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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
4. 戦馬の掟
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雌伏する虎 ティグリス

「どこに行っていたの!? 心配させないで頂戴!」


 部屋に戻った途端に母に抱きつかれて、ティグリスは危うく倒れそうになった。自分の命令で息子を不具にしたというのに、この人は時々その事実を忘れるようなのは困りものだった。大変情けない話だが、片脚が捻れた身では女ひとりあしらうのにも苦労するのだ。母が特別加減を知らずに彼に構ってくるのも理由ではあるが。母にとっては、彼はいつまでも幼い子供でしかないようだ。あるいは、そのように型に嵌めて(たわ)めておきたいということなのだろうが。

 手近な卓に手をついて身体を支えながら、母を宥める。


「義姉上がいないから兄上もこちらにはいらっしゃらないだろう。心配いらないよ」


 兄の勘気を被るよりも、母が余計な気を回して念のためにもう片方の脚も折っておこう、などと考えつくことの方が彼にとっては差し迫った危険だった。先日念のため会ってみて痛感した。兄は彼を敵として見てさえいない。兄の態度から感じたのは侮蔑と嫌悪、そして少々の当惑だけだ。なぜ無様な姿を晒すことができるのか、という。声を荒げられたのも、目障りな存在が目の前に現れたからというだけ、しかも、臣下の手前ということが大いに関係していると思う。

 王たる者は小煩い羽虫になど気を留めないのだろう。兄にとってティグリスは獲物にすらならない小物に過ぎない。わざわざ敵と見なすような存在ではないのだ。覚悟していたことではあってもそうと突きつけられたのは悔しく悲しいことだった。


 だから、母に対して取り繕う気にもなれず、刺のある言い方になってしまう。


「王宮は私にとっても懐かしい場所だし、少しは知己もいる。もう子供じゃないんだ」


 言ってから激昂させてしまうか、とひやりとしたが、母は不思議そうに首を傾げるだけだった。


「貴方はいつまでも私の子よ。絶対に、何ものからも、守ってあげる」


 どこまでもずれた反応に、ティグリスは途方もない疲労感を感じた。


 ――貴女にとって守るとは何なのだ?


 実の息子、それも十やそこらの子供の脚を折った上に、まともに恢復しないように寝台に縛り付けることか。誰からも蔑まれ軽んじられる存在に貶めることか。

 歴史上、我が子を後継者争いから逃そうとした女は多いが、この発想に至った者はいなかっただろう。さすがは元王妃と言うべき冷酷さと思い切りだ。


 確かに母のおかげで彼は取るに足らない存在になった。兄もティゼンハロム侯も彼を見逃してくれている。おそらくは母の暴挙にやや呆れつつ。つまり実際に彼を害したのは今のところただ一人、母だけということだ。


 生きるため。そのためだけに彼に閉ざされた道は多い。兄たちの治世を生き延びて王位を狙う道。あるいは臣下として兄に仕えて知や勇を認められる道。いずれも生命の危機はあるが、その価値のある生き様だったろうに。殺されるよりは惨めな生の方がマシだというのだろうか。


「いつまでこんなところにいるの? 早く帰りましょう」


 いつものように息子の思いには気付かない様子で、母は彼の腕に縋ってきた。


「まだ駄目。義姉上にご挨拶していないからね」


 母がいる限り義姉が王宮に帰ることはないから、多分会うことは叶わないだろう。それはそれで構わない。義姉も、姪である王女も可愛らしい人だとは思うけれど、別に好んで会いたいとは思わない。何ひとつ悩みを知らない人たちは彼には眩しすぎて、自身の不遇や鬱屈を顧みさせられてしまうから。それよりも重要なのは、義姉を口実に使えば滞在を伸ばすことができるということだ。母の説得には随分な時間と労力を要した。貴重な外出の機会は有効に使うつもりだった。


「あの子に会ってどうするの? ファルカスなんかを選んだ子なのに。

 早く帰ってお母様を安心させて頂戴」


 ――安全なところなどあるものか。


 懇願する母を、嗤いそうになるのをこらえる。母の実家も力のある家ではあるが、領地に篭って大人しくしていれば平穏に一生を終えることができるとでも思っているのだろうか。どうしてそのように甘い考えを抱くことができるのだろう。


