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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
23. 堕ちる星、昇る星
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感謝と哀れみ エルジェーベト

 エルジェーベトは夜明け前に寝台を抜け出した。(いびき)をかいて眠るリカードを起こしたりなどしないよう、猫のように足音を立てることも床を軋ませることもなく、密やかに。真冬の一番寒い時期は過ぎたとはいえ、この時刻だとまだまだ空気は冷たい。ふたり分の体温で温められた肌も瞬時に冷め、――元から熟睡とはほど遠い夜だったが――寝惚けた頭も覚醒する。


 気配を絶ったまま控えの間へと身体を滑り込ませ、そこで慌ただしく昨夜の汚れを拭き清める。ほとんど手探りで顔を洗い化粧をし、髪と衣装を整えるとやっと太陽が昇り、屋敷の奥まったところに位置するこの部屋もいくらか明るさが射すように思われた。そして屋敷全体も目を覚ましたかのように、あちこちで人の気配が蠢き始める。無論、エルジェーベトと同様に昼夜を問わず、あるいは夜の間にこそ務めがある者も少なくはないのだけど。()()()主であるリカードの起床に合わせて、屋敷の時間が動き始めたのだ。


 エルジェーベトが支度を整えて先ほどまで休んでいた寝室に戻ると、リカードが不機嫌そうな面持ちで朝食を摂っていた。老齢にもかかわらず、屋敷の貯蔵庫から供出させた塩漬け肉を平らげているのは、それだけ今の事態に対処するために体力と気力を補わなければならないということだろうか。


「昨夜はよくお休みになれましたか」


 やはり気配を殺して、塵の一粒たりとも動かすことがないように、主の枕元に擦り寄りながら、エルジェーベトは尋ねた。同時に空いていた杯に水で割った葡萄酒を満たす。朝食を運んできた娘はリカードの扱いにまだ慣れていない。主に命じられる前に――主が不足を感じる前に――動くというのは、世間知らずの娘には難しいだろう。


「ふん、差し出がましいことを……!」


 無礼とも言える女からの問いかけに、リカードの目がぎろりとエルジェーベトを睨んだ。機嫌が悪いのは承知の上だったから、彼女の気にするところではなかったが。

 昨夜、女の身体を求めたのは欲望に駆られたからだけではなかったのも分かっている。自分より弱い者、力づくで従えて好きに扱える者がいることを確かめなければ心の安寧が得られないほど、老獪なリカードでさえも今の状況には焦りを感じているのだろう。


 ――つまりは、よほど旗色が悪いということなのかしら……?


 リカードの策が最後に成功したのは、黒松館の襲撃だろうか。だが、側妃を見事手中に収め、王とミリアールトを争わせることができると思ったのも束の間、側妃はブレンクラーレに連れ去られていた。ミリアールトの王族の生き残りとかいう、あの美しい若者に、リカードともあろう者がまんまとしてやられたことになる。王がミリアールトではなくブレンクラーレに兵を向けたのも、そのためにティグリス王子の乱を持ち出して諸侯を煽ったのも。側妃恋しさのあまりの強弁かと思っていたのに、どうやら正鵠を得ていたらしい。リカードは、ブレンクラーレのアンネミーケ王妃にまでも欺かれていたのだ。

 それでも王の不在の間に諸侯の支持を取り付け、マリカたちを取り戻すはずが――今度は、当のマリカが実の父親を裏切った。王が大国ブレンクラーレを降して歓呼で迎えられる一方で、リカードは着実に人望を失い、逆賊として追い詰められようとしている。


 この屋敷を襲い、王に()()()()()()()()()不忠者を討ったことで、浮足立っていた者たちの手綱を引き締めることに一旦は成功したようだけれど。逆賊の謗りを受けるくらいならば――後の評判や残される家族のためにも――リカードに討たれた方がまだマシだ、と考える者も出るのかもしれない。凱旋後、すぐにも討伐の軍を差し向けるであろう王を迎え討つにあたって、リカードは自陣を整えるのにひどく苦慮しているようだった。


「ティボールを呼べ。寝惚けて怠けるなどと許さぬ」


 エルジェーベトが敢えてリカードの逆鱗に触れかねない不躾な問いを発したのは、何か今の状況についての情報を得られないかと期待したからだった。マリカたちのために何をするのが最善なのか――リカードに従ってさえいれば良い、とは到底信じられない状況に陥ってしまった以上、彼女としても今後の判断には慎重にならなければならない。


 だが、やはりというか、リカードは女に対して多くを語ることはしなかった。十数年に渡って命じられるままに何事もこなしてきたエルジェーベトのことを、まさか疑ってはいないのだろうが。女風情に掛ける言葉が惜しいとでも思っているのはありそうなことだ。


