共にある覚悟 ウィルヘルミナ
やっと、というべきか、ウィルヘルミナは夫と並んで長椅子に掛けた。久しぶりにお互いの顔を見た高揚から、座ることもせず立ったままで語らって――抱き合っていた。ふと我に返ると気恥ずかしいことこの上ない。疲れているに違いない夫に、椅子を勧めることにも思い至らなかったなんて。
「玉座の間に皆様を集めていただいて、父と何を話したか――アンドラーシ様からお聞き及びのことと存じます」
膝を寄せ合って向かい合う姿勢は、かつて娘も交えて団欒した時と全く同じ。でも、今宵はウィルヘルミナが酒を注ぐことも夫が杯に手をつけることもない。とても重要なこと、彼女と夫のこれまでとこれからに関わることを詳らかに語り合わなければならないと、お互いに分かっているのだ。
「私が父を……あの、追い詰めることができたのは、私が手紙を託したという証人を公に出すことができないと分かっていたからです」
言わずもがなのことをわざわざ改めて口にするのは、自らの非を認めるのが、それによって夫の怒りと失望を買うのが怖いから。少しでもそれを先延ばしにしたいから、なのだろうか。多くを語ることによって、ウィルヘルミナの愚かさはより一層際立ってしまうような気もするけれど。
「なぜなら、その者は既に死んだはずの者。それも、重い罪への罰を賜って。……その者が生きていると知られるだけでも、父の反逆の意思は明らかになってしまうのです」
夫の青灰の目が、じっとウィルヘルミナを見下ろしている。恐らくはある程度は想像がついているだろうけど、彼女の口から全てが語られているのを待っているらしい。そしてそれは当然のこと、彼女がしなければならないことだ。
だからウィルヘルミナはその者の名を声に出して呼んだ。できるだけはっきりと、この期に及んで誤魔化したり濁したりしないように。
「私が父への手紙を託したのは、エルジェーベト――シャスティエ様に……毒を盛ろうとした、私の乳姉妹です」
ウィルヘルミナの告白を聞いて、夫はいかにも不快げに眉を顰めたが、驚いた様子は見せなかった。数秒の沈黙は、怒りを呑み込むためのものだろうか。やっと夫が口を開いた時、声は低く抑えられていた。
「……確かにリカードはあの者に死を与えたと言っていた。それが生きていると知ったのは、いつだ?」
「ファルカス様が発たれてから少し後のことです。私の身の周りの者が少なくなったからと、父が送ってきた者の中に……」
夫の内心を窺えないのは、怒鳴りつけられるよりも怖い。それでも問われたことに、間を空けることがないように答えると、夫は音高く舌打ちをした。
「どこまでも舐めた真似をしてくれる……!」
「申し訳ございません……!」
初めて露にされた夫の怒気は、鞭のようにウィルヘルミナを打った。
――やっぱりファルカス様はお怒りなのね……。
折れそうな心の支えにしようと膝の上で拳を握る――と、温かく乾いた感触がそこに重なってきた。夫が、ウィルヘルミナの拳を掌で包んだのだ。
「違う。お前に言ったのではない。まあ、お前は悲しむのだろうが、リカードに対して言ったのだ」
身体を寄せてそう囁いた夫の表情は、驚くほど――訳が分からないと思うほどに優しく、気遣いに満ちたものだった。何かの間違いかと、目を凝らす一瞬の間にその表情は消えて、すぐに険しい怒りと不快に取って変わられてしまったけど。でも、夫の目が映すのがウィルヘルミナではなく、ここにはいない父の姿であることは察することができた。
「正直に言って、可能性としては考えていないではなかったのだ。リカードめ、罰を下したと女の首を寄越したものの、人相を判別できるものではなかったからな……」
「そんな……」
夫が忌々しげに吐き捨てたことを聞いて、ウィルヘルミナは震えた。十分に温められている室内なのに、急に氷室に移されたかのよう。何ものかも分からないほどの形相をした首、などと聞かされたのも恐ろしかったけれど、何より恐ろしいのは、父と乳姉妹への忌まわしい疑いが裏付けられてしまったからだ。
父は――エルジェーベトは、シャスティエの御子を害そうとした罪を償う気などさらさらなかったのだ。それどころか、恐らくは全く関係のない人を身代わりにして生き永らえた。
――私は、何ということを……!
