表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
23. 堕ちる星、昇る星
311/347

牢の扉が開く時 エルジェーベト

 罪に問われて死を待つだけの状況というのは、エルジェーベトの人生では二回目だった。一度目は、懐妊中の側妃に毒を盛ろうとした()()に仕立て上げられた時。そして、今も同じ罪によって王は彼女の首を刎ねると言明していた。

 二回目だから慣れた、という訳でもないのだけど――彼女の心は、最初の時よりも遥かに凪いでいた。あの時も、リカードを守ることはマリカのためになると信じていたから死ぬこと自体は仕方ないと受け入れていたものだけど。それでも、死の前に味わうであろう苦痛、というかリカードの八つ当たりを思うと、不安や恐怖とは無縁ではいられなかったと思う。


 今、あの時ほど恐れていないのは、王はリカードのような残虐を好みはしないと見くびっているからだろうか。側妃や胎児を狙った大罪人とはいえ、あの男は女を痛めつけて喜ぶような趣味とは無縁だ。しかも、剣の達人でもある。だから苦痛のない一閃で全てが終わると、期待できるからだろうか。


 ――いいえ、違うわ……。


 薄暗い牢の中、冷たく固い石の寝台に腰掛けて。膝の上に手を重ねた姿勢を保ちながら、エルジェーベトはひっそりと嗤った。どの城にもあるであろう、罪人を閉じ込めるための空間に押し込められて、もう何日が経っただろうか。心弱い者なら、何をされずとも心を病んで死に至るのかもしれない暗く湿った空間にいて、しかし、エルジェーベトは勝利を半ば確信していた。


 王は、人質の場所さえ分かれば彼女を始末したいかのような口ぶりだったのに。そうしないということ自体が、彼女が思った通りに事態が進んでいることの証左に思えた。リカードとの決戦を前にあまりに多忙だから、などということはあるまい。女の細首を叩き斬るのにさほどの力も時間も必要ないのだから。

 彼女がこれほどに捨て置かれている理由を、エルジェーベトは知っていると思う。


 ――あの方、上手くやってくれたのね。


 すっかり彼女に頼り切るようになっていた娘のことを思い出すと、鼻歌を歌いたい気分でさえあった。助け出したつもりの人質が、リカードに与する者――と、王は認識しているだろう――の命乞いめいたことを言い始めるとは。王はさぞ驚いたに違いない。

 あの屋敷にいる間も、この城に護送されるまでの間も。あの娘の耳元で囁き続けた甲斐があるというものだ。




 あの日、人質を捕えていた屋敷に詰めていたリカードの手勢は思いのほかに少なかった。

 抜け出す前は逆らうことなど不可能だと思えていたのは、人質に近い目線で見てしまっていたのだろうか。あるいは、妻子をリカードに殺された――と、思われる――将が、復讐の念に燃えて兵を駆り立てていたからか、夜の闇に紛れての襲撃が功を奏したのか。とにかく、戦闘というほどの戦闘もないままに屋敷は()ちた。誰ひとりとして逃げることさえ許さなかったのは、厩舎の馬の数や捕虜の証言からも確かめたとか。だから、リカードはまだ人質を失ったことに気付いてさえいないかもしれない。


 戦闘の間、エルジェーベトは屋敷から少し離れた森の中に留まって監視されていた。万が一にも屋敷に危険を報せたりしないように、という余計な配慮によって。

 だから、剣戟の音が微かに聞こえた程度ではあったけど、拮抗した戦いではなく一方が一方を叩きのめすような展開なのは察しがついたし、優勢なのは攻める方以外にあり得なかった。ただ、助け出された女子供の一団の中に、フリーダ――父を殺され、身分を奪われて囚われていた娘がいたのを見た時は、さすがに少し驚いた。


