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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
6. 宴の支度
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侍女の忠誠② 寡妃太后の侍女

 老婆の住処は以前と変わらず薄暗く、気味の悪い薬草だか毒草だかの束があちこちに吊るされていた。ほのかに漂う埃っぽい臭いにも毒があるのではないかと疑って、彼女はできるだけ息を詰めた。

 そんな彼女を、老婆は歯のない口元に弧を描いて笑う。その姿も、十年以上前から変わらないから不気味だった。


「久しぶりだね」

「……いつもの通りに」


 無駄口を叩くつもりはないので重い袋を差し出すと、老婆は更に笑って受け取った。ほんの一瞬触れ合った、かさかさと乾いて皺だらけの手が恐ろしい。


「間違いなく、いただいたよ」


 彼女が落ち着きなく手を擦り合わせる間に、老婆は袋の中の金貨の数を確かめて、嬉しそうに目を細めた。引き換えとして、はるかに軽い包みを渡してくる。


「お妃様によろしくお伝えしておくれ」


 馴れ馴れしい言い方は不快だった。この包みを都合していることで、何かしら彼女の主人の弱味を握っているつもりなのだろうか。


 ――卑しい呪い師のくせに……。


 とはいえ主人がこの老婆の商品を何かと重宝しているのも事実なので、彼女は内心を隠して努めて穏やかに答えた。


「大后様もお前には感謝されることでしょう」




 外に出て馬の鞍に横向きに掛けると、冬の凛とした空気に肌も肺も生き返る気分だった。やや早足で駆けさせて、老婆の住処の不気味な残滓を振り払う。


 老婆のような者は魔女と呼ばれて蔑まれることもあれば薬師として尊ばれることもある。医者にかかることのできない、そもそもまともな教育をうけた医者を知らない貧しい民草には、あのような不気味な老女でも必要なのだ。

 特にあの種の女を頼るのは、汚らわしい娼婦やふしだらな若い娘だ。罪や放蕩の証を人に知られぬように、老婆の処方する薬で後始末するのだ。


 彼女の主は、もちろん自身で老婆の薬を必要とする訳ではない。


 ただ、かつて王妃であったあの方を蔑ろにする者があまりにも多かった。王妃から王を盗んだ女は恥じ入るべきであるのに、王のみならずその血まで奪って悪びれない売女には罰が必要だ。

 王妃の名誉と王子たちの身命を守るために必要なことだったのだ。そこらの女がこそこそと堕胎薬を求めるのとは訳が違う。


 ――ゲルトルート様……今度は、何にお使いになるおつもりなのかしら。


 厚い毛皮の外套をまとっているというのに底知れぬ寒さを感じて、彼女は馬上で身を震わせた。


 そもそも、彼女が懐に隠したこれは、多分堕胎薬ではない。

 今現在王の子を孕んでいる女はいないはず。かつても、主が罰したのは懐妊した寵姫に限らなかった。主の目を盗んで生まれてしまった赤子や、先王に分を越えた強請りごとをしたり、王妃を軽んじたりした売女たち。今回あの老女から購ったのも、()()()の用途に使う種類のもののはず。もしも()()を今の王妃に使うのだとしたら、ティゼンハロム侯爵の怒りを買うことにならないだろうか。


 ――でも、絶対にティグリス様のためのはずだから。


 ただひとり残された息子こそ、主が何に代えても何をしてでも守りたいもののはずだから。

 だから、主が何を考えているのであろうと、それは良いことのはず。

 自身にそう言い聞かせて、彼女は懐に隠した()を抱きしめた。




 ハルミンツ侯爵邸に帰りつくと、彼女は主の部屋へと急いだ。王妃であった頃と違って、今ではあの方に仕える者の数は少ない。彼女が、早く戻って差し上げなくては。


「ティグリス様」


 しかし、途中で行き逢った人の姿に、彼女は思わず足を止めた。杖に頼っておぼつかない足取りで歩んでいたのは、主が溺愛する末の王子に他ならなかった。


「……お前か」


 どちらかというと母親に似た繊細な顔立ちのティグリスだが、今は不機嫌そうに表情を歪めていた。何か不自由でもあったのだろうか、と彼女は慌てて弁明をする。


「大后様のお言いつけで外に出ておりました。もしや私をお探しでしたでしょうか」

「いや。母上に見つかったら面倒だと思っただけだ。私を見たことは告げ口しないように」

「ですが、ご心配なさると思いますわ」


 彼女はティグリスの不機嫌の理由を察した。この王子は、十を幾つか過ぎた頃から母である寡妃大后を疎ましく思う素振りよく見せるようになった。男の子には多かれ少なかれよくあることとは思うが、大后が息子に注ぐ愛情を思うと、彼女は主が気の毒になってしまう。


