社交の陰で アンドラーシ
王に王妃の護衛を命じられたのを、アンドラーシは最初貧乏クジだと思った。そもそも彼はこの甘やかされた無知な女が好きではないし、父親のリカードもいるのだから王が気を回すまでもなく万全の態勢を取っているに決まっている。日頃王を軽んじている連中なのだから、自家の娘は自分で守れば良いのだ。
年寄りどもに腕を見せる好機だというのに王妃に張り付いていなければならないのもつまらない話で、彼は王の傍にいるジュラを羨ましく眺めていた。もちろん、命じられたからには王妃と自身の剣に常に意識をおいてはいたが。
だが、狩りが始まってしばらく経つと彼は認識を改めた。何も考えていなくても男児が産めなくても、王妃は王妃だった。彼女の下には何かと理由をつけて名だたる貴顕が次々と訪れる。屋外で各々騎乗しているからこそ、常より気軽に行き交うことができるのだ。
傍らにいるアンドラーシも、彼らと言葉を交わす――顔と名前を売る機会ができる。王宮ですれ違ったなら傲然と彼を無視するであろう者たちが、内心はともかく彼に声を掛けざるを得ないのは愉快ですらあった。
――これを見越していてくださったのだろうか?
アンドラーシはブレンクラーレの王太子と相対している主君を盗み見た。話している内容までは聞こえないが、不機嫌そうな顔をしていると思う。もちろん、国賓に対して無礼になるようなものではなく、王をよく知るものならそう見える、程度のことだ。
彼の主は、芯からイシュテンの王――戦いと狩りを好み、剣を恃む性なのだ。いかにも軟弱げな王太子が気に入らなくても無理はない。性に合わない外交で窮屈な思いをしているのだろうと思うと気の毒でもあり、少々面白くもあった。
「アンドラーシ様。あの、アンドラーシ様?」
王と王太子の様子を窺う間、当然ながら王妃は視界に入っていない。だから呼ばれているのが彼の名だと気付くのにしばらく掛かった。王妃が彼に用があるはずがないのだ。
「は?」
振り向くと、王妃はいつもようにおっとりとした表情で彼に微笑みかけていた。ふわふわとした雰囲気は、王宮だろうと今のように馬上だろうと変わらない。今日も年甲斐もなく髪を下ろして、どうやって咲かせたのか季節に合わない生花を挿している。……王の言うように、可愛いことだけは認めざるを得ないのだが。
「先日は、ありがとうございました。――太后様の件です。助けていただいてしまって。ちゃんとお礼を申し上げなければいけないと思っていましたの」
言われて初めてああ、と思う。先日、王妃をいびるのに夢中になっていた太后の気を逸らせてやったことがあった。とはいえ返す言葉は飽くまでも硬く慇懃なものだ。
「陛下のご命令をお伝えせねばと思ったまで。出過ぎた真似でございました」
あれは何も王妃のためではなかったのだから。彼にはより切実な、自分のための理由があった。太后の下劣極まりない――彼が王の特別なお気に入りだ、などと! ――仄めかしの真意を誰にも悟られてはならない、という。だから今更蒸し返されては却って困るのだ。
「いいえ。助かりました。――私はどうも強く言うことができなくて。シャスティエ様もいらっしゃったのだから、しっかりしなければとは思ったのですけれど」
直視する無礼を犯さないよう、伏せ目がちに窺うと、王妃は優しく微笑んで白馬の首筋を撫でていた。やはりこの女に遠まわしな皮肉は通じなかったのだな、とひとまず安堵し――あのミリアールトの元王女の名を意外に思う。
――本当に何も知らないんだな。
王が元王女を保護したのは側妃にするためだ、とまことしやかに囁かれている。実際には彼が再三勧めているにも関わらず、手をつけるどころか異常なまでの気の強さに辟易しているようだが、とにかくそう信じている者は多い。先日暴走したバカ者どもも、王が懸想した女を奪ってやると嘯いていたのではなかったのか。
彼女より若く美しい女を煙たく思っても良いはずなのに、王妃の表情からは嫉妬も悪意も読み取れなかった。
「あのお方が太后陛下のお目に留まらなかったのは幸いでございました」
「ええ、本当に! 大変なことがあったばかりですもの。ご迷惑をお掛けする訳にはいかなかったわ」
王妃の言う大変なこと、とは先日の狩りの件だろう。確かに元王女にとっては災難に違いなかっただろうが、そもそも夫が彼女の肉親を殺し祖国を滅ぼしたという点は、この女の頭から抜け落ちているようだった。
「王妃様のお気遣いはあの方の慰めとなっていることでございましょう」
