冬の日の出会い シャスティエ
シャスティエは一人で王宮の庭園を散策していた。
近頃は警戒が緩んだのか監視の侍女がつくことも少なくなった。狩りの一件で乗馬の下手さが露見したので、逃げようがないと思われたのかもしれない。悔しいけれど事実でもある。今に限って言えば、ミーナがマリカと共に実家に下がっているので人手が少ないということもあるのだろうが。
シャスティエは冬が好きだ。イシュテンの冬は故国に比べれば温いとはいえ、凛とした空気に頭が冴える気がする。
部屋に篭っていても、本を読む気にも刺繍で暇を潰す気にもなれない。溜息が出るばかりの主を見かねてイリーナが外の空気を吸うよう勧めてくれたのだ。
足跡一つない滑らかで真っ白な雪や、木々の枝から下がった小さな氷柱から滴る雫が煌く様。凍った池の鏡のような水面。冬がもたらす風景は故郷に少し似ていて、本来なら懐かしく心休まると思えても不思議ではない。だが、今のシャスティエには色褪せて思える。
考えれば考えるほど王に従う他の選択肢が浮かばなくて嫌になっているのだ。
机上の論なら、そして誇りを幾らか捨てれば道はないでもない。
例えば、属国になることを覚悟で他国に助けを求めるとか。
頭に近隣の勢力図を描く。イシュテンを囲むのは、北はミリアールトを北端として幾つかの国家。東側にはブレンクラーレ。南にはオトラント。西は山脈が険しいから考えないとして。
――ブレンクラーレは動かなかった。オトラントも内乱で揉めているとか。他の国はイシュテンに対抗するには国運を賭けることになる。ミリアールトのために立つことは期待できない……。
考えたところで、そもそも彼女には他国と連絡を取る術がないから空論に過ぎないのだが。
そしてファルカスの対応が意外と常識的である以上、従った方がミリアールトのためだというアンドラーシたちの主張にも一理あるのを認めざるを得ない。再興のために他国を頼れば、ミリアールトは今度はその国に支配されることになりかねない。
故郷の無事と自身の矜持。女王として迷わず前者を選ばなければならないというのに、できない自分が呪わしい。生命なら潔く差し出せるのに、それでは何の解決にもならない。小娘の首ひとつなど何の意味もないことを、既に彼女は思い知らされている。
――せめて臣従ではなく対等な同盟なら……それか王が絶対に心変わりしないという保証があれば。
問題になるのはシャスティエの感情だけではない。祖国の命運を賭けるには王の基盤はまだ危うい。そこを踏み切って王に与するのは果たして賢いことなのだろうか。
シャスティエもミリアールトも手札と言えるほどのものはないように思える。戦いでは完全に敗れ、女王たる彼女は敵の手中に落ちている。そのような状況では王と交渉するのも難しい。
いくら考えても行き詰まるばかりで、シャスティエの心は沈む一方だった。
ふと気付くと見慣れない風景の中にいた。考えながら歩いているうちに通ったことのない道に進んでしまったらしい。
見咎められても面倒だ、と引き返そうとする――と、視界の端に佇む人影が映った。イシュテン人には多い黒髪の、身なりの良い青年。杖を携えている。姿は見るのは初めてだが、王宮の奥にいる以上この人は――
――ティグリス王子?