 兄がずっと健在なら良い。兄に対抗するのに彼を担ごうとする者はいないだろうから。

 しかし、兄に何か起きたら? イシュテンの王が戦場で斃れるのはままあることなのだ。

 不具の王子か幼い王女かを選ばなければならないとなれば、臣下も真剣に悩むだろう。甚だ程度の低い選択ではあるが、それだけに国は荒れる。彼も戦場に引きずり出される。息を潜めていれば無事に済むという状況ではないのだ。


 母もそれを認識してはいる。だから兄が遠征に出たと聞けば心配するし、たまに会えば世継ぎはまだかと義姉をせっつく。ほとんどの場合ティゼンハロム侯に阻止されているようではあるが。


 ――愚かなことだ。今は逆に好機だというのに……。


 母は彼から戦う術を奪ったが、彼に流れる王家の血を否定することまではできない。そのようなことはこの世の誰にもできはしない。

 兄に世継ぎがおらず、ティゼンハロム侯と争い続けて力が不安定なのは喜ぶべきことだ。彼のような者にも付け入る隙があるということだから。

 片脚を折られても顧みられなくても、彼は(ティグリス)の名を与えられた猛きイシュテンの王子だ。牙と爪がある限り戦い続けるのが宿命だ。兄はそれを忘れているのかもしれないが――


 ――思い出していただこう。私が何者かを。そして認めていただかなくては。私も兄上に挑む気概がある者だと……!


「聞いているの?」


 息子が返事をしないので、母の声に苛立ちが交じり始めている。かしずかれ周囲を思い通りすることに慣れた彼女はなおざりに扱われることを嫌う。

 ティグリスは母に向き直ると、優しげに見えるであろう笑顔を作った。


「もちろん。母上にはいつも感謝しているよ」


 偽りの笑みに、母は満足そうに頷いた。

 母をあしらうのは慣れたものだから当然だ。見たいものだけを見て信じたいものだけ信じるこの人には、息子が抱える鬱屈などわかるまい。息子を想ってすることなのだから、感謝されて当然と認識しているのだろう。




 母の繰り言を聞き流しながら思うのは、先ほど会ったばかりの姫君のこと。


 母の実家は、先の後継者争いでティゼンハロム侯の一門に敗れた。手に入れたも同然と思っていた権勢を奪われた一族の者の、かの家に対する憎悪は凄まじく――正直、母の暴挙がなければもう少し良い勝負ができたのではないかと思うのだが――、ティゼンハロム侯が王の不興を買ったとされる狩りでの一件は大いに彼らの溜飲を下げた。

 ミリアールトの元王女は、その話題の中心にいる人だった。男を弄ぶ蜘蛛のような女。かの国の奉じる雪の女王のように冷酷な女。誰も会ったことがないのに見てきたように語るのが滑稽なほどだった。


 面白おかしく語られる噂とは違って、実際に会った彼女は血の通った人間、ただの異国で戸惑う少女だった。大変に美しいという一点のみは真実だったが。


 ――この国の事情を何もご存知ないようだった。ご自身は立場をどう考えているのだろう?


 彼とまともに言葉を交わそうとする者はまれだ。まして若い娘とあっては尚更。万が一にもティグリスに子供など生まれては面倒なことになるので、母が厳しく監視している。少しばかり同情を示しただけの侍女が母に売女と罵られて折檻されて以来、彼に好んで近づく者はいない。


 あの姫君はそんなことは知らないから、彼に話しかけたのに大した覚悟があるはずもないのだが。腫れ物扱い、いるようでいないような扱いに慣れた身には嬉しかった。一目でわかるだろうに脚のことに触れなかったことも。

 そして困る。彼女も利用するつもりだというのに。罪悪感が芽生えてしまうではないか。


 否、偽善は言うまい。ティグリスは喜んでいる。あの姫君が彼に近づいてきたことに。敵地で怯えきっているとか、兄に取り入ることに必死という風ではなかった。恐らく憐れみからではあるだろうが興味を持ってもらえたなら結構なことだ。

 母のおかげで、人の顔色を読むことには長けている。警戒されにくい立場と身体でもある。彼女の不安や不満、憎悪に寄り添い、信頼を得るのも不可能ではないだろう。


 そして、彼女のことを何も知らないのに気付く。あの人、だとか姫君、だけでは無礼だろう。


 ――次にお会いしたら、まずは名前を聞いてみよう。


 ティグリスの口元には、いつしか自然な微笑みが浮かんでいた。

夜にもう一話投稿します。

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