アンドラーシは心にもないことを慇懃に述べた。王でさえ睨みつけるのだ、元王女は暢気な王妃にさぞ苛立っているだろう。気性は感心できたものではないにせよ、元王女の知識は相当なもののようだ。内心ではこの女を見下しているに違いない。
「そうだと良いのだけど。とても優しい方だから心配で」
彼の本心はもちろん王妃には伝わらない。変わらぬにこやかな表情で彼女は続けた。
「心細いでしょうに、いつも控えめに微笑んでいらっしゃるの。それにとても聡明でいらっしゃって、お国のことを色々と教えていただいたり。守って差し上げたいのに、大分歳下でいらっしゃるのに、私の方が面倒をみていただいてるみたいなの」
――誰の話をしているのかな。
ここに至って、アンドラーシもさすがに様子が違うのを感じ始めていた。元王女が控えめに微笑む姿など見たことがない。口の端を持ち上げるとしたらあの美姫の場合は必ず冷笑か嘲笑だ。まあ、それは王妃が鈍感で感情の機微に気付かないとも考えられるが。しかし、優しいだの守ってやりたいなどという言葉はおよそ元王女には似合わない。
そして、彼は王の執務室から奥宮へ元王女を送った時のことを思い出した。
珍しく素朴な髪型をしていた元王女を王妃が褒めて――そして、元王女もごく穏やかに答えていた。表情までは彼の方からは見えなかったが、もしかするとあの強情な姫君はあの時微笑んでいたのだろうか。彼もよく彼女の容姿を賞賛するが、毎回氷のように冷たい一瞥をもらうだけだ。まったく理不尽なことだと思う。
ともあれ王妃には何かしら答えなければ、と息を吸った瞬間だった。一騎の人影が彼らに近づいた。
「女同士で何の話をしていらっしゃるか、王妃陛下」
「ハルミンツ侯爵様。この方は歴とした殿方ですわ。アンドラーシ様。ファルカス様も信頼されている方です」
「ああ、それは失礼。女のような顔をしていたので間違えてしまった」
――なんだこいつ。
好きで持って生まれた訳でもない女顔をあげつらわれて、アンドラーシは危うく不快を表情に上らせるところだった。そして、王妃の呼んだ名と声を掛けてきた男の顔から、その男が寡妃太后の一族の長と気付いて、いっそうんざりとした気分になった。確かあの狂女の弟だったか。そう思えばいかにも神経質そうな線の細い印象が似ている気がする。
太后といい、この一族の者は他者を貶めるのにもっと気の利いたやり方を知らないのか。大層な爵位の割に品性の低いことだと思う。
「お初にお目にかかります、閣下。私は――」
「いらぬ。そなたになど用はない。――王妃陛下」
それでも礼儀を守って正式に名乗ろうとしたというのに、ハルミンツ侯爵はあっさりと彼を遮った。
「太后が――我が姉が王宮を騒がせているとか。我らも苦々しくは思っておりますが、何分先の王妃であった方。止めようにも難しい。どうかお許しを賜りたく」
「いいえ、ご夫君の墓参ですもの。いつまででもいらっしゃって構いませんわ」
殊勝げな言葉とは裏腹に、侯爵はまったく悪いとは思っていなさそうな態度だった。むしろ謝罪された王妃の方が弱々しく戸惑った表情を見せ、アンドラーシを苛立たせた。
――頭がおかしい女は閉じ込めておけとでも言えば良いのに。
「そう。墓参と言えば」
ハルミンツは底意地の悪い笑みを浮かべた。
「我が甥には王妃陛下もいささかご縁がおありだったでしょう。お忘れでなければ、たまには詣でていただければ常緑の草原にいるオロスラーンも喜びましょう」
こいつは器の小さい男だな、と傍で聞いていたアンドラーシは断じた。
先王の第二王子で寡妃太后の息子だったオロスラーンは後継者争いの中で死んだ。剣を握って死んだのではなく間抜けにも毒で死んだのだから常緑の草原で戦馬の神に見えることなど叶うまい。不具のティグリスといい、ハルミンツ侯爵家は王子に縁がない一族のようだ。
そして、ハルミンツが言ったのはやはり程度の低いあてこすりだ。オロスラーンは王妃が選ばなかったために死んだ。お前の恋情のために自家が落ちぶれたから後ろめたく思えと言っているのだ。
当時この者たちは、ティゼンハロム家に権力の分け前を渡すのを警戒してオロスラーンを王妃――当時は違ったが――から遠ざけていたはずだ。つまり、このあてこすりは的外れも甚だしい。
しかしこの王妃にそうと反駁することができるのか。嫌いな人間同士のやり取りだったので、アンドラーシは興味深く眺めることにした。だが――
「オロスラーン様? いいえ、私はほとんどお目にかかったこともありませんでしたもの。伺ってもご迷惑に思われるでしょう。侯爵様がいらっしゃった方がきっと喜ばれますわ」