「叔父上の屋敷で何の心配がいる」


 ティグリスは決して自分の屋敷とは言わない。あくまでも居候に過ぎないと言外に言うような荒んだ心持ちが、彼女には痛ましく感じられる。


「……不足があればお申し付けくださいませ。殿下が御自ら出向かれるなんて。お怪我でもなさったら……」

「いらない」


 捻れた方の脚に目を落とすと、ティグリスは苛立ったように杖で床を叩いて高い音を立てた。


「客に会いに出るところだった。お前に代わりは務まらない」

「ですが」


 ティグリスの言葉は彼女を安心させてはくれなかった。主の愛児は無為な日々を疎んで、近頃は叔父のハルミンツ侯爵を手伝って領地の運営などに携わり始めた。剣や馬からは主が全力で遠ざけているけれど、若者の好奇心や知識欲を抑えきることなどできはしない。

 本から学べる知識を修めきったのは、本来ならば頼もしいと思えたかもしれないけれど。でも、これもまた主の悩みの種だった。ティグリスが王やティゼンハロム侯爵の追及を逃れているのは、不具ゆえに脅威と見なされていないからだ。イシュテンの国柄では学識はさして重視されないとはいえ、目立って余計な疑いを招くことを、主は心配していた。


「くれぐれも母上には言わないように」


 王族ならではの有無を言わせない口調で改めて命じると、ティグリスは杖の音を鳴らしてゆっくりと歩み去っていった。不安な表情の彼女には目もくれないで。


 ――お客様……どちらからの?


 いつもの商人だとか、領地の中の揉め事での奏上を聞くというならさほど問題ではないと思う。しかし、それならば客とは呼ばないように思われた。

 主と同様にその息子を愛し案じる彼女は、また懐の()を抱きしめると、広い廊下を急いだ。主の部屋とは違う方向へ。




「遅かったのね」


 やっと戻った彼女に、主はそう言った。ごく穏やかな声ではあったが、彼女は主の気性をよく知っていたので、低く腰を折って恐縮してみせた。


「申し訳ございません――ですが、お耳に入れたいことがございます。話を聞いて参りましたので遅れてしまったのでございます」


 主――寡妃太后(かひたいこう)ゲルトルートが首を傾げて続きを促したので、彼女はティグリスと別れた後、屋敷の者から聞き出したことを報告した。


「屋敷の中が慌ただしかったもので何事か尋ねたところ、客が来ているとのことでございした。一族の方々や領内の役人などではございません。――ティゼンハロム侯爵の縁者ということでした」


 主の顔色が変わったのを見て、彼女は自分の行動が正しかったと思った。やはり主はこのことを知らずにおかれていたら激怒していたことだろう。大丈夫、ティグリスの命に背いた訳ではない。王子がその客と会うつもりだと告げ口した訳ではないのだから。

 けれどこれで息子を探せと言ってくれたなら、彼女も心を休めることができる。


 主が現王のファルカスに抱く感情は日によって変わる。生まれなかった胎児と同じ年頃だからと愛着を示すような時もあるし、長子のオロスラーンを殺した――と言われる――ザルカン王子を討ったことで感謝している風の時もある。一方でティグリスの命を脅かす飢えた狼だと嫌悪を剥き出しにするのも珍しいことではない。


 そしてティゼンハロム侯爵に対してはというと、主は一貫して憎悪しているようだったし、彼女も主の感情を共有している。

 あの貪欲な老人は自身の権力のことしか考えていない。娘さえもそのために利用した。恐れ多くも先王の王子たちを天秤にかけて、後ろ盾のいなかったファルカスに娘を押し付けて今の地位を得たのだ。今も王を支える振りで、生かさず殺さず王の力を抑えようと暗躍している。どうして嫌わずにいられようか。


 主は、彼女の予想通りに顔を歪めて吐き捨てた。


「リカードの手の者が? 卑しい犬が、何をしに来たと言うのかしら」

「この度ミリアールトの総督を任じられた者の父親ということでございます。確か――イルレシュ伯爵とか。王の怒りを買って北へと追われた息子を呼び戻して欲しいと、侯爵様に嘆願しに参ったとのことでした」


 彼女は上目遣いに主の表情を窺い――密かに驚いた。

 主の昏い色の瞳に怒りと嫌悪が閃いたのも一瞬のこと、代わりに仄かな灯りがともった気がした。恐らくかなり久しぶりに、主が口の端を持ち上げて微笑んだのだ。


「息子の、ために?」

「え――ええ。リカードはミリアールトの統治の失敗を望んでいると言われているそうです。ゆえに無能者を総督のままにしておくのが良いと、王への取りなしを拒んでその者の息子を見捨てたとか」

「でも、息子のことを諦められない。そうね?」


 私と同じね。


 主が言外に言ったのを実際に聞いた気がして、彼女は目を見開いて主を無礼にもぽかんと見返してしまった。我が子を想う主の心は崇高なものだ。権力を巡って争い合う男どもの卑しく残虐なそれとは、比べ物にならないはずなのに。

 凍りついたように答えられないでいる彼女に、主は声を立てて笑った。


「弟はその伯爵とやらを追い返すでしょう。リカードの身内と話すことなどあるものですか。でも、人の親としてなら――助けてやることもできるかもしれないわ。それ相応の働きがあれば、だけど」


