落日 エルジェーベト
兵士たちの噂に耳をそばだてる必要さえなく、エルジェーベトは何が起きているかを知ることができた。王とリカードが対決したこと、戦いは王の勝利に終わったこと。例によって馬車や天幕――馬車を輸送に使ったり、怪我人を収容したりする都合によって、彼女の仮の牢はほぼ毎日のように場所を変えた――に閉じ込められたままでも、明るい浮かれた雰囲気というのは分かるものだ。血の跡や失われた手足の傷も生々しい重傷人でさえ、前線から帰ってきた兵たちの顔はどこか誇らしげに見えた。つまりは、傷と引き換えに相応の手柄を上げた者たちだということなのだろう。
ただ、王はまだ前線から帰っていない。エルジェーベトはティゼンハロム侯爵領の地理をよく知っているが、戦場となるはずの平野、その周辺には大した規模の城も砦もなかったはず。彼女や難民が屯するこの陣も立地としては似たり寄ったりではあるが、だからこそ戦いを終えてなお軍を分けたままにする理由がない。さっさと論功行賞を行い、諸侯は領地へ、民は耕すべき畑へそれぞれ返すのが最良のはずだ。その前に、できるだけ大勢の人間が見る中でリカードの首を刎ねるか晒すかしなければならないのだろうが。それをしないということは――
――殿様が、まだ捕まっていないということなのかしら。
王が為すべきことをしていないように見えるのなら、その前提が達成されていないと考えるべきなのだろう。つまりは、リカードを捕らえても殺してもいないから、王はまだ勝利を確定させたとは考えていないのだ、と。だが、そのようなことが起こり得るのかどうかについてははなはだ疑わしくもある。
リカードが――というかティゼンハロムの十三の光条の太陽が戦場に現れれば、王の手の者は必ずそれに殺到するはず。それを帯びるのがリカードでなく、例えばティボールでも同じことだ。リカードの非道が知れ渡った今、離反者も相次いでいるだろうし、戦場の混乱の中で恨みを晴らそうとする者もいるだろう。迫りくる王の兵からだけでなく、その全てを退けてリカードたちが逃げ延びることなど、ほぼ不可能に思えるのだが。
別に、今更リカードが生き残ることを期待してなどはいない。エルジェーベトとしては、むしろ早く決着がついてくれないと困るのだ。リカードを裏切って人質を助け、奇襲を見破る進言をした功でマリカへの目通りを求めるのが彼女に残された唯一の策であり願いなのだから。更にできることなら、父君の死を見届けることでマリカの気を惹きたいというのに。王がのろまなのかリカードが生き意地汚いのかは知らないが、早く片付けて欲しいものだと切に思う。
――でないと、何もかも無駄になってしまうじゃない……!
人の記憶は日々褪せていくものだ。ある出来事の後に、更に印象深い出来事が起きればなおのこと。この場合は、激しい戦いの記憶によってエルジェーベトの手柄が色褪せてしまうのが恐ろしい。
現に、彼女にわざわざ話しかける者は少なくなってしまっている。だから推測ばかりを重ねて苛立ちに歯噛みするしかないのだが。無為の日々は、さすがの彼女の精神をも蝕んでいくかのようだった。
「ティゼンハロム侯爵は――その、逃げたそうですわ」
「どのようにして?」
あのフリーダという娘がそのようなことを言いだした時も、だからエルジェーベトが答える声は苛立ちによって尖ったものになった。陣内の噂話を聞かせてくれたり、下着の替えを持ってきてくれたりするのは、確かに感謝しなければならないことなのだけど。でも、リカードがどうにかして逃げたこと、それによって王の帰還が遅れていることは分かり切っている。この娘の口の利き方はどうにも迂遠でまどろっこしくて良くない。
エルジェーベトが機嫌を損ねたのに気付いたのか、それとも自身の暗愚に恥じ入ったのか。フリーダは頬を少し赤らめると、目を伏せてどもりながら続けた。
「その……陛下との一騎打ちに臨むふりで、実は別人を立てていたそうです。しかも、そうやって陛下を引き付けておいて、更に毒の矢で狙う構えだったとか。幸い、偽物の方にこそ矢が当たって陛下はご無事だったとのことですが……」
「それはまた……」
聞き終わると、エルジェーベトは愚かな娘への苛立ちも忘れてエルジェーベトは溜息を吐いた。それが呆れによるものか失望によるものかは、彼女自身にも区別がつかない。ただ、まことに勝手なことではあるが、ティゼンハロムという名家の声望が尽き果てたのを惜しむ思いも、確かにあった。
――なんて、無様な。
数多の政争を越えて栄えたティゼンハロムの家は、紋章になぞらえて沈まぬ太陽とも称えられたものだというのに。出陣にあたって、王は太陽は地に堕ちたと断じたと言うけれど――最後の残照のひと欠片までも、当のリカードによって貶められたことになるのか。
「……では、王はさぞ必死で探しているのでしょうね」
「はい……。民から猟犬を借りてまで、山や森の木の根も分ける勢いだとか。……あの、ご心配、なのでしょうか……」
――何のことかしら。殿様の? それとも私の?
