王たる者たち シャスティエ
仇の王の声に、そしてそれが呼んだ名に、シャスティエは息を呑んだ。
――マクシミリアン殿下……ブレンクラーレの!?
鼓動が早まるのを感じながら、彼女は傍らで柔和な表情を保ったままのティグリスを窺った。この王子は確かに彼女がブレンクラーレ王太子の婚約者――実際は確定していた訳ではなかったが――だったと知っていた。だからブレンクラーレはティグリスと結んだのだろうと推測はしていた。この広間は国賓をもてなすためにも使われるという。ブレンクラーレの王族ならばまさしく最も重んじるべき賓客だろう。
だが、大国の王子がなぜさして仲が良い訳でもない、むしろ長年対立しているイシュテンを訪れているのか。客として王と語らいながらティグリスとも接触しているのか。その割に彼は今シャスティエと共に暗がりにいる。さっぱり訳が分からなかった。
彼女が思い悩む間に、王の言葉はブレンクラーレ語に訳され、王太子は自国の言葉で返した。
「我が国のものとは違ってやや荒くて尖ったような……野趣に富んだ風味がします。酒の味にも国柄が出るものなのでしょうか」
その後は料理の味だとか狩りの感想だとか当たり障りのない会話が続いた。
イシュテン語もブレンクラーレ語も解するシャスティエには、通訳を介した会話はとても間延びして思えた。だから、通訳を待って会話が途切れた隙を狙って、小声でティグリスに問いかけた。
「これは一体どういうことなのですか。どうしてブレンクラーレの王太子殿下がイシュテンを訪れているのですか」
「貴女を助けに来たのかもしれませんよ」
「まさか」
ティグリスの言葉は悪い冗談としか思えなくて、シャスティエの声は尖った。
摂政陛下アンネミーケともあろう者がそのように甘い判断を下すなどあり得ない。義理の母娘としての交流などまだなく、数々の逸話を知るだけの間柄でも断言できる。ミリアールトを助けるつもりがあるなら幾らでも時間はあったのに、ブレンクラーレは動かなかったのだ。第一、そんな危険な――というか無謀な――任を王太子に与える筈もないだろう。
彼女の不快を察したのか、ティグリスは肩を竦めた。
「失礼しました。
――マクシミリアン殿下の表向きの目的は視察です。若い王ということで統治の術を学べるようにと」
「イシュテンからブレンクラーレが学ぶことなどございませんでしょう」
今回ばかりはイシュテンを見下して言っているのではない。
睥睨する鷲の神のごとく、翼を広げて庇護しつつ鋭い鉤爪を見せて畏怖も与えるのがブレンクラーレの統治だ。武力を尊ぶイシュテンと、複数の民族を緩やかにまとめるブレンクラーレでは国のあり方が全く違うのだ。
「表向きは、と申し上げました。本当の目的は母の実家と接触することです」
ティグリスの真意がまだ掴みきれなかったので、シャスティエは眉を寄せた。王太子のものらしい軽い笑い声が耳障りとさえ思う。
「太后様のご実家……?」
「兄上以外に王になり得る者を擁する勢力ということですね。一応、先の王妃を輩出した侯爵家ですので」
「ティゼンハロム侯爵家と並ぶような……? ですが、どうしてそのようなことを」
ティグリスがブレンクラーレと通じているとの推測は当たっていたらしい。それでも、かの大国が他国の後継者争いに介入する理由はまだ分からない。
ティグリスが幼児に言い聞かせる時のような微笑みを浮かべたので、シャスティエは静かに苛立った。
「私が王になればイシュテンは荒れる、他国を攻める余裕はなくなると言ったでしょう。ブレンクラーレにとっては適度に弱いイシュテン王は歓迎すべき存在なのです。しかも、その者に恩を売れるとなれば」
その説明は昨日彼が語ったこととも符合していた。イシュテンとの国境をしばらく気にしなくて済むというのは、周辺の国にとっては確かに魅力なのかもしれない。だから、妥当な策だといえるのだろうか。随分と迂遠かつ虫の良い話にも思えるけれど。
「それにしても、王太子殿下が自らいらっしゃるなんて」
まだ不信を濃くにじませてつぶやくと、ティグリスは声を立てずに笑った。
