妃たちと王子たち シャスティエ
王子のひとりと会う約束をした、と告げるとイリーナは賛成しかねるといった表情で眉を寄せた。
「殿方とおふたりでお会いになると仰るのですか? また?」
「……王の腹違いの弟君よ。今のこの国では不遇でいらっしゃる」
自身が愚かな判断をしてしまったような気がして、そしてそれを咎められている気がして、シャスティエの声は次第に弱々しくなって、立ち消えた。
「だからこそ危険ですわ! 何より、例の太后の御子なのでしょう?」
寡妃太后と鉢合わせたとき、イリーナはその場にいなかった。しかし、太后のあまりの毒気に、シャスティエはかの人の言動の詳細を語らずにはいられなかった。その結果、イリーナの中のティグリスの心象までも悪化させてしまったようだ。
「その方が私に対して全くの二心がないとは言い切れない。でも、私に何かおかしなことができる方ではないの」
ティグリスの脚に関してシャスティエの口から言うことはさすがに憚られたので、曖昧に言葉を濁す。侍女を安心させることができないのを心苦しく思いながら。
「それに、私はイシュテンのことを知らなすぎる。知らないままでまた無礼なことを言ってしまうのは嫌なの。この国のこと、この国の王家のことをもっと知らなくては。そうすれば、できることも見つかるかも知れないし……」
弱気ながらも訴えれば、イリーナの表情も少し和らいだ。不安と懸念から、何か決意を秘めた表情へと。
「分かりました」
その力強さは、シャスティエがむしろ不安になるほど。
「私もお供します。私がいなくてはシャスティエ様は何をなさるか分からない」
「ええ……」
眉を寄せるのはシャスティエの番だった。自分のことならどうなっても良いが、忠実な侍女を巻き込むことなど良心に照らして許しがたい。
「恐ろしいことはないのですよね? でしたら問題はございませんね? ……決して、無茶なことなどさせませんから!」
しかし、彼女の思いを読み取ったかのように、イリーナはふてぶてしくも晴れやかに胸を張ったのだった。
イリーナを連れているのを見て、ティグリスは軽く眉を上げた。扇で――今日は忘れず持ってきた――侍女を示し、シャスティエは少々言い訳がましく訴えた。
「故郷から連れてきた侍女ですの。殿下のことを他所に触れ回ったりなどしませんから、同席を許してくださいませ」
「なるほど。構いませんよ」
ティグリスが指定したのは、シャスティエが踏み入ったことのない王宮の一角、とある小さな館だった。きっとここにも王と寵姫だか側妃だかにまつわる逸話があるのだろう。
さすがに門扉は閉ざされているが、庭に張り出した露台からは雪も落ち葉も除かれて、卓と椅子が調えられている。屋外に呼び出したことに配慮してか、火鉢まで持ち込まれている。シャスティエとイリーナにはさして必要のないものだけど。誰かしらこの王子の命令を聞く者がいるようだと察して――勝手な憐れみだろうが――シャスティエは少しだけほっとした。
「今更ですが、お名前をお伺いしても?」
イリーナを背後に控えさえ、シャスティエが着席するなりティグリスは問いを発した。
シャスティエは顔には出さずに驚く。イシュテンに来てから、いや、彼女の人生を振り返っても、非常に稀な問い掛けだった。彼女が何者なのか、周囲の誰もが知っていたから。立場が変わったのだと改めて思い知らされると同時に、人質の元王女ではなくシャスティエ本人と話そうとしてくれているのかと期待してしまう。会うのがたった二度目に相手に対しては、きっと危険なことなのだろうけど。
「シャスティエ・ゾルトリューンでございます。きちんと名乗ることもせず、お恥ずかしいことでしたわ」
「どのような意味のお名前なのですか? ミリアールト語はあまり得意ではないのです」
重ねての問いには、答えるのに一瞬の間を要した。
「……幸福、です」
今の境遇を考えれば、口に出すのは悪い冗談のようだから。だが、ティグリスはシャスティエの躊躇いに気付いた様子はなかった。
「良いお名前です」
「殿下も。虎、ですから。勇ましいお名前ですわ」
反射的に返してから、礼を失したことに気付いて罪悪感が胸を刺した。猛獣の名を帯びてはいても、彼は駆けることも戦うこともできない虎だ。シャスティエ以上に名前と現実の差に思うところがあってもおかしくない。