エルジェーベトは、今日は食糧を保管する天幕に軟禁されている。麦だかの袋の間に、天幕を支える柱に縄で犬のように繋がれて。フリーダと言葉を交わす間にも、監視の兵の目が離れることはない。ひと目で分かる囚人扱いだろうに、この娘がわざわざ気遣うような目を向けてくるのも鬱陶しかった。間もなく死を賜る身が心配かどうか、など。聞くのも愚かだし何かしらの答えを得たところで、答える言葉があるとでも言うのだろうか。
「それは、覚悟のできていることですから――」
フリーダの半端な気遣いにはうんざりさせられる。だが、はっきりと顔を顰めて見せたところで益がないのも分かり切っている。だから軽く息を整えて、何かしら無難な言葉を探そうとした、その時だった。
「陛下が戻られたぞ!」
「リカードめも捕らえたそうだ!」
高らかな声が陣に響いた。一度だけではなく、何度も。ひとりだけではなく、口伝えにそれを知った何十という兵たちの声。木霊のように響き合い、波のようにうねり高まっていくその声は、エルジェーベトに軽い目眩を起こさせるほど。
「ついに……」
フリーダが両腕で自身を抱えるようにしながら呟いたのも、大気を揺らす歓声に慄いたからだろう。否、空気ばかりでない、王が率いる戦馬の群れが、大地をも揺らしているのが伝わってきている。立ち上がったフリーダが天幕の入り口を少し開けば、わずかな隙間から、誰もが同じ方に駆けているのが見える。王はそちらから凱旋するというのだろうか。リカードは、まだ生きているのか、どのようにして引き立てられて来るのか。
「リカードの女、お前も来い! 敗残の身を嗤ってやれ!」
「きゃ……」
と、フリーダを突き飛ばすようにして兵が天幕に踏み入ってきた。高い悲鳴も一顧だにせず、ずいとエルジェーベトに近づき、彼女を繋いでいた縄を短剣で断ち切る。鎖でなかったのは、頻繁に居場所を変えるのが手間になるからでしかなかったのだろう、片手と片足にそれぞれ巻き付き、天幕の柱に結ばれた縄。自由になったと言っても逃亡を許されるはずもなく、鋼のような力で腕を取られ、足元に絡まる縄もそのままに引きずられる。
天幕から一歩外に出れば、辺りの喧騒は一段と激しさを増した。四方から襲う騒音は、兵の歓声や怒号――こんな時でも男たちはぶつかり合って罵り合う――だけではない。庇護を求めて王のもとに集った民たちも、より控えめな低い声で興奮したように囁き合い、まるで羽虫が群れをなしているかのようだ。
「待って、待ってください……!」
足を縺れさせるエルジェーベトに、フリーダが追いすがる。やはり愚かな娘だ。ついてきたところで楽しいものが見られる訳でもないだろうに、ひとりにされるのが不安でならないのだろう。リカードの無残な最期を見たいというなら良い度胸だが、多分この娘にそこまで先のことを考える頭はない。
「――首を刎ねたのか?」
「まだだ。衆目に晒すと」
「――首に縄をつけて――」
「嬲り殺しにすれば良かったのに」
ほら、行き交う兵たちの声を聞くだけでも何が起きるか分かるだろうに。若い娘の嗚咽のような引き攣った声が後ろから聞こえるが、ほとんど引きずられながら走っているエルジェーベトには嗤う余裕もそちらを振り向く隙もなかった。
そして、林立する天幕の街から抜け、開けた場所に出ると――そこには、戦馬の群れが野を埋め尽くしていた。陣に戻ってひと息ついたというところか、既に下馬している者も多いし、例によって怪我人がしかるべき手当てを受けるために運ばれていくのも見て取れた。
そんな中で、ひと際体格の良い黒馬に騎乗する王はやはり目立っていた。その周囲に近づく者がなく、小さな広場のようになっているからでもあるだろう。広場の中心に何が――誰がいるか、エルジェーベトの背丈では見えないが。誰もが、争うようにして前へ前へと押し合う様子からして、これから処刑が始まると考えて良いのだろう。
彼女を引きずっていた兵士が、人の壁にぶつかって足を止めたので、エルジェーベトもようやくひと息吐くことができた。石の城壁より堅固に思える野次馬の群れに、これ以上は進めないかと思っていたが――
「リカードの女だ、裏切られたのを思い知らせてやれ」
