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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
5. 交錯
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王と王太子 ファルカス

「あの女の機嫌を損ねただと?」


 臣下の報告を聞いてファルカスは思わず唸り、そして眉を寄せた。


 ブレンクラーレの王太子を迎える狩りの日である。身支度を整える間にジュラとアンドラーシを呼び出して、先日命じた件がどうなったか確かめたらこの有り様だ。

 確かにミリアールトの元王女に祖国の様子を聞かせてやれとは言ったし、その通りにしたのだという。が、更に加えて臣従しろと促したところ、拒絶されて追い返されたということだった。

 重い刺繍を施した上衣に腕を通しつつ、声に不快が滲むのを抑えられない。

 怪我を負わせた上に祖国の鎮撫を無能者に任せざるを得なくなってしまった、その埋め合わせのつもりだというのに意味がなくなってしまったではないか。


「余計な真似をいたしました。申し訳のしようもございません」

「あのお方にとっても良かれと思いましたのに、意外でございました」


 悄然として非を詫びるジュラに対して、アンドラーシの態度は飄々としたものだった。

 どうせ元王女が理不尽に怒り出しただけで自分は悪くないとでも思っているのだろう。あの娘の気性の度し難さはファルカスも認めるところだが、彼女は間違いなくファルカスの命に拠るものだと信じたはずだ。身に覚えのないことでまた睨まれるのは、彼にとってこそ理不尽で不愉快なことだった。だから、つい元王女の肩を持つようなことを言ってしまう。


「俺が兄たちのいずれかに敗れたとして、お前はあっさりと鞍替えしていたか? 俺の首が晒される下で、新しい主に忠誠を誓っていたか?」


 彼が口にしたのは、巡り合わせ次第では幾らでも有り得る道筋だった。ミーナと会わなければ。リカードの野心がなければ。あるいは単純に剣の合わせ方を間違えただけでも。首筋に刃の冷気を感じた気がして、ファルカスの声は尖る。


「そのようなことは、決して。心外でございます」


 不快げな表情をするのは今度はアンドラーシの方だった。優しげな女顔の、眉間には皺が刻まれ口元が歪む。


「生きるも死ぬも、最期の一瞬までもこの身は陛下のために。それが臣下というものでございましょう。私の忠誠をお疑いなのでしょうか」

「疑わぬ。しかし、あの女も同じなのだろうよ。死んでも節は違えないということだ」

「まさか。そのような不合理なことを」


 自分がつい一瞬前に言ったことは不合理ではないとでも言いたげな口調と晴れやかな笑顔に、これ以上何を言っても無駄な気がした。そもそもあの女が強情すぎるのが悪いのだ。だからファルカスは黙って従者に帯を留めさせた。

 代わりにという訳でもないだろうが、ジュラが溜息を吐いた。


「美しくか弱い姫君のお考えになることとは思えませんな」

「お前はあの女に睨まれて言葉を失っていたな。女風情に気圧されたか」


 八つ当たりのように鼻を鳴らしてファルカスはもう一人の臣下をあてこすった。すると、ジュラは気まずげに目を伏せて弁解した。


「……呆れた、というのが正しいかと存じます。それこそ女相手にそのようなことはいたしませんが、あの細首を折るのに片手で足りるのです。にも関わらず、男三人に囲まれてあの態度とは。陛下の誓いを信じているからかと思えば、さして感謝しているようでもない。まったく訳が分かりません」

「あの者にとっての正論は、必ず通ると思っているのだろうよ」

「ミリアールトでは淑やかな姫君だと聞かされておりました。同じ方のこととは思えません」


 しみじみと呟いたジュラの思いは、ファルカスにもよく理解できるものだった。確かに立ち居振る舞いや言葉遣いだけ取れば元王女は申し分ない。ただ、冷笑や嘲笑を浮かべる口元、怒りや不満を言葉に出さずに雄弁に語る目つきがどうにも生意気に感じられるのだ。形が整っていれば良いというものではないだろう。

 先日寡妃太后に責められたというミーナを見舞った時もそうだった。彼が訪ねた時、元王女は妻や侍女と一緒に刺繍をしていたが、その腕はひどいものだった。娘のマリカの作品かと一瞬とはいえ考えたほどに。彼の誤解を知ったあの娘は碧い瞳を怒りに燃え上がらせていたが――そこは自身の至らなさを恥じ入るべき場面だと思う。大体、男がそれなりの歳になれば剣や馬術を覚えるように、女は自然と刺繍などを嗜むものではないのか。どう育てればあのように不均衡な女になるのか。


「ミリアールトの者たちは王女の躾を間違えたな」

「まことに」


 いつぞやも考えたことを口に出すと、ジュラは重々しく頷いた。この男だとてミリアールトの平穏を望んでいるのだろうに、あの娘はその思いをも踏みにじったのだ。


「それでは陛下がイシュテンの流儀を教えて差し上げれば――」

「黙れ」


 一方で、あくまで懲りないアンドラーシを一喝する。あの娘に必要以上に関わりたくないという以上に、躾直してやるなどというのは元王女に暴行を働こうとした愚者どもの捏ねた屁理屈だった。この男の意図したことは違うだろうと分かってはいても、同列にされたようで愉快ではなかった。

 そして躾という単語から、娘のマリカのことを思い出す。歳の割に落ち着きがないだとか王女らしくないだとか言われることもあるが、彼は基本的には元気があって良いことだと思っていた。しかし、万が一にもあのミリアールトの元王女のように不遜な言動の娘に育つのは好ましくない。


 ――甘やかしすぎているか……?


