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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
7. 悪意の饗宴
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挑発 アンドラーシ

 元王女に呼びかけた男は、どこか焦りを滲ませながら、それでも高圧的に得々と語っていた。


「男を惑わす姦婦めが、息子たちの命運をも狂わせおって。よくも平然としていられるものだ。さすが、かの北の地のごとくに凍てついた心の女だな」


 せわしなく動く男の唇と髯を眺めながら、アンドラーシは面倒なことになったな、と思った。

 眼前の男が帯びる称号は、イルレシュ伯爵。ティゼンハロム侯爵傘下の家の一つだが、それ自体はまあ大したことではない。利益や庇護を求めて権力者に擦り寄るのは何ら恥じることではない当然の処世なのだから。

 この男について警戒すべき点があるとすればただひとつ。すなわち、先の狩りの一件でこの男の息子のひとりは王から死を賜り、もうひとりは北の果てのミリアールトへ送られたということ。たった今聞いたことからして、この男はそれを大層不満に思っているようだ。

 思うだけなら勝手だが、元王女に恨みを向けられてはかなわない。元王女を背に庇って、アンドラーシは男と相対すべく一歩前に進み出た。


「失礼、閣下。何か勘違いなさっているのでは? この者はただの侍女でございます。語らっているところへ割って入るのは、いささか無粋ではないでしょうか」


 白々しいのを百も承知で嘘を吐くと、背後から氷の刃のような怒気を浴びせられた気がした。矜持高いこの姫君のことだ。侍女扱いも、口説いていたかのように揶揄されるのも不本意極まりないことに違いない。


「黙れ、小僧。そのように気味の悪い碧い目の侍女などいるものか。貴様に用はないのだ、下がるが良い」


 そして、勘に障ったのはイルレシュ伯も同様のようだった。もっとも王族の威厳で圧倒してくる元王女に比べれば、そして戦場で敵に対峙することを考えれば、貧相な中年男の渋面などどうということもない。だからアンドラーシは誠意が感じられないと評判の笑顔を敢えて作った。


「ごもっともです。ですが今日この場においてはこの方は侍女に過ぎません。そのようにせよと、決して先日のような騒動は起こすなと、陛下のご命令でございますから」


 ――お前の息子がやったことだ。分かるだろうが?


 しかし、言外の皮肉は目の前の男には高尚過ぎて通じなかったようだった。イルレシュ伯はただうるさげに手を振ると、アンドラーシに退けと命じてきたのだ。


「話をしようというだけだ。騒動などどうして起こるものか。娘、私と共に来い」

「無体は止めてくださいますよう! このお方から離れるな、との命令を受けておりますので」


 イルレシュ伯が元王女に手を伸ばそうとしたので、アンドラーシは剣の柄に手を掛けながら立ち塞がった。宴席で剣を抜いたらさすがに王に叱られるかな、と考えながら。王がこの男の命を惜しむことは万に一つもあり得ないが、そしてそれはリカードも同様だろうが、彼のように身分低い者が仮にも伯爵を斬ったなら、色々と面倒なことになりそうだった。臣下としては主君の気苦労を無駄に増やすことはしたくない。


 宴の賑やかな笑い声は、この場からは遠かった。元王女を連れているからと目立たぬ位置にいたからだ。衆目を集めて騒ぎになればこの男も退くのかもしれないが、その望みはどうやら薄いようだった。


「貴様といいあの女といい……主の名を借りねば何の力もない癖に……!」


 イルレシュ伯は不可解なことを呟くと音高く舌打ちした。

 背丈では勝るアンドラーシを前に、押しのけて進むこともできずに無為に鼻の穴を膨らませている。帯剣しているのは相手も同じだから、先に剣を抜いてくれれば彼も応じることができるのに。この男にそこまでの度胸はないらしいのが残念だった。あるいは身分での優位を捨てるつもりはないということか。とにかく男が振るったのは言葉の武器だった。


「娘よ、我が息子は貴様の祖国の総督を勤めている。貴様のせいで北の果てに追放されたのだ。少しでも気が咎めるならば、そして祖国を想う心があるならば、私の言う通りにせよ。さもなくば息子に手紙で命じるぞ。辛気臭い夜の国を略奪の炎で照らしてやれと」


