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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
21. ひとつの決着
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嵐に呑み込まれて ラヨシュ

 扉が細く開いた。銀の盆を通すのに必要な、ぎりぎりの幅だけ。盆の上には、空の食器がひと通り乗せられている。恐らくは冷めきってからだったのだろうけど、マリカ王女がとにかくも食事を摂ってくださった証だった。


「マリカ様、あの……!」


 でも、王女が示してくれた譲歩もここまでだった。ラヨシュの呼び掛けに応える声はなく、青灰の目が貫くような一瞥を投げただけで、扉はまた固く閉ざされてしまう。

 頑なに閉ざされる扉の前に立ち尽くしても、王女が開けてくれるはずもなかった。幼くも聡く誇り高いあの方は、ラヨシュの()()()を許してはくださらない。おじい様に会わせて差し上げると約束しておきながら、ラヨシュは王女をこの屋敷へたどり着くための手引きをしてしまった。母君である王妃の選択でもあるとはいえ、王女にとっては見知らぬ屋敷に見知らぬ者ばかりに囲まれて――今の境遇は、敵に捕らわれているようなものとしか思えなくても不思議はない。


 ――でも、これではあまりにお気の毒で……!


 王宮にいた頃も、マリカ王女に憂いがなかった訳では決してなかった。父王の不在に、犬のアルニェクの死。祖父君に会えないことも。でも、少なくとも王女は自由に庭園を駆けまわっていたし、使用人たちも王女のお転婆を微笑ましく見守っていた。強情さや頑なさはあっても、伸びやかに健やかに育っていた王女がひとりきりで部屋に閉じこもって昏い想いを研ぎ澄ませているなど、ラヨシュには耐えられることではない。

 彼は、王妃と王女には幸せになって欲しかったのに。王妃のたっての命令だからこそ従ったし、親子の間を引き裂くことは受け入れ難かったからこそ王女を母君のもとにお届けしたのに。


 これでは、母やティゼンハロム侯爵の意に背いた意味は一体なんだったのか分からなくなってしまう。自身の選択が正しかったという確信を得るためにも、王女には笑顔でいていただかなくてはならないというのに。


 ――私は、間違えてしまったのではないだろうか。


 閉ざされた扉を前に、後悔と罪悪感がじわじわとラヨシュの胸を締め付けていた。




 王女の世話をする侍女によって、ラヨシュは扉の前から下がらさせられた。男の子がいてもできることはないから、というのは真実なのだが、王女のことをよく知らない者に任せても良いものなのか、と不満な想いも拭えなかった。

 何といっても、このバラージュ家を取り仕切っているのはあのアンドラーシの妻なのだ。バラージュ家自体は最近までティゼンハロム侯爵家に与していたとはいえ、アンドラーシも王への忠誠は篤い男とはいえ、この家の者たちは側妃とその御子ばかりを尊重しているように見えてしまう。それは、側妃も王の妃には違いないし、目下、母君が傍にいないフェリツィア王女を哀れむ者が多いのは仕方ないかもしれないけれど。でも、王妃や王女の不安に寄り添う者が、ラヨシュの目にはあまりに少なすぎるように思えてならないのだ。


 ――王妃様たちに対して、敬意が足りないのではないか……!?


 王宮とバラージュ家を行き来して、時にラヨシュに剣の手ほどきをしていくアンドラーシは、不敬の最たるような存在だった。


「王女様は相変わらずか」

「はい……。お食事は、召し上がってくださっていますが」


 王妃が去った後の王宮の様子を報告に――あるいは離れて暮らしている妻の顔を見に――現れたその男を、ラヨシュは少し睨んだ。報告の相手は当然王妃であって、彼は従者の見習いのような扱いで臨席を許されているに過ぎない。アンドラーシが問いかけたのも、この屋敷に至った経緯があるからこそ、彼と王女は親しいと思ってのこと、だと思う。だからさほど深い意味があってのことではないと思えれば良いのだが――ラヨシュは、王妃が娘の話題が出るなり表情を曇らせたのに気づいていたのだ。


 ――王妃様はご心痛だというのに、気軽に言う……!