ウィルヘルミナの顔色が変わったのは、エルジェーベトを庇ったことの意味を改めて知ったからだ。ほとんど生まれた頃から共に育ち、過分なほどの情愛を捧げられた自覚もある。だから自身の告発によってエルジェーベトの命が喪われるのを、その献身に対する裏切りのように思ってしまったのだ。でも、ウィルヘルミナが身代わりの存在を疑ったのに気付いた上で、エルジェーベトは全く悪びれた様子を見せなかった。反省や後悔の言葉も、ひと言たりとも聞くことはできなかった。
「お前やマリカに検分させる訳にもいかなかったからな。あくまでも黒幕はリカード、女ひとり見逃したとしても大したことはできないだろうと思っていたのだ。――だから、俺にも落ち度はあった」
「そのようなことはありません。私が、何を置いても打ち明けなければいけないことでした……!」
掌で包み込んだウィルヘルミナの拳が震えたのを、夫は単に死体の話を怖がったのだと思ったのだろう。でも、慰める言葉も髪を撫でる手も、やはり彼女には過ぎたもの、ウィルヘルミナは慌てて振り払いながら叫ぶように続けた。
「エルジー――エルジェーベトは、全て私のためだと言ったのです。だから私、私が彼女を罰することはできないと思って――」
「お前にとっては情のある相手だったのだろう。ならば無理もないことだった」
「いえ! だからといって許されることではありませんでした……! 私のためだからこそ、私が悪いと言っておかなければ――ファルカス様だけではありません、シャスティエ様、フェリツィア様のためにも……!」
夫の寛容な言葉にも、安堵することなど不可能だった。自ら口にしてみれば気付かされる。命を狙われたシャスティエやフェリツィア王女に対してこそ、ウィルヘルミナは顔向けすることができない。エルジェーベトが王宮にいた間は、フェリツィア王女はバラージュ家に託されていたけれど。だからこそ、ウィルヘルミナも万一のことはないだろうと思っていたのだけれど。
でも、シャスティエは同じように思ってはくれないだろう。我が子を狙った者が生きているというだけでも、耐えがたいほどの恐怖だろうに。母である方にそのような思いをさせながら、どうして友人などと名乗ることができるだろう。
「私、シャスティエ様に会わせる顔がありません……」
「あの者はお前を責めはしないだろう」
「そんなはず――」
夫の言葉は気休めとしか思えなくて、ウィルヘルミナは首を振った。だが、夫には何かしらの確信があるらしく、握ったままのウィルヘルミナの拳に重ねられた手に力が篭る。
「情のために肉親を――お前にとっては乳姉妹だが――斬り捨てることができなかったのは、あの者も同じだ。黒松館を襲ったミリアールトの王族、シャスティエにとっては従弟にあたる者のこと――あの者は、俺に殺されるのを恐れて打ち明けることができなかったと言っていた」
「ミリアールトの……」
言われてウィルヘルミナは思い出した。夫がブレンクラーレへと発つ前、最後に共に過ごした夜のことを。夫は、肉親を殺せばシャスティエに憎まれると恐れているようだった。更には父と敵対した時はウィルヘルミナも同じことになるだろう、と。
――シャスティエ様の従弟の方……その方は、もう……?
ウィルヘルミナが聞いたのは、夫はブレンクラーレで勝利を収めたということだけだ。誰が誰を討ったとか、帰らなかった者のことまではアンドラーシは教えてはくれなかった。ただ――ミリアールトは一度滅びた国。シャスティエの従弟という者は、イシュテンの側妃を攫った大罪人。ならば、その人は既にこの地上にはいないのだろう。夫の苦い微笑みは、きっとシャスティエに憎まれたと信じているからこそだ。
でも、夫は間違っている。人を愛することも嫌うことも、そう簡単なことではないのだ。ウィルヘルミナだって、悪事を重ねた父やエルジェーベトをいまだに憎み切ることができないのだ。しかも、国のためにも子供たちのためにも、夫の行いは倫に悖ることではない。ウィルヘルミナにとって――恐らくはシャスティエにとっても――辛く悲しいことではあっても、それを理由に夫を憎むなどとひどく難しいことだ。
「シャスティエ様は、大切な方が大切な方と争うのを恐れたのだと思いますわ……」
「さあ、それは分からないが」
思い違いを正して差し上げたかったのに、夫はウィルヘルミナの言葉をあっさりと流すと、手を彼女から離してしまった。まるで、これから彼女の父と敵対することを思い出したかのよう。自身を憎む相手に触れてはならないのだったと思い出したかのよう。彼女の方では、夫を嫌うなど思いもよらないことだというのに。
「……俺は、長く良い夫ではなかったのだろう。妻たちのいずれにも、俺に秘密を打ち明けるのを恐ろしいと思わせてしまっていた。信じるに足ると思わせることができなかったのは俺に非がある。だから、お前たちを責めるなど俺にはできぬ」
夫の言葉は、ウィルヘルミナの秘密を、裏切りを許すと言ったも同然だった。でも、負い目があるから責めないと言われては、素直に喜ぶことなどできはしない。これでは、夫には彼女の想いは何ひとつ伝わっていないことになってしまう。
「私は――これからもずっとファルカス様のお傍にいたいと思っております。愚かなことではありましたけれど……父に背いたのもそのためです。先ほど申し上げた通りです」
「それはありがたく思っている」
「例え父との間に何があっても、です。お分かりになっていただけていますか……!?」
ごく真面目な顔で頷いた夫の反応は、ウィルヘルミナでも鈍いと思ってしまうほどだった。あるいは、酷い、とも言える。ウィルヘルミナが何を言おうと、どうせ憎まれるに決まっている、と思っているのがあまりにも明らかだから。
――私が、その程度の覚悟だと思っていらっしゃるの……?
