会談 ファルカス
煌びやかな衣装の侍従に案内されて、ファルカスは鷲の巣城の壮麗な廊下を歩んでいた。従えるのは、通訳も務めるイルレシュ伯と、イシュテンの将の中でも年嵩で、人格も沈着だと信じられる者を何人か。ブレンクラーレとの交渉の後、イシュテンの全軍にその結果を広めのを見越して、その言葉に信を置かれるであろう者を選んだつもりだ。
彼自身のものであるイシュテンの王宮と、先に攻めた際に足を踏み入れることになったミリアールトのそれ。そして今いる鷲の巣城と。ファルカスは人生において三か国の王宮を知ることになった。さほど誇るような回数でもない、とは思う。外交に携わる者ならば、もっと多くの国を旅し様々な言葉や文化に触れることもあるのだろう。だが、王である身が自ら国を離れて他国を訪ねることはそれほど多くないだろう。それも、彼の若さでは。
――それほど誇るようなことではない……が、多少の感慨に耽るのは許されるだろうな。
イシュテンの王宮の剛健さと、ミリアールトの王宮の繊細な美しさ。そのいずれをも兼ね備えた鷲の巣城は、確かに噂に劣らぬ風格を感じさせる。一応は勝ったはずの立場でありながら、なぜか居住まいを正さなければならないと感じるほどに。そう、戦いでの勝利はまだ通過点に過ぎず、この遠征を締めくくるだけの戦果を得て初めて勝ったと言えるのだろう。
だから勝利を誇り驕るにはまだ早い。それでも、名高い大国ブレンクラーレの、王都の城門を開けさせることに成功したとなれば高揚を覚えるのを完全に押さえることは難しい。何しろ、これまでイシュテンはブレンクラーレを遥か頭上に仰ぐ思いをさせられてきた。互いに軍を挙げて争うことはあっても、ブレンクラーレの方ではイシュテンなど質の悪い野犬程度にしか思っていないのではなかっただろうか。国を率いる者同士が顔を合わせて対等の交渉を行うなど、恐らく今までになかったことだろう。
つまりは、彼はまた戦場に臨んでいるということだ。剣にものを言わせて力づくで奪うのがイシュテンの倣い、と。広く信じられていることを、今後は改めさせなければなるまい。考えることを知らぬ蛮族との侮りがあるからこそ、アンネミーケも他国に対してあるまじき陰謀を巡らせた――それが、成功する余地があると信じたのだろう。武に頼って逸るイシュテンの弱さは、ティグリスが教えてくれたことでもある。
アンネミーケの陰謀を糾弾する、ブレンクラーレに対しての戦い。そして、イシュテンに対しては国の在り方を変えさせるための、いわば心の戦い。ファルカスは同時に二つの戦いをしなければならないのだろう。
――ふん、ではちょうど良いくらいのものだな。
ほど良い緊張と、高揚。戦いに臨む時の気分としては上々だ。壮麗な宮殿や、それが醸す大国の歴史に臆してはいない、剣での勝利に驕ってもいない。これならば、老獪な女狐が相手であろうと後れを取ることはないだろうと思えた。
まるで、自身の王宮ででもあるかのように。鷲の巣城の広い廊下を、ファルカスは傲然と顔を上げて進んだ。
ブレンクラーレのアンネミーケ王妃のことを、ファルカスは漠然と寡妃太后に似た姿で思い浮かべていた。無論、あの陰気で狂った女に国を動かすような大掛かりな陰謀はできなかっただったろうが、手段を選ばない女で母親、という共通点――彼がこのふたりの女について知るほぼすべての情報でもある――がそのように思わせたのだ。
だが――
「お会い出来て光栄だと申し上げよう、イシュテン王。ブレンクラーレにとっては遺憾なことだが、貴国の精強さには敬意を表さねばなるまい」
マクシミリアン王太子に先立って口を開いたアンネミーケ王妃は、彼が思い描いていたのは全く別種の女だった。寡妃太后や、ましてや彼の妻たちのいずれとも違う、初めて見る類の女。ブレンクラーレの大鷲の神を思わせる鋭い眼差しは、まさしく君主のものだった。自らの首を求められる可能性も承知しているだろうに、恐れは微塵も見せず、いっそふてぶてしいほどの威厳に満ちている。
実際に顔を合わせた時には、非道を詰ってやろうと思っていたのに。あまりにも堂々とした佇まいに、ファルカスも敬意を示す言葉を選ばずにはいられなかった。
「俺の方こそ。道中、ブレンクラーレの富も文化も嫌というほど見せつけられた。その上で鷲の巣城の門をこじ開けるのに成功したこと、この上ない誉れと思うべきだろうな」
イルレシュ伯が翻訳するブレンクラーレ語を聞きながら、アンネミーケ王妃の容姿をじっくりと眺める。
曲がりなりにも王の寵愛を勝ち取るべく一族から選ばれた寡妃太后とは違って、女として美しいとは言い難い。どこか魔女のような捻くれた姿を思い浮かべてもいたから、ある意味予想通りではある。だが、鷲が孔雀の羽根を持たないからといって嘲る者はいないだろう。この女の真価は、容姿ではなく中身にあるのだ。女の在りようも王の在りようも様々であること、ファルカスはまたひとつ学ばされることになった。
