宴の始まり シャスティエ
ツィーラという侍女から借りた衣装は、シャスティエの体型にはどうも合わなかった。胸元も腰周りも少し余って着心地が悪い。とはいえ着るのは今日一日だけのことだから、ピンであちこちを留めるだけでしのぐことにした。
落ち着いた暗い赤の生地は、シャスティエが普段好むものとは全く違う系統の、年配の婦人が着るような色合いだ。まるで自分が一気に老け込んだような気分さえして不思議だった。
「侍女の衣装だなんて……」
「仮装だと思えば良いのよ。ミリアールトでもやったことがあるでしょう」
まだ不満げなイリーナを、シャスティエは苦笑して宥めた。衣装の次は髪を整えるため、椅子にかけて鏡に向かっている。背に立って髪を梳く侍女との、鏡越しの会話だった。鏡面で少し歪んだイリーナの像は、可愛らしく唇を尖らせていた。
「あれは、シャスティエ様ご自身で望まれたことでしたもの」
長く暗い冬と引き換えに、ミリアールトの夏は夜を知らない。深夜の時刻になっても太陽は山の端に触れるかどうかで、夕暮れ時の明るさが続く。もっとも気候は涼しくて、すぐにまた次の冬を予感させるものではあるのだが、それだけに人々は短く美しい夏を愛する。
都市でも村でも夜通し祭りが催され、若い男女は伴侶を求めて踊るのだ。もちろんシャスティエがその輪に入ることはなかったけれど、村娘のように麻の簡素な白い衣装を纏って、頭に花冠を飾って笑いさざめく人々をこっそりと眺めたことがあった。その時、彼女の好奇心に付き合わされたのがこのイリーナと――従弟のレフだった。
見つかったら叱られると愚痴りながらも、彼はシャスティエに花冠を作ってかぶせてくれたのだ。
「シャスティエ様? きつすぎますか?」
「いいえ、大丈夫よ」
今は亡い従弟の指先の感触を思い出して頭に触れると、髪を結っていたイリーナが心配そうに覗き込んできた。痛むのは頭ではなく心だったので、シャスティエは優しく微笑んで侍女を安心させてやった。
「もうすぐ終わりますから」
それでもイリーナは髪を編み上げる手を急がせた。
衣装は侍女のものを借りるとしても、シャスティエの金髪が目立つのはどうしようもない。だから――イシュテンの流行に照らしてどう見えるのかは分からないが――編んだ髪を頭に巻きつけ、その上に飾り布をかぶる形にした。更にどうしようもないのが碧い瞳だが、これはもうできるだけ目を伏せるしかないだろう。
布を頭に飾るのはミリアールトの流行でもなかったから、鏡の中の自分の姿にシャスティエは奇妙な感覚を覚えた。美しく装ったというよりは何かしら違う時代の仮装をしたような。ともあれ何となく様になっているのはイリーナの趣味と腕によるものだろうか。
「お気に、召しませんでしたでしょうか……?」
「いいえ、素敵よ」
心元なげな表情のイリーナに感謝を伝えたいのだが、鏡に映ったシャスティエの顔もやはり心元なく思えた。侍女の衣装を着せられたことへの不満という訳では、決してないのだが。
「――イリーナ」
心が波立つのに耐えかねて、シャスティエは振り向くとイリーナに抱きついた。すでに施された化粧を乱さないように、そっと。イリーナは若草色の目を一瞬瞠ったが、すぐにシャスティエの背に腕を回して主の不安を受け止めてくれた。
「シャスティエ様。やはりお出ましにならない方が」
「いいえ、それは良いの。ただ、どうしたら良いか分からなくて――王が、話が通じるのよ」
「はあ」
怪訝な表情の侍女に対して、シャスティエは切々と訴えた。ツィーラの目を気にしながらも、久しぶりにミリアールト語を使って。
「私の身と引き換えにミリアールトを従えたからには、本気で私を守るべきだと考えているみたい。今日の宴に出られるように強請った時も、私、とても無礼な態度を取ってしまったの。それでも、とても怒ったようだったのに叶えてくれたの。あの男、言った言葉はきちんと守ってくれるのよ」
イリーナはしばし考え込む素振りを見せたあと、ぎこちなく微笑んでシャスティエの背を撫でた。
「それは――割り切れないこととは思いますわ。私も、喜んで良いか分かりませんもの。でも、少なくとも、ファルカス王はミリアールトを乱すつもりはないということですよね? それは、良いこと、なのではないでしょうか……」
「そうね」
