馬上に吹く風 ティグリス
シャスティエ姫を見送ったティグリスは、自身も滞在する離宮へ戻ろうと踵を返し――そして目に入った人影に絶句した。
「ティグリス。こんなところにいたのね……!」
喪服の黒が夜に紛れて、白い顔だけがくっきりと闇に浮かんでいた。夜よりもなお昏い瞳を持つその人は、間違いなく彼の母にして先の王妃、寡妃太后ゲルトルートだった。
「母上。よく見つけたな」
ティグリスはうんざりとして溜息を吐いた。母は息子が傍にいないと不安でたまらなくなるらしいから、彼の不在を知られないよう、使用人には言い聞かせておいたというのに。半ば狂ったこの女の執念を甘く見ていたということらしい。
「散歩をしていただけだ。今日は兄上もティゼンハロム侯も宴席の最中だ。鉢合わせることなんて万にひとつも――」
「綺麗な娘だったわ。金の髪の……誰なの?」
辛うじて堪えた舌打ちは誰に対してのものだったのだろう。異常に目敏い母に対してか。迂闊にも目立つ色の髪を晒したシャスティエ姫に対してか。いや、おそらくは詰めの甘かった彼自身に対してだろう。
かつて数多の側妃や寵姫と争い退けてきた母だ。シャスティエ姫を王妃の権威を脅かす者だなどと認識されて害されては、手間暇かけてあの元王女――密かな同盟相手に、あるいは厄介な敵になり得る女性に近づいた意味がなくなってしまう。
「ミリアールトの元王女、兄上が人質として保護する方だ。前にも言ったが、あの方に危害を加えては兄上の怒りを買うだろう」
母が何より恐れているのは、同母の兄のオロスラーンのように、ティグリスまでも喪うことだ。それを避けるために息子の脚を砕かせることすら厭わないほど。
だから彼の命を脅かす者として兄やティゼンハロム侯を憎み、そして同じ程度に恐れている。兄の名前を出せば母も引き下がるはずだった。
「ああ、あれがそうなの……。でも、あんなに綺麗だとは思わなかった」
母の瞳がまだ茫洋としているので、まだ妄想から帰らないのかとティグリスは苛立った。兄たちへの恐怖よりも、若く美しい寵姫への憎悪が勝ったのだとしたら厄介だった。
「外国の女は気取っているから嫌いよ。陛下もオロスラーンに他所の国から妃を取ろうとしてくださったの。でもイシュテンに来る女はいないって……!」
「仕方ない。イシュテンは遅れた野蛮な国だと思われているし、それは概ね当たっている」
十年以上前、父や兄が存命だった頃の怒りを再燃させる母を、ティグリスはぞんざいに宥めた。
イシュテンの王族の妻など、風向き次第でいつ未亡人になるか分からない。事実兄も若くして殺された。それに、婚家名の問題もある。妻に新しく名前を授けて夫の家のものにする、などという習慣は、他国からすれば屈辱に他ならないだろう。父がどの国に打診したかは知らないが――そして年齢からしてミリアールトのシャスティエ姫ではありえないが――断られたのは当然の結果だった。というか、その話自体が母の妄想である可能性も十分にある。それか、父が母を宥めるためだけにそう言ったとか。それくらいに、外国からイシュテンに嫁ぐ姫君などあり得なかった。王妃の婚家名がゲルトルートだのウィルヘルミナだの外国風なのは、外から妃を迎えることが叶わないがゆえの劣等感の現れでもあるのだ。
――兄上に関しては単に習慣だからという程度のお考えかもしれないが。
あの矜持高く堂々とした異母兄が、そのように卑屈な考えを抱くとはティグリスは信じたくなかった。
とにかく、今は母を宥めなくてはならない。
「兄上が神の御名にかけて庇護すると誓った方だ。太后たる母上だろうと侵すことは――」
「ふうん。ファルカスも珍しい女を好むのね。でも手を出さないなんて情けない。ウィルヘルミナがいるせいかしら」
息子の言葉を聞いているのかいないのか、母は譫言のように呟いた。黙らせる言葉を探し――ティグリスは、母のまとう雰囲気が変わっているのに気づいた。怒気が和らぎ、どこか夢見るような表情になっている。
「王子を産めない王妃なんかいらないわ。気取った女は狼の餌食になって泣けば良い。ファルカスがみっともなく生意気な女の機嫌を取るなら面白い」
母は珍しく晴れやかに笑った。相変わらず狂気に浸された類のものではあったが。
「ファルカスはあの女を娶れば良いのよ。若い娘だもの、すぐに孕むでしょう。王に世継ぎが生まれればお前の身は安全になるわ」
ねえ、と言いながら母は手を伸ばしてティグリスの頬を撫でた。いつもなら蛇か毒虫が這うかのように忌まわしく感じるそれを払いのけるのも忘れて、ティグリスは母の得意げな表情を興味深く眺めた。
太后が言ったのは、兄王がミリアールトを抑え、ティゼンハロム侯と決別するにはかなり良い選択だった。それだけにティグリスを旗印にする一派――母の実家でもあるハルミンツ侯爵家――にとっては厄介な可能性でもあるのだが。彼が追い返されるのを承知で兄に進言しようとし、今夜もまたシャスティエ姫に接触したのはその可能性を少しでも減らそうとした叔父の意志によるものでもある。
政に対する見識など一切ない母が、息子可愛さの歪んだ情の故だけに正解にたどり着いたのが非常に面白いと思ったのだ。
「ああ、そうだね。そうなったら良いだろう」
頷いてやると、太后は親に褒められた子供のように無邪気な笑顔を見せた。何年生きても子供のまま精神はまるで成長していないのだ。