声だけを盗み聞いた人の実際の姿を見ることになって目を瞠りながら、近づいて声を掛けても良いものか逡巡する。
人質の立場ではイシュテンの貴人に接触するのは慎重にならなくてはならない。王が異母弟を疎む気配があるならなおのこと。でも、彼女は今一人きりだけで見咎められることはないかもしれない。何より、王は寡妃太后に近づくなとは命じたが、この王子については言及していなかったはず。
だからシャスティエは自分に言い聞かせた。後ろめたさに鼓動が早まるのを感じつつも。
――ちょっとお話するだけ。王の命に逆らうことにはならないわ。ちゃんと言わないのが悪いのよ。
王の仕打ちへの同情と、不遇の身への勝手な親近感。好奇心も否定できない。緊張による息苦しさを自覚しながら、シャスティエは青年の方へ足を向けた。
雪を踏む音に気づいたのか青年は振り向き、彼女の姿を認めて軽く目を瞠った。
歳の頃は二十前後、だろうか。長身で黒髪という他はあまり王には似ていない。不自由な脚のためだろう、日に焼けていない肌や細い身体が幼ささえ感じさせる。無垢や未熟を表す新雪のような、という故郷の言い回しを思い出した。
「ごきげんよう。……いきなりお邪魔して申し訳ありません。
この季節に外で人に出会うのを意外に思ったものですから。お話させていただいてもよろしいでしょうか?」
浮かべた微笑みも言葉遣いも礼儀に叶ったもののはず。それでも突然話しかける不躾は否めない。本来なら取り次ぎをした上でしかるべき人に紹介を頼むべきなのだ。実際ティグリスは驚いた表情をした。
しかし、決まり悪い思いをしたのも束の間のこと、彼は破顔すると朗らかに答えた。
「邪魔などととんでもない。貴女のように美しく高貴な方に話しかけていただけるとは光栄です、雪の女王の写し身の姫」
目を瞠るのは、今度はシャスティエの番だった。淡い髪と瞳の色をした美しい娘を雪の女王に重ねるのはミリアールトの慣用句だったから。当然シャスティエも何度も聞いてきた言葉ではある。けれど、異国の地で異国の言葉で言われるとは思ってもみなかった。彼女にとってかの女神はミリアールト語で雪の女王と呼ぶものだったから。
絶句した彼女に、ティグリスはやや自信なげに言った。
「不躾な表現でしたでしょうか? 失礼しました。なにぶん北の国の方にお会いするのは初めてなもので。
お会い出来て……話しかけていただいて嬉しいとお伝えしたかったのです」
申し訳なさそうな表情をさせてしまい、シャスティエは内心うろたえた。確かに驚きはしたが、懐かしい表現で呼びかけられて嬉しかっただけなのだ。思いがけない驚きと喜びから、つい口を滑らせてしまう。
「いえ、雪の女王に喩えていただけるなんて、不遜ですけれど光栄ですわ。ただイシュテンの王族でいらっしゃる方がミリアールトの女神の御名を口にされるのが意外で――」
「私のことをご存知でしたか」
相手が眉を上げたのを見て、失言に気付く。盗み聞きしていたなどと口に出すことは当然できない。無難な言い訳を探してシャスティエの思考は目まぐるしく回転した。そして幸いに思いついたことは、全くの嘘という訳でもなかった。
「……太后様が王妃様のところにいらした時に私もその場にいたのです。お名前だけは伺っておりました、ティグリス様」
「ああ、なるほど」
ティグリスは納得したように頷いた。そして、軽く眉を寄せる。
「母はきっと無礼なことを言ったでしょう。代わってお詫びを申し上げます」
「いえ、私こそろくにご挨拶もできなくて……」
挨拶どころか太后は彼女に気付いてすらいなかった。あえて紹介しなかったのはミーナの優しさだったろうが。とはいえあの女性の息子にそうと言うのは憚られるので、シャスティエは言葉を濁した。
「義姉上をいびるのに夢中でしたか。立場も弁えずに困った人だ」
またも答えづらいことを言ってくるので、シャスティエは意識して答えをずらした。
「この国では寡妃太后様とお呼びするのですね。初めて知りました」
「王の生母でない者を王太后とは呼べないでしょう。先王の未亡人でしかないということですね」
「やはり、そうなのですね」