シャスティエは暗い表情のまま頷いた。そうだ、ミリアールトのためには良いことのはずだ。でも、理性はともかくとしても、感情は割り切ることができない。祖国のために祖国を滅ぼした男に縋るのは、考えただけでも胸が悪くなることだった。これもいらぬ矜持だと、あの男なら嗤うのだろうか。
「――では、先日会った方のお話は断られるのです、よね?」
ささくれた心を宥めるようとするかのように、イリーナの指先はひたすら優しかった。
そして、ミリアールト語を使っていてさえ、イリーナがティグリスの名を呼ぶことを避けたのを賢明なことだと思う。まあ、そもそも異国語で会話をしていることが傍からは怪しく見えるのかもしれないが。
「ええ、多分。……そうなると、思うわ」
憮然とした表情のまま短く答えると、イリーナの表情は目に見えて明るくなった。一方シャスティエの愁眉が開けることはなかったが。これで憂いが晴れたというなら、心底羨ましいことだと思う。
ティグリスにつかないと決めたとしても、依然として誰につくか、どう振る舞うかという問題は残っているというのに。
――いいえ、この子に言っても仕方のないこと。私が決めなければならないことなのだから。
自身に言い聞かせても、考え続けた答えが今になって出るはずもない。つい、助けを求めるように埒もない問いかけをしてしまう。
いや、答えはすでに出かかっている。問題は、彼女にそれが選べるかどうか、だった。
「ねえ、イリーナ。私はミリアールトの女王、なのよね?」
イリーナの金茶の巻き毛を指に絡めながら聞けば、侍女は躊躇いなくうなずいた。
「はい。もちろんでございます」
「それなら私の子供もミリアールト王よね?」
「……ええ」
主が言おうとしていることを察したのか、イリーナの表情が強ばった。侍女に心労をかけるのに心は痛むが、シャスティエとしても口に上らせるのも厭わしいことだが、更にもう一つ、問いを重ねる。
「父親が誰だとしても……?」
「シャスティエ様!」
イリーナは叫ぶように主の名を呼ぶと口を開いたままで固まってしまった。彼女が言葉を思い出すよりも、ツィーラ――シャスティエの衣装の本来の持ち主である、年かさの侍女――が呼びかける方が早かった。
「姫様、お迎えが参られましたわ」
見ればアンドラーシがいつもの胡散臭い笑顔で佇んでいた。顔立ちは整っているのに、どこか厭らしいと感じるのは一体どういう訳だろうか。居心地も機嫌も悪く、シャスティエはイリーナから手を離した。
露骨に眉を顰めているのが見えていないはずはないだろうに、アンドラーシは慇懃な礼を取り、シャスティエを一層苛立たせた。
「お聞き及びでしょうが、今日は私がお供を勤めさせていただきます。くれぐれも、先日のようなことがないように、と。陛下から申しつかっておりますので」
「ええ。ありがとうございます。
イリーナ、帰りが遅くなるようなら先に休んでいなさいな」
侍女を安心させる一言を置いて、差し出された手を敢えて無視して、シャスティエは立ち上がった。
ほんの一時とはいえ祖国の言葉で喋った後だと、イシュテン語はどうにも荒々しい響きに聞こえて厭わしかった。
シャスティエは初めてイシュテン王宮の大広間に正式に足を踏み入れた。侍女の衣装で柱の陰から覗き見るような形でも、隠し部屋で息を潜めて盗み聞きをするよりはよほどまともなやり方のはずだった。
――どこの国でも宴というのはあまり変わらないものね。
そして祖国の似たような催しを思い出して眼前の光景と見比べると、シャスティエはそう結論づけた。
王と王妃を最上の席に仰いで、それに次ぐ位置にティゼンハロム侯爵が陣取る。更に序列に従って貴顕とその夫人たちが並ぶ。その中にはティグリスと寡妃太后もいた。身分の割には低い席次にも見えたが、王母ではない妃と不具の王子に対しては、これがイシュテンの道理なのだろうか。
ありとあらゆる門閥が、日頃の利害を脇に置いて一堂に会するのだ。武を尊ぶイシュテンでも、この日ばかりは言葉の剣で戦うはずだ。
集う人々の髪や瞳の色、衣装の流行。漂う料理の香りや音楽の趣向。違いを数えればきりがないけれど、内情は一様ではないのは既に知っているけれど、とにかく国のあり様というものはどこでもさほど変わらないのだと、シャスティエは思った。
――できれば、もっと間近でどのようなことを話しているか聞いてみたいものだけれど。
何しろシャスティエが知るこの国の有力者といえばティゼンハロム侯くらいのものだ。ティグリスたちの間近にいるのがハルミンツ侯だろうか、との推測くらいは立てられるが、その他にどのような家があってどのような思惑があるのか。この機会に、その片鱗なりとも知りたいものだった。