 これに舌打ちするのは、今度はアンドラーシの方だった。依然イルレシュ伯を警戒しつつ横目で元王女に目線をやり――予想以上に不快を露にした表情をしていた――早口に告げる。


「この者の言葉に耳を貸してはなりません。そのようなことは陛下がお許しになりません」


 言いながらも信憑性のないことだとは思う。王がミリアールト総督の専横を許さないのは確実だが、王が懲罰の兵を向けるよりもイルレシュ伯からの命の方が――バカ息子が父親の言に従ってかの国を荒らす方が――早いだろう。

 元王女が心から祖国を案じていることは知っている。イルレシュ伯の恫喝は、大変程度の低いものである一方で、彼女にとっては聞き捨てならないもののはずだった。その証拠に、元王女は一層眉を寄せて男の言葉に打たれたように立ち竦んでいる。


「私のもうひとりの息子は貴様のために命を失くしたのだ。王が貴様に邪心を寄せているがゆえに! 汚らわしい淫婦め、罪を償う機会を与えてやろうというのだ。ありがたく話を聞くが良い!」

「姫君!」


 唇を結んで無言を保つ元王女に、アンドラーシは必死に呼びかけた。まさかイルレシュ伯の言葉に理を認めるはずもないが、祖国のためとなるとこの姫君は何をするか分からない。


 ――しかしよく堂々と恥ずかしげもなく口に出せるな。


 同時に胸をよぎるのはいっそ呆れにも似た思いだ。


 この男の息子たちが死んだのも追放されたのも元王女のせいでは決してない。理由を一言にすれば確かに彼女を傷つけようとしたからだが、王が神にかけた誓いでもって元王女を庇護しようとしているのは誰もが知るところだった。王の言葉をあからさまに軽んじれば罪に問われても当然のこと。なのにこの期に及んで王の意に背く言葉を吐いて憚らないこの男の、ある種の図太さはまったく理解に苦しむものだった。


「――この方はどなたですか? 私はこの方を存じません」


 元王女はやっと口を開くと、今まで見た中でも最高に不愉快そうな表情で――それでも美しいのは大したものだ――アンドラーシに問いかけた。直接イルレシュ伯に尋ねなかったのはおそらくわざとだろう。人の言葉を喋るとはいえ豚とは話したくないとでも言いたげな態度だった。

 逆上した男を更に煽る元王女の振る舞いを少々楽しく思いながら、アンドラーシは丁寧に説明してやった。数ヶ月来の付き合いになるから当然といえば当然だが、イルレシュ伯のような小物よりは信頼されていると分かって嬉しくもあったのだ。


「イルレシュ伯爵と仰います。といっても我が国のことはご存知ないでしょうから姫君にお分かりになるように申します。先の狩りの際に陛下に死を賜った男の、父親です。そして今のやりとりでお察しになったかもしれませんが、現在のミリアールト総督の父でもあります」

「分かったか!? 貴様は我が息子を、一人は死に、一人は地の果てに追いやり私の心を引き裂いたのだ!」


 イルレシュ伯が叫びながら前に出ようとしたので、アンドラーシは押しとどめ、元王女は泥が跳ねるのを避けるように顔を顰めて一歩退いた。


「陛下は私に一切口を開くなと命じられました。ですからお話しすることはできません」


 元王女は先ほどアンドラーシに対してしたのと同じようにふいと顔を背けた。そして顔を紅潮させたイルレシュ伯が何事かを口にする前に、淡々とした口調で続ける。


「ですからこれは独り言なのですけれど」

「ほう」


 元王女が、彼が先に使ったのと同じ理屈を捏ねたので、アンドラーシは思わず頬を緩めた。先ほど彼は、独り言と称して彼女に言いたいことを聞かせたのだ。この美しくも高慢な姫君は、いったい何を言おうとしているのだろうか。


「私に対する陛下のご厚意は確かに過分と思っておりますの。人質を傷つけるのが罪になるなど聞いたこともございません。この国の方から見ればきっとご不満もおありでしょう」

