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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
6. 宴の支度
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婚家名 シャスティエ

 手を休めて自身が施した刺繍を見下ろして――シャスティエは深々と溜息を吐いた。


「これでは、ダメね……」


 考えごとばかりで暗い顔色の主に、イリーナが気分転換を勧めてくれたのだ。冬とはいえ晴れた日のこと、麗らかな日差しの下で刺繍に勤しめば心を空にできるから、と。そのためにイリーナはわざわざ椅子と卓を室外に運んで庭を眺めながら仕事ができるようにしてくれた。

 とはいえそれは針仕事の巧みな侍女にしか当てはまらないことだったようだ。もともと刺繍や編み物といった女らしい嗜みには関心のなかったシャスティエにとっては、なぜか引き攣れる生地も揃わない縫い目も、ただただ苛立ちと虚しさを誘うものでしかなかった。


 ――糸と布を無駄にしてしまったわ。


 イリーナの手にかかれば見事なものになっただろうに、可哀想なことをしたと思う。


 布を脇によけてもう一度溜息を吐く。今度は、近い将来選ばなければならない道について思いを馳せたのだ。

 ティグリスの誘いに乗るかどうかはまだ決めていない。イリーナには、あの王子には彼女たちを逃す算段があるらしい、とだけ告げた。国に帰れるかもしれないと聞いてイリーナは目を輝かせたが、シャスティエに望郷の思いを口にすることはなかった。自身にだけでなく、ミリアールトの民全てに関わることだから、と。主の判断を惑わせまいとしてくれたのだ。それは分かるし嬉しく思うけれど、結果として祖国の未来はシャスティエひとりの考えに委ねられてしまった。女王との自負と矜持はあっても、たかだか十八の小娘にこの選択は、あまりに重い。


 ティグリスに賭けて逃れるか。アンドラーシやジュラが請うように王に従うか。


 ――まだ他に道があるかしら?


 思い悩む間にも刻々と時は過ぎていく。新年の祝宴の日までには、どの道を選ぶか決めなければならないというのに。


 また溜息をこぼしそうになった時だった。庭先の茂みが揺れた。猫でも紛れ込んだのか、と目をやると、そこから黒っぽい塊が這い出てきた。


「……マリカ様? どうして――」


 その塊は、よく見れば艶やかな――無残に小枝や木の葉が絡んでいたけれど――黒髪で。小さな手足が生えていて。そして、その可愛らしい手でドレスの泥を払って茂みから現れたのは、この国の王女、マリカに違いなかった。


「ね? 近道でしょ?」


 シャスティエの当惑をよそにマリカは茂みを振り返る。するとそこが再び揺れて、今度はマリカよりも年長の、恐らく十歳くらいの少年が現れた。


「マリカ様、またそのようにお転婆をなさって。お母様に叱られてしまいますわ」


 シャスティエは慌てて針をしまうとマリカに駆け寄った。しかし、幼い王女は彼女の苦言など聞いていない風で、少年に得意げに微笑んだ。使用人の子供だろうか、質素な服装だが身なりは清潔に整えられている。


「北のお姫様。金のお姫様。綺麗でしょ?」


 ――お友達を紹介してくださったということかしら。膝を折って礼を尽くしたほうが良いのかしら。子供相手でも?


 教え込まれた礼儀作法では対応することができなくて、シャスティエは悩んだ。

 一方の少年もぽかんと口を開けてシャスティエを凝視している。まあ無理もないと思う。彼女が何者か知らないなら金髪碧眼は異相だろうし、人質と知っているならできれば関わり合いになりたくないことだろう。


「私に会いに来てくださったのですか? それならばミーナ様から呼びつけていただければ参りますのに」


 聞く耳を持たれていないのではないかという不安を抱きつつ、シャスティエはマリカに目線を合わせて跪いた。幼くてもこの国の王女への敬意を示すべきだと思ったのだ。それに、無邪気で活発なこの子供は、今ではシャスティエの慰めにもなっている。幼いからと無碍に扱う気にはなれなかった。……かつてこの少女を害そうとしたことは、今となっては悪い夢のようだった。


「ラヨシュを案内してあげていたのよ」


 案の定というか、マリカはシャスティエの問い掛けをあっさりと無視した。これも、以前忍び込まれた時と同じだった。シャスティエ自身も多少は覚えがあるけれど、人に傅かれる身分の幼い者は、人の話を聞かないものだ。

