二人の母親 エルジェーベト
差別的な言葉を使用していますが、世界観を考慮の上でやむを得ない表現と考えています。ご了承ください。
今回の滞在先として用意された建物の名を聞くと、ティグリス王子は嘆息した。
「垂水の館か。私程度に過ぎた配慮をしていただいたものだ。兄上……ではないな。ティゼンハロム侯の采配か?」
垂水の館は、その名の通り人工の滝を見下ろすように建てられていて、王宮の中でも一段高い位置にあり、建物に入るには長い階段を上る必要がある。更に、無計画な増改築の結果、王や王妃の住む中心部からはなぜか一旦下り坂を経る必要がある。
脚の悪い自分にあてがうには悪意があると言いたいのだろう。しかし、王はもちろんリカードも、毒にも薬にもならない先王の子に対して嫌がらせを考えるほど暇ではない。なので、エルジェーベトは誤解を正すことにした。
「太后陛下のご指示でございます。高台から王都を望みたいとの仰せでございました」
「なるほど。良い言い訳だ」
ティグリスは皮肉っぽく笑うと頷いた。
太后の目にはこの世は息子の命を狙う者で溢れていると見えるらしい。あえて不便な建物を希望することで、王子が出歩かないようにしたかったのだろう。
ティグリスの反応からして彼は親心に感謝しているようではなかったが、彼女にとってはどうでも良い。危険なのは息子ではなく母親の方なのだから。太后が来襲した時、ミーナの傍にいなかったのは不覚だった。
――マリカ様も守って差し上げなければならないから仕方ないのだけれど……。
ミリアールトの元王女も排除できていないというのに、また厄介な相手が来たものだ。
「で、その母上は?」
「奧宮を散策していらっしゃいます。庭園の様子が変わっていないのでお懐かしいと」
「雪が積もっているのによく分かるな。
本音は側妃や寵姫が隠されていないか探したいのだろうが。いつまでもここの主のように思っていらっしゃるのは困りものだな」
分かっているなら止めて欲しいと切に思う。ミーナの下では概ね平和だが、太后が王妃だった頃の奧宮は何かと事件が多かった。当時のことを知る者にも知らない者にも、太后の姿は恐怖と不安を感じさせる。
とはいえ、エルジェーベトは王族に対して意見する地位にはないので、沈黙を守る他ない。腰を低くして目線を下げていると、椅子に掛けた王子の脚が目に入る。
左脚は健常だが、右脚はねじれて固まっているのが服の上からでも見て取れる。それを命じられたのが誰であれ、随分と念入りに折ったものだ。片脚の機能を失くしたことで、地位相応の敬意を受けることは望めなくなったが、後継者争いの殺し合いに巻き込まれることもなくなった。彼にとっては一体どちらが良かったのだろう。
「義姉上にご挨拶申し上げたいのだが」
と、ティグリスが口を開いた。母親のいないうちに、と思ったのかもしれない。
「王妃様はこちらにはいらっしゃいません。母君がご病気とのことで、マリカ様とご一緒にお見舞いに里帰りなさっています」
「さすが、ティゼンハロム侯は抜け目がないな」
感心するような皮肉のような評に、エルジェーベトは無言で頭を下げ続けた。
王妃の不在はリカードの指示に違いないので、今度は訂正する必要がない。ティゼンハロム侯爵夫人はその夫同様壮健で、今頃は久しぶりに娘と孫に会うのを楽しんでいるはずだ。リカードは、妻の機嫌を取りつつミーナたちを守ったということだ。王よりも早く太后の襲来を耳に入れて対策した可能性さえある辺り、抜け目ないという評も的確そのものと言えるだろう。
太后と王子が垂水の館に落ち着くのを見届けた後、エルジェーベトもティゼンハロム邸に向かう予定になっている。狂気に捕らわれた太后や扱いづらい王子の相手をするより、早く明るく無邪気なミーナとマリカの傍に行きたい。太后には、早く意味のない探索から戻ってもらいたいものなのだが。
ティグリスは考え事をしているのか、杖の頭に刻まれた馬の装飾を撫でながら目を伏せている。話しかけられないのはむしろありがたいので、エルジェーベトは石像のように体勢を変えず、背景のように存在を消して待った。
ついに、軽い足音が耳に届く。太后が気の済むまで王宮を巡回してきたのだろう。音に答えてティグリスは面を上げ、控えていた使用人たちも貴人を迎えるべく動き出す。
「琥珀の館に人が入っているようね」
