが対立する陣営に属しているからだ。
――でも、この男はさっき太后様からの賜り物と言っていたわ。どういうことなの? ティゼンハロム侯の一派と太后様のご実家は不仲ということではなかったの?
シャスティエはイルレシュ伯の背中を見つめた。何か答えが得られる筈もなかったが。そして男に問い質すこともできなかった。何を言われようと信じられるような間柄ではなかったし、悪い企みがあるのだとしたら正直に明かされるはずもなかった。
シャスティエの鼓動が早まった。一度は緊張を緩めたことで血の流れが身体中を巡っていた。こめかみの辺りにどくどくと脈打つ音さえ聞こえ始めている。
――そういえばこの男はミーナ様に固執していたような気もする……。
そもそもは王に執り成しを頼めという話だったのに、いつの間にか相手はミーナになっていた。この酒も。葡萄酒の澱を沈ませるにはそれなりに時間がかかるはず。思いついてすぐに、という訳にはいかないはずだ。初めから用意していたとしか思えない。初めから王ではなくミーナに拝謁を乞うつもりだったということだろうか。でも、なぜ? 政からは隔てられた王妃だというのに。
シャスティエの腕の中で葡萄酒の瓶が重さを増した気がした。何かとてつもなく厄介な事態に巻き込まれようとしているような気がする。それも、あの優しいミーナが標的になっているかもしれない。
背後のアンドラーシをそっと振り返る。しかし、この男も助けにはならない。漠然とした懸念を述べたところでどうすることもできないだろう。そもそもシャスティエだって上手く言葉にできないというのに。
――ティゼンハロム侯に縁の者が太后様と結ぶ? そんなことがあるのかしら。あるとしたら理由は? 王に息子を斬られた恨みでミーナ様に何かするつもりなの?
恨みは主家を裏切る理由になり得るだろう。シャスティエに話しかけてきたのも、国を滅ぼされた復讐を望んでいると思われたのかも。だから企みに招き入れようとしたのかも。ティグリスも同じことを目論んでいたように。しかし、彼女ははっきりと断った。意思に反してミーナを害させるなどできないだろう。それも、こんなにも多くの人の前で。
――分からないわ……。
侍女の真似事で酒を注がせるのは、単に願いを断った腹いせで辱めようというのではないのだろうか。何か、してはならないことをさせられようとしているのではないだろうか。
人々が陽気に笑い語らう中、シャスティエは断崖に引きずられていくような気分で一歩一歩重い足を運んでいた。
疑問への答えを見出せぬまま、シャスティエたちは王と王妃のいる、広間の最奥の席へとたどり着いてしまった。
シャスティエの姿を最初に認めたのはマリカ王女だった。大人ばかりの席に退屈しきっていたようで、幼く愛らしい頬に輝くような笑顔を浮かべてくれた。
「あ、お姫様!」
「まあ、シャスティエ様」
王女が椅子の上に立ち上がりそうになるのを制しつつ、ミーナも美しく微笑んでシャスティエを迎える。何も知らない優しい人たちに疑念を抱かせないように自然な笑みを浮かべるのに、多少の努力が必要だった。
「ごきげんよう、ミーナ様、マリカ様。このような格好で申し訳ございませんけれど、ご挨拶に伺わせていただきました」
「いいえ、本当なら隣に来ていただきたかったのに。マリカもね、お姫様も綺麗にしてあげて、ってずっと駄々をこねていたのよ」
「まあ」
ミーナは嬉しそうだったが、シャスティエは王の視線が恐ろしかった。なぜお前がここにいる、と。無言のうちに問い詰めていた。口に出さなかったのは宴の席で、あるいはミーナの前で怒気を露にしたくないというだけだろう。ティゼンハロム侯も、顔は形ばかり笑っていたが、目には隠しきれない不快の色が浮かんでいる。
――ああ、早く帰りたい。
笑顔を貼り付けたまま心中で溜息をついたところに、イルレシュ伯が横から口を出した。
「ご歓談のところ申し訳ございませぬ、王妃陛下。この者が陛下にご挨拶申し上げたいと申すのでお連れしたのでございます」
「そうでしたの? ありがとう存じます、伯爵様。お友だちに侍女の格好をさせるなんて、気が咎めて仕方ありませんでしたの」