 とはいえ事情は何となく察せられたから、シャスティエは口元をほころばせた。ほんの五歳の少女が、倍くらいの歳の少年に対して先輩風を吹かせて王宮を連れ回していたらしい。その情景が微笑ましいと思ったのだ。


「使用人の子供でしょうか。その子にも役目があるでしょうから放してやるのが良いと思いますわ」


 少年の困惑顔も当然だった。仕事を怠けたと思われたら親なり上役なりに叱られるのだろうが、まさか王女に異を唱える訳にもいかなくて仕方なくお守りを務めたのだろう。

 しかし、少年はシャスティエの言葉にきっ、と(まなじり)を決して睨みつけてきた。


「いえ。マリカ様をお守りするのが私の役目ですから」


 少年の言葉の思わぬ力強さ、そして彼女を見る瞳に満ちた敵意に、シャスティエは思わず眉を顰めた。そこへ、王女は変わらず無邪気な明るい口調で説明を加えてくれる。


「ラヨシュはエルジーの子供なの」

「ああ、なるほど」


 シャスティエは納得した。子供の前だから、溜息を吐くことは堪えたが。

 エルジー。エルジェーベト。王妃の傍に仕える侍女の一人だ。ミーナの乳姉妹と言っていただろうか。整った顔立ちの割にどこか暗く冷たい印象の女で、シャスティエを見る目も人一倍鋭かった。前にマリカの手を引いて王妃の元へ届けに行った時もひどく無礼に突っかかってきたのだ。


 ――それが普通とは、思うけれど。


 あの時、シャスティエはすんでのところでマリカの首を締めるのを思いとどまったところだった。祖国を滅ぼされた人質が、憎い王の娘を前に復讐を考えるに違いないと思われてもしかたない。ましてティゼンハロム侯爵の一派はシャスティエが側妃となって男児を成し、ミーナを脅かすのを警戒している。ミーナの方こそ大らかすぎるのだ。

 このラヨシュとかいう少年も、さぞシャスティエの悪口を吹き込まれているのだろう。マリカとシャスティエの間に立ち塞がるようにして口元を結んだ姿は、まさしく姫君を守る騎士のようだった。


「これから犬舎を見に行くの。子犬が大きくなった頃よ」

「危ないですわ」


 先の狩りの時、乗っていた馬に犬をけしかけられたシャスティエは眉を顰める。

 犬舎では最近子犬が生まれたとのことで、そのうちの一頭をもらいうける約束なのだと、マリカ王女は得意げに語った。子犬ならば可愛らしいかもしれないけれど、当然、犬舎には成犬もいることだろう。獰猛な犬の牙にかかっては、こんな小さな子供など引き裂かれてしまうと思ったのだ。


「大丈夫よ。良い猟犬は人を噛まないの。お父様が言ってたわ」


 マリカの父とは、シャスティエにとっては誰より憎いあの男に他ならない。無慈悲に傲慢に彼女の祖国を踏みにじった王が、娘に対しては優しげな顔を見せることもあるのだろうか。

 反応に困って絶句したシャスティエに軽く首を傾げると、マリカはくるりと背を向けた。犬舎へと行ってしまうつもりだ、と察してシャスティエは急いで呼び止める。


「お待ちくださいませ」


 犬は安全なのかもしれないが、王宮もそうだとは、もはや彼女には言い切れない。ティグリスの口ぶりでは子供が出入りできるような場所にも裏道への扉があるようだった。彼の遊び場ということだったから。

 先代の御代ならば王や王妃も隠し通路の存在を知っていたのだろうが、今は違う。万が一にもマリカが迷い込むことがあれば、誰にも見つけ出せないかもしれないのだ。


 今にも駆け出しそうにそわそわとしている王女の気を惹こうと、シャスティエは懸命に考えを巡らせた。そして、小細工を思いつく。

 幼女を見上げるように身体を更にかがめて、精一杯優しそうな微笑みを浮かべて、語りかける。


「マリカ様。私、王妃様方がいらっしゃらない間にマリカ様の絵本をお借りしましたの。とても楽しかったのですけど、数え歌の節が分からなくて。マリカ様はご存知でしょう? 私に教えてくださいませんでしょうか」