 マリカ王女は、この屋敷についた当初は食事さえ摂ろうとしなかったのだ。お母様ひどい、ラヨシュの嘘つきと泣いて叫んで。涙で腫れた顔を拭おうとする王妃や侍女さえ、辺りのものを投げつけては近づけさせなかった。それでも空腹や諸々の不快には耐えかねたのか、食事はひとりきりで召し上がって、着替えや入浴の世話はさせてくださるようにはなったけれど。それでも、食欲に負けるのを恥じているのか、食べているところは誰にも見せないし、侍女たちに対しても頑なに口を開かず笑顔も見せてはくださらないという。


 グルーシャ――アンドラーシの妻が招いた客の対応で、王妃は必ずしも王女の傍についていられる訳ではない。時間があったとしても、王女が閉じこもる扉を無理に開けさせたとしても、王女の心は閉ざされたまま、母君とさえまともに言葉を交わすことはないのだ。王妃自身も慣れない環境に戸惑っているところだろうに、どうして他人の、それも臣下から王女の様子をあげつらうようなことを言われなければならないのだろう。


 だが、ラヨシュの内心など全く気付かないように、アンドラーシは軽く笑った。王女のことを思ってどうして笑えるのか、彼にはまったく理解ができないというのに。


「王女様は、意外と陛下にも似ていらっしゃるのだな」

「……どういうことでしょうか」


 アンドラーシが王に触れた理由も、分からない。マリカ王女が、父王のことをどのように思っているか、似ていると言われて喜ぶかどうかも。王が遠征の途に就いた時は、王女はその身を案じて無事を願ったと聞いているけど。母君にさえ裏切られていると感じている今、王女にとって父はただひとり残った頼れる肉親なのだろうか。


 ――でも、王は側妃を連れて帰って来る……。


 仮に遠征が成功すれば、王は側妃を伴ってこのバラージュ邸を訪れるだろう。そして真っ直ぐに――マリカ王女ではなく――フェリツィア王女の部屋を目指すのだ。クリャースタ妃の美貌はラヨシュも直に見て知っているし、母親似だという下の王女も愛らしい赤子なのだろう。

 王と側妃とフェリツィア王女と、再会を喜ぶ親子はきっと美しい光景になるのだろうけど――王妃は、それにマリカ王女は、それをどのような想いで見るのだろう。


 アンドラーシは、ラヨシュの言葉が少ないのにも言及しなかった。多少なりとも関りが生じて分かったことだが、この男は他人の心情にとにかく頓着しない。ラヨシュの母などはこの男のことを快く思っていなかったようだが――そしてラヨシュも、一応は教えを乞う立場にも関わらずアンドラーシの言動に呆れさせられることも多いのだが――ティゼンハロム侯爵家への悪意だけが理由ではないのだろう。


「何、仮に陛下が敵の手中に堕ちたとしたら、屈辱に耐えかねて食事を拒むくらいはなさると思ったのでな」


 この時も、アンドラーシは不敬かつ不吉極まりない喩えを挙げてラヨシュの眉を顰めさせた。仮に想像だとしても、王が虜囚になる事態など王妃の前で口にしてはならないだろうと思うのに。

 心配になって王妃の方を窺うと、実際、美しい方は優しげな曲線を描く眉を下げて表情を強張らせていた。思わず案じる声を掛けようとして――だが、ラヨシュの舌が動くより先に、王妃の心許なげな呟きが落ちた。


「敵の……?」


 ――ほら、縁起でもないことを言うから……!


 ラヨシュが睨んだのを、アンドラーシは多分また気付かなかっただろう。アンドラーシは、彼から視線を外すと王妃に向き直り、言葉遣いも丁重なものへと切り替えたからだ。例によって朗らかに軽やかに、自身の言葉が相手を怒らせたり悲しませたりする可能性を欠片も考えていないと分かる口調だった。


「はい。――ですが、それで体力を損ねては意味がないと気付かれてすぐに渋々ながら敵の出すものを口にされることでしょう。だから、マリカ様もきっとそのように考えられたものと存じます」

「私たちは捕らえられたのではありません。――マリカが、早く気づいてくれると良いのですが」


 王妃が表情を曇らせたのは、遠征中の王の身を案じてのことだと思っていた。だが、アンドラーシへの反論は、ラヨシュが思ってもみなかったところに焦点が当てられていた。


 ――虜囚じゃない……それは、そうだけど。でも……。


 慣れない部屋でひときりで、マリカ王女は一体どのように過ごしているのだろうか。寝台に丸まっているのか、背を正して椅子に掛けているのか。それとも苛立ちを抑えられずに歩き回っているのか。かつて王宮でも()()を試みた王女を警戒してか、扉の外は常に見張られて。――それは、護衛と呼ぶべきなのかもしれないし、王女が自ら閉じこもっているだけで、その部屋の扉に外から鍵が掛けられているようなことは決してないのだけど。――でも、王女として傅かれるよりは、その姿は確かに虜囚のようだとしか思えなくて、ラヨシュの胸は痛んだ。王妃が彼とは違う見方をしているようなのも、彼の心の傷を更に深く抉る。