 それでも父親らしい思考が脳裏をかすめたのは一瞬のこと、剣を受け取り腰に帯びると、政の――一種の戦いの場へ赴く構えに瞬時に切り替わる。


「元王女への対応はこれまでどおりで良い。たまに会って不満がないか聞いてやれ」


 どうせ不満だらけだろうが、とは心中に留める。


「あの娘が望むならジュラも奥に入って構わない」

「光栄に存じます」


 ジュラは慇懃に頭を垂れた。


「アンドラーシ」

「は」

「今日はミーナについて守れ」

「……承知いたしました」


 こちらは返事に一拍の間があった。やはりこの男は王妃が嫌いだ。とはいえ念を押すようなことはしない。王の命に背くようなことは――余計な気を回すことはあっても――ないと信じている。


「人を獲物にするのがティゼンハロム家のバカ者どもだけとは限らない。獣に限らず害意あるものは近づけるな」


 あの愚者どもが元王女を獲物として狙ったのは汚らしい快楽のためだが、ミーナが狙われるとしたら怨みや復讐のためだ。彼女がファルカスを選んだために後継者争いが定まったと、そのために自家の勢力が落ちぶれたと考える者たちも、今日の会には集っている。


「心得ております」


 アンドラーシは爽やかに笑った。ティゼンハロム家を嫌うのと同じ程度に、この男は節を曲げ不満を隠して彼に従う者たちを見下しているのだ。王の命の下なら多少無礼に振舞っても構わないでもと思っているのだろう。

 ジュラも事情をよく知っているから軽く顔を顰めた。


「太后もまだ居座っているとか。陛下もご気苦労が絶えませんな」

「まあ、王妃様ご自身は何のご心配もなさっていないだろうよ」


 アンドラーシの言には不敬と責められない程度の嘲りが込められていた。何も知らない愚かな女と言っているのだ。とはいえファルカスはそれを悪いこととは思っていない。父と夫が醜く争っていることなど知らない方が良いに決まっている。だから彼は軽く釘をさすに止めた。


「ミーナに可愛い以上のことを求めるつもりはない。余計なものは見聞きさせるな」

「承知いたしました」


 今度こそアンドラーシも丁重に礼を取る。それを確かめると、支度の最後にマントを羽織り、ファルカスは狩猟の場へと向かった。




 ブレンクラーレの奉じる神は睥睨する鷲だ。ゆえに王家も翼を広げた鷲の紋章を持つし、王はしばしば空の王者たる猛禽に喩えられる。現在実質上の王権を握るアンネミーケは女狐と呼ばれることが多いが、それはあの油断ならない女が王族の出ではなく王妃に過ぎないからだ。そして名目上のブレンクラーレ王は長く病床にあって人前に出ていないという。


 つまりはファルカスの眼前にいるのがブレンクラーレの新しい翼、雄々しい若鷲たる王太子マクシミリアンのはずだった。いや、そうと紹介されて王家の紋章を帯びているからには眼前の男が王太子で間違いはない。しかし、その男に鷲の呼び名はどうにも似合わないように思えた。


 ――鷲というより孔雀のような男だな。


 ほっそりとした体躯は、彼の目には軟弱と映るが、国柄の違いもあるからこれは仕方ないだろう。整った顔立ちも、王になるなら見た目た良いに越したことはないはず。ただ、衣装が無意味に煌びやかだったり、両国の関係がさして良好でもない割に纏う空気も表情も緩んでいたりで、どうも浮ついた印象を受けるのだ。


 もちろんファルカスはそのような考えを表には出さないので、王太子はにこやかに挨拶を述べた。ファルカスはブレンクラーレ語を、王太子はイシュテン語を解さないので、通訳を通しての会話になる。


「私のために席を設けていただいて感謝いたします、ファルカス陛下」

「この森には先日も来たのだがその時はろくに獲物が獲れなかったのだ。今日こそ大物を狩り出してやろうと思っている」


 先の一件をあてこすっても隣に控えたリカードは表情を変えなかったが、内心は苦々しい思いをしているだろうからそれで良しとする。


「我が臣下はいずれも手練。殿下に腕を見せるのを楽しみにしていよう」


 そして続く言葉に、ジュラとアンドラーシがわずかに頷く。その意気が頼もしい。王太子にだけではない、並びいる年寄りどもに力を見せるために呼んだのだから、期待に応えてもらわなくては困る。