「お姫様に、教えるの?」


 無事に子供の自尊心をくすぐるのに成功したらしい。マリカはくすくすと楽しげに笑うと大きく頷いた。


「もちろん、良いわよ!」

「では私の部屋へおいでくださいませ。ここでは冷えてしまいますもの」

「うん!」


 気を逸らすのに成功したことにほっとして、シャスティエはマリカの手を取った。頬は真っ赤になっているのに、王女の指先は冷え切っていた。やはり、外を駆け回らせるよりは部屋に入れた方が良いと思う。


「マリカ様……!」


 子供に対して大人げないこととは思ったが、シャスティエはラヨシュとかいう少年に向けて皮肉っぽく笑った。


「お前も一緒に来なさい。マリカ様のお傍にいないと安心できないでしょうから。――王妃様にはお言付けしてお出ましいただくわ」


 敵意が丸見えであるとは思っていなかったのかもしれない。ラヨシュは頬を紅潮させたが、何も言わずにシャスティエについてきた。




 間もなくイリーナに先導されてミーナがやって来た。当然のようにエルジェーベトも付き従っている。王妃の忠実な侍女は、自の息子だというラヨシュに対してもシャスティエに対するのと同じように冷たい視線をくれたので、彼女は内心で眉を顰めた。


「いつもごめんなさいね」

「いいえ。とんでもないことでございます」


 とはいえミーナはそれに気づいた様子もなくいつもの笑顔だったので、シャスティエも応えて微笑を作った。エルジェーベトは好きではないが、久しぶりにこの王妃に会えること自体は嬉しいことだった。

 続けてミーナはラヨシュにさえ気安く話しかける。


「ラヨシュもマリカによく付き合ってくれたわ。一緒にお菓子をいただきましょう」

「い、いえ……はい!」


 身に余る光栄にどもった少年の姿は間違いなく微笑ましいもので、シャスティエの笑みもやや自然なものになった。


「お父様がラヨシュを預けてくださったの。マリカの遊び相手にと」

「左様でございましたか」


 ミーナの父、ティゼンハロム侯には一度会っただけだがひどく睨まれた。やはりあの子供をマリカにつけたのはシャスティエへの牽制に違いないと思う。


「子供同士だから。……でも、ますますお転婆になってしまうかしら」


 座っているのに飽きて庭を駆け回り始めたマリカを、ラヨシュは懸命に抑えようとしている。せめて上着を、と差し出そうとしてはするりと躱される様子は、王女というより腕白な王子とその従者といったところだ。


「私も、兄と従兄弟に囲まれて育ちましたが――まあ男勝りと言われるようなことは少なかったかと存じます」


 死んだ――殺された愛しい人たちのことを、世間話のようにするりと口にできたことに、シャスティエは驚いた。憎い王の妻子ということで戸惑ったのも最初だけのこと、近頃は本当に王妃と王女のことを好きになってしまった自分に気付かされたのだ。


「まあ、シャスティエ様も? それならば安心ね」


 ミーナは嬉しそうに笑ったが、シャスティエの心は重い。叔父たちの死に顔を思い出したから、だけではない。血と死の記憶が、更に暗い想像を呼んだのだ。


 ――王が敗れることがあれば、この方たちも……。


 彼女が考える必要のないことだとは思う。彼女が真っ先に案じるべきは踏みにじられた哀れな祖国のことだ。第一、ティグリスに与したからと言って無事にミリアールトに帰れるとも限らない。彼女が何かしら行動を選ぶことで死者が出るのも承知のことだ。

 ただ、その犠牲者の中にこの無邪気な王妃と王女が含まれることも十分あり得る。シャスティエは、今はその事実だけを心に刻んだ。


「エルジーがラヨシュと離れ離れだったのも心配だったの。手元に引き取れて良かったわ」


 ミーナに水を向けられて、エルジェーベトは慇懃に目を伏せた。さして嬉しそうには見えなかったのは、シャスティエがこの侍女を好きではないからというだけだろうか。


「その者に子供がいるというのは存じませんでした」


 嫌っているであろう彼女にわざわざ言うはずもないから当然のことだが、相槌代わりにシャスティエはそう言った。実際、エルジェーベトという女は他の侍女と違って休みを取っている様子もなく常にミーナの傍にいる。幼い子供のいる母親には似つかわしくないと思ったのだ。


「夫は内乱の一つで亡くなりました。陛下が即位された後、色々とありましたから。侯爵様が哀れんで息子に教育を施してくださったのでございます」

「それは、気の毒なこと」


 侍女が会話に口を挟むのは無礼だが、人質の身としては、そして主人のミーナが笑っているからにはシャスティエには何も言うことができない。その逡巡を読み取ったかのように、エルジェーベトは冥く哂った。