「そうだろう!」

「ですが」


 顔を背けているようでいて、元王女はイルレシュ伯の挙動を横目でよく観察しているようだった。ちょうど出鼻を挫く形で逆説の辞を述べ、心持ち語調を強めて吐き捨てた。


「そちらの御方のご子息とかいう方が死を賜ったことについて、私としては当然のことと存じます。私が知るいかなる国のいかなる時代の法においても、王に剣を向けた者の命を助ける法はございませんもの。陛下のなさったことは当然のこと、むしろ罪を問わない方が王としてあるまじき行いでしたわ」


 アンドラーシの耳にどこかから笑い声が届いた。離れた宴席の話声がこの広間の端にまで響いている。三人が三人とも、束の間黙ったからだ。

 元王女は言いたいことは言い終えたとばかりに固く唇を結んでいる。そして彼は――恐らくイルレシュ伯も――彼女の言葉を呑み込むのに数秒要し、理解してなお絶句したのだ。

 しかし、驚愕に目を瞠ったのも一瞬のこと、すぐに彼の唇は弧を描いて嘲笑を形作った。


「姫君? 今、何と仰いましたか? あの無法者が、恐れ多くも陛下に仇をなそうとしたと? 本当に? 自らの罪や無能に恥じ入るのではなく?」


 立て続けに問いかける声が弾んでいるのは、愉快でたまらないからだ。

 王は件の男の最期について詳しく語ることはしなかったし、彼も知りたいとは思わなかった。粛々として死に臨んだなどと信じていた訳ではないし、見苦しく泣き叫ぶくらいはしただろうと漠然と考えていた。


 しかし、よりにもよって王に剣を向けて歯向かったとは! 甘やかされた若君が王に適うはずもなし、何より決して言い訳出来ない反逆ではないか!


 嫌いな類の人間が思った以上の醜態を晒していたこと、それが父親の前で暴露されたこと。それに何より元王女の小憎らしくも堂々とした口上が小気味良かった。

 あまりに浮かれて見えたのかもしれない。元王女はアンドラーシに対しても感心しかねるというように眉を寄せ――それでも律儀に言い添えた。


「偽りなど申しません。陛下に死を命じられて、その方は跪いて首を差し出す振りをして剣に手を掛けていたのです。私にはよく見えました。陛下もお気付きのようでしたし。まずは剣を握った腕を斬り落とし、次いで膝をついたところへ――ことを、なされたのです」


 元王女の美しい顔は、凄惨な場面を思い出してか歪んでいた。一方のアンドラーシは、しかし、こみ上げる衝動を堪えきれずに哄笑した。元王女を守るなら、イルレシュ伯を刺激しない方が良いとは分かっていたが、いけないと思うと余計に笑いたくなるのが彼の質なのだ。


「これは面白い! あの男の無様を黙っていてくださったとは、陛下も存外慈悲深くていらっしゃる。閣下も感謝すべきところでしょうに、この姫君にまで恨み言を述べられるとは。忘恩も良いところでございましたな!」

「――そうだ、王はそのようなことは言っていなかった! 本当にそのようなことがあったならば、一族全てに罪が及ぶはず、そうならなかったのは――」

「ティゼンハロム侯へのご配慮でしょうな。御身の無事を、()()()にも感謝なさるとよろしいでしょう」


 イルレシュ伯がやっと見つけたらしい希望の糸を、すっぱりと断ち切ってやったのは大層胸のすくことだった。加えての犬呼ばわりで挑発するのも忘れない。


 ――ここまで来たのだ、あちらから剣を抜いてくれれば陛下への言い訳は立つだろう。


 幸い、元王女は男の間合いの外にいる。というか、アンドラーシがそのように立ち回ったのだが。盛りをすぎた中年の上、これだけ度を失った相手に対して、彼が遅れを取ることもないだろう。理を弁えない愚者がひとり消えたところで、王もリカードも気にすまい。