首を傾げた王妃が当たり前のように答えたので、危うく噴き出しそうになったのを片手で口元を覆って堪えた。なるほど、王妃の目にはそう見えているのか。並外れた無知と無邪気ゆえに、嫌味をさらりと躱して見せるとは面白い。
「……無論、臣は折に触れて酒など供えてやっております」
「まあ、良かった」
王妃は心底喜ばしげに頷いて、ハルミンツは一層不快げな顔をした。
口元を抑えて肩を震わせているのを睨まれたので、アンドラーシは話題を変えてやることにした。この男の体面を守ってやることにもなるし、察することはできていないとはいえ、王妃への悪意は逸らした方が良いだろう。
「時に、ブレンクラーレの王太子殿下にはお目通りされたのでしょうか。是非、腕前を間近に拝見したいと思っておりますが、中々お傍に寄ることができなかったのです」
そう尋ねた彼の表情は、笑いを堪えようとして堪えきれず、人をバカにしているようだとよく言われるものになってしまっていただろう。案の定、ハルミンツは顔を歪めて吐き捨てた。他国の王太子に対しての、八つ当たりめいた批判を。
「あれを鷲などと呼ぶのはおこがましい。卵の殻も取れていない雛鳥に過ぎぬ。育ったところで雀か鶏か……あんな者が王などと」
「左様でございますか。我がイシュテンが戴くのがファルカス陛下で喜ばしいことでした」
毒で死んだオロスラーンや不具のティグリスではなくて。
名家の当主はさすがに王妃よりも勘が良かった。言外の皮肉ははっきりと伝わったらしく、ハルミンツはおそらく初めて明確にアンドラーシを人として認識して、怒りと侮蔑の表情を見せた。その負の感情は歪んだ嘲笑となって牙を剥いた。
「陛下が側近を見目で選んでいるのでないというなら、そなたでも手本になるかもしれぬ。話を通してやるからイシュテンの意気を見せてやるが良い」
「は。喜んで」
アンドラーシが内心で浮かべたのは、この小物以上の毒々しい嘲笑だったが。こいつはやっぱりバカだ、と確信したのだ。
女のように優しく弱々しげな顔に生まれて一つだけ感謝していることがある。気性も力量も見た目通りだろうと考えてくれる愚か者が多いのだ。戦場ではそのような油断は命の差を生むし、非力を嗤ってやろうという目論見が外れて狼狽える者の顔を見るのは胸がすく。
だから、今もわざわざ機会を与えてくれた侯爵様に感謝したいくらいだった。
「……ついて参れ。王妃陛下も。良い余興になりましょう」
ハルミンツは一瞬だけ興を削がれたように顔を顰めたが、アンドラーシの余裕を虚勢と取ったのかすぐにまた嘲笑を顔に貼り付けた。
アンドラーシと王妃の姿を見て、王は軽く眉を寄せた。手負いの獣が暴れ、武装した男がたむろする場に王妃を連れてくるな、と言いたかったのかもしれない。
「この者が腕を見せたいと申しております。獲物を一頭譲ってやってはいただけませぬか」
しかし、ハルミンツの刺のある言葉に概ねの事情を察してくれたらしい。王は叱責の代わりに軽い溜息を吐くと、獣を追い込むために作られた広場を顎で示した。既に何頭か仕留めたのだろう、地面は踏みにじられて血が泥濘を作っていた。
「今、鹿を追い込むところだった。好きな武器でやるが良い。――ミーナは俺の傍へ」
「はい!」
王妃が目を輝かせて王のすぐ近くへと白馬を導いた。王の黒馬とは対のように似合っていて、アンドラーシには少し面白くない。
王妃に可愛い以上のことは期待していない、と王は言ったが、王妃たるものがそのような愛玩される犬猫のような存在であって良いはずがない。王の傍らにはもっと強く賢く美しい女がいて欲しい。
「若造が。しくじれば良い……」
ハルミンツの呪詛のような呟きを聞き流して、アンドラーシは弓を選んだ。一応は女である王妃と――顔色が悪いように見えるブレンクラーレの王太子への気遣いだ。流れる血は少ない方が良いだろう。
広場に鹿が追われてきた。やや小柄だ。弓で十分に仕留められるだろう。
弓の弦を引き絞るとその場の者たちの視線が彼に集まるのが分かったが、アンドラーシが惑わされることはなかった。好奇や嫉妬、侮りや失敗を望む者たちの中、王はごく冷静な目で傍観に徹しているのが分かっていたからだ。この程度、出来て当然だろうと無言のうちに語っている。
彼は王の期待に応えなければならない。そう思うと自然と神経が研ぎ澄まされた。
――この矢の先にいるのがリカードなら良いのに。
そんなことを思いながら、指を放す。
アンドラーシの放った矢は、過たずに鹿の目を貫いた。