「昔のことでございますから。それに、名前も返していただきました」

「――婚家名のことかしら?」


 アンドラーシが言っていた。イシュテンでは夫が妻に名前を授けて文字通りに我が物にするのだと。シャスティエには屈辱としか思えなかったが、イシュテンの女にとってはどうなのだろうか。


「はい。幼少の頃よりミーナ様にお呼びいただいた名に戻れるのは喜ばしいことでございました」

「そう……」


 夫が死んで良かった、とも取れる言葉にシャスティエはあいまいに頷くことしかできなかった。それに、エルジェーベトの婚家名を聞いたところで喜ばれないだろうという確信があった。だから、シャスティエはミーナに話しかけることにした。


「婚家名とはどのように決めるものなのでしょうか。ミーナ様――ウィルヘルミナ様のお名前は、陛下がお選びになったのでしょうか」


 それは、ブレンクラーレの数代前の王妃の名前だったはずだった。美貌と教養で名高い王妃だったと伝えられているから、趣味が良い名前と言えるだろう。


「いいえ」


 しかし、イシュテンの王妃は朗らかに首を振った。


「ファルカス様は幾つか候補を挙げてくださっただけ。私に選ばせてくださったのよ」

「では、どうして今のお名前を選ばれたのでしょうか?」

「可愛い響きが良いと思ったの。ウィルヘルミナ。愛称はミーナ。ね?」


 妻に婚家名を決めさせたとは、それだけなら王の無関心とも寛大さとも取ることができる。しかし、先日盗み聞いたことから、どちらかというと後者なのではないかとシャスティエは思った。王は側妃を勧めるようなブレンクラーレの王太子の言に対して、妻子を殺し合わせる趣味はないと言い切った。認めたくないこと、知りたくもないことではあるが、恐らくあの男はミーナやマリカを大事にしている。


「はい。まことに」


 仇に情があるなど知りたくもないことだ。だが、それとは別にミーナが良き夫を、マリカが良き父を持っていることを、シャスティエは喜ばしく思った。

 だから彼女は心から微笑んだ。それにミーナも応えて薔薇がほころぶような笑顔を見せ――そして、表情を改めておずおずと切り出した。


「ねえ、シャスティエ様」

「何でございましょう」


 虜囚の身に対して気遣うような態度のこの人は、やはりとても優しいと思う。


「もうすぐ新年の宴があるの。太后様がいらっしゃって、息の詰まる思いをされていたでしょう。狩りでも――大変なことに、なってしまったし。埋め合わせというか――宴にいらっしゃりたいなんて、思われるかしら。外に出ることはないし、馬にも乗らなくても良いの。武器を持った方は、それは、皆さま剣は帯びていらっしゃるけど、でも、きっと怖いことなんて――」


 目を見開いたシャスティエをどう思ったのか、ミーナの言葉は途中で立ち消えた。だが、シャスティエは狩りの記憶を呼び起こして怯えたのではない。ティグリスとの約束の日に、思わぬ誘いを受けたことに驚いたのだ。


 宴がどれほど続くものかは知らないが、うかつに受けてはティグリスと会えなくなるかもしれない。彼に賭けると、まだ心を決めた訳ではないが。

 一方で、良い機会かもしれないとも思う。祖国の未来のために何をするか何を選ぶか、シャスティエの手元にある判断材料は少なすぎる。王をはじめとしたイシュテンの貴顕を間近に見ることができれば、何か分かることもあるだろうか。


「あの、身に余るお言葉に驚いてしまいましたの。とても、嬉しいですわ」


 それだけの言葉で、ミーナの顔は面映ゆいほどに輝いた。打算から申し出を受けたのが申し訳ないと思われるほどに。それでも美しく晴れやかな笑みに、シャスティエの表情もほころんだ。


「じゃあ、来ていただけるの!?」

「はい、お許しをいただけるなら」

「それではファルカス様にお願いするわね」


 王はきっと嫌な顔をするだろうな、と思った。だが、シャスティエには勝算があった。あの男は誓いに反してシャスティエに怪我を負わせたことを気にしているらしい。埋め合わせをしろとほのめかせば、彼女の望みも叶えられるだろう。


 エルジェーベトの射すような視線は疎ましかった。けれど、ひとまずは無為に悩むだけではなく一歩前に進むことができたはず。そう考えて、シャスティエは満足することにした。

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