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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
23. 堕ちる星、昇る星
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家族の食卓 ファルカス

 シャスティエの居場所、急報が知らせたリカードの凶行、何よりマリカの最近の様子――ミーナと語ることはあまりにも多くて、ファルカスが眠りについたのは夜明け近くになってからだった。途中からは寝台で、共に横になった姿だったとはいえ、長旅で疲れた身体を休めるには到底足りないほどの休息でしかないはずだった。


「ファルカス様……」

「うん、そろそろ起きる」


 だが、妻に促されるまでもなく、彼の目覚めは不思議と爽やかだった。妻の存在を、その温もりを傍らに感じながら休むことが、心身共に大きな効果を与えたらしい。


 ――前は、当たり前のことだと思っていたが。


 昨夜の前に妻と共に休んだのは、ブレンクラーレで野営していた時、シャスティエと共に、だった。遠征の途上にあっては疲労は多かれ少なかれ常に付きまとうものだし、彼に女を帯同する発想はない。だからこれまでは一人寝に不満や、ましてや寂しさなど感じたことなどなかった。王宮に帰れば、妻たちは迎えてくれるものと思っていたから。顔が見たいと思えば、肌の温もりが欲しいと思えば、いつでも叶うものと疑っていなかったから。

 だが、それは誤りだった。ミーナもシャスティエも、彼の傍にいてくれるということは奇跡のようなものだ。いずれの妻も彼を憎む理由は十分にあるのに、それでも彼の元を去るとは言わなかった。それだけの思いを向けられていると思うと、ただそこにいるというだけで妻の温もりがこの上なく愛しかった。


 起きてこの温もりを手放すのが惜しくて、ミーナの身体を引き寄せる。すると、苦笑のような吐息で彼の肌をくすぐりながら、妻が重みを預けてきた。少々の寝坊を、許してくれるということらしい。


 ――悲しませているというのに……。


 妻の優しさに際限がないこと、ファルカスにはまったく信じがたい。信じがたいまま、その優しさに甘えているのだから世話がないのだが。

 昨晩ミーナに訴えられたから、妻たちの心を疑うことこそ不実なのだとは理解した。妻たちを信じるより、憎まれていると思い込む方が楽なのは確かで、ならば彼は安易に逃げていたのだろうとは思う。思い返せば、シャスティエも従弟の死を嘆きはしても彼を直接責めることはしなかった。憎しみと怒りも露に責め立てられた最初を思えば、心が近づいた証拠、と思えなくもないか。

 だが、だからといって安心することなどできはしない。たとえ憎しみではないにしても、夫への情――と、考えるのもおこがましいと思うのだが――と肉親への情の間で心が引き裂かれる辛苦は並大抵ではないはずだ。妻たちにそのような思いを味わわせていることが歯がゆくもどかしく、けれどどうしようもなくて、ファルカスはただ腕に力を込める。一度に抱きしめることができるのがひとりだけだということを、長く疑問に想うことがなかったのも、今となっては信じられない。ミーナと、シャスティエと。危うく見えた時、放っておけないと思った時はそれぞれにあったが、どちらも等しく安全に心安らかに過ごせるよう、守ってやらなければならないのに。


 心地良い温もりと忸怩たる思いを抱え込んで横たわっていると、ついに腕の中のミーナが身じろぎした。


「ファルカス様、もう……」

「分かっている」


 今日も為すべきことは多く、王が怠けることは許されない。黒松館での日々のように、女に溺れて臣下の信頼を損なうことは繰り返してはならない。名残惜しくても、妻子のためを思えばこそ離れなくては。


 やっと上体を寝台から起こすと、ミーナが間近で微笑んでいる。慈愛に満ちた眼差しは、夫に向けるものというよりは、子供の我が儘を嗜める時の雰囲気に近い。だらしないところを見せてしまったと思えば、口元が自然に強張って、それがまたミーナの笑みを誘ってしまう。眉を顰めて抗議の意を示そうとしても、妻はくすくすと笑って彼の頬を撫でるだけ。何かしらが妻の気に入ってしまったのだと諦めて、ファルカスはしばらく滑らかな指の感触を楽しむことにした。


「マリカにも会ってあげてくださいませ」


 蕩けるような笑顔で彼の肌を愛撫していたミーナの声が、ふと強張った。母と祖父の対立に娘が混乱し戸惑っていることについても、昨夜語り合っている。大人たちの争いが、幼い者の目にはいったいどのように見えているのか――戦いの先頭に立とうとしている父を、娘はどのような表情で迎えてくれるのか。妻には受け入れられても娘には拒まれるのではないかと思うと、戦場ではついぞ感じたことのない恐れのような感情がファルカスの胸を騒がせた。


