復讐の誘惑 ティグリス
ミリアールトの元王女――シャスティエ姫の表情がくるくると変わるのを、ティグリスは興味深く眺めた。驚愕、猜疑、いささかの恐怖と逡巡、そして同情。心もとなげに半端な高さに掲げた扇の影からでも、彼女の感情ははっきりと見て取れた。
――美しい人はまったくどのような表情をしても美しい。
ティグリスは表情には出さずに感嘆した。彼の母である寡妃太后などは、痩せた顔に大きな目ばかりが目立って、常に魔女のような印象を受けるのだが。この姫君に関して言えば、取り繕うのを忘れた時でさえ大変に見応えがあって美しかった。
「――私などを信用していただいて、光栄とは存じます」
そしてシャスティエ姫は、礼儀正しい困惑の表情に落ち着いて、言った。
一言だけで概ね彼女の心情は知れる。確かに二度会っただけの不具の王子――それもティグリスに対しては過ぎた称号だ、何しろ彼は戦うことのできない虎なのだから――に対して軽々に王に対する叛意を述べることなどできはしまい。
「ですが、私も非力の身です。祖国のために常に心を痛めてはおりますが、この地にあってできることがあるとは思えません」
ティグリスは正直な方だな、と思った。彼女は私もとの表現で、彼の力を信じられないと語ってしまっているのに気付いていないようだった。
とはいえ、この反応は予想のうちだ。説得の余地は大いにあると見て、ティグリスは笑みを浮かべた。
「剣を持って戦うばかりが力とは限りますまい。武術や馬術の腕だけなら兄上に適う者はそうおりません。私も、何も正面からぶつかろうとは考えていませんよ」
「何か策がおありなのですか?」
全く知りたくはなさそうな表情でシャスティエ姫が問うた。この方は意外と分かりやすい、とティグリスは微笑ましく思う。氷の彫像めいた美貌を誇りながら、感情を隠しきれずに露にしてしまう人間らしさも持ち合わせている。王女の生まれゆえに、自分を偽ることなく過ごすことができたのだろうか。この十年ほどは人の顔色ばかりを窺って過ごしてきた彼には、羨ましいほどの素直さだった。
だから、つい揶揄うようなことを口にしてしまう。
「母はよく毒を武器にしていたらしいですね。貴女はとてもお綺麗だから、兄上も油断なさるかもしれない。寝所に侍って毒杯を盛る、などは物語のようではありませんか?」
「そのようなこと――!」
美しい姫は激昂して絶句した表情も美しかった。毒を盛るという卑劣な企みに対してか、娼婦のように色目を使うという発想に対してかは分からなかったが。
ティグリスは今度は声を立てて笑う。相手の平静を失わせることができたのだ。眼福を得られた上に、交渉の具としては上出来だった。
「貴女にそのようなことはさせられませんし、できるとも思えない」
何も嫌がらせや冗談だけで言ったのではないのだ。受け入れがたい提案の後に、今少し現実味のある案を見せる。その方が食い付きが良いはずだ。
「私も憎しみに駆られて無謀をしようというのではないのです。採算があって言っていることです」
シャスティエ姫は目線だけで続きを促した。扇を盾にするかのように口元を隠して構えて、けれど好奇心には抗えない様子で。彼の思い通りだった。
「兄上はお強いですが弱点もある。貴女もお聞き及びでは?」
宝石のような碧い瞳が、疑問で微かに揺らいだ。
「母君のお生まれが低くて後ろ盾がない……? ティゼンハロム侯とも不仲でいらっしゃるようでした。そう、それに側近の方々もお若くていらっしゃったから――信頼出来る者を重用できないでいらっしゃるのでしょうね」
「よくご存知ですね」
駆け引きというだけではなく、ティグリスは感嘆した。シャスティエ姫が挙げた中には先日彼自身が教えたことも含まれていたが、彼女はよくこの国のことを観察している。兄王がわざわざ人質に内情を漏らすとは考えられないというのに。義姉も、同じく。いや、どこまでもおっとりとしたあの人は夫の置かれた状況にどこまで気付いているのか怪しいものだ。
あるいは、彼女自身の見識に拠るものではなく、何者かに吹き込まれたことか。
――私の他にこの方に近づいている者がいる可能性がある。兄上のためか自身のためか、この方を利用しようとしている者が……。
心に留めつつ首を横に振ると、シャスティエ姫の表情に戸惑いが色濃く浮かんだ。
「仰ったことはいずれも事実ですが、決め手ではありません。もっと、重要なことがあります」
「……ミーナ様? マリカ様? とても、可愛がっていらっしゃるようでしたわ」
自信なげな表情で挙げられた名に、ティグリスは思わず微笑んだ。兄と可愛がる、などという単語が結びつかなくて面白かったのだ。
父親との確執を考えれば信じられないのだが、兄はウィルヘルミナ王妃を意外と大事にしているそうだ。あの兄の気性では女のお陰で王位を得たなどという評判は屈辱でしかないだろうに、一体どのように考えているのかまったく理解しがたい。噂に聞く限りでは、義姉は頼りなく可愛らしいだけの女性で、兄の寵愛に値するとも思えないのだが。