椅子を引き、茶を勧める者たちを無視して太后が言い放った一言に、使用人の間に緊張が走る。エルジェーベトは助けを求める複数の視線を感じた。
琥珀の館を使っているのはミリアールトの元王女だ。若く美しい彼女の存在を知れば太后はきっと不快に思うだろう。太后の問いを無視するのは無礼だが、答えた結果人質に害が及んでも責任が取れない。他の者たちはそう思ったのだろう。
しかし、エルジェーベトの胸に閃いたのは全く別の思惑だ。これは、この状況は、彼女にとっては窮地などでは決してない。それどころか――
――怯えるなんて愚かなこと。絶好の機会じゃない。
太后はいまだに王宮の女主人のごとく振る舞い、王を惑わす女を憎んでいる。
太后と、元王女と。目障りな両者が潰しあってくれるなら願ってもない。後で罰を受けようと構うものか。
「ミリアールトの元王女が滞在なさっております」
「ミリアールト?」
慇懃に答えると、太后は初めて聞いたとでもいうように訝しげな表情をする。元王妃の癖に隣国の名も危ういとは、この女の精神状態が伺える。
「北の国だよ。兄上が春に遠征なさっていた。母上も心配していただろう?」
代わって口を出したのはティグリスだった。太后が王を心配していたというのは意外だが、正気の者にはわからない理由があるのだろう。
「その国の女がどうしてここにいるの?」
「人質として捕らえられたからです。実質は客人とでも言うべき扱いでございますが。
……陛下が大変お気にかけていらっしゃいます」
「綺麗な女なの? 年頃は?」
言い添えた一言に太后は食いついた。エルジェーベトは内心ほくそ笑みつつ答える。
「月のように輝くばかりに美しく、まだ二十にもならない姫君でいらっしゃいます」
「そう」
囁くような頷き。焦点の合わない視線が、太后の精神が違う時代をさ迷っていることを知らせる。
「琥珀の館はもともと何十年か前の側妃のために造られたもの。王妃の目と鼻の先で、さぞ屈辱だったでしょう。ファルカスもあそこに女を囲っているのね……!」
つり上がった眉。わななく唇。それらが語るのは紛れもない憎悪。
――そう、王は王妃を裏切ろうとしている。先王の時のように、思い上がった女を罰して頂戴。
太后に悪意という毒を植え付けることができたのをエルジェーベトは確信し、喜んだ。
「母上」
そこに、こつり、という音が響く。ティグリス王子が、杖を頼りに立ち上がったのだ。彼は片脚を引きずりながら母親の元に歩み寄ると、そっと肩を抱いた。脚のせいで真っ直ぐに立つことはできないものの、王と血が繋がっていることを感じさせる長身の青年だった。
「王宮の建物の半分は寵姫か側妃のためのものだろう。それに、人質の姫なら兄上の目の届くところに置いておくのは当然のこと。妙な邪推で義姉上の留守中に騒ぎを起こさない方が良い」
「でも、許せないわ!」
ティグリスの言うことが案外まともなこと、そして毅然とした口調に驚かされるが、太后には届いていないようだった。
ティグリスはうんざりしたように顔を顰めると、母の耳に顔を近づけて囁いた。
「人質を害したら兄上がお怒りになる。先日の狩りの話は聞いたでしょう?」
「ファルカスとリカードが仲違いしたそうね。喜ばしいこと。兄殺しと裏切り者が……!」
太后の瞳が焦点を結び、意識が現在に戻ってきた。しかし、王と宰相を罵倒する言葉はあまりに危うく、使用人たちは一様に目をそらして聞こえない振りをする。
「兄を殺したなら弟にも容赦するはずがないね。私のためを思うというなら堪えてください」
ティグリスの言葉もなかなかに際どかったが、太后の常軌を逸した精神に届いたようだった。先ほどまでの形相が嘘のようにまつ毛を震わせ、弱々しく俯く。息子にすがる姿は、立場が逆転してまるで幼い子供のよう。
「そう……ね。狼を怒らせてはいけないわね。貴方まで失いたくはないもの……」
「ありがとう、わかってくれて嬉しいよ。
――お前は下がって良い。後は連れてきた者たちに任せる」
ティグリスは母親に微笑みを、エルジェーベトに鋭い声で命令を与えた。母親に似た黒い瞳に微かな怒りが浮かぶのを見て、エルジェーベトは深く頭を垂れた。余計なことを言うな、と言われた気がした。不具の王子の怒りなど彼女が気に留めることはないが、怒りの理由は、少し不審かもしれなかった。
――王の怒りを恐れている……というよりも王の意思を尊重しようとしている……?