「御身が妾に何を望むかは理解していると思うが。今のこの国を率いるのは王太子だ。お手柔らかに――などとは言えぬが、双方にとって納得のいく会談になれば良いものだ」
とはいえ、アンネミーケ王妃が表だってファルカスに対したのはそこまでだった。母親に代わって彼の前に進み出すのは、マクシミリアン王子。こちらは以前に一度あった時と変わらぬ貴公子ぶり、母親の姿を見た後では孔雀のようだと思えるのは皮肉なものだが。今はさすがに、多少は神妙な顔をしているようにも見えるが。
「俺もそのように願っている」
敵の威に触れて感銘を受け、その力のほどを探る――やはりこの場は戦いに似ている。それを確かめたファルカスの頬は少し緩んで、王太子をやや怯えさせたようだった。
今回の会談にあたっては、ファルカスは落としどころをある程度想定した上で臨んでいる。恐らくはブレンクラーレ側も同様だろうから――これまでの遺恨はとりあえず脇に置いて――交渉はまずは滑らかに進んだ。最初に議題に挙げるのは、合意が得やすいであろうものを選ぶからなおさらだ。
つまり、先の戦いで得た捕虜を、どのような条件で返すかというものだ。中には生きた人間のことではなく、名のある者の首という場合もあるが。とにかく、身内を手厚く埋葬したいという想いは国によって変わるものではなし、奪われた者の身柄を買い戻すのに大金を積むのに、捕虜の生死はさほど重要ではないとさえいえる。
「身元を特定できなかった者については紋章を写させた。そちらで確認していただくのが良いだろう」
「はい。そのようにいたしましょう」
互いの国の言葉で、時に紋章や似顔絵も交えて作った名簿を参照しながら、その者の身分や功績に応じて身代金の金額や、どのような形で支払うかを定めていく。イシュテン側にも捕らえられた者は無論いるが、その数はこちらが得た捕虜の比にはならない。それに、通常ならば身代金は各々で交渉し支払うものだが、ブレンクラーレ王家は祖国のために戦った忠臣に報いて、直轄領をイシュテンに割譲するという形で彼らの身柄を贖うつもりなのだという。
――こういう形で詫びを入れるということなのだな。
領土での身代金の支払いなど、常識よりもかなり割高だ。つまりは、捕虜を得たり首を挙げたりした者に褒賞を与えてもなお、新たに奪った領土とそこから得られる収入はファルカスの手元に残る。今回の遠征に従った者に与えても良いし、これから起きるリカードとの戦いで、日和見の者を釣る餌にしても良い。
明らかに頭を下げるよりも、金や土地を差し出すことでイシュテンの勘気を和らげようという魂胆は、見え透いてはいるのだが。ブレンクラーレとしても、王妃の陰謀によって招いた戦いだから、巻き込んだ臣下への償いの意味もあるのだろうが。それでも、目先の利益は確かに彼に必要なものだった。彼個人に忠誠を誓う臣下はまだ決して多数派ではないのだから。この先も裏切られ見放されることがないよう――大義や剣の力ばかりでなく、どれだけの利益が与えてやれるか、も王には重要なことなのだ。
身代金の交渉も、ほぼ終わりに近づいた頃だった。マクシミリアン王子が、やや言いづらそうに口を開いた。
「あの……ミリアールトの公子のご遺体は、どうなさるおつもりですか?」
「何?」
思いがけず挙げられた者の存在に、ファルカスの声は思わず尖り、相手の顔を引き攣らせた。
ミリアールトの公子――彼が殺した男。なのになぜか死に顔は安らかだった。その父や兄たちと同じくシャスティエの肉親で、彼女に愛されその身を案じられていた。そしてその男からのシャスティエへの想いも同様で、だからこそブレンクラーレを巻き込んでイシュテンに災いを撒いた節がある。
「あの男はブレンクラーレの者ではない。異国の者の首を、なぜ、そしていかほどで贖うおつもりだ?」
件の男の死に顔を思い出せば、自然とシャスティエの泣き顔も目蓋の裏に蘇る。心を痛めて動揺しているのが傍目にも明らかだったというのに、言葉では必死に彼が無事で良かったと言ってくれた。涙を流しながらの言葉の真意は分かってしまうにしても、少なくとも彼を気遣ってくれたことに対しては感謝しかない。
その妻は、今は度重なる疲労と心労が祟って床に臥せっているのだが。シャスティエ本人はもちろん、胎の子も危ういと聞かされて、どれほど心を乱されたことか。とはいえファルカスの顔など見せては容態が悪化するのは明白で、寝顔を盗み見るに留めてこの鷲の巣城へと出立したのだ。
細い背が折れるほどの重荷の、最後のひとつを乗せたのは確かに彼に違いない。だが、アンネミーケ王妃の企みも、従弟であるミリアールトの公子の行いも、確実にシャスティエを追い詰めた。気弱に諂うような笑みを浮かべているマクシミリアン王子も、彼の妻と子を危険に追いやった元凶のひとり。
――何を言い出すつもりだ……?
