侍女の忠誠① エルジェーベト
エルジェーベトには気に入らないことに、ミーナは今日もミリアールトの元王女を招いて歓談している。
「――侍女の衣装だなんて、ファルカス様も意地悪を仰るのね。ごめんなさい、シャスティエ様。私からもう一度お願いしてみるわ」
「まあ、それには及びませんわ」
元王女は、人質の立場も弁えず、相変わらず図々しく王妃と同じ席についている。息子のラヨシュを王宮に連れてきたことで、そして幸いにもマリカに気に入られたことで、少なくとも幼い王女がこの女と遊びたがる機会は多少減ったが――それでミーナと過ごす時間が増えるのでは意味がない。
「陛下は私を慮ってくださったのではないかと思いますの。目立たないようにしていれば、そう嫌なことも起きないのではないでしょうか」
エルジェーベトが睨んでいるのに気付いているのかいないのか、元王女は穏やかに微笑んでいる。ひけらかすほどに、知識だけはある嫌味な女だ。彼女の敵意に無頓着であるはずがないのに、白々しくも邪気のない風を装っている。
マリカ王女はラヨシュと遊びに出ているのが救いではあったが。マリカがお転婆なのは困ったものだが、元王女に懷くくらいなら外遊びで多少日に灼けた方がまだマシだ。
「そう、だと良いけれど。近くにいらして欲しかったのに残念だわ」
「こうしてお招きいただけているだけでも光栄でございます。ミーナ様には大変良くしていただいて……本当に、過分のことと思っております」
「シャスティエ様。そんなこと……」
ミーナまでもが嬉しそうにしているのを見て、エルジェーベトは落ち着かない。その女は敵なのに、王やミーナ、マリカの命を狙っていてもおかしくないのに。女主人があまりに無邪気で警戒を知らないから恐ろしくなる。ミーナの優しさにも親しげな微笑みにも、値する女では決してないのに、と悔しさと嫉妬にも似た感情を覚えるのだ。
煮え立つような苛立ちを呑みこみながら、エルジェーベトはただ控えるしかなかった。
「王は元王女に宴を見せてやるつもりのようでございます。良い機会ですわ、あの女が王宮の奥から出るなど次はいつになるか分かりませんもの!」
だから、エルジェーベトは報告のためにティゼンハロム邸を訪れた際、リカードに強く訴えた。娘のミーナを、そして孫のマリカを溺愛しているこの老人のこと、彼女と同じくあの女を厭わしく思っているに違いない。それに、狩りの一件で恥をかかされた恨みもあるだろう。あの時失敗したのは若者たちの期待はずれの無能さゆえに過ぎない。今度こそ思い上がった小娘の鼻っ柱をへし折ってやれば良い。
「あからさまに王の誓いを蔑ろにするというのか。同じ失態を二度も犯す愚者と見られよというのか」
しかしリカードはうるさげに顔を歪めただけだった。その苛立ちが彼女自身に向けられているのに気付いて、エルジェーベトは信じられない思いで立ち尽くす。
「着飾って王妃と張り合おうというなら目障りだが、侍女の姿で端にいるなら何ということもない」
続けてリカードが発した言葉はエルジェーベトにはあまりに弱気に思えて――憤りが、主の怒りを買うことへの恐怖を上回り、彼女は更に言い募る。
「ですが、ですが! 出過ぎたことですわ! 人質ならば閉じ込めておけば良いではないですか。わざわざ華やいだ場に出してやるなど、王はまさかあの女を――」
「くどい」
ごく短い一言で、リカードは彼女の立場を思い出させた。ミーナの乳姉妹で目をかけられているとはいえ、彼女は使用人に過ぎなかった。それも女だ。リカードに意見することなど本来は許されるはずがない。
ミーナの手前、傍目に分かるようなことは決してなかったが、過去に負わされた痣などの痛手の数々を思い出して、エルジェーベトの血は凍った。
「――お許し、くださいませ」
低く腰を曲げて頭を垂れながら自分が男だったら、と何十回目か何百回目かに思う。衷心からの言が聞き入れられない度に過ぎる、埒もない妄想だが。
