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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
6. 宴の支度
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王妃への思い ファルカス

「ファルカス様、お願いがありますの」

「……何だ」


 彼の腕の中、甘えきってしどけなく身体を預けた妻の言葉に、ファルカスはわずかながら警戒し、気づかれないように背を抱く手に力を込めた。マリカを別室に寝かしつけて、夫婦二人で過ごす夜のことだった。


 ミーナ自身の望みならば特に取るに足らない。衣装だろうと宝石だろうと欲しがるだけ与えて構わないと思っている。取り立てて贅沢を好む女ではないし、妻が美しく装うのは彼としても好ましい。

 問題は、ミーナの背後に父親のリカードの姿が見え隠れしていないか、だ。裏表のない女だけに、ミーナは親の言うことを疑わずに夫に伝えてしまうのだ。聞き入れるか否かは彼が判断すれば良いこととは言え、実家から戻ったばかりなだけに、リカードに何かしら吹き込まれている恐れは十分にあった。

 持ち帰ったのが娘のマリカの遊び相手だけならば良いが、と。ファルカスは妻の頬に手を添えて黒い瞳を、その奥の心の底を覗き込もうとした。


 夫の内心など知るはずのないミーナは、うっとりとした表情で微笑んで、言った。


「シャスティエ様のことですわ。太后様がいらっしゃった間、窮屈な思いをされてお気の毒でした。新年の宴にお招きする訳にはいかないでしょうか」

「…………」


 ファルカスは目を細めて妻の無邪気な笑顔を眺める。そして、これは義父の企みなのだろうかと考えた。

 例の狩りの件で恥をかいたのを、あの元王女のせいだと逆恨みしているというのは大いにあり得ることだった。虜囚の身を晒し者にしようというのか、また何か理由をつけて下賜を迫ろうというのか。これがリカードの差金ならば、いずれろくでもなく面倒なことに違いなかった。


「それは舅殿の考えか?」

「いいえ、お父様は何も。ただ、私がお誘いしたいのです」


 だが、ミーナは無邪気に笑うと彼の胸に頬を寄せた。解いた豊かな黒髪が背からこぼれ、妻を抱く彼の腕にもかかる。しなやかな感触を楽しむようにそのひと房を弄びながら、ミーナの耳元で答える。


「あの娘は喜ぶまい」


 美しい女、それも敗れた国の女を前にイシュテンの男が何を考えるか、先日の件で身に染みたはずだ。この上人前に出たいと考えるような愚かな娘ではないだろう。

 リカードの悪巧みでなく、単にミーナの心遣いということであれば、これで終わりだ。義父と違って妻を言いくるめるのはさほど難しいことではない。リカードの影さえ見えなければ妻はひたすら優しく可愛らしいだけの女だ。


 ファルカスは警戒を解いてミーナを思い切り抱き締めた。背をなぞるように手を這わせると、しかし、ミーナはくすぐったそうに身をよじりながらも抗弁してきた。


「でも、頷いてくださいました。ファルカス様のお許しがいただければ来てくださると」

「断りきれなかっただけではないのか。王妃に命じられたと思ったのではないか」

「そんな。私、ちゃんと――ん、」


 まだ何か言おうとするのを、うるさいとばかりに唇で黙らせる。

 ミーナの言うことなどあてにならない、と思う。この女は優しいが世間を知らない。随分と元王女のことを気に入っているようだが、どうせ人質の身ゆえの慇懃さを好意と思い違いしているのだろう。気が強く高慢な元王女も、表面上の礼儀作法ならばよく整っているのだから。


「――シャスティエ様は嬉しいと言ってくださったの。この前はお怪我をさせてしまったし。お詫びに何かして差し上げたいのです」


 ひとしきり薔薇のような唇を堪能してから顔を離すと、しかし、ミーナは潤んだ瞳でまだ訴えて、ファルカスの眉を顰めさせた。


「それはお前が考えることではない」


 もう埋め合わせはしてやった、とは言わずに飲み込んだ。元王女を密かに呼びつけてジュラと会わせたのは、妻が知る必要のないことだった。何より、臣下たちが余計な気を回した結果、臣従しろなどと迫られた元王女は大層気分を害したようだと聞いた。彼が女を頼ろうとしたと思われるのも業腹で、ファルカスとしては用がないなら元王女のことなど考えたくもなかった。