まあ、この場は母があの姫君を害する気がなくなったというだけで良しとしよう。ティグリスはそれ以上は追求せずに母に手を取らせてやった。そして母に支えられて夜の王宮を歩き、帰路につく。
杖に頼るのに慣れた彼には、母の手助けはむしろ邪魔だったが。そして、母がいなければ、先ほどのように隠し通路を使って多少なりとも近道をできたのだが。
そろそろ王宮を辞することにした、と告げたら周りの者たちはひどく安堵した顔をしていた。先の王妃と先王の子であっても、彼らはここでは歓迎されない客だった。これで兄も安心して王妃ウィルヘルミナを王宮に戻せるだろう。
ひと月も経たないうちに新年の祝賀のためにまた彼らはここへ来るのだが。それを思うと使用人たちが気の毒でさえあった。
王都を出てしばらく行くと、ティグリスは騎乗した。といっても彼の脚では馬に跨ることはできない。女用の鞍を彼の体格に合わせて作り変えて、横向きに座るようにしているのだ。
母は危ないから止めろと言い、叔父はみっともないから止めろと言う。イシュテンでは男が女のように横乗りするのを馬に乗るとは言わないし、これでは馬上で剣を振るうこともできないからだ。王都の中では騎乗をしなかったのも、好奇の目を避けるためだった。
それでもティグリスは馬に乗るのが好きだった。
彼も戦馬の神を戴く国の王族に生まれたのだから。まともに馬に跨ったのは幼い頃の遠い記憶でしかないが、この乗り方ではさして速さも出せないが、馬上の高みから眺める景色も足並みに揺られる感覚も、風が頬を撫でるのも、彼の生活には稀な心晴れるひと時だった。何より、杖に縋って歩くよりもよほど自由に思うままに動き回ることができるのが良い。
街道を行くティグリスの一行に近づく騎影があった。遠目に騎手の顔を判じたティグリスは、声が届く距離に近づくと軽く会釈して挨拶をした。
「叔父上。ブレンクラーレの王太子は無事に帰国したようですね。お気を張られたことでしょう。お疲れ様でございました」
母の弟、彼にとっては叔父であるハルミンツ侯は顔を顰めると、心底忌々しいといった表情で吐き捨てた。
「つつがなく終わって何よりであった。今ことを起こす訳にはゆかぬからな。最も疲れさせられたのは王太子の怖いもの知らずさに、ではあったが。
まったく、私はファルカスやリカードが苦痛と屈辱に顔を歪める様が見たいのだ。呆れ返った間抜け面など、見たところで憂さは晴れぬ」
叔父の埒もない愚痴を、ティグリスは笑って聞き流した。
仇敵といがみあうティゼンハロム侯と同席していたのだ。一族の者の手綱を握るのはさぞ苦労しただろう。そしてブレンクラーレの王太子の言動も。常識外れの無神経さだったから叔父の心情はよく分かる。
そして、ティグリスの騎乗姿を見るのも叔父にとっては間違いなく不快だろう。まともに馬も乗れない甥を王として担いで叛乱を起こそうというのだ。恐らく気の滅入ることに違いない。
「お察しいたします。ミリアールトの元王女もいささか幻滅していたご様子でした」
もちろん言ってもどうにもならないことはお互いに触れない。ティグリスが彼の受け持った役目を果たしたことをほのめかすと、叔父は好色な笑みを浮かべた。
「どのような女だった。噂通りに美しいのか」
この人の性質も王太子とさして変わらないな、と思いながらティグリスは頷いた。
「それはもう。雪の女王の化身と呼んでも何もおこがましいことはありません。――気性の方も、女神のごとく大変に矜持高いようでしたが」
「助けてやると言っているのにな。まあ誘いを撥ねつけるというならそれでもよかろう」
「そうですね」
ミリアールトの新総督、兄の怒りを買って追放された男が無事に役目を果たせるとは誰も期待していない。兄は一日も早く信頼できる者を送りたいと考えているだろうが、ティゼンハロム侯の手前そう簡単にはいかないだろう。
――あの方が戻ろうと戻るまいと、ミリアールトはいずれ逆らう……。
その時こそ、彼らが動く機会となるはずだった。
「その娘は是非とも褒賞として欲しいところだ。ファルカスを討った者には金髪の小娘を、リカードを討った者には王妃をくれてやれば良い」
「逆ではないのですか」
叔父が上機嫌で語ったこと自体はそう驚くべきことではない。彼自身もシャスティエ姫を脅すために言ったことだ。しかし、王の首と引き換えるなら王妃ということにはならないのだろうか。確かに今の王妃はティゼンハロム侯の息女ではあるのだが。
首を傾げたティグリスを、叔父は鼻を鳴らして嗤った。
「若い娘の方が価値があるに決まっている」
「そうですか」
ティグリスは女を知らないのでそれ以上叔父に逆らうことはしなかった。ただ、無言のうちにあの美しい姫を脳裏に思い描く。
彼女の白い肌や輝く髪に触れてみたいという欲望がない訳ではない。だが、叔父の言葉からしてシャスティエ姫が彼のものになることはなさそうだった。それに彼のような者にはあのように美しく誇り高い姫君は眩しすぎる。いっそ兄王のように優れた人の隣の方が似つかわしいだろうが、あの気性では側妃に収まるのを良しとすることなどはないだろう。ティグリスとしてはその絵の方が見たいと思うのに、彼女にとっても悪くない道だろうに残念なことだ。
であれば、あの人には無事に故郷に帰ってもらいたいものだ。叔父たちのような小物の慰み者で終わるよりも、雪の女王の化身には雪と氷の国が相応しい。
風が、ティグリスの髪を揺らした。冷たく肌を裂くようなそれは、もしかしたらミリアールトから吹いたものなのかもしれなかった。