「……では、下の息子のことは問わずにいてやろう」


 しかし、剣に手を掛けて待っていたというのに、イルレシュ伯が力に訴えることはなかった。それどころか――食いしばった歯の間から絞り出すような、低く抑えた声ではあったが――譲歩らしき言葉を吐いたので、アンドラーシは何か期待を裏切られたような気分になった。寡妃太后がティグリス王子の脚を折ったと聞かされた時の気分に似ている。あの時も、すっかり戦うつもりになっていたのをなしにされて、大変つまらない思いをしたものだった。どうせ負けが見えているのだから、ちゃんと殺されに来てくれなくては困る。


「しかしミリアールトにいる上の息子は、大逆など犯しておらぬ。何も知らず、弟を想うがゆえに王やティゼンハロム侯に進言しただけだ。その真心のために追放されるなど許されてはならぬ。娘よ、貴様の祖国のためでもある。息子のために執り成しをせよ」


 ――こいつ何も分かってないな。


 落胆の溜息を堪えながら聞いたイルレシュ伯の言は、アンドラーシには図々しいとさえ思えた。この男の息子は、二人とも元王女を追い回す一味に加わっていたはず。王に対して明らかに剣を向けなかっただけで、王の誓いを軽んじた罪は同じだろうに。

 元王女も恐らく呆れ果てたのだろう、こちらは遠慮なく深々と溜息を吐いた。形の良い唇から漏れた吐息は、秋の草木を枯れさせる北風のように冷え切っていた。


「どなたに、どのようにして?」

「王は貴様の色香に惑っている。貴様が強請れば願いは聞き届けられるであろう。せっかくの美貌だ、今使わずに何とする」


 元王女の顔がはっきりと不快に歪んだ。当然だ。今は虜囚とはいえ王族の生まれなのだから。娼婦の真似事をしろと言われて嬉しく思うはずがない。だからこそアンドラーシは寵姫ではなく正式に側妃に迎えるように王に進言しているというのに。まあ寵姫扱いでは子を成したところで私生児に過ぎないからというのも理由だが、とにかく――


 ――こんな男のせいで陛下を悪く思われたら困る……。


 今日の宴に出るための交渉といい、せっかくこの強情な姫君が王に歩み寄る姿勢を見せてくれたのだ。無作法かつバカバカしい申し出で機嫌を損ねて欲しくはなかった。


「姫君――」

「嫌とは言わせぬぞ。先にも言ったが貴様の祖国の命運は貴様の返事にかかっている!」


 元王女を宥めようとしたのを遮って、イルレシュ伯は幼稚な脅しを繰り返し、元王女の美貌を歪めさせた。


「私が陛下に拝謁する機会はございません」

「ならば王妃に頼めば良い。貴様は王妃にも可愛がられていると聞いた」

「嫌です」

「なぜだ。口先ひとつで済むことだぞ。王妃に話せ!」

「王妃様のお心を煩わせたくはありません」

「無用の心配だ。あの王妃に煩わされるほどの考えがあるものか」

「嫌なものは嫌なのです」


 イルレシュ伯はさらりと王妃に対する不敬を述べ、元王女は頑なに首を振った。激昂し怒鳴り続ける中年の男と、冷静に拒絶し続ける美女の絵面に、アンドラーシはまた吹き出しそうな衝動を覚えた。


 ――王妃に考えがないというのは同感だが……。


 だが、笑ってばかりもいられない。

 男はいささかしつこかった。元王女も次第に苛立ちを露にし始めていた。流石に止めるか、とアンドラーシが息を吸った瞬間だった。イルレシュ伯の忍耐も限界に達したようだった。一際高く耳障りな――悲鳴のような声を上げた。


「では貴様の祖国はどうでも良いと言うのだな!? 息子に命じてやるぞ。村を焼き女を犯し財貨を奪えと! 貴様のせいでかの国は雪の荒野となり果てるのだ!」


 元王女の碧い瞳が燃えた気がした。凍った水面のような冷たい色にも関わらず、確かに一瞬激しい怒りの炎が揺らめいた。


「私の、せい?」


 元王女の声は固く凍てついた雪のように冷え冷えとしているようにも灼熱した石炭のような熱を発しているようにも聞こえた。


 ――いずれにしても面白くなりそうだな。


 アンドラーシはまた嗤うと、しばらく成り行きを見守ることにした。もちろん万が一にも元王女が害されることがないように、剣に手を掛けたままだったが。

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