「仰せのままに」


 だから食い下がっても不興を――もしかしたら暴力も――被るだけ、エルジェーベトは大人しく引き下がることにした。戦々恐々といった面持ちで給仕をしていた若い娘のことも目で促すと、リカードの前から下がれると知って心底安堵した表情を見せた。




「あの……」


 リカードの着替えを手伝う従者たちと入れ替わりで寝室を下がり、まだ冷えた廊下に出たばかりの時だった。リカードに給仕していた娘がおずおずとエルジェーベトに話しかけてきた。


「昨晩は、ありがとうございました……!」


 言うと同時に、娘は跪かんばかりの勢いでエルジェーベトの手を握りしめ、額に押し戴いた。


「ああ……」


 娘が何の話をしているかはすぐに分かった。この少女は、この屋敷の前の主――リカードにたまたま選ばれて、見せしめとして命を奪われた男――の娘。母親共々、命だけは救われたが、親族の男たちに対する人質として、囚われの身になっている。父親の血が染みついた屋敷で寝起きしなければならない心労に加えて、女手の足りない陣中のこととあって、召使い同様の雑用を命じられる屈辱にも精神を削られているのだろう。瑞々しい桃のように色づきふっくらとしているはずの頬は、エルジェーベトが初めて会ってからの数日で見違えるほど()けていた。


 それでもこの娘は屋敷の中で一番若い女で、年齢相応の愛らしさと初々しさを備え、つい最近まで貴族の令嬢として大切に養育されていた。加えて父親を亡くした寄る辺のない身の上、リカードにとっては遠慮も呵責もなく弄ぶことのできる相手でもあった。男たちの品定めの視線を感じた娘は怯えていたようだし、母親も出来る限り気を配っていたようではあった。だが、しょせんは囚われの身だ。

 昨晩、この娘が晩餐の食器を下げようとした時、ついにリカードは娘の細い手を掴んで命じたのだ。


『今夜はお前に酌を頼もうか』

『え……』


 リカードのぎらついた目を見れば、もちろんただの酌で済むはずがないのは明らかだった。父親が乱に巻き添えで死んだ身ではそもそもまともな縁談など望めないだろうが、一縷の望みさえ絶たれることになるのだろう。娘は全てを奪われる予感に凍り付き、その母親も血相を変えて口を開き――開こうとして、何も言わなかった。リカードに逆らえばその場で娘の命が奪われることを恐れたのだろう。


『まあ、殿様。このように気の利かない小娘がお好みですか?』


 だからエルジェーベトは素早くリカードに擦り寄って囁いた。そうしなければ、娘はそのままリカードの寝台に連れ込まれることになっていただろうから。


『なんだ、お前も()くということがあるのか』


 エルジェーベトの意図に、リカードも気付いたのだろう。だが、その上で娘の貞操を守ってやるためだ、などとは思わなかったに違いない。彼女が考えるのは常にマリカたちのことだけ、余人のために心を砕くなど未だかつてなかったのだから。――だから、リカードは自身の都合の良いように捉えて気を良くしたようだった。


『ふふ、それはもう。生娘などお相手してもつまらないだけでしょうに』


 わざとらしいほどに(しな)を作ってリカードにしなだれかかりながら、エルジェーベトは娘の母親に目配せした。娘よりは世知に長けるらしい母親は、彼女の意図に気付くと娘を引きずるような勢いで退出していった。


 一方のエルジェーベトはそのままリカードの機嫌を取りつつ寝室に侍り、そして今朝に至るという訳だ。


「何とお礼を申し上げて良いか……!」


 あの時は固まっていたようだが、娘本人もエルジェーベトに助けられたと気付いていたということらしい。目を潤ませてなおも感謝の言葉を紡ごうとしていたらしい娘の唇を、しかし、エルジェーベトはそっと指先で塞いだ。


「廊下で大声を出されませんよう。誰が聞いているか分かりませんもの。それよりも早くお母様の元に――安心させて、差し上げなければ」


 リカードは、今日もまた息子たちと(はかりごと)に忙しいはずだ。使用人や女たちもまた、茶に酒に食事にと立ち回ることは多いのだが――厨房や倉庫には、男たちの目は届きにくい。リカードの手によって絶望の淵に叩き落された母娘と、密かに言葉を交わす機会を持つこともできるだろう。




「娘のために身を挺してくださるなんて……」


 食糧の在庫を確認するため、という口実で母と娘を物陰に誘い出すと、母親の方もエルジェーベトに対してほとんどひれ伏すように恐懼した。こうなることは予想していたから、エルジェーベトはごくさらりと流すのだが。


「いいえ、私などは慣れておりますから。お嬢様に何事もなくて、本当に良かった」

「そんな……」


 母娘の目に、感謝と同時に哀れみが宿るのもまた、予想していたことのはずだった。もしも何事も起きていない時に彼女とリカードの関係を知ったなら、この女たちの目には更に蔑みも見て取れるであろうことも、分かり切ったこと。たまたま今の状況で知ったから感謝が第一に来ているだけで、()()()()女は男の閨に侍る類の女を見下すものなのだ。


 ――私が最初に犯されたのは、この娘より若い頃ではなかったかしら……?