男だったら。生まれた身分が低いのは変わらなくても、手柄次第では地位を得て高貴の生まれの者とも対等に言葉を交わすことができたのに。頼りない男たちに任せておくのではなくて、自分の手でミーナを守ることができたのに。
――ああでも、そうしたらミーナ様のお傍にはいられないけれど……。
王に嫁いだ娘に、男が仕え続けることなどできはしない。マリカに仕えるラヨシュは、彼女が夢想する姿ではある。だが、息子が長じた時、エルジェーベトがミーナに仕えるほどには、マリカの近くにはいられないだろう。力と、距離と。男であっても女であってもままならないことは起きてしまう。
「余計なことをせずともあの娘の命運は残り僅か――春の雪のようなものであろう。ミリアールトの鎮撫があの無能に務まるはずもなし、ことが起きればかの国が誓いを破ったとして首を刎ねる理由になろう」
リカードの口調は淡々しつつ、それでも先の件での屈辱と怒りを押し殺したような苦々しさを帯びていた。エルジェーベトは主を怒らせずに食い下がれる言葉を探そうとして――だが、その努力は無為に終わった。悲痛な叫びが、彼女の思考を遮ったのだ。
「それでは閣下は我が息子を見捨てると仰せか!?」
その声を聞いて初めて、エルジェーベトは室内にもうひとりの人影がいることに気付いた。彼女がティゼンハロム邸を訪れるのはいつも夜で室内は薄暗く、控えていた男の姿は陰に紛れていたのだ。
――息子、ですって?
エルジェーベトは侍女に過ぎない彼女のために会談を打ち切られたらしい男の姿を、頭を下げたままで窺った。
中年の男の顔には見覚えがある。ティゼンハロム侯爵家に連なり、その恩恵を受ける家の主のひとりだ。更に、彼の立場は先程の言葉から思い出すことができた。
彼の息子のひとりは、今ミリアールトで総督を務めている。あるいは王の誓いを踏みにじりティゼンハロム家の名に泥を塗った罰としてそのようにさせられた。そしてもうひとりの息子は狩りの日に王に斬られた者だ。元王女を追い詰めながら犯すことも殺すこともできず、王の前に気の利いた申し開きをすることもできなかった者だ。
――無能者を二人も育てたのだからこの男も無能ということね。
慇懃で従順な態度を崩さないまま、エルジェーベトは内心で断じた。女に会うために話を中断させるなど、本来ならばあり得ないこと。そのあり得ないことをリカードがしたのは、それだけこの男を軽んじていると示すためだろう。彼女が判断を下す、ほんの数秒の間にも男たちは女を無視して言葉を交わしている。
「そのようなことを言ったか? ミリアールトで乱が起きたとしてあの者が必ず死ぬとは限るまい。上手く逃げ出すかもしれぬ」
「叛徒の手を逃れたとして、王は許しますまい! そもそも息子が北の果てに送られたのも王の勘気を被ったゆえ。息子二人をあの若造のために喪うとは。どうして看過できましょう!?」
――ああ、なるほど……。
頭上を飛び交うやり取りから、エルジェーベトは男の要件を概ね悟ることができた。ミリアールトの者たちがイシュテンの支配に反抗する気が起きる前に、息子を呼び戻して欲しいというのだろう。
だが、それは恐らく無駄なことだ。
「そなたの息子ひとりのために一族全体を危険にさらそうというのか」
案の定、リカードの声ににじむ不機嫌さは明らかに増していた。
王がミリアールトを攻めたのは、彼自身の力を示すためだろう。エルジェーベトにはバカバカしいと思えるが、男は強い王を求めるものらしい。そして単に一国を滅ぼしただけでは戦果としては十分でなく、新たな領土を維持できなくてはかえって無為に人命をすり減らしたことになる。
リカードがかの者をミリアールトに送ったのは何も懲罰のためだけではない。統治の失敗を見越して、王の戦果を色褪せさせる狙いもあったはずなのだ。