「うん。きっと大きくなっているのだろうな……?」

「ええ、背も伸びましたし。驚かれると思いますわ」


 だが、もちろん娘に会う喜びが不安を上回るはずもない。彼が幸せを望むのは、妻たちだけではない。どちらの母の子たちも、区別なく慈しみ守りたいのだ。恐らくは父親への不信に凝り固まっている娘の心を解きほぐし、それを伝えなければならない。それをしてからでなくては、リカードとの戦いに赴くなどできるものか。


「楽しみだな」


 どこか不安げなミーナを宥めるため、ファルカスは微笑むとその額に軽く口づけた。




 朝食の席に父親がいることに気付いたマリカは、その父と同じ青灰色の目を大きく見開いた。


「お父様……!」


 かつてのように、満面の笑顔で駆け寄ってくれることはない。だが、顔を背けられることもない。遠征の前は父を案じ、(フェリツィア)に譲る姿勢も見せていたが、それは過去のこと。母が祖父を虐めていると捉えている節さえあると聞いていたから、まずは拒絶されることがなかっただけ儲けものだろう。

 一歩、二歩。娘が背を向けて逃げる様子がないのを確かめながら、ファルカスはゆっくりと歩み寄り、マリカの傍らに膝をついた。ミーナが言っていた通り、遠征前に最後に会った時の記憶と比べると、確かに背が伸びているようだ。フェリツィアについてもそうだが、我が子の成長を常に見守ることができない王の地位とは時に厄介なものだと思う。


「ずっと寂しい思いをさせてすまなかったな。どうにか、無事に帰ることができた」


 娘と目線を合わせて告げるのは、昨夜ミーナに言ったのと同じこと。ただしあの時よりもよほど勇気が必要だった。ミーナは、少なくとも夫のために父と戦うと言ってくれていた。だから彼の言葉を受け入れてくれるだろうと期待を持つこともできた。勝算の有無によって心の持ち方が違うのはまったく情けない話ではあるが――娘は、今は父のことをどう思っているのだろう。


「うん……おかえりなさい」


 唇を結んで佇むばかりで、父を不安がらせること数秒。マリカは、それでもぎこちなく微笑むとファルカスに手を伸ばしてきた。小さな指が、着替えたばかりの彼の服を掴む。その力に、ファルカスは心が揺れているのは娘も同じであることに気づかされる。妻たちと同様に、マリカも彼を嫌い切ってはいない。だが、だからこそ父の行いに賛同しがたい時の痛みと混乱が大きいのだろう。


「……お前にまた会えて良かった」

「本当? 赤ちゃんじゃなくて……?」


 幼い心を悩ませていた罪悪感に駆られて娘を抱きしめると、マリカは彼の腕の中で居心地悪そうに身体を(よじ)った。父の言葉を信じて抱きつきたいが、簡単に絆されたと思われては矜持が許さない、といったところだろうか。そもそも少しでも疑われることからして、親としては不甲斐ない限りなのだが。


 これからは、娘に対して嘘も誤魔化しもあってはならない。そう心に決めて、ファルカスはマリカの目を間近に覗き込んだ。


「確かにフェリツィアにも会いたかった。だが、お前と母――ミーナを忘れたことなどない。俺は、妻も娘も分け隔てることなく皆、守りたいと思っている」

「そう……」


 お前が一番だ、という言葉をマリカは期待していたのかもしれない。だが、本当にそう言っていたとしたら、それはそれで欺瞞を疑われることになっただろう。その場限りの言葉に騙されるほど、娘はもう幼くもないし愚かでもない。真実を見せずに都合の良いことだけを教え込んでも、裏切られていたと知った時の苦しみが増すだけなのは、ミーナを見ていてよく分かった。リカードがミーナにしたのと同じ過ちを、彼は繰り返してはならないのだ。


「……ありがとう、お父様。帰って来てくれて。……朝ご飯を、食べましょう?」


 父の目から真摯さを読み取ってくれたのかどうか。ややあってマリカが浮かべた笑みは、決して心からのものには見えなかった。だが、とにかくも彼は娘に拒まれることなく迎えてもらうことができたらしい。