『――ご無事だったのですね』

『はい。貴女も……!』


 正直に言って、エルジェーベトはこの娘はとうに毒を呷っているだろうと考えていたのだ。彼女が目を離せば、男どもは若い女、それも人質としての価値はない者を放っておかないだろうから。娘本人もその母親も、それを感じてエルジェーベトの出立を大分渋っていたのに。密かに持っていた毒をお守り代わりに渡したのは、ふたりを納得させるための苦肉の策でしかなかったのに。


 ――毒を呑む勇気がなかった……? いえ、男どもが意外とのろまだっただけかしら。


 月明かりさえ隠される夜の深い森で、フリーダはエルジェーベトに再会して確かに喜んでいるようだった。既に犯されて弄ばれていたのだとしたら、さすがに笑ってはいられないだろう。つまりはこの娘は無垢で無邪気なまま、エルジェーベトの善意を疑っていないままなのだ。


『ええ……()()()お会いできて良かった……!』


 この娘はまだ利用できる。そうと気づくや否や、エルジェーベトは滑らかに言葉を紡いでいた。考える必要すらなく、何を言えば娘を操ることができるのか、舌が知っているようだった。


『え……?』


 娘が驚いて間の抜けた声を上げるのも計算のうちだ。どういうことか、と聞き返す時には、相手はもう彼女の術中に嵌ったも同然なのだから。暗闇の中で、互いの表情などまともに見えないだろうとは分かっていたが――それでも嗤っているのは決して悟られぬよう、あくまでも神妙な声を作って、エルジェーベトは泣き崩れる振りをした。


『軽蔑されるのが恐ろしくて言えなかったのですが……心の弱さをお許しくださいませ。私は、死んで当然の大罪人なのです……!』


 その場では、兵に引き離されたからそれ以上続けることはできなかった。だが、その方が娘の不安と好奇心を掻き立てただろう。フリーダという娘は、ケレペシュの城までの道中、しばしばエルジェーベトか閉じ込められた馬車をこっそりと訪ねるようになった。見張りの兵に笑顔を振りまいて席を外させるようにする手口も、次第に慣れたものになって。だから、到着する頃にはフリーダはエルジェーベトの半生を(そら)んじることができるほどになっていただろう。




 王妃の――マリカへの思慕と忠誠は、既に何度も語った通り。ただし今度は、あえて語らなかった後ろ暗い部分も教えてやった。側妃とその子を狙って毒を盛ろうとしたこと。そのために公には死んだ身になっていること。この度王の前に姿を現したことで、改めて死を賜ると告げられたことも。

 無論、彼女の心情についてはバカ正直に伝えたりなどはしない。忌々しい金の髪の女への敵意も悪意も表には出さず、あくまでもマリカのためを思った心を、リカードに利用された風に装うのだ。


『側妃様がお怒りになるのも無理はありません。王族への反逆であることはもちろん、王女様は何の罪もないのですもの。このような女を見過ごせないと思われるのは当然のこと……!』

『そんな……』


 絶句したフリーダは、何と言おうとしたのだろうか。そんなことは酷い、などとはいかに愚かな娘でも安易に口にすることはできなかったのだろう。王族の死を企んだ者が許されることなどはあり得ないのだから。もしも執り成しを乞われたらどうしよう、と。娘の不安げな表情は語っているようだった。


『――私のことはもう良いのです。それだけのことをしたのですから』


 エルジェーベトの手を励ますように握っていた娘の指が強張って、フリーダが抱いた警戒を教えてきた。それを解こうと、エルジェーベトは言葉を操った。死を賜って当然の反逆者の命乞いと比べれば、大抵のことは簡単に聞こえるだろう。それくらいなら、と。娘が思ってくれる程度のことを、しかも直接に頼むのではなく、相手に悟ってもらわなければならなかった。


『ただ気懸りでならないのは王妃様のこと……! 頼るべきお父君亡き後、世間に悪く言われることもあるでしょうし……王女様も、側妃様の御子様方に引け目を持たずにお育ちになれるかどうか……』

