悪意の矛先 エルジェーベト
エルジェーベトは宴の支度に忙しかった。もちろん宴の席で彼女が給仕などをすることはないが、名だたる貴顕の前に出るのに相応しく――侮りを招かずその美貌で他を圧倒するように――王妃と王女を飾り立てるのは彼女の使命だ。
「マリカ様は?」
主たちが選べるように衣装や宝石を並べさせながら、傍らにいた侍女に問う。すると、その女はやや慌てたように視線を泳がせた。
「……池が凍っているのをご覧になりたいと、遊びに出ていらっしゃいます」
そしてエルジェーベトの目つきが険しくなったのを見て、侍女は取り繕うように引きつった笑顔で言い添えた。
「あの狐の襟巻きをして、暖かくしていらっしゃいましたから心配ありませんわ。それに、ラヨシュもついておりますから」
息子の名を出されて、エルジェーベトは軽く溜息を吐いた。子供に子供をつけるのは今ひとつ頼りないことではあるが、あのお転婆な王女は大人が入れない隙間を見つけるのが得意で、侍女たちを撒いてしまうのが常だ。小柄な子供の守役が必要なのも致し方ない。
――あの子ならば時と場合を弁えていることでしょう。
今宵が年に一度の宴で、王妃と王女の身支度には時間がかかるのは子供にも分かること。歳の割に賢しい息子なら、マリカを上手く言いくるめて連れ帰ることができるだろう。
ラヨシュは無事にマリカを連れ戻すことに成功した。それでも豊かな黒髪をほつれさせ、枯葉などをあちこちに絡ませた無残な姿にエルジェーベトは密かに絶望した。しかし時間には間に合わせなければならないので、落ち着きのない王女を宥めながら髪を艶が出るまで梳くという難事に果敢に立ち向かうことにした。
座らされ髪を梳かれる間、マリカは最初は比較的機嫌良く喋り続けた。
「お姫様はいないの? 綺麗にしたところを見たかったのに」
お姫様、とはミリアールトの元王女のことだ。マリカはあの女のことを自身と同じ称号で呼んでいる。物語に登場するお姫様や王女様のように綺麗だから、と。何を考えているか分からない女に対して、分不相応なことだと思う。
「あの方はマリカ様たちと同じ席にはつけません。所詮人質に過ぎませんもの」
「お姫様も一緒が良いわ。呼んであげてよ」
「陛下の、お父様のお言いつけですわ。いけません」
「そんなの、ひどい」
「仕方のないことですわ」
息子を遊び相手につけてなお、マリカはあの女を慕っている。その事実に歯噛みしながら、努めて穏やかに言い聞かせると、マリカはつまらないの、と唇を尖らせた。
この様子だと元王女が侍女に扮して宴を覗き見ている、などとは知らせない方が良さそうだった。大人の挨拶やら追従やらに飽きた頃には、あの女に会おうとして席を抜け出しかねない。
そして願いが聞き入れられないと知ると、マリカの機嫌は急速に傾いていった。
「じゃあ、お父様にお願いするわ。お父様はどこ?」
「陛下はお忙しいのです。お会いになることはできません」
「できないばっかり!」
「マリカ様、聞き分けてくださいませ」
「嫌!」
掛けさせた椅子から飛び出しそうな王女の姿に、母親のミーナも困り顔だ。自身も長い黒髪を結い上げさせながら、駄々をこねる娘を諭そうと優しく語りかける。
「お母様からもお願いはしたのよ。でも許していただけなかったの。マリカが良い子にしていれば、次の機会にはきっとお願いを聞いていただけるわ」
「今が良いの!」
「マリカ……」
母の言うことも聞き分けないのではエルジェーベトを始め、侍女たちの言葉が届くはずもない。ここは菓子か玩具で――王女のお気に入りが、王が狩りから持ち帰った鳥の羽根やら鹿の角なのはいかがなものか――気を惹くか、と思案し始めた時だった。エルジェーベトの耳元に、ある侍女が駆け寄って囁いた。
「宴の前に王妃様にお目通りしたいと仰る方がお見えです」
――この忙しい時に!
