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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
4. 戦馬の掟
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とるべき道 シャスティエ

「絶対にいけませんわ!」


 悲鳴にも似たイリーナの怒声を、シャスティエは耳を抑えてやり過ごした。

 彼女の若草色の瞳が睨みつけるのは、シャスティエの手中の紙片。いつもの侍女に託されたアンドラーシからの伝言だ。

 先日の話の続きを話したいのでお会いしたい、という。無礼な態度を取った自覚はあるので意外ではあったが、これは良い。というかありがたい。しかし――


「部屋の中に殿方と二人きりなんて。本来ならシャスティエ様にお目通りも叶わないような方ではないですか。いつもお会いになるのも、庭園だからと我慢していますのに」


 伝言には続きがあった。季節柄、それに話が長くなるかもしれないので部屋に入れて欲しい、とも記されていたのだ。この不躾な申し出は、主よりも先にイリーナの逆鱗に触れ、シャスティエは珍しく宥める役目を買って出ている。


「でも、王の承諾を得ているということだから。要は命令なのでしょう。それに、来るのは二人よ」


 ミリアールトの実情を知っているのはジュラなので、当然彼も来るということらしい。むしろアンドラーシがなぜ来るのか分からないが。側妃になれと言いに来るのか、との疑いもよぎったが、王の命とあればそれも考えにくい。


 ――私に気を遣っても王に得はないでしょうし。そんなに気にしているのかしらね?


 埋め合わせとやらがまだ続いているのかと、シャスティエは首を捻っているのだけど。けれど、イリーナは主と違うところに引っかかったらしく、ますます眉をつり上げた。


「なお悪いです! あの人たちが何か……その、不埒なことでも考えたら、私ではお助けできないのですよ? 相手が一人でも危ういですけれど! 王に頼んで護衛をつけてもらえないのでしょうか?」


 王に頭を下げるのを想像して顔を顰めつつ、シャスティエは答えた。


「例の誓いがあるから私に危害を加えることはないでしょう。そこを疑うなら護衛も信用できないわね」


 少なくともアンドラーシは彼女を側妃に、と目論んでいるのでイリーナの考える類の心配は真夏の雪のようなものだ。しかし、それを言ったら彼女の怒りに油を注ぐのは目に見えているので、有無を言わせぬ口調で問答を打ち切る。


「そもそもここは私の部屋ではないし。主人でいらっしゃる王妃様がご不在で、王に命じられたとなれば従う他ないわ。イリーナだって、アレク小父様のことは聞きたいでしょう?」

「それは、そうですけど……」


 なおも不服げな侍女の頬を撫で、シャスティエは微笑みかけた。


「まあ、心配なのももっともだからできる範囲で対策はすることにしましょう。

 それと、扇を出しておいてね」


 付け足したのは、先日のことを思い出してのことだ。扇を手にしていれば不機嫌になってもそれを露にする見苦しさを忘れずにいられるかもしれない。いつも口が過ぎるのは良くないと思ってはいるのだ。今回はどうなることやら――。




 そして約束の日、深夜から降っていた雪は明け方には止んでいた。


「晴れて良かったですわね」


 扇で口元を隠しながら微笑むと、アンドラーシとジュラは揃って顔を引きつらせた。


「……ええ。本当に」


 二人を招き入れたのはシャスティエに与えられた一角の、客間。ただし窓も扉も朝から全開にしているので部屋の空気は冷え切っている。若い未婚の女の部屋を訪ねるのだからこれくらいは当然だ。歓迎されているなどとは思って欲しくない。王に言われた通り、悔しいけれどシャスティエは今まで女としての警戒が足りなかった。今からでも、存分に注意をしなければならないだろう。例えば、部屋の見通しを良くしておくとか、声が届きやすいようにしておくとか。

 今日は風もないし、茶は熱いのを出すつもりだから嫌だとは言わせない。


「寒くはないのですか?」


 勧めた椅子に掛けながら問いかけるアンドラーシに、シャスティエは首を傾げた。


「いいえ? まだ暖かいでしょう」


 窓の外に目をやれば地面を白く染めた雪が晴れた青空と鮮やかな対比をなしている。目を射るまばゆい煌きは、陽光が雪の表面を溶かしたもの。庭園で会うのでも構わなかったと思うほどの晴天だ。