叱責を待っていたはずの身で、そのように考えるのはおこがましいことなのかもしれないけれど。夫の諦めたような顔は、ウィルヘルミナにとって耐えがたく不本意で、そして同時に痛々しく見えた。彼女は夫の力になりたいと、ずっと思っていたはずななのに。どうしてこんな顔をさせてしまうのだろう。
「今のうちだから言えること、などとはお思いにならないでくださいませ。きっと悲しんでしまうことは分かっています。でも、だからといってファルカス様を嫌うなんて……それは、全く別のことです」
「ミーナ……?」
ウィルヘルミナの方から身体を乗り出して夫の手を取ったのは、多分初めてのことだったかもしれない。夫が目を見開くのを見れば、己のはしたない行いが気恥ずかしく、頬から火が出る思いがする。でも、こうしなければ分かってくれないだろう、とも思えた。
「だから、そんなことは仰らないでください。父に逆らう勇気を持つことができたのは、父の非を理解しているから。ファルカス様の役に立ちたいと思ったから。愚かな過ちを――罪を、打ち明けることができたのも、それを繰り返さないためなのですもの。許されないこととは、分かっていますけれど――全てをお伝えした上で、もしもファルカス様が頷いてくださるなら……私は、貴方様の妻でいたいのです……!」
熱に浮かされたように、ウィルヘルミナはひと息に言い切った。これまで何も考えずしてこなかった癖に、今さら何を言うのか――少しでもそのようなことを考えてしまうと、舌が凍りついてしまうだろうから。たとえおこがましくても、今、この時でなければ言えないこと、そして言っておかなければならないことのはずだったから。
「あ……もちろん、シャスティエ様を押し退けてまで、ということではないのですけれど。あの方と共にいても恥ずかしくないように、と……だから、私も頑張らなければ、と思ったのです……」
そして言い洩らしたことに気付いて、慌てて付け加える。夫の変化も、ウィルヘルミナの変化も、シャスティエがいなければなかったものだ。ウィルヘルミナが許されたのは、夫がシャスティエをも許していたからだと、たった今も聞かされたばかり。もちろん、ウィルヘルミナがあの方に勝るところがあるとは思えないけれど。でも、最初から諦めることはしたくなかった。
ウィルヘルミナの思いは、伝えた。後は、夫はどう応えてくれるか――不安に息が詰まる思いで見つめる先で、青灰の目がふと和らいだ。
「そうだな……俺が弱気でいてはお前の覚悟を裏切ることにもなりかねないのだな」
「……はい! ですから……頼りない身ではありますが、過ちを犯したばかりですが、どうか信じてくださいませ……!」
「ああ、信じる。リカードとの戦いの前に、憂いのひとつを断つことができたことを、嬉しく思うぞ」
――ああ、やっぱり……。
やはり夫は父と戦うのだ。父がこの地上にいられる時間もあとわずか、生きてまた会うことが叶うかどうかも分からない。もちろん、父が今さら娘に会って喜ぶはずもないのだけど。父だけではない、母や兄や姉たち、エルジェーベトとも永の別れになってしまう。
親しい人たちとの別離を予感すると、ウィルヘルミナの胸は刃で貫かれたように痛んだ。けれどそのような想いは努めて表には出さないよう、夫に対してはあくまでも微笑む。
「ありがとう、ございます。ご武運をお祈り申し上げますわ……!」
ウィルヘルミナの言葉を喜んでくれたものの、夫は心の底から信じているのではないだろうと分かってしまったから。いずれ妻に憎まれることを覚悟している方を、少しでも安心させて差し上げたかったのだ。