「王妃様はお召換えの最中です。どなたにもお会いにはなりません」
主人たちの手前、表情は変えず冷静に返したが、エルジェーベトは内心で眉をつり上げ、口には出せない罵倒を吐いた。無論、分かりきった状況を弁えずに目通りなどを願い出た愚か者と、バカ正直にそれを取り次いだ無能な侍女に対してである。
「私もそう申し上げたのですが、どうしてもと仰って譲ってくださらないのです」
「どこのどなたですか」
その無礼者は、と続けるのはさすがに心の中だけにとどめた。誰であっても、王妃との面会を望むからにはそれなりの地位がある者に違いない。
「イルレシュ伯爵でいらっしゃいます」
今度こそ、エルジェーベトははっきりと顔を顰めた。厄介ごとを押し付けたとばかりにほっとした表情をしている侍女も、聞かされた名前も不愉快でしかなかった。
つい先日ティゼンハロム侯邸で会った男だ。ミリアールトの現総督、無軌道によって王の怒りを買った男の父親。息子への赦しを願って侯爵に拒絶されていたが、娘である王妃から執り成しを願おうと言うのだろうか。
――図々しいわ。ミーナ様は表のことに関わらないと知っているはずなのに。
エルジェーベトがファルカス王を評価する数少ない事柄の一つに、妻を政に関わらせないという点がある。父と夫が権力を巡って争っていることも、王の即位をティゼンハロム侯リカードが支持したことに関してミーナが他家の恨みを買っていることも。全てミーナは知る必要のないことだ。外の醜い争いに関わりなく、ミーナの世界は美しく穏やかに保たれているのだから。
その世界を乱そうという者は、リカードの一族であろうとも許してはならない。やはりあの男は、息子たちと同様の救いがたい無能者だ。
「お父様の眷属の方ね? 支度を急いだ方が良いかしら」
「それには及びません!」
怒りに震えているところへミーナがおっとりと首を傾げたので、エルジェーベトは即座に否定した。そして必要以上に大きな声を上げてしまったことに気付いて、急いで口調を和らげて言い添えた。
「僭越ではございますが私がお話を伺いますわ。ミーナ様はどうぞ、心ゆくまで衣装を選んでくださればよろしいのです」
「そう? でも――」
「お母様、お父様に会いに行くわ!」
「ダメよ、マリカ。後で会えるから」
ミーナは不思議そうにまた首を傾げたが、エルジェーベトを追求するよりもマリカを宥める方に気を取られたようだった。父親に似たのか大変頑固でもあるこの王女は、機嫌が直らないことには着替えさせることもできなさそうだったのだ。
通されたのが小さな控えの間で、しかも迎えたのが侍女とあって、イルレシュ伯は不服そうに顔を歪めていた。成人した息子のいる良い歳の男だというのに、その表情は駄々をこねる王女とよく似た空気を漂わせていた。もちろんこの男にマリカのような可愛らしさは一切ないが。
「王妃陛下にお目通りを願ったのだ。なぜ侍女風情と会わねばならぬ」
「王妃様はお召換えの最中です。私が先にお話だけでもお伺いいたします」
「そなたに話したところでどうにもならぬ」
不機嫌そうな表情のままそっぽを向いた男に、エルジェーベトは心底呆れた。己の意思が必ず全て通るとでも思っているのだろうか。彼女が女で身分が低いゆえにこのような態度を取れるのだろうか。侍女の機嫌を損ねれば、王妃への取り次ぎ方にも差が出てくると察せられそうなものなのに。
――殿様のところで顔を合わせたのを全く覚えていないようね。
ティゼンハロム侯の手の者と分かっていれば今少し別の出方もあっただろうが。しかし、覚えていないのは言い訳になるまい。王妃の代理で現れたからには、侍女であってもそれなりの礼は尽くすべきだ。家や領地の中ではどのように振舞っているか知らないが、外に出たら相手に合わせて立ち居振る舞いを変えねばならない。それこそ卑しい侍女にさえ分かりきっていることだ。
息子どもの失態は、やはり父親の躾に原因があるようだった。
――殿様もご気苦労が絶えないこと。
大変に出過ぎたことではあるがエルジェーベトはリカードに同情し、彼女なりに必ずミーナを守らなければならないと決意した。少なくとも、大人しくこの男をミーナに会わせるなど許してはならない。
「大きな声で言えぬご用事でしたら王妃様にお取り次ぎする訳には参りません」
敢えて冷たく告げて退出する素振りを見せると、イルレシュ伯は顔に朱を上らせて椅子を蹴立てて立ち上がり、エルジェーベトの腕を掴んだ。
「女の癖に生意気な――!」
「私は確かに女に過ぎませぬ。ですが、王妃陛下にお仕えする者だということをお忘れになりませんよう。その気になれば陛下や――ティゼンハロム侯爵様にもお目通りが叶うのですよ」
袖の上からとはいえ、万力のような強い力で掴まれた部分は少々痛んだ。しかしリカードの勘気に比べれば、イルレシュ伯が激昂したところでそれこそ子供の癇癪のようなものだ。王やリカードへの注進を仄めかした以上、彼女に手を上げる蛮勇など持ち合わせているはずがない。