 ひとしきり笑うと、主は彼女に命じた。


「その者が追い出される前に私のところに来させなさい」




 イルレシュ伯爵という男は死んだような顔色をしていた。主が言った通り、ハルミンツ侯爵は色よい返事を与えなかったらしい。ティゼンハロム侯爵の一門に連なる者であれば当然だろう。しかし、先の主との会話を踏まえると、上の王子オロスラーンの遺体に取りすがって泣き叫んでいた主の姿が思い出されて、どうも哀れみのような感情が芽生えてしまう。

 落ち着かない思いを隠して、彼女は男を主の元へ案内した。


「太后陛下が私めに御用とか――」


 イルレシュ伯の表情には戸惑いが滲んでいたが、無理もない。イシュテンでは女が表に立つことは滅多にない。かつては王妃だった主ももはやその地位にはなく、息子も王ではないのだから。


「お前は主家を裏切り敵の屋敷を訪れたそうね。一体どうして?」

「それは……」


 言いよどんだ男に対して、主は機嫌良く笑った。


「息子のため、でしょう? 何と罵られようと蔑まれようと、親として息子の命が危機に瀕するのを見過ごせなかった。違う?」

「そう――そうです」


 疑念と希望の間で、男の表情が揺らいだ。主が助けに足りるのか、女に縋ってでも願いを叶えたいのか、迷っている。


「でも弟は断ったでしょう?」

「は――一度裏切った者はまた裏切るに違いない、と」

「私は信じてやりましょう。お前の忠誠ではなく、息子への愛を。私にも分かるもの。親は子供のためなら何だってできるものよ」

「何でも」


 男は何を考えたのだろう。主に関する噂は彼女も知っている。事実もあれば面白おかしく誇張された、聞くに耐えないものもある。いや、事実だとしてもそれを囁く者は主への悪意に満ちていて、彼女を憤らせるのだが。

 きっと、この男も日頃は主の悪評を言い立てているに違いない。ティグリスを守るのに必死なだけだというのに、誰も母の想いを分かってはいないのだ。主は、本当は優しい方だ。ただ子供を守るためだけに、他の誰も助けてはくれないからそうしていただけだというのに。


 何事もなければ、子供が健やかに育つことを望まない母親はいない。事を起こすのはいつも男の方ではないか。男たちは主を、女を残酷だと言うけれど、それはいつだって仕方なくすることなのだ。

 女など弱いものだから。男ならば剣を取ることも軍を率いることもできただろうに。そうだ、あの老婆は、あの薬は主にとっての武器だ。男と同じ戦い方ができないならば、女の武器を使うのにどうして責められることがあるだろう。


 ――お前は、自分の手を汚す勇気があるのかしら?


 彼女は男の表情を窺った。主は本当に何でもしたのだ。生かすために敢えて我が子を傷つけ、子供自身に疎まれ、一族全体からも恨まれた。それほどの覚悟が、この男にはあるのだろうか。


「私は――何をすれば良いのでしょうか」


 やがて心を決めたらしい男の、それでも少し震えた声を聞いて主は満足そうに微笑んだ。


「簡単なことよ。

 リカードがうるさいのはウィルヘルミナが王妃だから。でも、十年も経つのに女の子しか産めない役立たずよ。ファルカスだって他の女を娶りたいはず。男の子が欲しいはず」

「王妃さえいなければ……」

「今日お前が来てくれて本当にちょうど良かった」


 主の目配せを受けて、彼女は例の包みを男に差し出した。男がぎこちない動きで受け取るのを見て、剣ならば躊躇いなく抜き放つのだろうにと、心の中で少しだけ見下す。女にもできることなのに、なぜ男が怯えることがあるというのか。


「これは……?」


 男の、声さえも滑稽なほどにひび割れていた。そこへ主が鷹揚に微笑みかける。


「私はウィルヘルミナにあまり近づけないの。あの子逃げているのよ。けれど同じ一族のお前なら、怪しまれることはないでしょう。食べ物や、飲み物も――疑わずに口にするでしょうね」


 主の言葉が示唆するところを悟ったのだろう、男は包みを取り落としそうになったが、実際にそうすることはなかった。むしろ、それこそが希望だとでも言うように、しっかりとその薬を握り締めた。


「王妃さえいなくなればティゼンハロム侯は失脚する……」

「その跡を弟が埋める。そうしたらお前の息子のことも頼んでやりましょう」


 ――そうなったら、ティグリス様のことも心配いらないわ。


 やっと主の考えを理解した彼女の胸にも希望の光が射し、頬には笑みが浮かんだ。

 王が世継ぎに恵まれれば。ハルミンツ侯が王の後ろ盾になれば。ティグリスが王を脅かすと思われることはないだろう。主も心を乱されることはなくなる。二度と恐ろしい薬を使わなくても良くなるはずだ。そうすれば、全て上手くいく。


 主の満足気な笑い声と、男のやや硬いそれが重なって、歪な和音を奏でていた。

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