予期せぬ邂逅 レフ
レフは娼館の二階から雪が舞う暗い空を見上げていた。雪は彼にとって故郷を思い出させる懐かしいもののはずだったが、今この場にあっては積もる雪を見たいとは思えなかった。
石畳で整然と舗装されたミリアールトと違って、イシュテンは王都といえども土が剥き出しの通りが多い。だから雪が踏みにじられて泥沼のようになった地面を見下ろすと、何か汚らしい感じがしてしまうのだ。やはり遅れた粗野な国柄だからということだろうか。あるいは騎馬を重んじる彼らのことだから、その方が馬の脚のためなのかもしれない。とにかくレフにはこの国の何もかもが気に入らない。
従姉の――彼の女王の行方は依然杳として知れない。娼婦たちは客から何か聞いているのかもしれないが、彼に教えてくれることはなかった。例によって子供扱いで、無茶はやめろと言われるのだ。
この国では彼の金の髪も碧い瞳も珍しいから、迂闊に出歩くこともままならない。更に、異国にあっては長く暗い冬に閉ざされる故郷の様子を知る術もなく、彼の鬱屈は雪のように積もるばかりだった。
――イシュテン語が多少上達したところで何にもならない……。
娼婦たちは彼が纏う珍しい色や整った容貌を面白がって何かと話しかけてくる。おかげで言葉に不自由はしなくなったが、良い歳をした男というよりは子供か、もっと悪いと少女のように扱われるのが彼には大層不満だった。
中には鬘として高く買うから髪を伸ばせと言った女もいたので、彼は憤然として逆に短く切り揃えてやった。
従姉もそうだったが、女たちは男が女のように扱われることの屈辱を分かっていないと思う。彼に対しては特に傲慢に振る舞う従姉などは、彼にお揃いのドレスを着るよう命じたことさえあった。声変わりもしていない、背丈もさほど変わらなかった子供のころの話ではあったが。
『レフと私が同じ格好をしたら、鏡の像が抜け出して来たみたいになると思うの。見てみたいわ』
そして彼がその名案に難色を示すと、彼女は唇を尖らせて――彼女にとっては叔父にあたる――彼の父に言いつけに行ったのだ。さすがに父や兄たちは彼女をたしなめたので、従姉はひどく不満そうにしていた。
――シャスティエは、あの頃から変わっていないのに……。
あの頃から比べて、最後に会った時の彼女は幾らか見た目は成長して淑やかになっていた。知識は当然のように増えたし、立ち居振る舞いも王女に相応しい気品に満ちたものだった。だが、従姉の本質は変わっていない。甘やかされた我儘な姫君のままなのだ。
不当に扱われたと感じたり、意に染まないことがあるとすぐに機嫌を傾かせる。祖国ならばふくれっ面さえ褒めそやされて、誰もが彼女の機嫌を取ったものだが、敵ばかりのこの国ではそういう訳にはいかないだろう。それどころか、王族として礼節をもって扱われることさえ望めるかどうか。
そのような状況で従姉がどのように振舞っているか、そしてそれがイシュテンの者にどう映っているか。レフには想像することさえ恐ろしかった。
「あんたってやっぱり雪が似合って絵になるわねえ。ね、あんたの国では神様は雪の女神様なんでしょ? あんたみたいな方なのかしらね」
無遠慮な呼び掛けに追憶から呼び戻されて、レフは顔を顰めつつ振り向いた。とはいえ声で誰かは知れている。
案の定、そこにいたのは彼にこの娼館で働くよう勧めたあの娼婦だった。仕事に向けて着飾って胸元を広く開け、脂粉と香水の香りを漂わせている。いつまで経っても慣れることができない。
胸をざわめかせる匂いから距離を取るように身を引くと、レフは訂正した。
「ミリアールトの女神は雪の女王っていうんだ」
更に言うなら雪の女王の化身と称えられるのは従姉のように特別に美しい女であって、男の見た目が良いのを褒める場合には雪の女王の恋人と称するのだ。だが、自分の口からそんなことを言う気にはなれなかった。
「そうだった? 難しくて覚えられないわ」
女が悪びれないので彼は一層顔を顰め、つい憎まれ口を叩いた。
「稼ぎ時じゃないのか。暇なんだな」
そしてすぐに後悔した。この女の生い立ちなど彼は何一つ知らないが、好んで娼婦に身を落とす者などいるはずがないのだ。彼は多分この女に恩がある。その相手に対して相応しい物言いでは決してなかった。
「確かに最近暇ねえ」
しかし女は彼に謝罪する隙を与えず、あっさりと笑った。
「ご贔屓にしてくれてた若様方が来てくれないのよ。どうもね、王様を怒らせて僻地に送られてしまったみたい」
「ふうん」
レフは気のない相槌を打った。
イシュテンの内情など彼にはどうでも良いことだ。イシュテン王が臣下を掌握できずに苦慮しているなら良い気味だと思うが、娼館通いをしているような連中だ。どうせ相応の理由があったのだろう。娼婦たちにとっては、稼ぎが悪いのと仕事をするのと、どちらが悪いのかは彼には判断できなかったが。
――そんな連中がシャスティエの行方を知っているということもないだろうし。
やはり手詰まりな状況に変わりはなく、レフは深い溜息を吐いた。
そこへ彼を呼ぶ声があった。
「坊や」
「……何だ?」
坊や呼ばわりは止めろと訴えてはいるが、一向に叶えられる気配はない。本当のことだろうと言われるのだ。だから彼は反論することを半ば諦めている。
呼び掛けたのは娼館の館主だった。人の良さそうな顔をしてはいるが、職が職だけに抜け目ない部分もあるのを彼は既によく知っている。
「ブレンクラーレからのお客のようなんだが、言葉が通じなくて困っている。あんた、もしかしてブレンクラーレ語は……」
「できる。行こう」
短く答えると、レフは窓辺から立ち上がった。
やることがないのに倦んでいたところだったし、酔いつぶれた客の介抱だとか喧嘩の仲裁だとかに比べたら遥かにまともな依頼だった。ミリアールトの貴族にとって、ブレンクラーレ語はほとんど当然の教養だ。イシュテン語などよりもよほど。彼がこの野蛮な国の言葉を齧ったのは、従姉の趣味に付き合ったからに過ぎない。
――それにしても、イシュテンの娼館をブレンクラーレの者が訪れるだなんて……。
ブレンクラーレもイシュテンには手を焼いていたのではなかったのか。商人などであれば国同士の諍いは関係ないというのだろうか。あるいはミリアールトを滅ぼしたばかりで、他国とはことを構える気がないとでも見ているのだろうか。
答えのない問いに考えを巡らせつつ、レフは最上級の客室へ向かった。
「通訳をお連れになればよろしかったのに」
「だってそれでは母上に告げ口されてしまうではないか。まさかブレンクラーレ語がまるで通じないなどとは思わなかった。そなたもこのことは報告してはならぬぞ?」
「……お止めしきれなかった時点で私も同罪でございます。摂政陛下にお聞かせなどできませぬ」
入室するなり聞こえたのは、確かに大層品の良いブレンクラーレ語の響きだった。だが、ある単語を聞き咎めて、レフは目を見開いた。
――摂政陛下!?