「でも……」

「どうしても今言わなければならないことか? なぜそう気を散らす」


 珍しく諦めの悪いミーナを、ファルカスはそっと寝台に横たわらせた。頬、首筋、更にその下と手を滑らせると、白い肌を紅潮させて甘い息を漏らすのに満足する。彼を信じきって可愛らしく甘える、いつもの妻だった。

 二人の時に他の女の話をするな、などと。普通ならば女の方が言うことのようで可笑しくて、低く嗤いを漏らす。ミーナが元王女を気にかけるのに嫉妬しているということもないのだが。


「ファルカス様」


 ミーナが首筋に抱きついてくると、ファルカスの機嫌も上向いた。また口付けを落としながら、囁いてやるほどに。


「そこまで言うなら俺からあの娘に聞いてやろう。俺に対しても飽くまで行きたいと言い張るならば、あの娘も本気ということだろう」


 王の許しがあれば、と元王女が言ったのはどうせ彼が断ることを見越していたのだろう。賢しいあの娘ならばその程度の知恵は回るはずだ。


「――ありがとう、ございます!」


 だから妻が目を輝かせたのも、彼はさほど気に留めなかった。




「――お連れいたしました」


 執務室を訪れた臣下の声に、ファルカスは書面から目を上げた。


 アンドラーシに連れてこさせた元王女は、地味な衣装を纏い、輝く髪をフードの下に隠して一介の侍女のような風情で現れた。それでもフードをおろすと、いつも通りの氷のような瞳と形ばかりの微笑を浮かべた美貌が間違えようもなくこの娘が王族の矜持を失っていないと告げていた。


 ――剣の鋭さはどのような鞘に収めても変わらない、とは言うが。


 なまくらを飾り立てても意味がないという意味でもあるし、名剣は見た目によらずその価値を示すという意味でもある。眼前の娘は国が敗れ虜囚の身になってもいささかも矜持の刃を鈍らせてはいない。見た目にも歳にも似合わないその強気さが、どうにもファルカスを苛立たせる。


「ミーナが新年の宴に誘ったとか」


 ともあれそれは今更のことなので、彼は努めて無感情に切り出した。用件を予想していたのかいないのか、元王女も表情を特に変えずに頷いた。


「過分のお心遣いをいただきました」

「だが、いらぬことだった。お前が出席する必要はない」


 彼が告げたのは元王女も望んでいたはずのことだった。だから娘がまた頷けば終わるはずだった。


「お許しいただけないということでしょうか。楽しみにしておりましたのに」


 しかし、下がれと命じようとしたその時、元王女は首をかしげてつぶやくように言った。楽しみにしていたなどと嘘だと断言できる、淡々とした口調だった。惚けている、とも言える。


「自身の立場をどう考えている。なぜ宴に出られるなどと期待した」


 今までの数々の無礼に比べればまだ穏やかな態度だったが、それでも口答えには違いない。予想を裏切られた苛立ちも手伝って、ファルカスの言葉は尖った。


「陛下のお心次第とは承知しております。我が身が虜囚に過ぎぬことも。ですが――」


 碧い瞳をますます凍らせて、艶やかな冷笑に唇を歪め、彼の睨みつける視線を受け流して。娘は平然と続けた。


「最近心が塞ぐことが多かったものですから。晴れやかな場の、末席にでもいることができればひと時でも憂いを忘れることができるかと思ってしまっただけでございます。

 ――そのように願うことすら、許さぬとの仰せでしょうか」

「俺が保証したのはお前の身の安全までだ。心の裡までは知ったことではない」

「陛下のご慈悲には心より感謝申し上げております。敗残の身でありながら、私ばかりか祖国までも大変寛容に扱ってくださいました」


 ――白々しいことを……!