図々しいと、非難も込めて。眼光も険しく睨みつければ、王子はまたも目に見えて怯んだ様子を見せた。が、さすがは大国を負って立つ定めの者と言うべきか。数秒の後、思いのほか力強い声が訴えてきた。
「確かにあの方はこの国の出身ではありませんでしたが。ですが、縁の浅い方という訳でもありません。いえ、ファルカス陛下には我らとの縁などご不快でしかないのでしょうが。妻の――王太子妃もあの方には良くしていただきました。できれば、野に晒すようなことはせず、安らかに眠っていただけるようにしたい、と……」
「王太子妃……?」
「マクシミリアン」
意外な者の名にファルカスが首を傾げるのとほぼ同時に、アンネミーケ王妃が息子を小声で叱責した。翻訳を待つまでもなく、王子の名を呼んだ声の調子でそうと分かる。どうやらこれはブレンクラーレ側としても予定にないこと、マクシミリアン王子が勝手に言い出したことらしい。
ならば、多少冷たくあしらっても問題ないだろう。そう見て取って、ファルカスはことさらに斬り捨てるような口調を取った。
「あの者がイシュテンと、我が妻に対して為したことを思えば簡単に許すことができぬのはお分かりいただけると思うが」
「それは……」
「できることならば腐り果てるまで晒し続けて、鳥や狼の餌にしてやりたいところだ」
「そんな……」
マクシミリアン王子が顔色を青褪めさせて絶句したのを見て取って、ファルカスはこの辺りで良いか、と思う。
これは半ば以上八つ当たりのようなもの、目の前の男を怯えさせたところで事態は何ら好転することはない。それに、彼の言葉に一々びくびくとしている相手を前にしていると、どうも虐めているような気分になってしまうのだ。だから手心を加える、などとは思わないが――無駄なことをしているような気分にはなってしまう。王としての威厳とは遠いが、これはこれで得な気質なのかもしれなかった。
「――だが、妻の心を慮って、そこまではすまい。この遠征が終われば、遺体はミリアールトに返すつもりだ」
「ミリアールトに……?」
「祖国には親族がまだいるとか。ならばそこに委ねるのが最も自然なことと考えている」
「そういうことでしたら」
マクシミリアン王子の顔に場違いなほどの明るい笑みが浮かんで、ファルカスは少々当惑させられた。まるで安心した、とでも言っているかのような王子の表情はあまりにも人が良いとしか評せないように思われたのだ。彼らが対峙している状況と、その理由を考えれば。
「ファルカス陛下のご慈悲とご寛容には、感謝申し上げます」
「……殿下の感謝をいただく理由が分からないのだが」
通訳を務めるイルレシュ伯が、王子の言葉を聞いて軽く眉を顰め首を傾げていた理由は、内容を伝えられてみれば明らかだった。つい数日前に、彼と彼が率いる軍はブレンクラーレの将兵を数多踏み躙り血を流させたというのに、今も決して少なくない財と土地を、この国から奪おうとしているのに。その相手に対して、どうして感謝することがあるのだろう。ミリアールトの公子への処遇は、シャスティエへの後ろめたさを誤魔化すための自己満足でしかないのだ。特別に恩を着せるようなつもりで言ったことではないのに。
「……俺がこれから言うことを聞けば、今のお言葉をきっと後悔されるだろう」
幼子を思わせる王子の真っ直ぐな眼差しを受け止める後ろめたさに蓋をして、ファルカスは冷たい声音を保った。イルレシュ伯によってブレンクラーレ語に訳された自身の言葉を聞きながら、視線をアンネミーケ王妃の方にずらす。息子の発言に呆れた気配を滲ませて――しかし、彼の目に気付いて表情を改めている。相手の顔色で話の流れを察して身構える油断のなさは、その息子と対峙した後だと頼もしいとさえ感じてしまう。国を負う者同士の、言葉での戦いと、一瞬で気付いてもらえたのだからやりやすい。
「王妃陛下。ティグリス――死んだ弟から、御身のことは詳しく聞いた。手元に戻った我が妻からも。イシュテンを脅かす数々の企みが事実ならば、王としては見過ごす訳にはいかぬ。まずは御身の言い分を聞かせていただけるものと期待しているが……!?」
まずは端的に、直截に。ファルカスは言葉の刃を相手に突きつけた。