 シャスティエにとっては、睫毛が凍り吐いた息が霜になって顔に張り付くくらいでなくでは寒いとは言えない。


「確かに真冬はこれからですが。こちらはお国ほどの寒さにはなりません」

「ミリアールトの冬を味わった訳でもないのに仰いますこと。それも、小父様――グニェーフ伯から聞いたことでしょうか?」


 苦笑しつつ口を挟んだジュラを、扇を閉じて真っ直ぐに見据えて本題を切り出す。

 余計な挨拶はいらないという態度を察したのだろう、男は真面目な顔になって頷いた。


「はい。伯にはかの地の冬の厳しさについてよく脅されました」


 親しく話したのだと暗に匂わせてくるのをあざとく感じる。懐柔しようとしている、と心に留めて気を引き締める。彼らの目的はまだわからないのだから。


「どこまでわかっていただいたか、聞かせていただかなくてはなりませんね。

 ――お茶を、冷めないうちにどうぞ」


 折よくイリーナが茶菓を供した。立ち上る芳しい湯気越しに男二人の顔を見据えて、シャスティエは作った微笑みをまとった。




 幾つかの問答を終え、シャスティエは苛立ちから扇を無意味に開閉させた。ジュラの言葉に矛盾はなく、その時その時でのグニェーフ伯の反応を問い質せば、確かにあの老臣らしいと思わせる。

 嫌々ながら、噛み締めるように降参の宣言をする。


「確かに、小父様が貴方を信用なさっていたのは本当のようです」


 それは、彼のミリアールトでの施策が比較的穏当なものだったから。そう、認めざるを得ない。


 今後はイシュテンに税を収めさせ、鉱山も管理下に置く予定だという。貴族や富豪の財産は接収したという。属領としての扱いは屈辱的ではある。しかし、彼は――王は逆らわない限り民を傷つけるつもりはないと約束したらしい。それどころか乱暴狼藉を行ったものは容赦なく罪人として斬り捨てたという。これはあの日王に死を賜った男が言っていたことと一致する。 


 民にとっては戴く王が変わるだけのこと。まったくイシュテンらしからぬ――むしろブレンクラーレ辺りのやりそうなことだ。


 結局、彼女が耳を塞いでいただけで、王の言葉は嘘ではなかったのだ。この数ヶ月を無駄にしてしまったのか、と思うと苦いものが胸に広がる。


 アンドラーシの話をまともに取り合っていれば。王と対峙する勇気を持っていれば。故郷を案じて心を磨り減らすことはなかったのだろうか。

 いや、それは無理だった。グニェーフ伯という信頼できる人間を介して初めてジュラの言葉に真実味を感じられたのだ。敵を信じられなかったからといって彼女の咎ではない、と思うが――


 ――それではこれからどうしたら良いの? 私に何ができるというの?


 己の感情を持て余して、シャスティエは扇を弄ぶ。銀糸のレースで描いた花模様に、露を模してあしらわれた真珠。柔らかく繊細な輝きも、彼女の心を慰めてはくれない。

 沈黙を破ったのはジュラだった。


「彼らが従ったのは私の手腕によるものではない。本心からの服従でもない。貴女がこちらの手中にあったからこそです」

「そうでしょうね」


 いまだ考え込んだまま、気のない相槌を打つ。そのための人質なのだから当然のこと、改めて口に出す必要もない。


「お国が心配ですか」


 しかし、続けての問いは燻った感情に怒りという火花を散らした。ぴしゃりと音を立てて扇を閉じると、くだらない口をきいた男を睨みつける。


「愚問です」

「であればなぜ無為に過ごされますか。貴女にしかできないことがあるのに」


 先日たじろいだのとは違って、ジュラはシャスティエの視線を正面から受け止めた。

 彼女の心を読んだかのような発言が不快だった。ミリアールトを攻めた者、彼女を捕らえて閉じ込めた者が白々しい。


 とはいえ一方で、これは彼女に初めて示された指針だった。自分自身でもやるべきことがわからないというのに、この男は何を教えてくれるというのだろう。


「それは一体何でしょうか。ぜひ教えていただきたいものですわ」


 ――つまらないことだったら許さないわ。


 目を鋭く細め、声にも刺をまぶした反問にもジュラは表情を動かさなかった。


「我らの王に恭順を誓っていただきたい。ミリアールトは貴女の命なら逆らいますまい」

「なっ……!」


 喘いだのはイリーナだった。影のように控えるはずの侍女をして我を忘れさせるほどの恥知らずな提案。シャスティエは辛うじて扇で怒りと驚愕に歪んだ表情を隠すのに成功した。