ミーナが横目で王を軽く睨んだので、シャスティエはまた身が縮む思いをした。そして同時に嫌な予感も更に増した。イルレシュ伯は嘘を吐いた。彼女をこの場へ連れてきたのはこの男が強く――半ば命じるように――乞うたからだ。決して彼女が望んだ訳ではない。
「この者が是非、王妃陛下に酒を差し上げたいと――」
イルレシュ伯に促されるまま、シャスティエはミーナの杯に葡萄酒を注いだ。王妃に捧げるだけあって流石に品が良いらしく、空気に触れると華やかな芳香が立ち上った。色も、一片の濁りもない真の紅だった。まるで血のようにさえ思える。
――あの時のことなんかを言われたからだわ。
王が例の無礼者――イルレシュ伯の息子とかいう者――の首を刎ねた時のことを思い出させられ、更には彼女の口から説明させられることになった。血腥い忌まわしい記憶だ。
だから美酒を不吉な血に喩えてしまったのだろう。そのようなもの、決してミーナに飲ませる訳にはいかないというのに。
「ありがとう。美味しそうね」
杯に寄せるミーナの唇もまた紅かった。月光に映える雪のように青白いとさえ見える肌のシャスティエとは違う、温かみのある容姿をした方だ、と思う。唇の紅も血の色ではなく薔薇の色のよう。歳上なのにどこまでも優しくおっとりとしていて。王やティゼンハロム侯が俗事から遠ざけようとするのも頷ける。
――寡妃太后様を寄せ付けようとしなかったのも。今思えば正しいことだったのね……。
見蕩れるようにぼんやりとミーナを眺めていたシャスティエの脳裏に、寡妃太后という一語が引っ掛かった。あの哀れな、けれど常軌を逸した目つきと言動の女性。イルレシュ伯はなぜあの人のことを口にしたのだろう。
――太后様をミーナ様に近づけてはならない……。
不吉な寡妃太后の喪服姿。不吉な色の酒。イルレシュ伯の不可解な、けれど確かに不穏な言動。予感のような厭な感覚は、やがて記憶のなかからある言葉を呼び起こす。
『母はよく毒を武器にしていたらしいですね』
ティグリスの声。太后について語るあの王子の声が耳に蘇った。同時に全身の血が凍り――
「ミーナ様!」
気付くと、シャスティエはミーナの手から杯をひったくっていた。こぼれた葡萄酒の雫が、それこそ血飛沫のように卓を汚す。
しまった、と思ったのはその場の人々の目が彼女に集中しているのに気付いてからだった。ミーナだけではない。王も、ティゼンハロム侯も、イルレシュ伯も。マリカでさえ。後ろにいるアンドラーシもきっと彼女の奇行を注視している。
――どうしよう。
彼女の直感が当たっていたら、絶対にミーナに飲ませてはならない。しかし、たかが直感を理由に先の王妃である人を告発できる筈もない。
「ミーナ様」
だから、シャスティエはぎこちなく微笑んだ。
「とても美味しそうですから私もいただきたくなってしまいました。――喉が渇いていたものですから、構いませんわね?」
「貴様、何と無作法な……!」
ミーナの横で、ティゼンハロム侯が椅子を蹴立てて立ち上がった。愛娘への無礼に我を忘れて、シャスティエに掴みかかろうとしている。
緊張と恐怖のためだけでなく、頬に血が上るのが分かった。シャスティエにも分かっているし自覚もしている。もしこれで何もなかったなら、自害したいほどの不始末をしでかしたことになる。だが、あまりに不吉な予感を覚えてしまった以上、何もしないでいる訳にはいかない。
ティゼンハロム侯の腕に引き倒される前に、シャスティエは杯を口に運び、血のような色の酒を呑み込んだ。
舌に感じたのは香りに違わぬ芳醇な味。
――思い違い、だった……?
安堵といたたまれなさを同時に感じたのも一瞬のこと、酒が喉を通ると同時に、灼けるような感覚が全身を襲った。次いで喉が何者かに締めつけられる。ティゼンハロム侯の腕はまだ彼女に届いていないというのに。
「あ――」
恐ろしさに悲鳴を上げようとしたが。唇から漏れたのは、吐息のような掠れた声でしかなかった。息苦しく目眩がして、視界が急に暗くなる。怒りに顔を朱に染めたティゼンハロム侯も、驚いた表情で口を開けたままのミーナも、泣き叫ぶマリカも。どこか、遠い。
このまま死ぬのだろうか、と思う。
――でも、飲んだのがミーナ様でなくて、良かった……。
不思議な満足感を覚えながら、シャスティエは床に倒れ伏した。