 狩りで怪我を負わされたこと。ミリアールトの総督を愚者に任せざるを得なかったこと。加えて、臣下たちが独断とはいえ服従を求めたこと。

 神にかけた誓いを守れていないだろうとあてこする元王女の言葉に、ファルカスは拳を震わせた。

 この女を呼び出して話をしようと考えたこと自体が今となっては間違いだった。口を開かせれば理屈をこねるのだから、一言ならぬと断じれば済むことだった。この女の考えなど、推し量ってやる必要はどこにもなかったのだ。

 自身に対して、そして余計なことをしておきながら笑いをこらえる表情のアンドラーシに腹を立てつつ、言葉を探す。


「――先の件で何も学ばなかったのか。お前を人目に晒すとろくなことが起きない」

「まあ、ですが陛下がお守りくださいますでしょう。犬や馬ならば言葉が通じないこともあるかもしれませんが、宴に列席するのは陛下の臣下でございましょう?」


 王女は美しく微笑んだ。紛れもなく嘲笑と呼ぶべき種類の笑顔だったが。わずかに傾けた首筋の、なんと優美で憎らしいことか。


「貴様……!」


 臣下に命を徹底させることのできない力ない王だと嗤われた。守れない誓いを立てたと嘲られた。怒りと屈辱に一瞬、理性が飛んだ。

 ファルカスは椅子を蹴立てて立ち上がり、大股に元王女へと歩み寄る。間近に立てば碧い瞳は遥かに見下ろす位置にあるというのに、傲然と彼を見返して退くことをしない。何も感じていないのではない証拠に、細い肩は明らかに強張っているというのに。怯えながらも虚勢を貫く態度は、やはり可愛げとはほど遠い。


「何を企んでいる」

「何も。先に申し上げた通りでございます」


 この女が単に宴に出たいだけなどと信じることはできなかった。この王宮に捕らえて以来、ねだったものといえば書物を数冊だけと聞いている。欲がないというよりは、何であれ彼に乞うということが耐えられない質なのだろうと思う。この頑なな瞳がその推測を裏付ける。なのにこの件に限って挑発めいたことまで言って我を通そうとするのは、裏があるに違いなかった。


「見え透いた嘘を吐くものだ」


 だが、それが何かまでは分からない。苛立ち紛れに、ファルカスはつい剣の柄に手をかけた。もちろんそれを抜くことなどしなかったが。代わりに貫くような鋭さで、睨む。


「俺を憎むのはお前の勝手だ」


 この女には十分な理由があるのだから。


「だが、ミーナやマリカに害を及ぼそうというなら――」


 女相手の恫喝は愚かしく、恨みを買った相手に対してわざわざ言うのも滑稽なことだった。しかし、彼の言葉は言い切る前に遮られた。


「そのようなこと、考えるのも恐ろしいことですわ」


 元王女の切り捨てるような声と鋭い視線に、ファルカスはしばし絶句した。その間にも元王女は滔々と述べる。


「お疑いになるのもごもっともではありますけれど。ですが、心外でございます。ミーナ様にもマリカ様にも良くしていただいておりますのに。恩を仇で返すような――私、そのように卑しい心根は持ち合わせておりません」


 胸を反らせるようにして高らかに言い終えると、元王女ははっとしたように瞳を揺るがせ、顔を伏せた。言い過ぎに、気付いたということなのだろうか。


 ――今更も良いところだが。


 ミリアールトの王宮で最初に顔を合わせて以来、この生意気な娘への心象は限りなく悪い。会うたびに怒鳴るか嗤うか嘲るか、彼の神経を逆撫でてくる。だから不快な記憶が一つ二つ増えたところで印象はさして変わらないのだ。

 とはいえ、怒気を抜かれてしまったのも事実。ファルカスは軽く息を吐いて整えた。


「ならば良い」


 そして、元王女の姿を見下ろした。飾り気なく、色使いも目立たない衣装を。


「どうしてもというなら宴に来るが良い。ただし席があるなどとは期待するな。今のように侍女のような体で、壁際にでも控えて一言も口を開くな」


 元王女は今度は眉を寄せた。侍女のように、というのが不服なのかもしれない。だが、文句を言うならそれはそれで良い。


「気に入らぬなら部屋で大人しくしていることだ」


 ファルカスはこれ以上譲るつもりはなかった。しかし、元王女はどこか呆然としたように彼を見上げ、そしてまた目を伏せた。


「……お許しいただき、御礼を申し上げます」


 そして、わずかに首を傾けて呟いた。恐らく初めて見せる、氷の仮面を纏わない素の表情で、戸惑ったように。


「無礼を申しましたのに願いを叶えていただけるとは。まことに意外でございました」


 心底不思議そうな口調だったので、果たしてこれは皮肉なのかとファルカスは訝った。侍女扱いで控えていろというのが狭量な命だとは分かっている。憤激して断るだろうと思っていたのだ。それに、そもそもこの女の方が彼を挑発したのだ。誓いを破った埋め合わせをしろ、守れぬなどとは言わせない、と。