ミーナとのやり取りで気づかされたが、太后をマリカの祖母と考えたのは明らかな間違いだった。そして、彼女はどう考えても子供に合わせたい人柄ではなかったので、言い方はともかく王の配慮は当然のものだったと分かった。イシュテンの王族とその関係について、多分シャスティエはもう口を出すべきではない。
だが、だからといって王に対して悪かったなどと単純に思うことはできなかった。イシュテンの倣いに対する拒否感も、変わらない。
――庶子が、王だなんて。
太后の口振りからして、彼女にはもう一人息子がいたらしい。王妃腹の王子を押しのけてファルカスが王位に就いたのには血腥い経緯があったに違いなく、あの男の――あるいはこの国の残酷さへの嫌悪を拭い去ることはできない。
「よくあることなのですか? その、王妃以外の方が産んだ子供が王になるというのは?」
「兄上が簒奪者だと仰りたいのですね」
なるべく難のない言い方をひねり出そうとしたというのに、笑顔で本音を言い当てられてまたも言葉を失う。
「仮にも王族としては誤解を解いておかなければなりますまい。
イシュテンでは側妃の子でも継承権がありますし、王妃の子でも力がなければ退けられます」
思わず顔を顰めそうになったのをこらえて、今日も扇を持ってくれば良かったと思う。ティグリスは何でもないことのように語ったが、后と妾を同列に扱うのも兄弟同士で争うのも、彼女が教え込まれた道徳では受け入れがたい。
――やっぱりこの国のやり方は好きになれないわ。
「私はこの国について知らないことが多過ぎるようです」
苦々しさを呑み込んで呟くと、ティグリスは一瞬考え込む素振りを見せた。
「それでは教えて差し上げましょうか?」
「え?」
思いもよらない提案に間の抜けた声が出てしまう。今日は驚いてばかりだ。
「こんな外で立ち話ではなくて、人目につかない東屋ででも。お招きにあずかりたいなどと図々しいことは言わないし、警戒される必要もない。私はこの通りの脚だから、何かあったとしても逃げるのは容易いでしょう」
畳み掛けるようにまくし立ててから硬直しているシャスティエに気づいたらしく、若い王子は表情を曇らせた。
「困らせてしまいましたね。申し訳ありません。人と対等に話をするのは久しぶりで」
寂しげな表情に、自嘲するような口調。盗み聞いた王との対話は、傍で聞いているだけでもいたたまれなさに息苦しくなるようなものだった。彼がいつもどんな扱いを受けているのか、容易に察することができて胸が痛む。
「いいえ、お心遣いに感謝の言葉もございませんわ。よろしければ、是非またお話したいです」
彼を貶める者と同類になりたくない一心で、気がつくと誘いを快諾していた。一瞬の後悔も、ティグリスが嬉しそうに笑ったのを見て安堵に変わる。
次に会う日時を約束すると、ティグリスは時間をうかがうようにちらりと太陽を見上げた。今日の太陽は薄い雲越しに弱く柔らかな光を放っていた。
「ここは冷えますし、今日はそろそろ失礼させていただきます。恥ずかしい話ですが、あまり出歩いていると母がうるさいもので」
「心配なさっているのでしょう」
何気ない相槌に、ティグリスの顔が歪んだ。今までとは違う、どこか昏い感情を乗せた微笑みに。
「そう。過保護なのですよ。心配するあまりに息子の脚を折らせるほどに」
「え……!?」
驚いた、とはこの瞬間のための言葉だった。あまりにさらりと言われたので、聞き違えたかとさえ思う。あるいは冗談と笑い飛ばせれば良かった。だが、彼の瞳が事実を告げていると教えてくる。
それでも信じ難くて――信じるのが厭で喘ぐように問う。
「なぜ……お母様なのに」
「脚を折れば剣を取れない、馬にも乗れない。王位を望めなくなれば殺されることもない。――ということのようです」
怒り、嘲り、憎悪。それは、母に対する思いなのだろうか。昏い感情は彼の声さえ染めて、シャスティエの甘さを嗤っているようにすら聞こえた。
ではまた、と告げるとティグリスは脚を引きずり、雪上に杖の後を残しながら去っていった。
シャスティエは彼の背が視界から消えるのを待たなかった。声も出せないほどの衝撃から身体の自由を取り戻すと、いささか慎みに欠けた早足で来た道を戻った。ティグリスの表情が、彼が語ったことが恐ろしくて、早くその場から離れたかった。
生かすために取り返しのつかない傷を負わせる。母が、息子に。
――この国はやっぱりおかしい!
声にならない悲鳴が、頭の中に響いていた。