「なんて図々しいことを! シャスティエ様は貴方たちにおもねったりしないわ!」


 侍女の怒声を聞きながら、扇の影で冷静を取り戻そうと深呼吸する。

 イリーナがいて良かったかもしれない、と思う。彼女がいなければ度を失って叫んでいるのはシャスティエだった。譲歩も交渉もなく、また怒りに任せて醜態を見せてしまうところだったかもしれない。

 扇越しに眼前の男二人を交互に睨めば、今まで黙っていたアンドラーシが不思議そうに首を傾げた。


「我が王のお心を、やっと信じていただけたようですが。ミリアールトの安寧は貴女が生命を賭して願ったことではないですか。陛下はそれを叶えてくださったのですよ」

「グニェーフ伯を始めミリアールトの者はずっと貴女を案じています。貴女の生命を救ったのが陛下だと知らせれば彼らにもわかるでしょう。今やミリアールトを守っているのは陛下だと」


 アンドラーシも、言い添えたジュラも真面目そのものの表情で、彼らが心底王に感謝すべきだと考えているのがわかる。それがシャスティエには不思議でならない。


「勝手に攻めてきたくせに恩着せがましい!」


 イリーナが代弁してくれるので何も言う必要はなかったが。だが、それは思うところがないということでは決してない。

 父と兄、伯父、従兄弟たち。殺されてしまった人たちの姿を思い浮かべると、心臓が引き裂かれるように痛む。思いが目に見えるとしたら、シャスティエの心は紅い血を流していることだろう。

 失われた――奪われたものの大きさを思うと、何をされても赦し感謝するなどあり得ない。


 ――今日はこれが言いたくて来たのね。


 シャスティエは扇の影から男たちを、その背後に透ける王の姿を睨んだ。

 侮られたものだと思う。故郷の話で釣ってやれば喜んで従うとでも思ったのだろう。王はこれで交渉のつもりなのだろうか。譲歩を覚えろなどと言っていた割に、自分は何もしないで臣下を寄越しただけではないか。


 そろそろシャスティエから答えない訳にはいかないだろう。もう一度深く息を吸うと口を開く。


「イリーナ。それくらいにして頂戴」

「シャスティエ様、でも……」

「この方々の言うことにも一理あるわ。陛下がミリアールトを守ってくださるおつもりだというのは本当でしょう」


 意味ありげに流し目をくれると、男たちの表情が緩んだ。


「姫君」

「分かっていただけましたか」


 ――この人たちは私の名前を覚えているのかしら?


 シャスティエは不意に言いようのない苛立ちを覚えた。

 姫君姫君と丁重な言葉遣いではあるものの、ついぞ名前で呼ばれた記憶がない。断じて気安く呼びかけて欲しい訳ではないが、結局彼らは彼女のことを駒としてしか考えていないのだ。

 イシュテンに連れて来られて以来、彼女の名前を呼ぶのはイリーナの他にはミーナくらいだ。

 扇を外して微笑む。ささやかな意趣返しをしてやるのだ。


 ――本当に意地が悪くなったこと。


「ですがご期待に応えることはできません」


 ジュラたちの表情が変わるのを見るのは大層愉快だった。


「なぜですか!?」


 シャスティエは冷え切った空気の中、必要もないのに扇をそよがせた。


「陛下のお心はわかりましたが心変わりがないとは限りません。

 今のミリアールトの総督だという人のことは私も少しは知っていますが、とても大役――と思うのですけど――が果たせる器とは思えません。それとも陛下は既に方針を変えられたということなのでしょうか?」


 その男のことは多分ちらりと見かけたくらいで顔も名前も覚えていない。しかし、王に切られた者の縁者である以上同類と考えて良いだろう。


「陛下の本意ではありません。ティゼンハロム侯の差金です」


 珍しくアンドラーシの口調が険しい。期待させておいて落としたのがよほど堪えたのだろうか。シャスティエの口元の笑みが深まった。


「それは承知しております」


 彼女はあの狩りの日の光景を思い起こす。王とティゼンハロム侯は、それは険悪な雰囲気で睨み合っていた。王への嫌がらせか、あるいはその男自身も老侯爵の不興を買ったのかもしれない。