「一族の者が証拠を求めたのです。ブレンクラーレが本気だという証拠を。叔父は――今の当主なのですが――大変満足したようです。王子の接待を任されたのはティゼンハロム侯爵ですから本人と会うことは叶いませんでしたが、使節の者は密かに叔父と接触しています」
「……そうですか」
シャスティエはわざわざこの場へ連れてこられた理由を悟った。
特に理由もないのにわざわざ敵国を訪れたブレンクラーレの王太子。地位に見合わぬ危険な訪問の、その本当の目的がティグリスとの密約だというなら。イシュテンの次代の王を操るための布石だというなら。摂政陛下が息子を遣わすのも頷けるかもしれない。そして――
「私に対しても証拠を見せてくださったという訳ですね」
「ええ。辻褄は合うと思いますが。私は信じられなくても、ブレンクラーレの力は信じていただけることでしょう」
「今更ミリアールトのことを気にかけていただけるとはありがたいお心ですわ」
見捨てられたことを詰るつもりはない。イシュテンの騎馬は早いのだから。助けようとしても間に合うものでもないし、間に合わないなら動かないのが正解だろう。だが、今になって彼女を助けようとするのが単純な好意だ、などとは信じることができなかった。だが、ティグリスはにこやかにシャスティエの思い違いを正した。
「貴女については我らの独断です。私がいれば大した手間ではありませんし――それに、私も恩を売る相手が必要ですから」
「なるほど」
シャスティエは逃がしてもらう。国を再興させてもらえる――それを見過ごしてもらえる。そして引き換えに、イシュテンの混乱にはつけ込むなと言うのだろう。ミリアールトが他国を攻めた例はそもそも少ないけれど、先王を殺した国が弱っているとなれば話は違うかもしれない。
――理解したからといって、納得できるものでもないけれど。
どうにも良いように利用され踊らされている感じが気に入らなかった。祖国に帰れるという餌がこの上なく甘いものであるだけに、安易に飛びついてはならないと思ってしまう。
「本当に、王妃陛下はお美しい」
壁の向こうからはブレンクラーレの王太子の声が聞こえてくる。何度か会っただけの異国の王子の誘惑に乗るべきか考えながら、シャスティエは宴席の会話に耳を傾けた。しばらく会っていないミーナの声も、聞きたかったことでもあるし。
「陛下が側妃をお持ちでないのも分かる気がいたします。まったく、一人のお妃で満足できるとは幸運なことと存じます」
「まあ、光栄ですわ」
ミーナの声は変わらずおっとりとして優しげで、緊張に張り詰めた神経を和らげてくれるかのようだった。でも、シャスティエは眉を顰めざるを得ない。王太子の言葉は、妻の容姿に不満があれば愛人を持つのも致し方ないとでも言いたげだった。
「大胆な方だ。ティゼンハロム侯も出席しているはずなのに」
一拍遅れた通訳を聞いて、ティグリスの声にも珍しく当惑の色が滲んでいた。しかし、広間では面と向かって王太子を制する者などもちろんいない。どうやら酔っているらしい王太子は上機嫌で続けた。
「父も妻に恵まれました。何しろ女の身で一国の統治を行える者は近年の歴史を紐解いても稀です。しかし母は何分安らぎというか優しさには欠ける人なので……その方面は寵姫たちに補わせていました。
私の婚約者は、まあ可愛らしい人ではありますが王妃様には及びもしません。まことに陛下が羨ましいと存じます」
ティグリスが気遣うような視線をくれたので、シャスティエは小さく首を振った。別に気にしていません、と言いたかったのだ。大国の王太子が生死も分からない――と思われているであろう――女に操を立てるはずもない。新しく婚約者を探すのはむしろ当然だった。
「ですが、陛下が幸運というのはそれだけではありませんよ。仮に、万が一の話ですが、お妃に不足があったとして、他の女でそれを埋めようとしたら、私は不実の謗りを受けてしまいます。ですが、イシュテンならばそれは王の当然の権利です。陛下、一度に複数の妻を持てるというのは一体どんなお気持ちなのです?」
王太子が更に口にしたのは下世話な好奇心も露わな問いだった。それを忠実に訳さなければならない通訳に、シャスティエはいっそ同情した。不自然に空いた間も、王が呆れ返ったからに違いない。