「ああ、そうしよう」


 マリカの父としてまだ認められていることに心から安堵して、ファルカスはミーナが待つ食卓に着いた。




 親子三人で朝食を囲んでも、しかし、和やかなだけの席という訳にはいかなかった。留守中の話をしようと思えばどうしてもリカードのことに触れない訳にはいかないし、マリカがしばしば喜んで仕草を語った黒い犬はもういない。仕方なくブレンクラーレの風物を語ってみれば、多少はマリカの気を惹くこともできたようだったが、娘の関心が他所にあるのはファルカスの目にもはっきりと見て取れた。


「お父様は……おじい様に何をなさるの……?」


 だから、マリカが意を決したように口を開いた時も彼が驚くことはなかった。娘はずっと、それを尋ねる機会を窺っていたのだ。怖々とした問いに答えるべく、ファルカスは食器を置いて娘の目をまた正面から受け止める。


「これから諸侯に呼び掛けて兵を集める。おじい様――ティゼンハロム侯爵がどのように言おうと、王と王妃の許しなく王宮に私兵――己が家の手下を差し向けたのは罪になる。王として、俺はそれを糾さなければならない」

「…………」


 努めて平易な言葉を選びながらも、偽りは交えずに言い切ると、マリカの顔色はみるみるうちに青褪めた。薔薇の色をしているべき子供の頬がこのように強張る様を見るのは、父としては決して本意ではないが――気休めを述べることこそ娘に対して罪深いだろう。


「でも、おじい様は私やお母様を心配してくれたの……悪いことかもしれないけど、でも、お母様だって――」


 マリカが母の方をちらりと窺って口ごもると、ミーナも眉を曇らせた。偽の手紙で祖父をおびき寄せたのは母なのに、とマリカは言っているのだ。ミーナが手紙を託した乳姉妹、とうに死を賜っているべきエルジェーベトとかいう女も、マリカにとっては物心つく前から親しんだ侍女のはず。シャスティエとフェリツィアを害そうとした経緯について聞かされてもなお、自身に対しては優しかった女の罪を理解するのは難しいのかもしれない。


 親しい者を悪く思うことの難しさは、妻たちが既に教えてくれた。それに、マリカの物言いは、図らずも母のミーナとよく似ている。


 ――また、自分のために、か……!


 昨夜、ミーナも同じことを言ったのだ。自身のために罪を犯した女を、自らの言葉によって告発するのに踏み切るのはとても難しかったのだ、と。

 父として夫として王として、どうして言ってくれなかったのか、という苛立ちや歯がゆさはもちろんある。しかし妻たちの心中を慮れば決して口に出してはならないことだとも分かっている。何よりも、妻に信じられる夫でなかった彼自身に咎があるのだから。

 それに、彼自身への憤りと同じほどに強いのがリカードへの怒りだ。あの老人に、娘や孫への情が一切ないとは言わないが――それはもっぱら自身に都合の良い駒に対してのものだ。それを、あたかも相手を思いやるかのような口ぶりで恩を着せるのは浅ましいとしか思えない。特に、ミーナに世のことを何も教えなかったことで今になって心を痛ませていることについては――ファルカス自身も同じ罪を負うとはいえ――、絶対に許してはならないと思う。


「お前の言いたいことは分かる。あの者がお前と母を自領に迎えようとしただけなのは間違いないかもしれない。王宮で剣を抜く事態になるなどとは、考えてはいなかっただろう」

「じゃあ……!」


 ぱっと輝いたマリカの顔がすぐにまた曇るであろうことが、ファルカスには分かっていた。娘はまだ知らないが、リカードは既に孫の信頼を裏切っている。一瞬でも喜ばせるのは欺瞞に過ぎないだろうし、前置きとしてでもリカードの言い分を認めるような譲歩を示さなければならないのも癪だった。たとえ娘のためであったとしても、どうして彼の敵を庇うようなことを言わなければならないのか。それも、ほんの数秒の安堵のために。


 とはいえ、娘に対しては隠し事をしないと決めたのだ。ならば、傷つけることになると分かっていても、伝えなければならないだろう。


「だが、ティゼンハロム侯爵はさらに罪を重ねた。昨夜遅くに入った報せだが、ティゼンハロムの太陽の紋章を帯びた軍がヴァールを襲い、領主と主だった家臣を殺めた。理なく臣下を害されたのを見過ごす気もないし、言い訳の余地もないと考えている」


 だから、ファルカスは努めて感情を排した声で娘に告げた。リカードが誰の目にも明らかな反逆を犯して()()()こと――あらゆる面で歓迎すべきことのはずなのに。


「そんな……」


 眉を下げて俯いた娘を前に、敵を追い詰めつつある喜びなど感じることはできなかった。

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