「おお、それは面白い!」
悪趣味な余興を面白がった者たちが、次々と道を開けてくれる。フリーダがついて来られているか、あるいは意に反して流れに呑まれているのかはやはり見て取る余裕がなかったが。とにかくも、エルジェーベトは人垣の内側へと導かれていく。同時に、王の声がはっきりと聞こえるようになってくる。彼女もマリカの傍でたまに聞くことがあった、臣下に向けて語りかける際の朗々とした声だ。
「――そなたたちは太陽が捕らえられた貴重な機会を目の当たりにしたことになる。否、太陽などとはおこがましい、栄えあるはずの家名を汚し、山奥で獣同然に土に塗れていたのを捕らえたのだからな。わざわざ獣の首を刎ねる場、とは――やはり珍しい見世物には違いないな」
皮肉をたっぷりとまぶした王の言葉に、兵が湧く。嘲り囃し立てる声と、リカードの所業への憤りを込めた怒声。それこそ獣のように、意味を為さない喚き声も。これから起きる血と死を予感して興奮している。名門ティゼンハロム侯爵家の当主がこのバカ騒ぎの真ん中に晒し上げられるなど、ほんの数か月前までは誰も想像しなかっただろうに。王と戦って敗れるとしても、もっと堂々とした威厳に満ちた最期があったはずなのに。だが、リカード自身がこの惨めな結末を選んだのだ。
エルジェーベトの視界を遮る人の背が、ついに途切れた。王とリカードを囲む人の壁を抜けて、広場の――処刑場の全容が彼女の前に明らかになる。
――ああ、何て……。
何て惨めな。何て落ちぶれて、哀れな。かつてならば絶対にその男に対して抱かなかったであろう感情に襲われて、エルジェーベトの胸が詰まる。遠い戦場の噂として聞くのではなく、実際に自身の目でその姿を見るのは重さが違う。
円形に築かれた人の壁の中心に、乱雑に縛り上げられたリカードが転がされていた。豪奢な鎧を纏っていればまだ体裁もついただろうに、そこらの農夫と変わらないような簡素な衣装がその男から威厳を奪っているようだった。山野を逃げるにあたって着替えたのか、見せしめのために装飾の類は剥ぎ取られたのか。その衣装も、ただ粗末なだけでなく血に塗れて薄汚れている。兵の噂で聞いた通り、馬に引きずられたからだろうとは太い首に巻かれたままの縄が教えていた。馬の速さに負けぬように走らなければ首が締まり、地に叩きつけられて死に至る――それもまた古来から伝わる処刑の方法なのだけど。今回の場合は、もちろん馬の脚を加減させて、必死に走る様を嘲り嗤ったに違いない。
兵を失い、あらゆる権威を奪われ、貶められて。それでもリカードの意志は完全に折れていないようだった。槍の柄で地に抑えつけられながら、首を上げて王を睨め付けている。だが、人の壁が動いたのが視界の端にでも映ったのだろう。その目が、ふとエルジェーベトを捉え――見開かれる。
「エルジェーベト、貴様……!」
誰も彼もが異様な高揚に包まれたかのようなこの場で、その唸り声はひと際獣じみて怒りと怨嗟に満ちていた。抑えつける槍の柄を払い除けんばかりの勢いのリカードに、その目が向く先に、誰もが注意を向ける。王でさえも。狂気じみた熱狂を一心に浴びることになって、それに、リカードの視線のあまりの鋭さに、エルジェーベトはよろめきそうになるのを必死に堪えた。
「そうか……そういうことだったか……!」
ここまで追い詰められてなお、リカードの頭脳は明晰さを失っていないようだった。エルジェーベトの姿を見ただけで、おおよその事態を悟ったのだろう、彼女を睨みつける形相の険しさは、歯軋りが聞こえるのではないかというほどだった。
「目をかけてやったというのにこれか……忘恩の輩めが……!」
――目をかける……確かに、そうかもしれないけれど。
そしてリカードの傲慢ささえ、この期に及んでも変わらなかった。マリカたちに仕える機会を与えられたことには、確かに幾ら感謝しても尽きることはないのだけど。でも、リカードは彼女から多くを奪うこともしてきたのに。貞操も、誇りも。マリカの傍にいるための代償と割り切ってはいても、暴力や暴言が全く堪えないはずもないのだ。