「私の言葉を覚えていただいたようで、嬉しく存じますよ」
「――は?」
漣のように渾然とした人声から意味のある言葉を拾おうと集中していたので、シャスティエはアンドラーシの声に反応するのが遅れた。王と同じく見上げる位置にある男の顔は、例によって妙に気に障る笑みを浮かべている。
「陛下はあの狩りの一件を気にかけていらっしゃると。意外にも律儀なご気性でいらっしゃるから、望めば大抵のことは叶えてくださるとお教えしたでしょう」
見事に利用なさいましたね、と笑う男をシャスティエは冷たく睨め上げた。一体何を嬉しそうにしているのか、といっそ腹立たしく思う。
――お前の言葉を聞き入れたからと言って、お前につくということではないわ。
王に従うと告げたなら、この男は喜ぶのだろう。そしてついでに側妃になって王の子を産めば良いとでも考えているのだろう。だが、企みが上手くいったと考えているなら大きな間違いだ。シャスティエが考えているのは祖国のことだけ。決してイシュテンのことでも王のことでもないのだから。
「陛下は口を開くなと命じられました。あいにくですけれどもお話しすることはできません」
シャスティエは顔を背けると男から一歩離れた。王の命令は余計なことをするなという程度の意味だったろうが、イシュテンの勢力図を垣間見る機会をこんな男とのお喋りで無為にするのは、あまりに惜しい。
話しかけるなと言外に告げたにも関わらず、しかしアンドラーシは饒舌だった。
「では独り言と思ってお聞きください。――ファルカス陛下は優れた王でいらっしゃるとお思いになりませんか? イシュテンの王として武勇に秀でているのはもちろんですが、公正でもいらっしゃる。これがリカード――ティゼンハロム侯などであれば、敗者は踏みにじって当たり前、そもそも誓いを立てるなど思いもつかなかったことでしょう。
お国のことはお気の毒とは存じますが、イシュテンを率いているのが陛下であったことは、貴女にとっては僥倖だったと申し上げてよろしいでしょう」
聞く気はないと顔を背けているのにも関わらず滔々と語りかけられて、シャスティエの苛立ちは募るばかりだ。大体、相手が誰であろうと滅ぼされて感謝するなどあり得ない。他国の王が暗君だろうと名君だろうと、それ自体はどうでも良いのだ。ブレンクラーレのマクシミリアン王子は恐らく器ではファルカス王に及ばないが、あの王子が隣人であったなら、少なくともミリアールトはよほど平安に過ごせただろう。
「貴女にもお分かりいただけたことと思います。でなければ陛下の負い目を逆手に取って交渉しようなどとはお思いにならないでしょうから」
――だからこそ困っているのよ!
よりにもよって憎い仇が一番まともそうな取引相手だったなどと。認めざるを得ないと分かってなお、シャスティエには受け入れがたい。
アンドラーシの言うことも理はあると分かってしまっているからでもあるが、この男はとにかく人を怒らせるのが得意なようだ。
今度こそはっきり黙れと言ってやろうと息を吸った瞬間だった。荒々しい足音が耳に届いた。わざわざ陰の方に潜むようにしていたというのに、何者かが二人に近づいてきたのだ。
「そこの侍女」
不意にかけられた声に、シャスティエは思わず顔を上げた。侍女などと自認しているはずもない。だが、その衣装を着ていることで、彼女の意識も少なからず影響を受けていた。
常に堂々と立つように教えられてきたというのに、気づけば自然と目を伏せて存在を消すように控えめに佇んでいた。周囲の者も同様だ。髪や瞳が目立つことを危惧していたのに、侍女の衣装を着た女に対して、向けられる視線は驚く程に少なかった。
だから、なのだろうか。その声が呼んでいるのはシャスティエのことだと、直感で判じることができたのだ。
「その目――やはり貴様で間違いないな。忌々しいミリアールトの元王女め」
そして、そこにいた中年の男、その表情に浮かんだ奇妙な焦りを見て取って、シャスティエは瞬時に後悔した。彼女の素性を知った上で、彼女を探して近寄ってきた男。何故かは知らないが開口一番忌々しいなどと言ってくれる男。
どう考えても関わって良い相手とは思えなかった。
「イルレシュ伯……?」
アンドラーシの呟きが、妙に不吉に聞こえて仕方なかった。