何しろミリアールト遠征に王が伴ったのは、リカードが遊び仲間と揶揄する若く門地も劣る者ばかり。王自身に忠誠を誓う側近に手柄を立てさせようという意図が明らかだったから、リカードは大層苦々しく思っていたようだったのだ。無様な統治でミリアールトに乱が起きるというなら、リカードにとってはむしろ好都合。鎮圧に際して助力してやれば、王もティゼンハロム侯爵家への恩義を思い出すことだろう。狩りでの失態の埋め合わせに、あの男は体よく捨石にされたということだ。
「有事の時にお守りくださらぬと!? 我らは十年前の王位争いにも命を懸けましたものを!」
――つつがなくミリアールトを維持されるようではティゼンハロム家の影響力が衰えてしまうではないの。バカね。
それが分からないこの男はやはり無能だ、と。男が見苦しく叫ぶのを聞いてエルジェーベトは確信を深めた。女に生まれたばかりにこんな愚者に意見することもできないとは何と腹立たしい。
「ことを起こしたのはそなたの息子たちだ。儂の命を守っていれば命を懸けただけの代価を受け取れただろうに」
だが、さすがにリカードはよく物事の潮目が分かっている。エルジェーベトが考えた通りに、男の訴えを冷徹に退けてみせた。
「私には息子が二人しかおりません……ひとりは王に殺され、もうひとりは北の果てで氷に閉じ込められ、敵に囲まれております! いくら罪を犯したとはいえ、見捨てることなどできませぬ!」
「儂はそなたよりも多くの息子たちに対して責任がある。ただひとりの、それも救いがたい愚者のために、数多の父たちに顔向けできなくなるようなことは断じてしない」
「そんな……」
「諦めよ、イルレシュ伯。戦馬の神のご加護があれば、そなたの息子が無事に生き抜くこともあるかも知れぬ」
――殿様も白々しいことを仰るものね。
依然として発言を許されないので頭を垂れたまま、エルジェーベトは嗤った。あの狩りの日、リカードは戦馬の神は惰弱者に加護を与えぬと吠えたというのに。リカードの胸中では、この父子はとうに切り捨てられているのだろう。
そもそも一族の他の父や息子のためと言ったのも本心だろうか。単に王の前で恥をかかされた、その鬱憤を晴らそうというのではないだろうか。まあ、いずれエルジェーベトに口を挟めることではないのだが。
死人のような顔色でイルレシュ伯が辞すると、エルジェーベトは改めてリカードに問いかけた。無能者が死のうと生きようと彼女の知ったことではない。ミーナとマリカのために、彼女が気にかけるべきことは他にある。
「元王女のことは……」
「放っておけ。聞けば例の娘、王に首を刎ねろと迫ったそうではないか。女の首にどれほどの価値があるものか……。全く分を弁えぬことだ。一度ミリアールトが逆らえば、今度こそ望みが叶うだろうよ。あの愚か者が総督である限り、そう遠い日のことではあるまい」
――本当に? 王はあの女の命を惜しんだりしないのかしら。
エルジェーベトは主ほど楽観的にはなれない。男は美しい女に目が眩むもの。狩りの日にも証明されたことのはずなのに、王が必ず期待通りに振る舞えるなど、どうして信じることができるだろう。
とはいえリカードに逆らっても何の益もないことはよく承知していたので、エルジェーベトは一層深く跪くより仕方なかった。
「仰せのままに……」
珍しく同衾を命じられることはなかったので夜遅く王宮に戻ると、息子のラヨシュは既に眠っていた。
安らかな寝顔を見ても特に感慨を覚えることはないが、とりあえず髪を梳いてやるとむにゃむにゃと言葉にならない寝言を発した。触れているのが母だと、分かるのだろうか。何と他愛ない。
――愚かなこと……。
この子供も、あのイルレシュ伯も。
息子など幾らでも作れば良い。仕える主が何よりも大事なのは、自明のはずのことではないか。
これだからそこらの愚者にはミーナを任せられないのだ。
子供の柔らかな頬にも細い髪にも心を動かされることなく、エルジェーベトは改めて決意する。ミーナたちを守るためなら何だってしよう。
――私が、しっかりしなくては。