今この瞬間に、恨み言を言ってやったら、だから裏切ったのだと嗤ってやったら、さぞ胸の空く思いがすることだろう。だが、マリカのためにはするべきではない。エルジェーベトは、あくまでもあの方の父君の最期を見守ったことにしなくては。あの方に会うことができた時に、慰めて差し上げられるようにしておかなくては。
「私も、大恩ある方の今のお姿を見るのは大変辛うございます……」
咄嗟に計算を巡らせると、エルジェーベトはしおらしく目を伏せてみせた。いかにもリカードの剣幕や、この場の熱気に気圧されていると見えるように。せいぜい罪を悔いて、せめてもの償いを望んでいると見えるように。
「ですが、恩義を知るからこそ、倫を外されるのを見過ごすことができないと思ったのですわ。私自身も、恐ろしい罪に携わってしまいましたけれど――この上は、裁きを受けることこそが最後の名誉ということになるかと存じます。後の世の評判や、王妃様と王女様の御為にも」
辛いという言葉とは裏腹に、詰まることもなく、多くの者に聞こえるように声を張り上げたエルジェーベトの口上は、冷静に考えれば不審なものだっただろう。だが、大方の兵士たちは気付きもしないようで、彼女に喝采を、そしてリカードには罵倒と嘲笑を浴びせてくれる。
無論、リカードは彼女のうわべだけの言葉など微塵も信じていないようだったが。大地に抑えつけられた体勢で、二十年以上に渡って跪かせた女を見上げるという屈辱は、もしかしたら敗北によるそれを上回るのか。エルジェーベトの言葉を聞くにつれリカードの顔はどす黒い怒りに染まり、唇が捲れて老齢によっても失われなかった壮健な歯をむき出しにする。裏切者に食って掛かろうとする気迫は、槍で抑えている兵たちをもたじろがせるほどだった。
「恐ろしい!? 貴様が罪を悔いることなどあるものか! この女狐め……!」
「黙れ! その女も下がらせよ!」
恐らくはリカードのほかに、エルジェーベトの欺瞞に気付いていたひとり――王も、鋭く険しい声を上げた。罪人、それも女の存在によって処刑の場を乱されるのが我慢ならぬとでも言うかのよう。王の叱咤に弾かれるように、エルジェーベトの周囲の者たちが動き、彼女を刑場の最前列から引き下がらせる。
「度重なる不敬と反逆は明らか、ブレンクラーレのアンネミーケ王妃でさえ貴様との密約を証言している。兵を動かし国土を荒らし、あまつさえ戦場を背に逃亡を企む怯懦と卑怯。貴様ひとりの首で贖える罪でも恥でもないが、この上生き永らえる道がないこと、まさか異存はあるまいな!?」
だから、そこからはエルジェーベトは居並び押し合う兵たちの隙間からそれを覗き見ることしかできなかった。彼女を取り押さえる者でさえ、これから起きることに注意を向けて、腕には大した力が入っていない。――だが、無論エルジェーベトに逃げる気など一切ない。全てを見て、聞いておかなければ。黒馬から地に下り立つと同時に、王が抜き放った長剣の煌き。鋭い刃が空気を裂くのが、頬に感じられさえするようで。対するリカードも、怯えは皆無と見えた。もしも身体を抑える者がいなければ、徒手でも王に食らいつくくらいはしていただろう。
「命乞いはせぬ! だが負けを受け入れるなどとは思うな! 異国の女に惑って義理の父と兄を殺した王として、未来永劫蔑まれるが良い!親の仇に添わねばならぬ、娘が哀れでならぬ!」
リカードの呪詛を聞いて、エルジェーベトはティボールも既に死んだらしいことを知った。まあ、とうに成人していたとはいえ、常に父親の顔色を窺う程度の器でしかなかった男だ。見せしめに処刑する価値さえ認められず、捕らえられたその場で殺されたということだろうか。
「蔑まれるのは貴様の方だ。最期くらい悄然としていれば良いものを……!」
王の影が動いて、リカードを足蹴にしたらしいことが分かる。低い悔しげな呻き声が漏れたことからも。若く体格に優れた王の力には、さすがのリカードも気力だけで抗えるものではないだろう。倒れた姿は、ちょうど首を刎ねるのにちょうど良い格好になったのか――エルジェーベトからは、よく見えなかったが。
ただ、王が掲げた剣の輝きが目を射った。そして次の瞬間、兵たちの歓声が地を揺らした。