「ハルミンツ侯」
やがて王はシャスティエの知らない者の名を呼んだ。
「そなたの姉が王妃であった間、一体何人の側妃と寵姫、王子と王女が死んだ?」
思わずティグリスに目を向けると、唇の動きだけで叔父です、と言った。シャスティエも無言で頷く。つまり王は先代の御代のことを言っている。あの恐ろしい寡妃太后が王妃であった頃の王宮の話だ。
「存じません」
ハルミンツ侯とやらの声は、慇懃だったがどこか不貞腐れたような響きもあった。太后を知るからこその偏見もあるかもしれなかったが。
「女は弱いもの。そして赤子はさしたる理由がなくても死ぬものでございます。たとえ王家の血を引いていても。いちいち覚えておくことなどできませぬ」
「つまりは覚えきれないほどの人数が死んだのだな」
王はあっさりと総括した。
「聞いただろう、マクシミリアン殿下。数多の妾妃を侍らすのが慰めと考えるのは思い違いだ。側妃などいればいるだけ面倒を起こすものでしかない。俺には妻子に殺し合わせる趣味はないぞ」
「ですが」
王太子は飽くまで食い下がった。よほど度胸があるのか、それとも男というものは侍らせる女は多いだけ良いと考えるのが普通なのだろうか。父や叔父やその他よく知るミリアールトの貴族を思い浮かべ――シャスティエは内心で首を振った。どう考えても、この大国の王子、かつて彼女の婚約者だったという男は、彼女の常識から逸脱した感覚を持っているようだった。
「父の寵姫たちは命の奪い合いなどしていませんでした。むしろ仲が良くて、私も親しく遊んでもらったほどでして。要は、主たる陛下の器次第ということではないでしょうか」
――すごいわ。
シャスティエはいっそ感嘆した。彼女も王を怒らせたことは何度かあるが、彼女なりに譲れない理由があってのことだった。ブレンクラーレの王太子たる者が命を賭すのに、側妃に関する下卑た好奇心はまったくもって相応しくないと思えた。
王太子の言葉は先王と王の器を小さいと評したのも同然だ。更には側妃たちを死に追いやった――らしい――太后をも謗るものだし、何人でも側妃を囲えば良いとでも言いたげな口調に、ティゼンハロム侯も愉快ではないだろう。
酒の上とはいえ、朗らかにその場の全員の怒りを買う芸当は、見事という他なかった。
――王は一体どう答えるのかしら。
盗み聞きの後ろめたさも、ティグリスの企みへの不安や不信も忘れて、シャスティエは思わず広間の成り行きに耳を傾けた。
王もさすがに回答に迷ったらしい。通訳に手間取るというだけではない不自然な沈黙の後、低く抑えた声が壁の向こうから響いた。
「イシュテンは貴国に比べれば伝統浅く文化も貧しい」
「そのような――」
「だが、幾つかは語るべき逸話も持っている。例えば墜死の塔はご存知か。幾世を経てもいまだ健在ゆえ、殿下にもご覧に入れようか」
知らない言葉が混ざったので目線でティグリスに問うと、心得た表情で教えてくれた。
「何代か前の王の御代の時の話です。ブレンクラーレの大使がイシュテンの戦馬の神を嘲ったそうです。いかに精強でも天翔ける鷲の神には及ばない、と。そこで当時の王は、翼ある神の加護を見せてみよとその大使を塔から投げ落としたとか」
「そんなことがあったのですか」
シャスティエは眉を顰めた。
塔の名前からして、睥睨する鷲は大使を嘉したまわなかったということだろう。血腥い逸話ではあるが、大使も王も立場に相応しくない軽率な言動だったと思う。とんでもない無神経らしい王太子に似合いといえるかもしれなかったが。
王太子も墜死の塔のことは知らなかったらしい。ティグリスが言ったのと同じような解説を交えた通訳を受けた後に返した声からは、幾らか酔いが抜けていた。
「いえ……それには及びません」
「残念だ」
王太子はどんな顔で答えたのだろうか。王の声からは残酷な満足感が聞き取れた。きっとまた狼が牙を剥くような笑みを見せているのだろう。ここが彼の王宮であることを差し引いても、剣ではなくて言葉のやり取りではあっても、王は王太子の上を行ったようで――シャスティエは溜息を吐いた。
「――そろそろ帰りましょうか」
「ええ」