『そう、ですね……』


 ふたりの妻を持つ男は王の他にはいないけれど、愛人を持ったり、先妻の子と後妻の子で扱いに差をつけたりする男なら幾らでもいる。年若いフリーダも、そのような醜聞のひとつやふたつは、聞いたことがあるだろう。継子虐めとか、夫の不実を耐え忍ぶ妻とか。王家の後継問題とは比べるべくもない下世話な話ではあるけれど――だからこそ、この娘には分かりやすく同情しやすいということにもなるだろう。


『……実は息子がいますの。ずっと会えていないのですけど。幸いに、王妃様にも王女様にも気に入っていただけていて。息子のことをお願いしておきたい、などとは我が儘なのでしょうね……いいえ、息子の方にこそあの方々に最後までお仕えするように言って聞かせないと……!』


 ふと思い出したので、息子のラヨシュのことにまで言及してもみた。母を失う幼い子供と聞けば、哀れまずにいられないだろうと計算したから。本当のところ、ラヨシュを思い出すだけの心の余裕など滅多になかったのだけど。


『もしも陛下にお会い出来たら、私――』


 でも、フリーダには息子を思わない母親など想像することもできなかったのだろう。この娘は察しが悪くて、随分と言葉を尽くさなければならなかったけど――それでも、やっとエルジェーベトが仄めかしたことを読み取ってくれたらしかった。


『お願いしてみますわ。聞いていただけるかなんて分かりませんけれど……私や母を助けてくださった御恩を少しでも返せるように。少しでも……あの、心残りの、ないように……!』

『ああ、罪深い者になんと慈悲深いことを言ってくださる……!』


 娘の愚かさと義理堅さに心底感謝しながら、エルジェーベトは小さく叫んだ。そう、何も大それたことを願うのではないのだ。罪を悔いた罪人が、心穏やかに死に向かえるようにするだけのこと。最期の望みを叶えてやるように計らうのは、決して倫に外れたことではない。


 だから、フリーダがエルジェーベトのために王に乞うたとしても、咎められるようなことではないのだ。




 その後も、エルジェーベトは隙を見てはフリーダには細々とした振る舞いや言葉の選び方を教えた。これまた明確に言葉にするのではなく、それとなく仄めかしたことから汲み取ってもらわなければならなかったので、随分じれったい思いもさせられたけど。あの娘は、やはり賢い生徒という訳にはいかなかったから。


 でも、状況はやはりエルジェーベトに味方をしているように思われた。

 助け出されたとはいえ、人質の女たちはまだ怯えて周囲の全てを疑っていた。救いの手を差し伸べたはずの王や将兵、彼女たちが頼るべき夫や息子たちまでも。王が期待しているであろうように、女たちから身内へ、リカードから離反するように訴えさせるのは相当に難しいだろう。

 つまりは――リカードの非道を訴える証人になってやろうという――フリーダの申し出は、王にとっても無視できない魅力があるということだ。陰にエルジェーベトの入れ知恵があるのはすぐに悟られてしまうかもしれないし、王が撥ねつける可能性も大いにあるが。


 だが、こうまで待たされる以上、王も悩んでいると考えて良いだろう。だからエルジェーベトは全く絶望してなどいなかった。




 勝算は十分にある――とはいえ、絶対の確信など持ち得ない。牢の扉がようやく開いた時、エルジェーベトの心臓はさすがに痛いほどに高鳴った。隙間から差し込む光は希望の(しるべ)なのか、彼女に死をもたらす白刃の閃きなのか。痛いほどに歯を噛み締めて背筋を正し、目を凝らす――


「出ろ。陛下のお召しだ」


 そして扉の向こうから男の表情を見て、エルジェーベトはついに勝利を確信した。彼女を迎えに現れたのは王の側近のアンドラーシだった。女と見紛う端正な顔に浮かぶ苦々しさは、彼女には大層馴染みのあるものだった。リカードが王を、あるいは王がリカードを見る時によく浮かべていた類のものだから。

 つまりは、目障りで仕方ない相手を前にして、何もできない屈辱と苛立ち。できることならこの場で斬り捨てたいと剣に手を伸ばしかけるのを、必死で制している時の顔だった。


 ――私を殺したいけどできないのね……王に、禁じられているから!