 その時もその後も、エルジェーベトが泣いても叫んでも誰も助けても哀れんでもくれなかった。だから彼女も無駄なことはすぐに止めたのだが。リカードの正妻であるティゼンハロム侯爵夫人などは、マリカのために身命を惜しまない覚悟を示していなかったら、とうに彼女を叩き出していたのではないだろうか。まあ、夫の愛人を娘の傍に置いておきたいと思う母がいるはずないから、それは当然のことなのだろうけど。


 リカードの魔手に狙われながられた娘、父親を無惨に殺されはしても、女としての誇りは辛うじて守られた娘。まだ最悪の屈辱や苦しみは知らない娘の無邪気な顔を見ていると、苛立ちのような感情がエルジェーベトの胸を掻いた。

 とはいえそれは今考えても意味のないこと。変えようのない過去に思い悩んでも益はないし、この娘も母親も、エルジェーベトの過去には何ら関わりない。関わりがあるとすれば――彼女の、未来だ。


「大きな声では申せませんが、侯爵様の非道がいつまでもまかり通るはずがございません。今この瞬間も、陛下は王都に入られているのかもしれませんし――どうか、お心を強く持たれますように」

「そう、でしょうか……!?」


 いかにも気の毒そうな微笑みと共にエルジェーベトが述べたことに、母娘は思った通りに食いついた。やはり、人は弱った時には同情と励ましを求めるもの。非道な行いに対しては、報いがあると信じたいもの。父や夫を不当に奪われ、彼女たち自身までも貶められる中で不意に見せられたエルジェーベトの優しさが、眩しく見えないはずがない。


「ええ。ですからくれぐれも早まったことなどなさいませんように。侯爵様のご気性は私もよく存じておりますから、なるべくお気を逸らせるようにいたします。ご夫君様や父君様のこと、大変お気の毒に思っておりますの」


 弱く愚かな女たちが何より欲しているであろう言葉――全てを失った彼女たちに手を差し伸べてやるという甘い言葉――を惜しみなく投げ与えながら、相手の目に希望の光が点るのを確かめながら、エルジェーベトは密かに嗤う。

 リカードが考えたであろうことは全く正しい。エルジェーベトがマリカたち以外の者のためにわざわざ動いてやることはない。世間知らずの小娘がリカードや他の男に犯されようが、心を痛めることもないだろう。我が身と引き比べて、いっそ良い気味だとさえ思ったかもしれない。


 けれど実際にはエルジェーベトはこの母娘を助けてやった。ならば、それはマリカたちのためになるからだ。より正確には、もはやマリカたちの害にしかならないかもしれないリカードを取り除くための、良い駒になってくれるからだ。夫あるいは父を殺されて、感じるのは恐怖だけではあるまい。恨みや憎しみも、この女たちの胸に確かに燃えているはず。そこへ更に、エルジェーベトへの恩義を植え付けてやれば――


「何と心強いお言葉でしょう……!」

「この御恩は決して忘れませんわ」


 ほら、こんなに簡単にエルジェーベトを信じてしまうのだ。これでこの女たちはエルジェーベトの思うがままだ。リカードの専横を憂える振りで、王に密かに加担できれば、とでも吹き込めば、見聞きしたこと、彼女らが知る屋敷の隠し部屋など何でも教えてくれるだろう。それが何の役に立つかはまだ分からないけれど――情報は、多いに越したことはない。


「あまり長く外していると怪しまれてしまいます。そろそろ戻らなくては――それと、殿方のいる前ではこれまで通りに。女たちで結んでいるなどとは思われないようにしないといけません」


 あくまでも優しく、親切ごかして忠告すると、母娘は揃って何度も首を縦に振っていた。まるでちゃちな仕掛けの人形のようで嗤いを堪えるのに苦労させられる。けれど嘲笑を露にすることは決してしてはならない。少なくとも、エルジェーベトが為すべきことを――この女たちの使い道を、思い定めるまでは。

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