ティグリスが促したのは、密約の相手であるブレンクラーレに対してこれ以上失望させないためだったのかもしれない。とはいえ盗み聞きはやはり気が咎めるし、イリーナのことも心配なので、シャスティエも逆らう気はなかった。
帰りの道中で、シャスティエは道筋を正しく記憶できていたことを確かめた。だから何ができるという訳でもない、頭の体操に過ぎなかったが。ティグリスが最初に警告したように、彼女は王宮の外に通じる道を知らないし、仮に逃れられたとしてもこの目立つ容姿では祖国にたどり着くことはできないだろう。王の執務室に忍び込んで命を狙う――などという芸当も無理だ。王の剣技を何度か目の当たりにして、そう確信させられてしまっている。
「ここまでで、よろしいでしょうか」
「ええ。興味深いものを見聞きさせていただきました。お礼を申し上げます」
もとの離宮まで戻るとシャスティエはフードを下ろして夜の空気を深く吸った。隠し通路の湿った黴臭い空気がまとわりつくようで息詰まる思いだったのだ。
「すぐにお返事を、とは申しません。考えるお時間が必要でしょう」
「助かりますわ」
シャスティエはさして感謝を込めずに言った。ティグリスも、彼の実家も、ブレンクラーレも。それぞれの思惑があってそれぞれに機を窺っているに違いない。特別彼女に気を遣っているという訳ではないはずだ。
「私が次に王宮に来るのは新年の祝宴の際です」
ティグリスも白々しいという自覚はあるのだろう。冷ややかな言葉も態度も気にした風は見せなかった。
「私の手を取る気になっていただけたなら、宴の夜にまたここへ来てください。あの侍女も一緒で構いません。その時こそ貴女をお国へ帰して差し上げましょう」
「新年の、宴ですね」
今年も残る暦はひと月を切っている。それでも、考える時間としては十分だと言えるだろうか。しかし、彼女が来ると決めつけたかのような言い方にはいささか気分を害されたので、刺のある口調で問う。
「私が現れなかった時はどうなさいます?」
「私たちが敗れれば貴女の扱いはこれまで通りでしょう。兄上の寛容が変わることのないように祈られるが良い。
そしてもし私が王位を奪えば――」
ティグリスの笑みがこれまでと種類を変えた。
「一族の者は褒賞として貴女を望むでしょうね。イシュテンの男が貴女のような美しい方をどう扱うか、少しはご存知では?」
先の狩りの一件をほのめかされて、シャスティエの脳裏にあの大変不愉快な記憶が蘇った。
「ええ。分かると、思います」
「特に我が家の者はこの十年鬱憤を貯めている。ティゼンハロム侯家の者たちよりも質が悪いかもしれません」
星明かりに白く浮かんだティグリスの表情に、シャスティエはこの男も確かにイシュテン王家の獣の性質を持っていると思った。牙を折られてもなお戦おうとする虎だ。
王位を争うはずが母親に守られ、国の誰からも蔑まれている。鬱憤を抱えているというなら彼以上の者はいないはず。シャスティエも――ファルカスもそうだが、自らを王と任じる者の矜持は果てしなく高いのだ。
「……考える参考にいたしますわ」
硬い声と表情で軽く礼をとると、シャスティエは勢いよく――ほとんどそっぽを向くように――ティグリスに背を向けた。
そう、シャスティエの矜持は果てしなく高い。脅すような物言いをしながら助けてやると言われて、易易と頷くことなどできはしないのだ。
とはいえ怒りに染まった顔など見せてはならないし、怒りで判断を鈍らせてはならない。
まずはイリーナのもとに帰って安心させてやろう。そして昂ぶった気を鎮めなくては。
――ティグリス殿下。マクシミリアン王太子。考えなければならないことが多すぎる……!
シャスティエの心を反映して、足取りは逸る。ミリアールトだけでなくイシュテンやブレンクラーレの行く末も関わる重大事だ。考える時間はひと月あっても足りはしない。怒りで心を乱す暇はないと思っても、焦り苛立つ自身を抑えるのは難しかった。
中でも取り分けて彼女を惑わせるのは、先ほどティグリスによって気付かされたことだった。
――この国では側妃の子でも王になれる……。そして王には世継ぎがいない……。
その思いつきをどう利用すれば良いのか、利用しても良いのか。シャスティエはまだ決めかねていた。