案の定、男は拳を振り上げたものの振り下ろすことはできない様子でエルジェーベトを睨んでいる。エルジェーベトも冷たく見返すことしばし、男の目に怪訝な色が浮かんだ。
「貴様、ティゼンハロム侯のところにいた……」
――やっと思い出したのね。
無言のうちに嘲りながら腕を引くと、イルレシュ伯はあっさりと手を離した。侮った相手が思いの外リカードに近しいと気付いて、呆然としているのかもしれない。
「ご用件をお聞かせいただけますね?」
「あ、ああ――」
有無を言わせぬ微笑みは、平静な時であれば不遜と取られただろう。しかし、エルジェーベトを咎める気勢はもはや男から失われているようだった。
「伯爵様、申し訳ございませんがやはり王妃様にお取次ぎすることは致しかねます」
イルレシュ伯の話の内容は予想と全く変わらなかったので、エルジェーベトはごく平坦な声で述べた。すなわち、北の果てミリアールトに送られた息子を呼び戻すべく、王の勘気を解くべく王妃からの口添えが欲しい、という。
「なぜ貴様がそうと判じることができるのだ。王妃陛下は優しいお方ゆえ息子の窮状に必ずお心を痛められることだろう。王妃様のお言葉ならば王やティゼンハロム侯も――」
――窮状ですって? 無能者が相応の報いを受けただけじゃない。
内心の侮蔑はもちろん口に出さず、エルジェーベトは慇懃に忠告した。
「王妃様は確かに大変お優しい方でいらっしゃいます。ですが同時に嘘など吐くことのできないお方。突然ミリアールトの総督云々と口にされたなら陛下も侯爵様も不審に思われるでしょうし――問われたならば王妃様は伯爵様のことも包み隠さず述べられることでございましょう」
そして、王妃の耳に余計なことを吹き込んだと知られれば、この男はますます王の怒りを買い、リカードには遠ざけられることだろう。
しかし、言外に匂わせたことは伝わらなかったのか敢えて無視されたのか、イルレシュ伯は飽くまでミーナとの面会にこだわった。
「女の忠告などいらぬ。貴様は言われた通りに取り次げば良いのだ」
エルジェーベトはこれみよがしに溜息を吐きたくなる衝動と戦った。さすがにそこまで呆れをあからさまにする訳にはいかないだろう。ごく近い未来ですら予見できないこの短慮、まさにあの無能どもの父親だと納得できた。
――せめてあの女を汚してくれていたなら、少しは力になってやろうと思えたのだけど。
王が元王女をどう思っているかはいまだによく分からない。今回の扱いも、宴を見せて機嫌を取ろうとしているようにも侍女の扮装で辱めようとしているようにも見える。普通に考えればあのように小賢しく生意気な女は王の好みではないだろうが、見た目が良いのだけは事実なだけに、逆にそういう女を屈服させたいのかもしれない。
いずれにしても、イルレシュ伯の息子たちが首尾よくあの女を犯してくれていたならば、そのような女が王の側妃に迎えられるのではなどと気を揉む必要はなかったのだ。そう思うと返す返すも口惜しい。
「お気の毒とは存じますがお力にはなれないのです。――お引き取りいただけますね?」
「ならぬ」
エルジェーベトは強引に会話を打ち切ろうとしたのだが、イルレシュ伯は頑なに首を振った。
「どうあっても退く訳にはいかぬ。時間がないのだ。王妃に必ず会わねば――」
「まだ仰いますの!?」
――しつこい男……! それにミーナ様に対して何て無礼な!
再び腕を掴まれて、更には男の言葉からミーナへの敬意が薄れていくのを見てとって、エルジェーベトはあからさまに眉を顰めた。先よりも直截に脅しを述べようかとも考えたが、形振り構わず暴力を振るわれかねない勢いだった。
――乱暴なのも息子と一緒ね。これだから男は……。
躾の悪い犬に鞭を与えるがごとくに、男を引き下がらせる言葉を探し――エルジェーベトは思い出した。
そもそもこの男の息子たちの受難は、度し難い粗暴さゆえ。そしてその粗暴さの矛先となったのは、あの忌々しい元王女だ。女ひとりモノにできなかった息子どもの失態は、父親に埋め合わせをしてもらえば良い。
腕の痛みに俯いた振りで、エルジェーベトは自身の思いつきに唇を歪めて密かに嗤った。
そして息を整えると顔を上げ、意識して媚びる笑みを浮かべた。リカードによく見せる類の、男の自尊心をくすぐる表情だ。
「……先ほども申しましたように、王妃様からのお執り成しは――良くありません。陛下も侯爵様も余計にお怒りになるでしょうから。ですが、陛下については王妃様よりもお力になれる方がいらっしゃいますわ」
「王妃でなければ意味がない!」
一層強く腕を引っ張られて流石に顔を歪めそうになりながら、エルジェーベトは辛うじて笑顔を保った。
「ミリアールトの姫君。陛下はあのお方を大層気にかけておいでです。ご子息方が指一本触れるのも許さぬとでも思し召しのようでしたでしょう?