「我が国にも名高いイシュテンの勇猛を、間近に見せていただけるとは光栄です」


 王太子は型通りの賛辞とも遠まわしな皮肉ともつかないことを、曇りない笑顔で述べた。ファルカスの代になってからはまだないが、イシュテンは度々周辺国を攻めては領土や財貨を奪ってきた。ブレンクラーレも散々苦杯を舐めさせられているというのに。


 ――皮肉で言っているなら良い度胸だが。


 近く隣国の王位を継ぐはずの男を、目を細めて見定めつつ、ファルカスは言った。


「何なら殿下も槍なり弓なり好きな武器を取られるが良い」


 何しろこの場は王太子の接待のためのものなのだから。彼自身は例によって見ていることしかできないが、客が望むのならば好きにさせるのが良いだろうと考えた。とはいえ、孔雀の印象通りに王太子の指は白くほっそりとしている。武器よりも楽器などを持つのが似合いだろうとは思ったが。


「あいにく私は荒々しいことが苦手なのです。笑いものになるよりも観客に徹したほうが楽しめましょう」


 案の定というか、王太子はへらへらと笑って首を振った。そして意味ありげに周囲を見渡すとやや声を落とした。


「陛下の美姫たちがいたなら良いところを見せようという気になったかもしれませんが。――どうしてお連れにならなかったのです?」


 通訳の誤りを疑って、ファルカスは二度聞き返した。そして間違いがないようだと確かめてなお、信じられない思いで答えた。なぜ当然のように複数の女を侍らせていると思われているのか理解できなかったのだ。


「父の代と間違っておられるようだ。俺に妻はただ一人しかいない」

「妻を一人しか許されない我が父でさえ何人もの寵姫がいるのです。ましてイシュテン王なら――」

「いないと言っている」


 ファルカスは引きつった顔の通訳に最後まで言わせることをしなかった。リカードの表情をわずかとはいえ変えさせたのは――例えそれが呆れだとしても――偉業だろうが、こうも不躾かつ下世話な想像を巡らされて怒りを覚えないのは不可能だった。


「力量を見せるに我が妃では不足か? あれも十分に美しいと思うが。それともブレンクラーレにはあの程度はありふれているのか」


 妻の方に目をやると、会話が聞こえているのかいないのか、ミーナが嬉しそうに微笑んだ。太后のいる王宮に戻す訳にはいかないので、今日も実家から参列させることになった。とはいえ今夜は王宮で王太子をもてなす宴を開く予定だから、そのまま王宮で休ませることになるだろう。久しぶりに二人で過ごす夜だから、きっと甘えてまとわりついてくるはずだ。

 王太子も目を細めてミーナを眺め、相変わらずの底抜けの笑顔で大仰に手を広げた。そう、この男はいちいち動作が大げさだ。だから余計に孔雀を思わせる。


「いいえ。王妃陛下は父の寵姫の誰にも劣らずお美しい。母などを見ていると王妃とは恐ろしく強いもののように思ってしまいますが、優しげなお方で……何か嬉しくなりますね」


 娘を遊び女のような女たちと引き比べられて、さすがのリカードの顔にもあからさまな不快が浮かぶ。一方のファルカスには、不快も怒りも通り越して、この隣国の王子が何か不可解な生き物に見えてきた。


 ――挑発、なのか?


 いわば敵地の真ん中で、わざわざ無礼を働くことの益が彼には何一つ思い当たらなかったが。


 ――女狐めは体よく息子()葬ろうというのだろうか。


 アンネミーケは夫に毒を盛って弱らせて権を奪ったとの噂もある。長く実質上の王位にあるために、息子までも害そうと考えたのか。いや、それにしても説明がつかない。普通はよその国の王族に対してはもっと言葉を選ぶものだろう。イシュテンだとてブレンクラーレの王太子ともなれば多少は遠慮する。だからこそ礼も尽くすし、こうして持て成してもいる。無事に帰らない事態などそうそう起こるものではない。……普通なら。


「どうかなさいましたか?」

「……いや、何でもない。参ろうか」


 不自然な間を作ってしまったことに内心舌打ちしつつ、ファルカスは愛馬に騎乗した。 笑顔を絶やさない王太子を横目に、もしかするとこの男は母親でさえ持て余すほどの愚者なのではないだろうか、という懸念を抱きつつ。


 隣国の王が無能なのは本来歓迎すべきことだった。しかし、彼は先日想像を絶するバカ者どもの厄介さを経験したばかりだ。常識で測れない、すなわち対策が取りづらいという点でこの男は彼を悩ませるのかもしれなかった。


 ――女狐の方がマシだと思う日が来るとはな。


 婚約者候補だったという話を思い出して、ミリアールトの元王女が王太子の隣にいるところを思い浮かべようとしたが、あの娘は眉を顰めて呆れた表情をしていた。王太子の髪は赤金、瞳は青と、纏う色だけなら似合いなのに不思議なことだ。

 恐らく彼が言えることではないが、元王女はこの男と結婚することにならなくて良かったのではないかと思った。

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