その言葉が指すのはかの女傑、ブレンクラーレの実質上の王、アンネミーケ王妃をおいて他にいない。そしてその女性を母と呼ぶ以上、この男は――。
レフは軽薄な笑顔を浮かべる男をまじまじと見つめた。その男とこんなところで出会うとは信じられなかったのだ。ブレンクラーレの王族の居城は名高い鷲の巣城ではないのか。どうしてイシュテンの娼館などにいることがあるのか。
肖像画はちらりと見ただけだった。従姉を奪う男だと思うと見るのも嫌だった。それに、豪華に正装した絵姿とそれなりに庶民に身をやつした今の姿では印象が違う。それでも、赤金色の髪と青い瞳という特徴は変わらない。
――本当に、そうなのか!?
「マクシミリアン殿下!」
確かめるためにも、レフは叫ぶなりその場に跪いた。
「――え?」
「貴様、どうしてその名を……!?」
さすがに腰の剣に手をやった伴の者に比べて、ブレンクラーレの王太子と思しき男の反応はぼんやりとして間抜けなものだった。だが、とにかくこれで彼の直感は当たっていたと証明された。まったく喜ぶことはできなかったが。シャスティエは、危うく――というのもおかしな話だが――この男と結婚するところだったのだ。
――こんな男が!
我ながら理不尽な怒りは胸にしまって、レフは早口で述べた。
「ここの者たちはブレンクラーレ語を知らない。安心されよ。
我が名はレフ・セレブリューン。先のミリアールト王が弟、シグリーン公の第三子。殿下の婚約者のシャスティエ王女の従弟にあたる。
亡き父と兄に代わり、今はミリアールト女王になった従姉、シャスティエ姫を探してこの地まで来た!」
そして顔を上げると、甘ったるく整った顔の男――従姉には似合わないと、心から思った――を睨みつけた。
「婚約者を見捨てた上に女遊びか? それがブレンクラーレのやり方か!」
すると相手は気まずげに目を逸らして曖昧に笑った。
「候補に過ぎないと母上が……それに王女殿下は亡くなったもの思え、と」
正体をあっさりと認めた上に無責任かつ不誠実なことをさらりと言われ、レフの眼前が怒りで白く染まった。
更に罵倒しようと、知る限りのブレンクラーレ語の語彙を頭に浮かべて息を吸い込んだ瞬間、王太子の笑みの種類が変わった。レフの姿をしげしげと眺めて、青い硝子玉のような目を細める。整っているはずの口元に浮かぶのは、この娼館に来てから馴染みになってしまった類の好色な笑みだった。
「しかし、なんと美しい。ミリアールトの雪の女王のような、というか――男にしておくのがもったいないな」
図らずも、一晩に二度も似たような、そして全く嬉しくない賛辞を聞くことになってしまった。レフは今にも叩きつけようとしていた悪口を忘れ、度を超えた怒りは逆に頭を冷静にさせるものと知った。
――ここで出会った時点で何を期待していた? しょせんその程度の男だ。
だから、次に発した言葉は祖国の溶けない雪のように冷たく凍りついていた。恐らく従姉が激怒した時とよく似た声になっているのだろう。
「シャスティエと――王女と僕は同じ枝に生る林檎のようによく似ている。もちろん姫であるからには、彼女は更にたおやかで美しい。ブレンクラーレに嫁ぐ日を楽しみにしていた」
最後の一言には嘘が混ざっている。従姉がかの国に抱いていた興味と言えば、女ながらに国を取り仕切るアンネミーケ王妃へのものがほとんどだった。それと王宮の蔵書や文化人との交流か。好奇心を満たせるなら遠国へ嫁ぐのも悪くないと、内心はともかく笑って話していた。肝心の未来の夫に対しては、よく躾けられた王族らしく誰であっても受け入れようと覚悟しているようだった。彼女の覚悟の想定の内に、この男が収まっていたかどうかはもはや分からないことだったが。
「助け出すのに尽力していただけたら、必ず殿下に感謝するだろう」
「そうか――!」
王太子の目の色が変わったのを見て、レフは彼の関心を惹くのに成功したのを知った。そして底の浅い相手に対し、心の底からうんざりした。