無聊を慰めて差し上げたいということでしょうか、今宵の宴にもあの姫君は招かれておいでです。侯爵様をはばかってでしょう、侍女の姿で密かに、ですけれども。ですが、お話をするには良い機会ではありませんか? あの姫君から陛下へおねだりをしていただけば――」
「あの女狐か……!」
イルレシュ伯の顔が怒りで朱に染まる。しかしその対象はエルジェーベトではなく元王女だ。その証拠に、彼女は無礼な男の手から投げ捨てられるように解放された。更に、男の執着もめでたくミーナからあの女に移ったようだった。
「そもそも息子たちを惑わしたのはあの女だ。売女には相応しい報いが必要だな? 哀れな息子の痛みを屈辱を、あの女も味わえば良い」
「ええ、そうですとも。目立たぬ扮装を命じられているから見つけにくいかもしれませんが、陛下は護衛にアンドラーシ様をつけられました。王の側近の……ご存知でしょうか」
男が譫言のように呟くことは、息子の執り成しを持ちかけるにしては辻褄が合わないことのようにも思われた。
だが、イルレシュ伯の捻れた恨みが元王女を害するなら、そしてアンドラーシの面目を潰してくれるなら――あの男は王妃を見下しているのを隠そうともしないから憎たらしい――歓迎すべきことなので、エルジェーベトは違和感を気に止めないことにした。
「あの優男か。あの小僧、愛人に愛人を見張らせるなど良い趣味をしている――そして都合も良い。目をかけた女や側近でも躊躇なく首を刎ねられるものか見てやろうではないか」
イルレシュ伯が王を小僧呼ばわりしたのも、その性癖について露骨に邪推し嘲笑したのも、エルジェーベトはまた気付かなかった振りをした。要はミーナに害が及ばなければそれで良い。
この男に詰め寄られれば、あの高慢な女は露骨に機嫌を損ねるだろう。王に対しても退かなかった強情さが発揮されれば、イルレシュ伯の怒りに火が注がれるはず。願わくば、首尾よく元王女の顔に傷でもつけばなお良いのだが。護衛を命じられたアンドラーシにとっても失態ということになるだろうし。
イルレシュ伯の訪問は、意外とエルジェーベトが嫌いな者たちへの良い牽制になりそうだ。
「何のご用だったの?」
来た時と打って変わって上機嫌になったイルレシュ伯を見送ってミーナの元に戻ると、王妃と王女はすっかり支度を終えていた。揃いの深い高貴な青の生地に、母は金の刺繍を施した衣装で厳かに美しく、娘は白いレースをあしらって愛らしい。着付けを手伝うことはできなかったとはいえ、宴に相応しく二人を飾り立てたことに対して、エルジェーベトは他の侍女たちの手腕に満足した。
「ミーナ様がお聞きになる必要はございませんでした。殿様へのご用事でしたので。宴の席で直にお話になるそうですわ」
「そうだったの」
父のことを出されて、ミーナはあっさりと頷いた。幼い頃から親に従っていれば何も問題はないと教え込まれているゆえに。そしてその教えに間違いはない。今までも、これからも。
「マリカ様もご機嫌になられましたね。よろしゅうございました」
鏡を覗き込んでは髪型やドレスの背中の飾りを見ようとくるくる回る王女の姿に、エルジェーベトは目を細めた。幼くてもやはり女の子だ。可愛らしいもの綺麗なものには心惹かれるということだろう。
とても動きづらいのに気がついてまた機嫌を損ねるのかもしれないが、父王に会って宴の熱気にあたればまあしばらくはもつだろう。
「ファルカス様はお気に召すかしら」
衣装をまとった自身を見下ろし、少女のように頬を染めて呟くミーナもまた、この上なく愛らしかった。王への思慕ゆえだと思うと腹の奥に若干の苦いものは感じたが。
「もちろんですわ。今日も必ずどなたよりもお美しいことでしょう」
あの元王女がいかに若く稀有な金の髪を誇るとしても、ミーナには――彼女の主には敵わない。否、張り合って並び立たせなど絶対させない。
――あの男が上手くやってくれれば良いのだけど。
「そうかしら」
幸せそうに微笑むミーナに見蕩れながら、エルジェーベトは心の底から元王女の不幸を願った。