「ありがとうございます」
しかし、感情を害したとしても、ティグリスは少なくとも表情には出さなかった。それどころか柔らかく微笑むと、シャスティエの失言を会話の端緒とした。
「先王――父の趣味、というかこだわりなのでしょうかね。私たち兄弟は皆強い獣の名をいただきました。その辺りからご説明しましょうか」
「お願いいたします」
この王子と密かに会うことにした、その目的の本題に入ることを察してシャスティエは居住まいを正した。
彼女の緊張を解そうとするかのようにティグリスは微笑えんだ。そして筆を取る――卓上に筆記具が用意されていたことに、シャスティエはここで初めて気付いた。
「先王には正嫡の王子が四人いました」
言いながら、ティグリスは筆を紙面に走らせる。
「第一王子はザルカン。母君は側妃でしたが侯爵家の令嬢で有力な方でした。
第二王子はオロスラーン。私と同母の、王妃腹の王子でした。
第三王子はファルカス――陛下。今は。母君は側妃の中でも身分の低い家の方だったのですが。
そして末の王子がこの私、ティグリスとなります」
順に竜、獅子、狼、虎。整った手跡で記された四つの猛獣の名をシャスティエは感慨深く眺めた。狼は一段劣る気がするが、母親の身分に由来するのだろうか。気高く美しい獣を押し退けて、貪欲で狡猾な獣の名を持つ男が玉座に就いたとは皮肉なことだ。
そして、ふと疑問に思って首を傾げる。
「たったの四人、ですか」
太后の口振りからは先王は漁色家だったという印象を受けたのだが。
「血が繋がっているというだけならもっと大勢の兄弟姉妹がいるのですが」
ティグリスはシャスティエの疑問を肯定した。
「王女はこの際関係ないし……男児であっても寵姫腹では継承権がありませんので。イシュテンも私生児に継承権を与えるほど野蛮ではありませんよ」
「側妃と寵姫はどう違うのです?」
側妃の子でも継承権がある。それは最初にこの王子と会った時に教えられたことだ。だが、シャスティエには側妃も寵姫も王の愛人としか思えない。わざわざ区別をする意味があるようには感じられないのだ。
「側妃は、正妃でないとはいえ妃です。れっきとした王の妻です。一方で寵姫は王の快楽の相手に過ぎません」
ティグリスが言ったのは単語の説明に過ぎず、シャスティエの疑問を解いてはくれない。
「なぜ王に限って複数の妻を持つことが許されるのです? 側妃になるか寵姫になるかは誰がどう決めるのですか?」
「ああ、貴女のお国では王でさえたった一人の妻に操を守るのでしたね」
重ねての問いに、ティグリスはやっと合点がいったという表情をする。
「貴女がここに来たのが父の代でなくて良かった。王妃が正妻であることを誇るのと同様に、側妃は王の妻の一人であることに大変な誇りを抱いている。一緒くたに妾扱いして妄りがましいと責めていたら、貴女はさぞ憎まれたでしょう。母に限らず、側妃の方々にも」
「……そうなのでしょうね」
いくらシャスティエでも面と向かってそうと口にすることはなかっただろう、とは思う。しかし、言葉や態度の端々から滲む嫌悪を抑えきれるかと自問すればそんな自信は全くない。結局のところ、彼女が故郷とイシュテンの常識の違いに気づくのにかなりの時間を要したのだ。
――だって誰も教えてくれなかったもの。
言い訳がましく思いはしても、ティグリス王子に対して訴えることはできなかった。捕囚相手にそこまでの気遣いなど望んではならないだろうから。だから、シャスティエは自らの目と耳と頭を使って気付かなければならなかったのだ。
また一つ自身の甘えに気づいてシャスティエは扇の影で唇を噛んだ。
「側妃は……本来は人質や同盟の証と言った意味合いだったようです。昔の族長たちは姉妹や娘を交換してお互い裏切らぬように約していたのです」
シャスティエの懊悩をよそに、ティグリスは彼女の疑問を解き明かしてくれる。
「時代が降って、国を統べる王が生まれると、諸侯との関係はもう少し一方的なものになります。娘を差し出すことで忠誠の証とするのです。まあ、我が国では王といえども大貴族を無視するのは中々難しいですから。側妃に迎えることで、王の側としてもその家を重用しているという意思表示にもなりますね」