この王子は母親に守られるばかりの惰弱と言われている。しかし、この様子では母と息子の関係はそう単純なものではないらしい。しかも彼は最近の出来事にも通じているようだ。
ティグリスは王族であって王族でない者。戦う力も後ろ盾もない、数ならぬもの。何を考えていようと大したことではないだろうが……。
リカードに報告することが増えた、と思いながらエルジェーベトはその場を辞した。
留守中のことの指図などに思いのほか時間が掛かり、ティゼンハロム邸に到着したのは深夜近くになった。
――ミーナ様たちはもうお休みになっているわね。
エルジェーベトは心中で溜息を付きながら馬車を降りる。そこへ、弾んだ声で呼び掛けられる。
「母様、お久しぶりです」
出迎えた使用人に混じって駆け寄った少年の姿を見て、エルジェーベトは眉を寄せた。
「ラヨシュ……?」
「はい。お会い出来て嬉しいです」
喜びを前面に出した少年とは対照的に、エルジェーベトの声は心許ない。
彼女を母と呼ぶのはこの子一人しかいない。そろそろ十歳になったはずだ。しかし、会うのがあまりに久しぶりだったので子供の成長の早さに戸惑ってしまったのだ。
イシュテンのそれなりの歳の女らしく、彼女も結婚して婚家名をもらったことがある。王家に嫁ぐミーナの侍女に相応しい地位を得るためにリカードが適当な男と娶せてくれたものだ。後に夫とは死別したので、今はミーナがよく知るただのエルジェーベトに過ぎないが。夫に名を与えられたのは――夫のものだと婚家名で縛られたのは――あまり愉快ではない記憶だった。だから、ミーナがエルジーと元の名前で親しく呼びかけてくれる度に、彼女は解放された喜びを噛み締めるのだ。
それはともかく、夫はエルジェーベトにラヨシュという息子も残した。常緑の草原に旅立った夫とは違って、こちらはまだ彼女の人生に否応なく関わり続けている。
「遅くまで起きているのね」
声を掛けてから、息子の日頃の習慣を知らないことに気付いて、果たしてこれは常と違うことなのかと少し悩んだ。
彼女が息子をもうけたのは母親のようにミーナの子供の乳母になれることを期待したからというだけで、ラヨシュに対する感情は割と薄い。夫の家もティゼンハロム家に仕えていた縁で、息子はこの館で従者の見習いのような扱いで世話になっているため、エルジェーベトにとってはマリカと過ごす時間の方がよほど長い。
「母様がいらっしゃると聞いてお待ちしていました」
母のよそよそしい態度に傷ついた素振りも見せず、ラヨシュは屈託なく笑った。真っ直ぐに育っているようなことに安心して、エルジェーベトは幾分柔らかな調子で問いかけた。
「ミーナ様――王妃様と王女様は寛いでいらっしゃいましたか」
「はい。王女様の遊び相手を務めさせていただきました。光栄なことです」
「本当に」
相槌を打ってから、これくらいの歳の子供が歳下の女の子との遊びに付き合えるものなのか、疑問に思った。
「遊び。……どのようなことを?」
ラヨシュは初めて口ごもった。言っても良いものかどうか、と母の顔色を窺うように声を落として上目遣いで答えてくる。
「剣の稽古をしていたところ、やってみたいと仰せになったので、木剣の持ち方を教えて差し上げました」
「……そう」
王女として褒められた振る舞いではない。しかし、息子を責めることもできない。絶対に父親である王の悪影響だと思うからだ。
マリカにはそろそろ淑女らしい教養も必要だというのに、狩りだとか馬だとか犬だとか、男の子が好むようなことばかりに興味を示す。王が面白がって強く咎めないものだからエルジェーベトには為す術がない。
――ミーナ様からも言っていただくようにしなくては。
マリカの件はひとまず置くしかない。そう諦めると、息を吐いて居住まいを正す。
「殿様はまだ起きていらっしゃいますか」
「はい」
母の改まった態度ゆえか、主の名ゆえか、息子は神妙な顔で頷いた。
「では取次をお願いします。ご挨拶と、ご報告申し上げたいことがあると」
数刻後、エルジェーベトはリカードと同じ寝台に裸で横たわっていた。
「それで、あの毒婦めはいつまで居座るつもりなのだ」
硬く筋張った掌が肌をなぞるのに身じろぎしながら、主の耳元に口づけるようにして、囁く。
「垂水の館を所望なさいました。伴の者も荷物も多いようで……しばらく滞在されるおつもりのようです」