兄の胸の裡を彼が知ることはおそらく永久にないだけに、謎は謎のままなのだろう。
「半分正解、ということにしておきましょうか」
「半分、ですか」
当てられなかったのが悔しいという訳もないだろうが、シャスティエ姫はほんのわずか眉を寄せた。
「この国では男――それも強い男しか王とは認められません。だからこそ、先ほどお教えしたような血腥い争いが必要なのです。ミリアールトを滅ぼしたのも、兄上の武勇を示すために他なりません」
「――そんなことの、ために」
シャスティエ姫は扇を広げたが、瞳に浮かんだ怒りと嫌悪の表情を隠そうとはしなかった。野蛮だ、と無言のうちにはっきりと伝えてくる。
「お気の毒とは存じます。ですが、兄上もそれほどに余裕がないのです。そしてそこまでしても、王に必要なのは自身の強さだけではありません。貴女も王族でいらっしゃるのだからお分かりではありませんか?」
やや挑発的に問いかけると、美しい姫は諦めたようにため息を漏らした。
「全ては、お世継ぎがいらっしゃらないから、ということですか」
「その通りです。義姉上が兄上に差し上げることができたのは、マリカ王女ただひとりでした」
「ですが、この国では側妃の生んだ御子にも継承権があるのでしょう。殿下が教えてくださったことですわ」
相対しているのが物覚えの良い生徒なのを改めて認識して、ティグリスは話が早いな、と思った。母を始め、女というのはことごとく愚かなものと思っていたが、中には例外もいるらしい。
――同時に油断ならないということでもあるが。
ティグリスは話の手綱を握るべく慎重に言葉を探した。まともに馬に乗ることもできない彼であっても、少なくとも言葉なら自在に操ることができるのだ。
「兄上が側妃を持つことは可能だとお思いになりますか?」
「ミーナ様のためにはあるべきでないことと存じます」
義姉のためにシャスティエ姫が眉を逆立てたのは意外だった。
「現実にも難しいのですよ。ティゼンハロム侯が兄上を支持しているのは義姉上の子を、自身の孫を王位に就けるため。義姉上以外の女が産んだ王子など認めるはずがない。
地位を固めるために、兄上は最大の後ろ盾を失うことになります」
「側妃を持つためにはティゼンハロム侯と決別しなければならない……?」
――本当に話が早いな。
彼は教師のような気分になった。脚を砕かれて以来、書に向き合うことばかりが楽しみになったが、師の中には彼の境遇を惜しむ者も幾たりかいた。五体満足であれば良い王の器だったのかもしれない、と。それについて彼は語る言葉を持たないが、師らの気持ちが今のティグリスには少し分かった。この国ではシャスティエ姫の知識も聡明さも顧みられない。ミリアールトにいるうちは、さぞ敬われたのだろうが。
ともあれ、彼は頷いた。
「私に機があるとしたら、兄上に男児がおられない今を置いて他にないということになりますね」
「だからといって勝機があるという訳でもございますまい」
揶揄うのが過ぎたのかもしれない。シャスティエ姫の口調にはわずかに苛立ちが滲んでいた。
「それに、見ての通り私はか弱い女に過ぎません。殿下は先ほど共に出来ることがあると仰いましたが、私がお手伝いできることがあるとは思えません。何より――」
美しい姫は扇を下ろして嫌悪の表情をはっきりと見せた。
「私は争いが厭わしい。血が流れ人が死ぬ企みに加わるのはお断りです」
――所詮、女は女か。
ティグリスは声に出さずに嘲った。彼の脚を砕けと命じた時の母の狂気に囚われた顔を思い出す。女は、母親はどれほど屈辱に塗れても生きていればそれで良いと言うのだ。死ぬよりはマシだからありがたがれと言うのだ。
「復讐はお望みではない? 一滴の血も流さずに兄上にどう意趣返しするおつもりですか?」
「それは」
シャスティエ姫は予想通りに言い淀んだ。先に復讐と口にしたとき、彼女が魅入られた表情をしていたのをティグリスは見落としてはいない。ましてこの気の強さだ。祖国を滅ぼした兄に復讐を望んでいないはずがない。
ここが弱点と見て取って、ティグリスは畳み掛けた。
「ご安心ください、貴女は特別何もしなくても良い。私たちは貴女にミリアールトをお返しするつもりです」
「――たち?」
シャスティエ姫が浮かべた疑問符は無視する。
「貴女はただ勇気を出してくだされば良い。ここから逃れて故郷へ帰る覚悟を決めていただければ。
貴女さえいればミリアールトは息を吹き返すでしょう。兄上は私という内憂とミリアールトを同時に相手にせざるを得なくなる」
美姫の面に浮かぶ嫌悪の色が濃くなり、更に怒りの表情が加わった。
「ミリアールトを囮にしようというおつもりですか」
氷の刃のような鋭い眼差しを、ティグリスは笑顔でいなした。この程度の反発は当然だろう。この女性は亡国の王女でありながら、虜囚の身でありながら、呆れるほどに矜持高い。