「マリカ様は大変利発でいらっしゃるとか。今はお気が立っていらっしゃるのでしょうが、いずれ分かってくださいますでしょう」

「ええ。私も話して聞かせようとはしているのですが。中々、受け入れてもらえていなくて……」

「意思の強さ固さも陛下のお血筋でございますから。ですが、だからこそ状況を見極める御目も引き継いでいらっしゃるでしょう」

「ええ、そのように願っています」


 王妃の物言いは、ラヨシュの耳にはまるでアンドラーシに対して媚びているように聞こえてしまった。父君に背いてまでこの男の側に――王に、と考えるべきなのかもしれないけど――ついたことを、強調しているかのよう。さらにその裏に、ここまでしたのだから手荒くしないで欲しいという懇願が聞こえてしまう気がするのは、ラヨシュが悪く取り過ぎているのだろうか。アンドラーシの態度が以前より慇懃な王妃に対してようなのも、まるで()()()()()()()から寛大に接してやるとでも言いたげで。何より――


 ――マリカ様は王妃様の御子でもいらっしゃるのに!


 王女の、王に似たところばかりが挙げられるのも気に入らなかった。王妃がそれに頷くばかりなのも。ラヨシュは王のことをよく知っている訳ではないから、側近のアンドラーシや妃である王妃の言葉を疑ってはならないのかもしれないけれど。でも、マリカ王女は少なくとも母君からは優しさや思いやりを受け継いでいると思う。それらも愛すべき気性のはずなのに、どうしてあの王の血ばかりを尊ばなければいけないということがあるだろう。


「それで――今日は、夫からの報せは……?」

「はい。シュタインクリフの要塞を出て、ブレンクラーレの王都に迫っていらっしゃると――敵の抵抗ももはや少なく、陛下の進撃を妨げるものはないとのこと……!」

「まあ……!」


 苛立ちと戸惑いに黙り込むラヨシュを他所に、話題はもう別のこと、ブレンクラーレでの戦況に移っている。アンドラーシは誇らしげに、王妃は嬉しそうに王の勝利を語っている。


 ――でも、王が凱旋したら……。


 ラヨシュは、王妃が微笑んでいる理由も分からない。王が帰れば、その時こそティゼンハロム侯爵との対決の時だ、と――屋敷の者たちが囁き交わしているのを知らないはずはないだろうに。王妃にとっては、夫の無事がそのまま父の破滅に繋がるかもしれないのに。王妃は、大恩あるはずの父君のことを裏切ってしまわれたのだろうか。このことを王女が知ったら、一体どのように思われるだろうか。


 あの日、明け方の王宮で、ラヨシュは母と王妃と、どちらの命令に従うべきかの選択をした。悩んだ末に王妃を選んだのは、彼の全ては王妃のために、という母の教えもあったけれど、何よりも王女のためを思ったのが決め手になった。母と離れて暮らすことの寂しさは、ラヨシュ自身が誰よりよく知っていたから。だから、王女にはそのような想いをさせてはならないと思ったのだ。

 王妃の命を守り、王女のためにもなることと信じたからこそ、母が望むであろうことをしなかったのに。なのに今、王女は憤りに心を閉ざし、王妃はラヨシュの目にはまるで心変わりしてしまったように見える。母の望みと王妃の望みが違うことだけでも信じがたく受け入れがたかったのに、この上王妃と王女までも心が離れてしまったら、彼は次はどうすれば良いのだろう。


 ――それとも、何もできない……?


 ラヨシュはもうひとりきりだ。母は近くにいないし、侯爵家と密かに連絡を取ることもできない。馬も剣も半人前以下で、王妃や王女を攫って――そんな表現しかできないのも悔しくて仕方ないけど――逃げることもできはしない。できるとしたら、ただ王女の傍に控えることだけ。当の王女は、もう彼の存在など望んでいないのかもしれないけど。


 ――どうしよう。


 あの夜明けにも、引き返せない道を選んだのを確かに感じた。けれどその意味を思い知らされるのは、後になってからだった。自らの選択によってじわじわと首が絞められていくようなこの感覚を、あの時の彼は知る由もない。

 イシュテンの状況は絶え間なく変わり、争乱が近づこうとしている。本来ならば多分、ラヨシュには関りのないはずの激動――でも、嵐のようなうねりは容赦なく彼を巻き込んでいく。


 そしてその嵐にどう立ち向かうべきか、ラヨシュにはまた分からなくなってしまっているのだ。

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