「なるほど……」
シャスティエの脳裏にアンドラーシの空々しい笑顔が浮かんで、彼女は心中で苦いものをこらえた。
ティグリスの言うことを踏まえると、シャスティエをファルカスの側妃に、というのはイシュテンの者からすればごく真っ当な発想らしい。彼女は事実として人質だし、ミリアールトの臣従の証としてはこの上ない。あの胡散臭い男の考えに理があるなどと、決して認めたいことではないけれど。
「そういう訳なので、側妃が一人もいない兄上はイシュテンの王としてはむしろ珍しい。それだけティゼンハロム侯の影響が大きいということなのですが――そこの経緯も、お聞きになりたいでしょうね?」
「ええ。もちろん」
内心の苛立ちから必要以上に鋭い口調になってしまい、シャスティエは慌てて言い添える。
「お願いいたします」
彼女の真摯な瞳に応えて、ティグリスは語り始めた。王位継承にまつわる血腥い物語を。
先王は後継者を定めないまま逝去した。これ自体はさほど特筆すべきことでもない。イシュテンでは王が戦場で斃れることも珍しくないし、遺言を残していたとしても無視されるのもまたよくあることだから。
いずれにせよ、父が亡くなると同時に王子たちとその母親たち、更にはその生家は動き始めた。
最初に有力だと見做されたのは第一および第二王子。第三王子のファルカスは、若さと生家の力のなさ故に当初は数に入っていなかった。
ティグリスに至っては十になるかどうかの子供で、周囲の状況もよく分かっていなかったという。同母兄である第二王子が王位に就いていたら、そのまま何の憂いもなく成長することができたのだろうが。
「まあ、実際には最初に死んだのが第二王子だったのですが」
淡々と継げるティグリスがひどく冷酷に見えて、シャスティエは困惑した。実の兄の話をしているのではないのか。
「やはり、戦って……?」
彼女自身の兄と同じように、首を刎ねられたのか、戦馬の蹄に踏みにじられたのか。無残な想像に、シャスティエの声は微かに震えた。
「いいえ」
しかし、ティグリスは相変わらずあっさりと肩を竦めた。
「宴席で血を吐いて死にました。王妃腹だから有利だと驕っていたのかもしれませんが、迂闊なことです。イシュテンの王子でありながら毒に頼った第一王子も恥晒しですが」
「……第一王子の仕業と、はっきりしているのですか?」
「貴女はよほど兄上のことがお嫌いなようだ」
驚いたような顔をされて、シャスティエは当然、と吐き捨てたいのをこらえた。同腹の兄のことを嘲るように語りながら、この王子は異母兄である現王の肩を持つ。どのような考えでそうなるのか、彼女には今ひとつ理解できない。
「あの時点では兄上が王位を継げる見込みはごく薄かった。無闇に動けば命の保証はない。上の王子のいずれかについて機を待つおつもりだったのではないでしょうか。あのご気性ではさぞ屈辱と思われたでしょうが」
ティグリス王子は、痛ましげに眉を寄せた表情を見せさえした。かつての兄を――あのファルカス王を、哀れんだのだ。矜持を曲げて異母兄に膝を突くのは不本意だろうと。それは、そうだっただろうとは、シャスティエにも容易に想像がつく。でも、哀れもうなどとは決して思わない。だって、実際にイシュテンの王位を継いだのは、そしてミリアールトを踏みにじったのはあの男だ。
「そうならなかったのは――」
「ティゼンハロム侯、あるいは義姉上のおかげです」
ティグリスの昔語りは続いた。
ティゼンハロム侯リカードは末の娘を王妃にするつもりだった。婿となる王子は、年齢が離れすぎているティグリスを除けば誰でも良かったが、それぞれに長所と短所があった。
上の二人は、年齢は釣り合うものの、生母の実家の力が強くて恩を売るほどの力添えにはならない。
第三王子のファルカスは、実質上唯一の外戚として君臨できる点は良かったが、娘より年下な上に本人の性格も狷介で扱いづらかった。
ティゼンハロム侯は寛容にも娘に判断を委ね、彼女が選んだのが――
「ファルカス……陛下?」
「至極順当なご判断だと思います。上の兄たちは王になる前から側妃を見繕うのにご執心でしたから」