「私が王になれば当分イシュテンは荒れます。内で争うばかりで外を攻める余裕はなくなるでしょう。それは、お国にとっても良い話では?」
「たかだか数十年のことでしょう」
シャスティエ姫が――まだ実現もしていないが――彼の治世をかなり長く見積もってくれたのでティグリスは密かに嬉しく思った。ミリアールトでは一度即位した王は終生その地位を守ることができるのだろう。生命を賭して戦い続けるイシュテンの王とは違うということだ。
「それ以上をお望みですか? 貴女の婚約者ですらお国を見捨てたではありませんか。ミリアールトとイシュテンが表立って同盟を結ぶことは難しい。私の在位の間だけでの安寧でも僥倖と思うべきでは?」
「……勝機があるかどうか、聞かせていただいておりません。それに私を逃すことができるかも。私一人では絶対に参りませんよ。この娘も一緒でなくては」
元婚約者へ言及したからか、一際眉をつり上げて不快げな表情を見せたシャスティエ姫は、後ろに控える侍女を示した。急に話に巻き込まれて、金茶の巻き毛の少女は身体を震わせる。蒼白な顔色は、屋外にいる寒さだけが理由ではないだろう。国の大事を目の前で語られて、恐ろしくて仕方ないに違いない。若い娘の反応としてはこちらがまともであって、主が豪胆すぎるのだ。
「もちろん勝機はありますよ。それに、貴女ご自身もその娘も、傷一つなく兄上に気付かれることもなくこの王宮から連れ出して差し上げましょう」
「そんなことは――」
できるはずはない、あるいは信じられないと言いたげなのを、ティグリスはまたも無視した。
「明日の夜、またここにいらしてください。今度はできればお一人が良い。私の言葉が信じていただけるものをご覧に入れましょう」
「――シャスティエ様!」
主が答える前に、侍女が小さく叫んだ。娘からはシャスティエ姫の表情は見えないだろうが、主の気性はよく把握しているらしい。シャスティエ姫は、戸惑い疑いながらも、明らかにティグリスの示したことに惹かれていた。軽く開かれた形の良い唇は、今にも承諾の言葉を紡ぎ出しそうだった。
娘の細い手が主の肩を掴んだ。雪のように白いと見えるのは、恐れで青ざめているのか、それだけ力を込めているのか。暖かい季節を思わせる若草色の瞳が潤み、小刻みに首を振っている。
「イリーナ。――――」
シャスティエ姫は優しく侍女に語りかけた。ミリアールト語なのでティグリスにはその意味を判じることはできなかったが。それでも人名らしき音の連なりで、彼は娘の名前を知ることができた。
イリーナと呼ばれた娘は何か言おうとして口を開き――更に何事か言われて悲しげに顔を歪めた。主の心が決まってしまったのを悟ったのだろう。ミリアールト語を知らずとも、シャスティエ姫の声に秘められた決意は十分に聞き取ることができたから。
「ティグリス様」
彼を見据えたシャスティエ姫の目は真っ直ぐで、不安も恐れもなかった。少なくとも誇り高い姫は見た目にそうと悟らせることはなかった。
「ここまで来たのですから最後まで聞かせていただきますわ。勝機とはどれほどのものか、私を頷かせることができるほどのものなのか。明日の夜、ということでしたね?」
獲物を捕らえたのを確信して、ティグリスは内心ほくそ笑んだ。もちろん面に見せるのは、安心したような穏やかな笑みだけだが。
「ええ。できれば目立たぬ衣装で、ことにそのお髪は目立つでしょうから、括るなりまとめるなりしていただきたい」
そういうとシャスティエ姫は苦笑のような表情を浮かべた。元王女の身には地味な格好をするということが屈辱なのかもしれない。
「承知いたしました。それではこの場は失礼させていただきます。――イリーナ」
「は、はい」
シャスティエ姫は優雅な所作で立ち上がった。素っ気ないほどの態度で、まだ彼に気を許した訳ではないと告げている。
「明日こそ信じていただけることを願っていますよ」
脚の悪い彼にはすぐに追って立つことも難しい。やや横柄ではあるが、座ったままで声を掛けると、氷の瞳に見下ろされた。
「私がブレンクラーレのマクシミリアン殿下と婚約する可能性があったことを知る者は、この国にはそうはおりません。ミリアールトの総督だったジュラ殿とかいう方はご存知かもしれないし、陛下もご報告を受けたのかもしれません。
ですが、殿下にそれを教える者がいるとは思えません。――殿下の仰る勝機がどこからもたらされるのか、楽しみにしておりますわ」
ほとんど吐き捨てるように一息で言うと、シャスティエ姫は侍女を目線で促して去っていった。
残されたティグリスは、立ち上がるために杖を地に突き立てて腕に力を込めた。
――確かに失言だったな。
心中で苦笑しつつ。祖国を見捨てた元婚約者の国が、すぐに敵国に擦り寄ったというのは、不愉快なことだったかもしれない。
彼が利用し企みに引き入れようとしているあの美しい元王女は、見た目からは想像できないが強かで油断ならない気質の持ち主のようだった。