 この男の忠誠の篤いこと、王のためならば武器を持たない女でも躊躇いなく手に掛けられると確信できるほどだ。それこそエルジェーベトにとってマリカが全てであるように、主の利になるならば迷わず手を汚すのが(しもべ)というもの――ただし、当の主の命令があればそうはいかないということなのだろう。


「あの……私は、どのように……?」

「黙って陛下の沙汰を待て」


 殺されるために呼ばれるのではないのを承知で、でも、一応は弱々しい声で訪ねてみたというのに。それすらアンドラーシの気に障るようだった。眇めた目の鋭い一瞥と共に、苛立ちと侮蔑に満ちた唸りが返ってきた。まるで機嫌の悪い犬のよう、王の忠犬とは良く言ったものだと思う。内心、少しおかしく思っていると――アンドラーシは、エルジェーベトの腕を捕らえて大股に歩きだした。急な動きに衣装の裾が足に絡み、引きずられるように進むことになる。


「貴様が息子を思うなど白々しい……!」


 そこへ聞こえた呟きは、エルジェーベトにとってかなり意外なものだった。息子の――ラヨシュの教育など、この男にとっては押し付けられたお荷物でしかなかっただろうに。フリーダに聞かせた言葉は嘘だと看破した上で、息子を哀れんでくれるとは。


 ――意外と甘いのかしら……?


 軽薄で短気だと思っていた男の思いのほかの優しさに、エルジェーベトは顔を伏せて苦笑を隠した。




 食堂を仮の玉座の間にしていた王も、アンドラーシと同様の苦り切った顔をしていた。歯軋りが聞こえるのではないかと思うほど噛み締められた口元を見て、エルジェーベトはまた笑いを堪えるのに苦労させられる。深く跪く一瞬の間に、横目で王に侍る将たちの顔色を確かめるのも忘れない。主君の表情とは違って、興味深げな目の色で彼女を見る者も多いようだ。エルジェーベトの先の働きを評価してくれているのだとしたら、これも良い兆候だった。


 罪人に対して、前置きなどあるはずもなく――王は、短く命を下した。


「リカードの非道を喧伝する役を負ってもらうため、ジョルト卿の息女を行軍に伴う。貴様は引き続き身の周りの世話をせよ」

「はい……」


 ――やはりあの方が頑張ってくださったのね。


 人質の女たちが表に出ようとしないこと、王がフリーダの申し出を受け入れるしかなかったこと。全て思い通りに進んだことを知って、エルジェーベトは伏せた面でほくそ笑んだ。従順に跪いた姿勢で、誰にも見られることはないだろうが。


 王の命はひとつではなかった。恐らくは顔を顰めたのであろう間を置いて、険しく硬い声が降ってくる。


「それに侯爵領の地理について知る限りのことを吐け。ひとつでも偽りがあれば命はないのは変わらぬことと心得よ。リカードに寝返る疑いが出た時も同様だ。貴様の()()()願いが叶うか否かは、貴様の言動に懸かっている」

「陛下のご慈悲とご寛容に感謝申し上げます。王たる御方の勝利のため――微力を尽くさせていただきますわ」


 エルジェーベトが一層深く頭を垂れ、答える声が震えたのは、ひとまずは命を長らえたことによる安堵が理由ではない。もっと純粋な、心からの喜びに感動していたのだ。


 王の言葉は、働き次第でマリカと会うことができる、と仄めかしていた。王は決して乗り気ではないのだろうし、最期の、とつけることで、あくまでも助命はしないと暗に言い聞かせているようではあったけれど――構うものか。彼女の願いは自身のためのものではないのだ。彼女やリカード亡き後、マリカたちがどのように生き永らえるか、その助けになりたいだけなのだ。


 フリーダに渡した毒は全てではない。身体を検められはしたが、男どもは女の衣装の複雑さをまるで分かってはいなかった。マリカに再び会うことさえできれば、あの方に戦う術を与えることもできるはずだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