確かに女としては不実な男を夫にするなど耐え難いが。だが、同時にたくさんの疑問が浮かぶ。
「王妃様が陛下を選ばれたのは本当にご自身のお考えですの? 父君のお言いつけではなく? 陛下はそれを素直に受け入れられたのですか? それこそ屈辱と取られるのではありませんか?」
ミーナは夫を愛している、というのは信じられる。傍で見ていれば分かる。しかし、イシュテンの男にとって、女の力で王位を得るというのは受け入れられるものなのか。今まで見聞きしたこの国のあり様と王の性格を鑑みれば、不本意極まりないことだろうと思う。
「さあ? それはご自身でお聞きになれば良い。私は兄上とも義姉上とも親しく話す機会がありませんので」
「そんなこと……」
聞けるはずがない。王にも、王妃にも。困惑も露に眉を寄せたシャスティエを、ティグリスは笑った。やはりこの王子はよくわからない。異母兄とその妻に対して、一体どのような感情を抱いているのか。
「とにかく、ティゼンハロム家との結び付きによって兄上は一躍王位に手を掛けた訳です」
第二王子の死は、ティゼンハロム侯とファルカスにとっては第一王子を追い詰めるまたとない口実になった。王族、それも異母とはいえ弟を殺したのは、例え王子といえども罪にあたる。
第一王子を支持するのはその生家、それに連なる家々。ファルカスを擁したのはティゼンハロム侯爵家の一門と彼に賭けた家々。二派の争いは国を分ける内乱となった。
細かい戦局での勝敗は様々にあったものの、勝者は現在の王が語っている。日陰の身だった第三王子が王位に就き、第一王子は首を晒され身体は獣の餌となった。
――戦場で殺すのは良いのね。おかしなこと!
「太后様のお家はどちらについていたのですか?」
内心の嫌悪など口に出しても無駄と悟っている。なので強ばった表情を扇に隠してシャスティエはまた別の問いを投げかけた。
「混乱していましたよ」
ティグリスの面に浮かぶ笑みが色を変えた。先日別れる間際に見せたのと同じ、暗く歪んだ表情だ。
「母が誰よりも素早かったもので。息子を二人とも失うのは耐えられないと、不具でも良いから生きていて欲しいと――この脚を砕かせたのです」
背後でイリーナが息を呑む音が聞こえた。悲鳴を上げなかったことを、心中でシャスティエは賞賛した。心の優しい娘なのに。半ば覚悟していたシャスティエでさえ、心臓を雪の女王の氷の手で掴まれる思いがするのに。
「お母様が……」
「私を擁して戦っていれば、また勢力図は変わっていたのでしょうが。第二王子を奉じていた者たちはあてが外れて気の毒なことでした」
「殿下も、戦いたかったのですか? 兄弟同士で血を流すのが、そんなに――」
そんなに、何だと言いたいのだろう。シャスティエ自身にもわからなかった。彼らだって好き好んで争う訳ではない、と思う。王族に生まれたからには避けられない戦いもある。それは彼女も理解している。だが、弟が兄を殺し母が息子を傷つけるこの国の姿は、あまりに恐ろしくおぞましい。その獰猛さと貪欲さに、彼女の祖国も屠られたのだ。
「さあ」
ティグリスは再び肩を竦めた。
「あの頃の私はあまりに幼かったので何を考えていたのかは思い出せません。あるいは何も考えていなかったのかも。
母が見守る前で鉄の棒を振り下ろされた、あの瞬間に私の人生が始まったような気がします。脳を灼く痛みの中で私は初めて知ったのです。憎しみと、怒り――愚かな母や無様に死んだ兄に対してではない――この国そのものに対しての」
「――!」
シャスティエは思わず顔から扇を外した。眼前の不具の王子の言うことが、あまりに彼女の思いと重なっていて、驚かされたのだ。
「貴女も、この国がおかしいと思っていらっしゃることでしょう」
ティグリスの笑みは柔和さを取り戻していた。しかし、どこか禍々しい。
「私も復讐を望んでいます。貴女と私とで出来ることがあると思うのですが――次はいつ会っていただけますか?」
――私は復讐を誓う……。
息を呑んだシャスティエの脳裏に、自身の声がこだましていた。異国の地、敵のただ中で、彼女は同じ思いを抱く者を見つけたのだ。それは同時に、憎しみを心に燻ぶらせる者の激しさ恐ろしさ醜さを、眼前に突き付けられることだった。