「ならば」

「自国のことすらままならないお方にミリアールトが守れるとは思えません。陛下のお心ではなく、お力が信じられないのです」


 ――私に頭を下げさせたいならミリアールトを守れる体制を固めてからにして頂戴。


 言外の意図を汲んだのだろう、男たちは互いに視線を交わしたが反論の糸口を探しあぐねているようだった。

 それを眺めながら茶を口に運ぶ。いつの間にか湯気は消え、香りもすっかり飛んでしまっていた。


「――お茶が冷めてしまいましたね。おかわりはなさいますか?」


 彼らは交渉のし方を間違えた。何を言われても思い通りにしてやるつもりはない。しかし、イシュテンの男の考え方を知ることができるのは悪くない。彼らの狼狽する顔を見て、もう少し付き合っても良い、という余裕が出ていた。


「いえ、姫君の部屋に長居してしまいました。そろそろ失礼いたします」

「そうですか」


 彼らは無言のうちに退却の判断を下したらしい。口に出さずとも通じるとは、やはり戦友ということなのだろう。

 礼儀として見送りのために立ち上がると、ジュラが真摯な目を向けてきた。


「陛下は貴女を牢に繋ぐこともできた。にも関わらず何不自由ない生活を保障されている、その寛容は理解していただきたい」


 ――牢? 望むところよ。


 シャスティエは微笑みを作るとさらりと嘘をついた。


「もちろん陛下には感謝しておりますわ」




 イリーナが窓を閉め、暖炉に火を入れる間、シャスティエは椅子に掛けたまま俯いていた。


「シャスティエ様、冷えてしまわれましたか? お茶を淹れなおしましょうか?」

「いらないわ」


 侍女の気遣わしげな声に首を振る。

 ジュラの最後の言葉が胸に刺さっていた。彼が寛容と呼んだ扱いは、彼女にしてみれば屈辱でしかない。

 住まいが与えられたものであるのと同様、茶器も茶葉も借り物でしかない。今の彼女は王の施しによって生かされている。


 ――生命を助けたのだから甘んじて感謝しろだなんて。


 いっそ牢に閉じ込めてくれた方が、よほど気が楽だったとさえ思う。自分はともかくイリーナをそんな目に合わせる訳にはいかないけれど。


「でも」


 覗き込んでくるイリーナこそ顔色が悪いのに気付く。寒さだけではないだろう。大の男に食ってかかるのは怖いもの。シャスティエがおかしな慣れ方をしてしまっただけなのだ。

 立ち上がり、硬い表情の侍女を抱きしめて背を撫でれば、緊張が解けたかのようにおずおずと抱きつき返してきた。


「さっきはありがとう。言いたいことを言ってくれたわ。怖かったでしょうに」


 首筋に顔を埋めるようにして囁くとシャスティエの背に回したイリーナの腕に力がこもった。


「私、悔しくて……! 負けたからってあんなことを。

 シャスティエ様は誇り高い方。イシュテンに恭順なんてしませんよね?」

「ミリアールトを害する者に膝を屈したりはしないわ」


 恐怖からか興奮からか、涙声の侍女の髪を優しく梳く。卑怯な言い回しであることに気づかれなければ良いのだが。


 王はミリアールトを虐げるつもりはない。それは信じざるを得ない。信じさせられた。

 問題となるのは王にそれが実行できるか。若い王に対して、障害となっているティゼンハロム侯は老齢だが、あの老人がおとなしく譲るとは思えない。いずれ両者は対決するだろう。

 王が勝てば、その時こそ彼に跪かなければならないだろうか。それで故国が保たれるなら安いものと思えるだろうか。

 そして万が一にもティゼンハロム侯が勝ったら……?

 憎い王の勝利を願わなければならないとはなんと忌々しい。


 ――邪魔な矜持を捨てろ。


 王の言葉が耳に蘇ってシャスティエは唇を噛んだ。あの男の助言? が重く胸にのしかかる。


 ――ミリアールトのために王に与する……?


 それが最善なのか。他に道はないのか。

 真剣に考えなければならない。

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