「無礼の自覚があるならば口を慎め。立場を弁えろ」


 苛立ちに任せて斬りつけるように言ったというのに、元王女はまだ呆然としているようだった。


寡妃太后(かひたいこう)様のことも、ティグリス様のことも。私、その……誤解してしまってあのような態度を……。寡妃太后様にお目にかかって、考えていたことが誤りだったと分かったのです。あの時のことも、申し訳なく思ってはおりました」


 ――あれか。


 何度か会っただけの異母弟が突然訪ねた日のことを思い出し、ファルカスの機嫌は更に傾いた。進言が決して聞き届けられることがないと知っていながら無様な姿を見せに現れたティグリスも不快なら、その後の元王女の態度も不快だった。寡妃太后――あの頭のおかしい毒婦――を彼の実母だと勘違いしていたらしい彼女を咎めなかったのは、この女に何と思われようと彼にはどうでも良かったからだった。今更謝罪されたところでかえってあの日の不愉快な記憶が再燃するだけだった。


「何も知らぬのに口を出すからそうなるのだ。少しは後先というものを考えろ」


 重ねて叱責するような言葉を叩きつけると、元王女は唇を結んで見慣れた不機嫌な表情に戻った。碧い瞳にも明らかな怒気が閃く。


「――ごもっともと存じます」


 しかし、また激昂するのだろうと見たのも一瞬のこと。元王女は無表情の仮面を纏って従順に頭を垂れた。


「ならば……下がって良い」


 元王女が思いがけず大人しく引き下がったので、彼がひどく理不尽に虐げたような後味の悪さが残ることになった。




 再び執務室に一人きりとなったファルカスは、署名を要する書面に目を落とした。しかし、頭の中にあるのは書面の内容ではなく、ミリアールトの元王女のこと、そして先日アンドラーシが小賢しく進言してきたことだ。


『王妃様はあの姫君のことをとてもお気に召しているご様子ですね。王妃と側妃として、仲良くやっていけるのではないでしょうか』


 ブレンクラーレの王太子をもてなした際、アンドラーシをミーナの護衛につけたのだ。その時に妻はあの娘のことを楽しげに語っていたらしい。


 王妃嫌いの男の言葉だったから、ファルカスはくだらないと一蹴した。

 彼も側妃を迎えなければならない可能性を考えてはいる。リカードを排し、名実ともに王の権を握り、その時まだミーナに男児が恵まれていなければ。どこかの貴族の娘を二人目の妻として娶るかもしれない。


 しかし、王宮で育った訳ではなくても、彼も父の妃たちの諍いはよく知っている。一人の(おっと)をめぐって争う女たちが仲良くするなどとはあり得ない。いや、ミーナは仲良くしたがるかもしれないが、だからこそ側妃は慎重に選ばなければなるまい。万にひとつも王妃に成り代わろうなどと考えないような女でなければならない。あの元王女は考慮の外だ。

 ミリアールトを抑える利は認めるとしても、彼を憎む危険な女を妻子に近づけるつもりは、彼には毛頭なかったのだが――


 ――あの女もミーナを……好いている?


 あの娘は良くも悪くも本心を曲げられない質だと思う。そんな女がミーナたちを害する可能性を疑われて激怒した。

 演技ということはないだろう。そもそもが宴への出席を許すかどうかという話だったし、彼に対してミーナたちへの好意を装おうとする理由も分からない。元王女が彼に媚びようとするなどもっともあり得ないことだった。


 ――バカバカしい。いずれ関係のないこと。あの女を側妃になどこちらから願い下げだ。


 数秒とはいえ無駄な思考に時を費やしたのに苛立って、ファルカスは乱暴な筆致で署名を済ませた。

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