「ブレンクラーレの王太子が来るというのに王妃がいつまでも不在という訳にもいくまいし……面倒な時に面倒な客が来たものだ」
愚痴る言葉とは裏腹に、リカードの声はさほど不快を窺わせない。やはりミーナとマリカが滞在しているから機嫌が良いのだろう。
あるいは、王太子の接遇を王に任されたからか。狩りの件で王との間に亀裂が入ったと見るや、ティゼンハロム家に成り代わろうとする家もあったという。その矢先のことだから、まだリカードと全面的に争う気はないという王の意志表示なのだろう。
分を弁えた婿の態度にリカードは大いに気を良くし、鷹揚にも王の遊び仲間を接遇の員に加えることさえ許していた。
肌の触れ合ったところから低い笑い声がエルジェーベトの身体にも響く。
「まあ良い、後で脅してやればおとなしくしているだろう」
「仰る通りと存じます」
太后は王とリカードを憎む一方で恐れ、避けている。先ほどは毒のような言葉をまき散らしていたけれど、実際には彼らの前で同じ態度を取れるはずもない。
だからこそミーナに絡むのだろうが、妻や娘を攻撃すれば彼らの不興を買うということを時折忘れるらしい。あの女にあるのは元王妃という名誉のみ、まして剣を取れない息子を抱えて怯えている。脅すと言わず、リカードが面会を申し込むだけでも立場を思い出させるには充分だろう。
それよりも、と半身を起こしてリカードの顔を間近に見つめる。歳の割に若々しい主だが、暗がりで見ると陰影が常よりも濃く、皺が目立つように思う。
「太后にミリアールトの元王女のことを伝えました。美しい娘で、王が気にかけていると」
「ほう、気が利くな」
リカードも太后の性格は良く知っている。エルジェーベトの意図したところをすぐに察したようだった。褒美とでもいうように頭から解いた髪へ、素肌へと愛撫がほどこされる。
「見事に側妃候補と信じたようでしたが、ティグリス王子に諭されて害するのは諦めていました」
リカードは無言を保った。しかし、背を撫でる手が止まったことで、彼が報告を吟味していることがわかる。
「あのお方は狩りの一件もご存知のようで……最近の事情を伝える者がいるのかも知れません」
「何か企んでいる、と言うのか? あの片輪が?」
リカードの表情がなぜか嬉しげなのに戸惑いながら頷く。
「は……い。ですからミーナ様たちに危害が及ぶ前に対策を……」
「朗報ではないか」
リカードは声を立てて笑うと、髪を掴んでエルジェーベトを引き寄せた。頭皮のひきつる痛みにたまらず倒れこむと、すかさず組み敷かれて乳房を掴まれた。戦いの予感が老人の欲にまた火を点けたらしい。
「子供だから不具だからと見逃すのが甘かったのだ。事を起こしてくれるなら叩き潰す理由ができる」
喘いだのは苦痛からでも快楽からでもなく、呆れからだった。
――これだから男は!
術数を好むリカードをして、戦いで敵をねじ伏せることの魅力には抗いがたいらしい。女の身には理解できないことだが。
「息子を王宮に連れて行きたいのですが。お許しをいただけますでしょうか」
力と熱に押し流される前に、と食い下がる。男たちが争うのは勝手だが、ミーナとマリカを守るために彼女にできることをしておきたい。
「恋しくなったか」
らしくないと嗤われるのに対して、媚びるよう笑みを作って主の背に手を回す。
「マリカ様はあの女に懐き過ぎです。男の子とは言え子供の遊び相手がいた方が良いでしょう」
マリカだけでなくミーナもだが、あの娘を気に入って何かと招きたがるのが彼女には気に食わない。息子など正直つい先程まで意識の外にいたが、マリカの気を逸らせるなら何でも利用してやろう。
「それに、侯爵家には母子共々尽くせぬご恩がございます」
無垢に母を見上げたラヨシュの瞳を思い出す。放っておいた割に、恨む気持ちはないらしい。あの素直さならきっと……。
「言い聞かせれば、万一の時にはマリカ様やミーナ様の盾になるでしょう」
「怖い女だな」
不本意な言われようだ、と思う。別に好んで息子を犠牲にしたい訳ではないし、元王女だってミーナの脅威にならないならどうでも良い。リカードといい王といい、女に対する配慮がなさすぎるから、彼女が補わなくてはならないのだ。
しかし、多分それを言っても主には通じないので、エルジェーベトは抗弁せずに彼の頭を胸に抱き寄せた。